Carpe Diem


以前書いたMemento Mori(死を想え)に関連してCarpe Diem(今日を摘め)という言葉があります。人生は束の間であり、時間は短いのだから、今という時間を有意義に楽しむことが大事だ、といったところでしょうか。Memento Moriよりも刹那主義的な印象を感じてしまいそうですが、実は同じくらい内省的な言葉でもあるようです。

実は小平太をメインにしたお話を書こうとしてたいへん苦心していたのですが、この言葉を知ったときに、「ああ、これは小平太だ」と直感しました。その勢いで書いたので一人称が変な風に混じっていますがご容赦のほどを。



 走りたかった。ただ、どこまででも走りたかった。
 そして、どこまででも走っていくことができた。
 肉体は、枷にならなかった。
 ただただ走って、その先にあるものが見たかった。
 あの森の向こうに
 あの山の向こうに
 それは、忍術を学ぶ学校に入ってからも変わらなかった。
 走ることは楽しかった。
 風を切って、どこまでも走っていくことは。
 ともに走っていた仲間たちの声もはるか背後に消えて、
 耳元には風が渦巻いているだけだった。
 いつか、考えるようになっていた。
 このまま走り続ける月日の重なりは、
 どこへつながるのだろうかと。




「長次! フロ行くぞ!」
 がらりと長屋の部屋の襖を開けるや大音声を放つ小平太だった。文机に向かっていた長次がゆるりと振り返る。
(風呂に入る前に…髪についた枝や葉っぱを落としたらどうだ。)
 手や顔はすり傷だらけ、ぼさぼさの髷には枝や葉が絡まっている。どこで何をしてきたかは明らかだった。
「ん? そうか?」
 あっさり言うと勢いよく首を振る。ばらばらと髷に絡まっていた枝葉が落ちた。
(…。)
 落とすなら部屋ではなく外でやれと言いたかった長次だが、いつものことでもあったので口には出さない。のそりと立ち上がると夜着と手拭いを手にした。
「よっし、行くぞ! イケイケドンド~ン!」
 手拭いを肩に引っかけてどたどたと走り去る後ろ姿に、もはや届かない声をもそりと漏らす長次だった。
(…廊下を走るな。)



 どぼん、と飛び込む大柄な身体に、盛大に水しぶきが上がる。すでに湯船に浸かっていた長次の前髪や鼻先から滴が垂れる。
「だ~っ、気持ちいいな、長次!」
 無自覚に陽気な声を上げる小平太である。
(それで、今日はどこまで行ってきた。)
 何事もなかったように長次は訊く。
「ああ。裏裏山か裏裏裏山か、そのあたりだな」
(下級生たちはどうした。)
「下級生か?」
 きょとんとした表情になった小平太が頬をぽりぽり掻きながら天井を見上げる。「そういや気がついたらいなくなってたな」
(…小平太。)
 小平太の無茶な鍛錬に付き合わされた体育委員会の後輩たちが辿った運命に、長次は言わずにはいられない。
「なんだ」
(少しは後輩たちの様子を見てやれ…お前の規格外の体力に後輩たちがついてこれると思うな。)
「そぉかぁ?」
 さも不思議そうに首をかしげる小平太に、これ以上説教する気も失せた長次はもそりと訊く。
(なんで小平太はそんなに走りたいんだ?)
「私がか?」
 湯船の縁に腕と顎をのせて少し考え込む。「だって、走るのは気持ちよくないか?」
(気持ちいい、か…よくわかった。)
 小さく頷くと、おもむろにざばりと立ち上がって湯船から出る。
 -それが小平太の『今』に必要なことなのだ。
 手拭いで身体を拭きながら長次は考える。
「なんだ、もう上がるのか?」
(私は湯疲れしないうちに上がる…小平太はゆっくりしていろ。)
 もそりと言い残して脱衣所に戻る。
 -今やりたいことをためらわずに実行できる。それが小平太なのだ…。
 夜着に腕を通しながら考える。六年間、もっとも近くで見ていても理解の難しい友人だったが、ひとつだけ確かなことは、今やりたいと思ったことはすぐに行動に移さないと気が済まない性分であるということだった。おそらく小平太には、行動して失敗することに対する後悔も、行動せずにあとで悔やむという思考もないのだ。それは、いつもやるべき優先順位を考えて行動してしまう自分と対極の思考だった。そしてそれは無性に眩しかった…。





「それでいい…か」
 湯船の縁に置いた腕に顎を載せて呟く。
 何がいいのか、正直よく分からなかった。だが、長次が何やらもそりと自分で納得するように呟いて、それきり元の無表情に戻ってしまうことはよくあったし、そんなことをいちいち詮索するには私は大雑把すぎた。
 思えは、他人が自分をどう思うかなどということに思いが至るようになったのは、上級生になった辺りからだった。それは、「小平太は何を考えているかさっぱり分からん」という声に多少なりとも意識が向くようになったからだが、だからといってどうしようかと考えたわけでもなかった。では自分のことをどう思ってほしいのかということが全く思い当らなかったからでもあるし、仮にあったとしてもそのためにあくせく努力する意味が全く理解できないからでもあった。つまるところ、私は誰にどう思われようがどうでもいいのだ。そもそも自分の行動の理由など自分でも分からないのだ。衝動に突き動かされるまま、イケイケドンドンで動いた結果を誰に説明しうるだろう?


