用間論

44巻で土井先生が生間と死間の話をしてましたが、孫子の兵法の「用間篇」には、間者つまりスパイの用法として五間があるとされています。

予定では、ドクタケ城の話で完結するつもりだったのですが、伊作が絡んだ辺りからやたらと長くなって、兵庫水軍が登場して完全に収拾がつかなくなってしまいましたw

それにしても、伊作が医術の道を意識し始めるという展開も、いろいろ可能性がありそうです。

 

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 -なぜだ…。
 ドクタケ城主木野小次郎竹高は唇を噛む。
 -なぜ、忍術学園には、いつも勝てない…。
 座敷の中を、張子の馬にまたがって歩き回っても、答えは見つからない。
 -そもそも、相手は城ですらない、ただの教育施設だ。それなのに、なぜだ。
 苛立ちが嵩じて歩調が速くなる。控えている小姓が再現する蹄の効果音も、耳に届かない。
 

 そうなのだ。たかが教育施設でありながら、なぜ城の軍事行動を妨害しようなどという不遜なことを考え、実行し、しかも成功してしまうのか。竹高には、それがまったく理解できない。 
 -孫子の兵法にあるではないか。先知なる者は、必ず人に取りて、敵情を知る者なり、と…。
 すなわち、敵情を知るための手数を惜しんではならないのだ。だからこそ、情報組織としてのドクタケ忍者隊を編成し、多大な資源と資金を投入して情報活動に当たらせているのだ。それなのに。
 -孫子の兵法にいわく、将、能にして、君、御せざる者は勝つ、とある。だからこそ、首領の八方斎には、あえて細かな指示は出さずにいるのだ。
 -それは、失敗だったというのか…。
 有能な将に、あえて干渉を控えれば、すなわち勝利するのだ。それがうまくいかないのは、つまり阻害要因があるということである。端的に言えば、忍術学園である。
 -そうでないとすれば…。
 あるいは、将にすべきでない人物を将としていることが、原因なのかもしれない。しかし、それを認めることは、八方斎を首領に任命した自分の人物眼のなさを暴露するようなものであり、とうてい容認できるものではない。だから竹高は軽く頭を振ってその考えを頭から振り落とす。
 -やはり、すべての原因は、忍術学園だ。学園を叩き潰さない限り、わがドクタケによる天下統一は実現できない。だが、そのためには、いつもの方法ではだめだ…。
 竹高は張子の馬を置くと、書見台に向かった。書見台には、バイブルとして孫子の兵法が置いてある。
 -兵法にいわく、兵を形(かたち)するの極(きわみ)は、無形に至る、つまり、兵力配置の要諦は、こちらの企図を悟られないようにすることだ。にもかかわらず、私は八方斎のワンパターン戦法を放置しすぎたのかもしれない。
 なにか参考になることはないかと、竹高はページをめくる。ふと、その手が止まった。
 -ほう、間を用うるに五有り。因間(土着スパイ)あり、内間(内部通報者)あり、反間(二重スパイ)あり、死間あり、生間あり…か。
 そういえば、兵法の締めくくりが用間、つまりスパイの活用にあるということは、戦略の本質を衝いているように、竹高には思われた。
 -つまり、忍術学園の内部に、われらドクタケの協力者を置くことができれば、うまくいくかも知れぬ。
 そこまで考えた竹高は、小姓に声をかける。
「達魔鬼を呼べ」

 


「お呼びで」
 板の間に控えた達魔鬼に、竹高は命じる。
「忍術学園に、わがドクタケに通じるものを置く。そのための工作をせい」
「ははっ」
 達魔鬼は、短く返事をして瞬く間に姿を消す。誰もいなくなった板の間を前にしばし佇んでいた竹高は、小さく息をつくと、張子の馬に乗り込む。
「ひひ~ん」
 心得た小姓が、蹄の効果音を鳴らし始める。ふたたび座敷を張子の馬とともに歩き回りながら、竹高は、今度はうまくいきそうな気がしてきた。

 


 -内通者か…。
 準備のため自宅へと向かいながら、達魔鬼は考える。
 -おそらく、殿は兵法の用間篇を読んだに違いない。
 竹高が兵法のマニュアル的信奉者であることを知っている達魔鬼には、何が自分に望まれているか、分かりすぎるほど理解できる。
 -反間を忍術学園に求めるのは難しい。そもそも、忍術学園はわがドクタケに間者を放つ必要性を感じてないから…。
 ドクタケへの忠誠心は強いが、同時に、冷静な情勢分析ができる達魔鬼には、ドクタケ城が忍術学園に相手にされていないことも見えている。
 -となれば、学園に内間を作るしかあるまい。
 さて、誰を内間に仕立て上げるか。通常、内間を得るには、敵の内部の反主流派を取り込むのだが。
 -一年い組担任の安藤夏之丞と一年は組担任の土井半助は、仲が悪いという。どちらかを取り込めるだろうか…。
 いや、だめだ、と頭を振る。学園の教師陣は、いずれも忍の経験者である。内間を仕立てることは容易ではない。学園長の大川によほど強い反感を抱いているなら別だが…。
 -そのような人物が、学園にいるだろうか。
 残念ながら、自分の探りえた範囲では、そのような人物は学園には見当たらない。
 -あの入門票小僧の小松田秀作はどうだろう…。
 小首をかしげる事務員の顔が脳裏を過ぎる。だが。
 -いや、だめだ。当てにするにはリスクが高すぎる。
 内間に仕立てるために接触したとしても、その事実を無自覚に話して歩くに違いない。
 -となると、生徒しかないか。
 それもありのように思えた。特に上級生であれば、いざというときに使えるだろう。
 -そうだ。六年は組の善法寺伊作は、タソガレドキ忍軍の組頭とも親しいと聞いている。うまく取り込めば、学園とタソガレドキの両方に対して使える駒になるかも知れない。
 -善法寺伊作は、保健委員長で、薬の処方に長じているということだ…それを使うか。

