Blauer Enzian

 

晩秋に咲くゆえに秋の七草に含まれないリンドウですが、古来からその清楚な姿が愛された花でもありました。

ドイツ語でブラウエル・エンツィアンー青リンドウの意ーというと、かつて走っていた特急列車のほうが有名なようですが、そういえば昔、初めてドイツを旅したときに乗った列車だったなぁ、と懐かしく思い出されます。

ちなみに花言葉は、「貴方のかなしみに寄り添う」など。

というわけで、秋の夜、それぞれにかなしみを抱えた2人の姿を書いてみました。

 

 

「あれ? 先輩たち、なにやってるんですか」
 放課後、医務室にやってきた乱太郎たちは、医務室の前の庭先で、筵の上にずらりと並べられた植物の根に目を丸くした。
「見て、乱太郎。すごいきれい」
 傍らの伏木蔵が乱太郎の袖を引く。部屋の片隅には、壺いっぱいにリンドウの花が活けてあった。
「きれいですね、伊作先輩」
「ああ。竜胆草を採って来たんだ。薬につかうのは根の部分だけだけど、せっかく花がきれいに咲いていたから、活けておこうかと思ってね」
「何の薬につかうんですか?」
「立効散を作るためだよ。歯痛や頭痛によく効く薬なんだ。竜胆草は健胃や消化器の炎症に効くといわれているけど、鎮痛作用があるからいろいろな薬に応用されているんだ」
「なんで、リンドウのことを竜胆草っていうんですか?」
 伏木蔵の問いに、左近が答える。
「知らないのか? リンドウの根はと~っても苦いんだ。熊の胆よりも苦いということで、竜の胆だと言われている」
「さすが左近。よく勉強してるね」
 伊作に褒められた左近は、照れたように頬を染める。
「じゃあ、その立効散っていうのも、と~ってもニガイんですか?」
 恐ろしそうに伏木蔵が訊く。歯が生え変わる頃で、よく歯が痛くなるが、そんなに苦いのであれば我慢していた方がいいかな…と思いながら。
「大丈夫さ。立効散は甘草も処方しているから、そんなにものすごく苦いわけではない」
 それまで黙って手を動かしていた数馬が淡々と言う。
「そうですかぁ。よかったぁ」
 ようやく安心したように伏木蔵が頷く。 

 

 


「失礼…します」
 夜の医務室に一人残って最近入荷したばかりの医書を読んでいた伊作は、襖越しの遠慮がちな声に軽く眉を上げると、朗らかに答えた。
「どうぞ。その声は、兵助だね」
「はい」
 襖をあけて入ってきた兵助は、左腕を右掌で押さえている。
「どうしたんだい。その腕は」
「はい…夜間自主トレで森の中を藪漕ぎで移動する訓練をしていたのですが、猟師の仕掛け弓にやられてしまいました。勘右衛門たちが応急手当はしてくれたのですが」
「そうか。それなら、仕掛け弓に毒が塗られているかもしれないリスクは分かっているね…しびれるような感じはあるかい?」
 訊きながら手早く兵助の上着と襦袢を脱がせる。いかにも応急手当らしく手拭いで縛っただけの二の腕のほかに、傷がないか手早く調べる。
「いえ…ない、とは思うのですが、傷が痛むので正直あまりよくわかりません」
「みんながそういうふうに正確に答えてくれると、診療する方はありがたいんだけどね」
 安心させるように笑いかけながら、伊作は兵助の左腕の何か所かを指で押す。
「どう、感覚はあるかい?」
「はい」
「よし、幸い毒は仕掛けられてなかったようだ。では傷の手当てに入ろう」
 桶に水を汲むと、包帯代わりの手拭いを解く。 

 