 忍術学園に入学して初めて会ったとき、長次は私とは正反対の人間だと思った。
 私はとにかく思ったことはすぐに口にするし、行動に移す。
 長次はひたすら自分の考えを韜晦する。
 お互い、したいようにやっているのだと思っていた。
 だが、転機があった。
 たしか三年生のときだったか、クラスメートに「長次は何考えてるかさっぱり分かんねえな」と言われた長次は、もそりと言ったのだ。「分かってたまるか」と。
 その一言で少し分かったような気がした。長次は他人から理解されることを諦めているのだ。それは似ているようで大きな違いだと思った。私と違って、長次はおそらく過去の一時期において他人から理解されたいと期待したことがあったに違いない。そして、それが叶わないと知って諦めてしまったのだ。


 どうやら長次が私の考えを、或いは私以上に分かっているらしいことが分かったのは、五年生のときだった。演習で戦場に潜ったとき、急に戦況が動いて潜った陣から脱出しなければならない時だった。私はイケイケドンドンで陣を突破すれば活路は開けるだろうと思っていた。だが長次は「無理に自分を納得させるな」とあのもそもそした口調で言ったのだ。そう言われたときの心のしんとした感じは、どうにも形容しがたいものだった。そして、私は自分がリスクを糊塗してあえて正面突破を言っていたのだということを理解した。実のところ、私は不安で仕方なかった気持ちを無理に抑え込もうとしていたようだった。そんな自分の言動の背後にある気持ちなど、自分でも意識したことがなかった。それなのに、長次にはそれが見えていたらしいのだ。





 雨の日はつまらない。体内のエネルギーが燃焼不良を起こしているようで、もやもやがたまる。
「なあ、長次」
 背を向けた長次はちまちまと指先を動かして繕いものをしている。膂力は小平太と遜色ないパワーファイタ―の長次だが、一方で手先が器用で細かい作業もこなすことができる。
(なんだ。)
「ヒマだ」
(なら書でも読め。)
 もそもそと答える長次の台詞は、いかにも図書委員長である。
「いやだ。鍛錬に付き合え」
(その前に部屋の片づけでもしたらどうだ。)
 長次に言われるまでもなく、部屋はもっぱら小平太の衣類や書物や忍器で散らかり放題である。入学して部屋が一緒になったときから長次にしては口やかましく部屋を片付けるよう言われていたが、効果がないままいつしか長次が小平太の分まで片付けるようになっていた。そうしてきちんと整理してしまいこまれても、また小平太が散らかしてしまうのだが。
「片付けしたら付き合ってくれるか」
(…。)
 もそりと長次は頷く。
「わかった! なら片づけるぞ!」
 急に元気が出てきた小平太は、勢いよく立ちあがると猛然と部屋を片付け始めた。もっとも小平太の片づけは、部屋にあるものを一切合財かき集めて戸棚に押し込むことを意味していたので、視界の隅にその様子を認めた長次は小さくため息をついて針を動かすばかりである。後で戸棚を整理しなければ、と思いながら。
「よし、片づけたぞ! 長次、行こうぜ!」
 果たしてそこらにあるものを戸棚に押し込んだ小平太が腰に手を当てて宣言する。
(…わかった。)
 縫いさしの着物を傍らに置いた長次がのそりと立ちあがる。



「はぁっ、やはり一日一度は鍛錬しないと身体がなまって仕方がないな!」
 降りしきる雨の中を裏山一周ランニングしてきた小平太は、ようやく落ち着く気になったらしい。
(小平太も早く着替えろ。風邪をひくぞ。)
 ずぶ濡れの制服を絞って衝立に掛けながら長次が言う。
「ん。わかった」
 制服を脱ぎ捨てて褌ひとつになった小平太ががさごそと戸棚をさぐる。
「あれ? おかしいな。私の夜着がないぞ」
(私が繕ってやると言ったはずだ。)
 すでに夜着に着替えて再び繕いものを始めていた長次が、手にした着物を持ち上げる。
(だが、もう一着あるはずだ。)
 小平太に代わって片づけを続けている間に、自分のものと同じくらい小平太の私物を把握するようになっていた。だからためらいなく指摘する。
「それが見つからんのだ」
 早くも探すのをあきらめたらしい小平太は、つかつかと長次の傍らに来てどっかと胡坐をかく。
「すまんが長次、その繕いを終わらせてくれ」
(それまで裸で待ってるつもりか。)
「着るものがないのだ。仕方ないだろう」
(制服でも私服でも羽織ればいいだろう。)
 予備の制服にしろ私服にしろ、干しっぱなしにしていたのを取り込んでたたんでしまったのは長次なのだ。
「なに構わん。私は風邪をひかないからな。このまま待たせてもらうぞ」
 陽気に言い放つ声に、長次はもはやため息をつく気にもなれない。
(まったく小平太は子どものときと変わらないな。)
「そうか? そんなことはないだろう」
 小腹がすいたのか、煎り豆の袋を手にしている。指先で上に弾いては口で受け止めてぽりぽり食べながら答える。「これでも、どこの城に雇われてもやっていけるくらいの忍術は身につけているぞ」 
(忍の技を身につけていることと、身の回りのことをこなすことは別だ。)
「それはそうかもな」
 小平太も否定はしない。
(小平太は早く身の回りの世話をしてくれる女人を探したほうがいい。)
「それなんだがな、長次」
 小平太は興味深そうに身を乗り出す。
(どうした。)
「女人というのは景味ありという。ほんとうか?」
 六年生ともなれば忍術のひとつとして房中術も学ぶのだが、どうやら小平太のなかでは忍術としての房中術と生身の女を相手とした行為とは結びついていないようである。さすがに授業で房中術の実技までは行わない。
(私にも分からない。自分で調べたらどうだ。)
「どうやって調べるのだ?」
(女人と…経験すればいいだろう。)
 経験、と言ったところで長次の浅黒い顔が赤くなる。
「経験といってもな…誰に頼めばいい?」
(遊女でも相手にすればいいだろう…それ以上のことは私にも分からない!)
「ふ~ん、そっか」
 たいして興味もなさそうに言うと、ごろりと仰向けに寝転がる。
 -そういえば小平太は、春画に関心を示す様子もない…。
 だが、だからといって衆道というわけでもないのだろう。小平太なら、ある日思いついたときに女を抱くだろう。そして長次に報告するに違いない。初めて一人で雉か兎でも射止めたと自慢する少年のように。
(終わったぞ。早く着ろ。)
 繕いを終えた長次が夜着を突き出す。
「おっ、サンキュー、長次」


 
「それで、女人を知るにはどうすればいいのだ」
 夜着に袖を通しながら小平太が訊く。
(まだその話は続いていたのか。)
 長次は溜息をつく。
(仙蔵にでも訊いてみたらどうだ。)
「仙蔵だな? 分かった! 今から訊いてくる!」
 ばたばたと足音が遠のいていく。
 続いて低い爆発音。



「長次、お前小平太に何を吹き込んだ」
 長い髪がさらりと揺れる。現れた仙蔵は怒っているというより当惑しているようである。
(どうしたというのだ。)
「いきなり部屋にきて、『仙蔵、遊女を抱くにはどうすればいい』と聞いたのだぞ」
 よりによってこの私にそのような下世話な話をするとはな、と苦々しげに仙蔵は吐き捨てる。
(仙蔵ならそういう経験もあるのではないかと思った。)
「それはどういう意味だ」
(仙蔵には通い女がいるのだろう。少なくとも私よりは語れるものがあるのではないか。)
「私は遊女など相手にしない。今の相手もれっきとした…」
(分かった。)
  放っておくと、相手がどのような女人なのかとうとうと語り出しそうだったので、長次はもそりと頷いた。
(それで小平太はどうした。)
「ああ、伊作に訊いてみろと言ってやった」
 -面倒になって追い払ったな。
 長次が考えるのをよそに、仙蔵は済ました顔で「春きたりなば…」とうそぶきながら立ち去っていく。