「これで手当ては終わりだ。明日、包帯を取り換えるからまた医務室に来るように。いいかい?」
「…はい」
 ぼそりと答えた兵助は、座ったまま黙って伊作を見つめる。薬や包帯を片づけていた伊作がその視線に気づいて首をかしげる。
「どうかした? まだ痛いところがあるのかい?」
「いえ、その…」
「?」
 微笑みを浮かべたまま、伊作は黙って続きを待つ。ふと、兵助の視線が動いた。
「…リンドウの花ですね」
「ああ。リンドウの根を採りに行ったんだけど、花がとてもきれいだから活けておくことにしたんだ」
「そうなんですか」
「そうさ。リンドウの根は消化不良や胸やけによく効くんだ。とても苦いけどね」
「…忍の人生みたいですね」
 唐突な兵助の台詞に軽く眉を上げた伊作だったが、すぐに穏やかな表情に戻る。
 すでに、兵助の思いつめた表情に、いつもと違うものを感じていた。まずは、その原因を把握しなければ、と考える。
「なるほど、人生は甘くないというけれど、忍としての人生は竜胆草くらい苦いものかも知れないね」
 その面差しには、気取られない程度に苦渋がにじんでいる。
「…忍は、時に相手を手にかけなければならないこともあります。でも、先輩は命を救う道に長けておられます…」
 その先をどのように言葉にすればいいか分からず、兵助は黙り込む。
「二つの使命に引き裂かれるかもしれない、ということなんだね」
 あっさりと口にした伊作の表情は変わらない。燭台の灯が、豊かな前髪の影を深く刻んでいる。
「だけど、それも選んだ道なんだ。僕たちは、忍の道を選んだ。そして僕は、医術の道も選んだ。そして、今もその道を歩いている」
「道から降りずに、ですか」
 返事の代わりににっこりすると、伊作はふたたび立ち上がって片づけを続けた。
「…僕は、とても先輩のように強くはなれません」
 兵助は絞り出すように言う。
「そうかな」
 片づけの手を休めずに、あえて伊作は明るい調子で応える。兵助は、何をそれほど思いつめているのだろうか…。
「…」
 兵助はうつむいたままである。
「ねえ兵助。僕がなんの葛藤もなかったとは、思ってないよね?」
 兵助が閉じこんでいる思いを吐き出させるには、自分の思いをもさらけ出さざるを得ない、と伊作は考えた。
「兵助は、医術は人の命を救う術だと思っているかもしれない。確かに医術の目的は人の命を救うことにある。でも、それが常に正しいことかどうか、僕はいつも疑問に思っていたんだ」
 平たい口調で伊作は口を開いた。
「たとえば、腕にひどい壊疽ができた患者が来たとする。患者の命を救うには、腕を切除するのが正しいやり方だ。きっとどんな名医でも同じ診断をすると思う。だけど、その患者が職人だったらどうする?」
「…」
 もとより兵助には答えようもない。
「腕を切除すれば、患者の命は助かるかもしれない。だけど、その代わりに患者は二度と職人として腕を振るうことはできない。それは、患者の収入を断つとともに、生きる誇りを奪うことと同じことなんだ」
 伊作の口調は変わらない。だが、感情を辛うじて抑え込んでいる震えがあることを兵助は嗅ぎ取っていた。
「…もちろん、逆の場合もある。いまの我々の技術では、むしろ救えない命のほうが多い。患者や家族を安心させるために、あえて効きもしない薬を処方したり、患者が命を落とすことが分かっていても大きい外科手術をすることもある。それが誰のための治療なのか、本当に正しいことなのかどうかも見失いかけながら、ただ手を動かすときだってあるんだ…兵助」
「はい」
 唐突に呼びかけられて、兵助はわずかに顔を上げた。
「五年生は昨日まで演習だったようだね…何かあったのかい」
 穏やかな声のまま図星を衝かれて、兵助は身体がびくりと反応するのを辛うじて抑え込んだ。
「…」
 うつむいて黙りこくる兵助を、伊作は辛抱強く待った。
「…はい。実は…」
 兵助の重い声が途切れる。しばし、医務室の中には、伊作が包帯や薬を片づける物音だけが響いていた。
「…僕たちは、分散して夜の戦陣を探りに行きました。僕はたまたま、一人で用足しに出ていた雑兵と鉢合わせてしまったので、倒してから陣に潜りました。だけど、僕も慌てていたせいか急所を外してしまったようでした。任務を終えて陣を抜け出したとき、その雑兵はまだ息がありました…」
 兵助の両掌がぐっと握りしめられた。
「雑兵は、言っていました。『死にたくない、死にたくない』と…」
 そのときの喘ぐような息遣いを思い出して、兵助は頭を抱えた。
「そうか」
 兵助に向かい合って腰を下ろすと、その肩に手を添える。兵助が上目遣いに見上げる。
「兵助はとても繊細で、優しいんだね。ずっとそれを気にしていたのかい?」
「…僕は、そのまま学園に逃げ帰ってしまいました。今から考えれば、なにか手当てをするなり、楽にしてやるなりやりようはあったのに、僕は逃げ帰ってしまいました」
 自分を責めるように、兵助は二度繰り返した。
「こわかったんだね?」
 兵助の肩に置かれた手に力がこもった。
「…はい」
「そして、悲しかった」
「はい…たぶん」
「ねえ、兵助。僕は思うんだけど」
 わずかに首をかしげて兵助の顔を覗き込む。
「僕たちは忍を目指すものとして、強くなければならない。当然、心の強さも求められる。そうでないと、敵に簡単に心を支配されてしまうからね」
「…」
 黙りこくったまま、兵助はうつむいている。
「でも、それは、人間としての心を失うこととは別だと、僕は思うんだ」
 穏やかな声で伊作は続ける。
「だから、兵助はその雑兵に出会った時のことを怖いと思ったり悲しいと思ったりすることは、決して心の弱さではない、人として自然なことだと思うんだ…ちょっと縁側にでてみないか?」
 唐突に立ち上がった伊作を、いぶかしげに兵助が見上げる。
「さ、兵助もこっちに来ないかい?」
 襖をあけて縁側に座った伊作が声をかける。もう少し自分に語りたいことがあるのかもしれないと思った兵助も、ゆっくりと立ち上がると、縁側の伊作の傍らに端座した。
「足を楽にしていいんだよ」
 庭先を眺めやりながら伊作が言う。昼間、筵の上にずらりと並べられていたリンドウの根もすっかり片づけられて、今は月明かりががらんとした空間を照らしているばかりである。
「だいぶ虫の声も減ってきたね…リンドウの花が咲くのは、秋も終わりに近い時期なんだ。もうじき霜がおりる。その頃には、虫の声も聞こえなくなっているだろうね」
 か細く聞こえる虫の音に耳を傾けるように、伊作は言葉を切った。
「そして、冬はすぐそこまで来ている」
 兵助も、胡坐をかいて座りなおしながら、虫の声に耳を澄ましてみた。
「…実をいうと、僕はずっと、忍として生きていくには冬のように冷え切った心でないといけないと思ってきたんだ。そうでないと、いつか心の隙を衝かれて命を落とすことになるってね」
 思いがけない独白に、兵助は思わず伊作の横顔に眼を戻す。
「そんなことをする必要なんかないんだ、って分かったのは、ほんとうについ最近のことなんだ。それまで僕は、無駄に力んで、そして心の中から余計な感情を追い出そうとしてきた。そんなこと、できるわけないんだけどね」
 自嘲的な笑みを浮かべて、伊作は面を伏せる。
「忍であろうがなかろうが、僕たちはその前に一人の人間なんだ。だから、人間としての感情を失ってはいけない。もし人間としての感情を失ったら、それは禽獣と同じになってしまうということなんだ。だからね、兵助」
 伊作は面を上げると、兵助の肩を軽くたたいた。
「君はとてもまじめだから、忍として余計なものは振り捨てようとするかもしれない。でも、人間としての感情だけは絶対に失ってはいけないんだ。これはとても大切なことなんだよ」
「…はい」
 いつの間にか伊作の口調は強くなっていた。その勢いに呑まれるように、兵助は思わず答えていた。
「…ありがとう」
 伊作の口調が柔らかなものに戻る。
「兵助が手をかけた雑兵は、きっと、もう楽になっていると思う。それに、誰であっても同じ状況だったとしたら、兵助と同じことをしたと思うんだ」
「先輩も、ですか?」
 上目遣いに兵助が訊く。伊作なら、あるいは治療を優先するのではないか、と思いながら。
「もちろんさ。僕だって忍たまだ。任務が優先することくらいは心得ている」
 伊作の答えに迷いはなかった。
「…たしかに、僕は気がついたら合戦場でけが人の治療をしていたりすることがある。でも、それは後で考えると、任務をあらかた片づけた後で、それにその場で治療をしていても命の危険が少ない時なんだ。きっと、頭で考える前に直感で状況を把握して治療を始めているんだと思う。そうでなかったら、僕みたいな不運な人間は今頃とっくに死んでただろうからね」