「伊作! 遊女を抱くにはどうすればいいのだ!?」
 部屋の襖をがらりと開けるなり、小平太は大声で訊く。
「…というか、どうしたんだい? さっき爆発音がしたけど、地雷でも踏んだのかい?」
 呆れたように小平太の全身を眺めまわしながら、伊作が声を上げる。
「なっはっは。ちょっと仙蔵に焙烙火矢を投げつけられてな。長次がいればうまくトスを上げてくれるのだが、高さが合わなくてレシーブしそこなってるうちに爆発してしまったのだ」
 平然と言う小平太だが、全身真っ黒で髪は爆発している。
「う~ん、まあ、ケガはしてないようだからいいけど、今度から気を付けてよ」
「そうだぞ。あんまり仙蔵を怒らせんじゃねえぞ」
 手早くケガの有無を確認した伊作に続いて、文机に向かって本を読んでいた留三郎も肩をすくめて言う。
「で、遊女を抱くにはどうすればいいのだ?」
「まだ続いてたのかよ」
「そうだよ。それに、いきなりそんなこと訊くなんて…」
 質問を蒸し返された留三郎と伊作がため息をつく。
「仙蔵がな、女人と交わることなら伊作に訊けとな」
「僕に訊かれても…」
 伊作は頭を掻く。「僕はまだ女の人との経験はないし…」
「なんだ、ないのか」
 どっかと胡坐をかいて小平太が言う。
「だって、僕たちはまだ修業中の身だからね」
「そっか」
 軽く失望したように小平太は眉を上げる。
「でも、そんなに難しく考えることもないんだよ」
 伊作はにっこりして続ける。
「どういうことだ?」
「つまりそれは、陰茎から放出された精子が子宮に至って卵子と結合…」
「だあっ! やめろ、伊作!」
 ハラハラして聞いていた留三郎が遮る。
「どうしてさ」
 さも心外そうに伊作が首を傾げる。「君たちは女の人と交わることをすぐエロチックな方向に考えるけど、本当は子孫を残すためのとても重要なことなんだよ?」
「んなことは分かってる! だけどな、男女の営みにはもっと情緒ってもんがあるんだよ!」
「ねえ、留三郎。言いたいことは分かるけど、物事は目的から考える必要があると思うんだ」
 口角泡を飛ばす留三郎に、物わかりの悪い子どもに諭すように伊作は語りかける。
「だけどな! 俺たち男ってのはそっちの方向に考えるもんなんだよ!」
「そうかなぁ」
 てか、一応僕も男なんだけど…とぶつくさ言っていた伊作が、ふと思い出したようにぽんと手を打った。
「あ、そういえば留三郎のお相手だった人は…」
「だあっっ!!」
 身体が勝手に動いてとびかかっていた。気がつくと伊作を押し倒して口を押さえつけていた。
「うぐっ、うぐうぐ…」
 苦しげにもがく様子にはっとして、慌てて手を離す。
「わ、悪ィ」
「ひどいよ留三郎。窒息するかと思ったよ」
 いてて、と背中をさすりながら伊作は身を起こす。
「そうか。伊作たちも知らないか。では、どうすればいいのだ」
 面白そうに見ていた小平太が、ふいに当惑したように訊く。
「そもそもさ…」
 伊作にとっては話の展開が不本意らしい。説教モードの口調になる。
「女の人と経験したいなんて、そんなに軽々に言うべきことじゃないんだと思うんだ。子孫を残すための大切な営みなんだよ。魚や虫みたいにたった一回の交わりに命をかけている生き物もいるっていうのに…」
「魚や虫と一緒にすんなよ」
 面倒くさそうに留三郎が言う。
「子孫を残す行為ってのは、それだけ命がけだってことだよ」
 伊作が抗弁する。「だから小平太も、遊女を相手にするなとは言わないけど、もっと真剣に考えて…」
「ん、分かった!」
 伊作がこれ以上御託を並べる前に、小平太があっさりと頷いて立ち上がる。
「ホントに分かったのかい?」
「ああ! あとは長次に聞く! じゃあ、サンキューな!」
 爽やかに言い捨てるとどたどたと足音を立てて走り去る。
「だいじょうぶかなあ…」
 廊下に半身を乗り出して小平太の後ろ姿に眼をやりながら、伊作が首をかしげる。
「ていうか、小平太のヤツ、長次に聞いても分からなかったからここまで来たんじゃなかったのか?」
 伊作の背後から廊下に身を乗り出した留三郎が肩をすくめる。



「…と伊作に言われたんだがな」
 部屋に戻った小平太が説明する。
(Carpe diem.)
 文机に向かって本を読みながら、もそりと長次が呟く。
「ん? なんて言った?」
(カルペ ディエム、今を摘めということだ。) 
「どういう意味だ?」
(何もかもは今生(こんじょう)限りだ。だから生きている今この時を大事にしろということだ。)
「そっか…つまり、今しかできないことをやれということだな!」
 勢いよく頷いた小平太の口にした台詞に、長次が軽く眉を上げる。時に本当に理解しているのか怪しいこともあるが、またあるときにはひどくあっさりと本質をついたことを言うのが小平太だった。
(そういうことだ。)
「なら走りに行くぞ、長次!」
 言うや立ち上がるとがらりと部屋の襖を開け放つ。
(女人のことはもういいのか。)
 ため息をついて本を閉じた長次が訊く。
「うむ、男女の道のことはいずれ分かるような気がした。それより今は走りたいのだ!」
 せかすように早口で言うと、すでに庭先へと走り出していく。その後ろ姿に眼をやると、長次はおもむろに立ちあがる。
 -それでこそ小平太だ。明日どうなるかもわからない時代に未来を巡って思い煩うなど、愚の骨頂だ。
 そして思うのだった。
(だから、それでいい。)



<FIN>




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