 


「先輩」
「なんだい」
「さっきの話の…続きを聞かせてもらってもいいですか」
「さっきの?」
 きょとんとした顔で、伊作が眉を上げる。
「医術の目的とは命を助けることで、でもそれがいつも正しいことなのか疑問に思われている…とか」
「ああ、そうだったね」
 難しいことを思い出されちゃったな、と伊作は指先で軽く頬を掻く。
「…僕は新野先生について医術を学んでいる。これまで、先生にはいろいろなことを教えていただいた。薬草や医療理論や治療法のことをね。それで、学べば学ぶほど分かってきたことがあるんだ。何だと思う?」
 首を軽く傾げた伊作が微笑む。前髪がさわと揺れる。
「…わかりません」
 しばし黙考していた兵助が、呟くように言う。
「そうか。それはね…」
 後ろに手をついて月を見上げながら、伊作は苦笑いを浮かべる。
「医術にできることはあまりにも少ないってことなんだ」
 さらりと放たれた一言に、却って背筋に戦慄が走った気がして、兵助はおどおどと伊作の横顔を上目遣いに見上げた。
「たしかに、唐や南蛮から新しい知見が入ってきて、技術は日進月歩で進んでいる。昔はできなかったことが、今はできるようになっている。それでも、僕たちにできることはあまりに少ししかなくて、それは患者のためになることなのかどうかということは、時に二の次にされている…」
 伊作の面差しに刻まれた苦渋の影が、いまは兵助の眼にもはっきりと捉えられた。
 -先輩…あんなに苦しそうで、悲しそうで…。
「それでも、医者の道も、進まれるのですね」
 訊かずにはいられなかった一言だった。
「ああ、もちろんさ」
 迷いなく、伊作は言い切る。
 -先輩はどうして、忍にも医術にも迷いなく進めるのだろう…。
「ねえ、兵助。僕が勁(つよ)いだなんて思ったら大間違いだよ」 
 伊作は月を見上げたままである。その顔には、いつもの軽い微笑が戻っていた。
「僕なんかより新野先生や、ほかの先生たちは、もっともっと苦しんでいるんだ。それでも、手を止めることは許されない。とにかく眼の前の患者に対して全力を尽くす。それだけなんだ。それって、忍の道とよく似ていると思わないかい?」
「与えられた任務をこなす…ということですか?」
「そのとおり…さすが兵助だね」
 兵助に眼を戻した伊作がにっこりとする。

 


「先輩」
「なんだい」
 月明かりが、縁側に座る2人の背後に濃い影を刻む。
「もう少し、一緒にこうしていていいですか」
 ぽつりと呟く兵助の声に、何か問いたげに振り向いた伊作だったが、すぐに微笑んで応える。
「いいさ」
「…ありがとうございます」
 並んで座った2人は、もう口を開かない。月明かりの下で虫の声に耳を傾けている。
 

 

<FIN>

 

 

 

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