 


 -いい天気だ。
 保健委員長の善法寺伊作は、学園への道を歩いていた。田植えが終わったばかりの田には、まだ背丈の低い苗が風に小さく揺れ、空の高いところではヒバリがしきりに囀っている。
 -保健委員たちを連れてきてやりたかったな。
 保健委員の後輩たちが一緒なら、さぞにぎやかで楽しい道中だっただろう。それに…。
 -薬種の勉強にもなったし。
 伊作は、町の薬種問屋に、必要な薬の買い付けに行ったところだった。まだ一年生の乱太郎や伏木蔵には難しすぎるだろうが、二年生の川西左近や三年生の三反田数馬になら、買い付けついでに薬種問屋の主人と交わす各地の医者やその処方の噂、新たに明や南蛮から入ってきた薬種の話などは、きっと参考になるだろう。もっとも、下級生たちはそれぞれテストや演習で同行できなかったのだが。
 -まあいい。次の機会には、誰か連れて行くとしよう。
 他の委員会に比べて、保健委員会が緩い雰囲気であるとすれば、自分がこのようにのんびりしたことを考えているからだろう、ということは、伊作も気付いていることである。もっとも保健委員は、まずはどれだけ不運を軽減できるかが問題なのであって、委員会活動に燃えるとか、他の委員会と張り合うという以前の段階にあったのだが。
 -それに、私自身がそれほど委員会一直線なわけでもないからな。
 そもそも保健委員会は、学園の生徒たちの健康管理を支える、いわば縁の下の仕事である。だから、空気のように、取り立てて存在を認識されることもないが、なければならない存在でもある、というのが伊作の考えである。その限りにおいて、やるべきことを淡々とこなしていくのが保健委員としてのあるべき態度であり、なまじ存在感をアピールするために余計なことをすべきではないと考えているからこそ、伊作は保健委員会の活動に対して、他の同学年たちのように血道を上げることはしない。むしろ、一歩距離をおいて接しているのだ。
 -おや?
 伊作は、道端に腹を押さえてうずくまる男の姿に目をとめた。
「どうされましたか」
 気がつくと、男のもとに駆け寄って、話しかけている自分がいた。
 -こう無防備に、具合の悪そうな人に関わってしまうところが、忍に向いてないと言われる原因なんだろうな。
 と思いながら。

 


 -お、あれは。
 伊作が一人で行動しているところに、偶然遭遇した達魔鬼は、とっさに腹痛のふりをした。
「どうされましたか」
 案の定、伊作は駆け寄ってきて、心配そうに顔を覗き込む。
「胃が痛むのだが」
「胃痛ですね。それなら、逍遥散(しょうようさん)がいいでしょう」
 伊作は、いつの間にか手にしていた救急箱から紙に包まれた散薬を取り出すと、達魔鬼に手渡した。
「かたじけない」
 竹筒の水で、散薬を喉に流し込む。
「うむ…だいぶ楽になったような気がする」
「そうですか。それはよろしゅうございました」
 伊作はにっこりと微笑む。その笑顔を湛えたまま続ける。
「…でも、ほんらい病気でない方が薬を飲むのは、いいことではないんですよ」
「どういう…ことだ」
 ぎょっとしたが、そんな気配を悟られないように達魔鬼は訊く。
「胃痛というのは、仮病ですよね」
 伊作は微笑んだままである。
「…本当に胃痛であれば、症状が現れる。あなたには、それが見られなかった。胃痛といっても、症状によって処方する薬は違いますが、あなたには気鬱の症状が見られたので、神経性胃炎になることもあろうかと思って逍遥散を差し上げたのです」
 ま、本来は更年期障害や月経不順に処方する薬なんですけどね、と笑う伊作を、達魔鬼はまじまじと見つめる。
 -この忍たま、思った以上に手強いかも知れぬ…。
 だが、竹高からの命令をこなさなければならない。
「さすが、忍術学園にその名を知られた善法寺君だ。そこまでお見通しとは恐れ入った」
 それはかなりの程度、本音だったが、伊作は警戒の微笑を崩さずに言う。
「そろそろ、本来の用件を伺いたいのですが」
 -分かっているなら、話は早い。
 だが、見縊られても困るのだ。伊作が知っているかはわからないが、達魔鬼は、ドクタケ随一のできる忍なのだ。その自負を以って堂々と宣告する。
「いかにも、用件は手早く済ますべきだろう。私はドクタケ水軍創設準備室長の達魔鬼という。今日は、君に話があって来た」
「ドクタケの水軍創設準備室長が、私に何の用ですか」
「端的に言おう。君には、ドクタケ水軍の顧問医になってほしい」
 名目は何でもよかった。とりあえず、伊作をドクタケに取り込み、学園で学び続けることに疑問を抱かせることさえできれば。
「はい?」 
 果たして、伊作は眼を大きく見開いて達魔鬼を見つめる。
「君の医術、本草(薬学)の知識は、よく分かった。君には、医者としてやっていけるだけの実力が充分にある。その実力を生かして、わがドクタケ水軍の顧問医になってもらいたいのだ。もちろん、作戦行動に従事する必要はない。医者として…」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 放っておくとこのまま話が決められてしまいそうで、伊作は慌てて遮る。
「仰っていただくのはうれしいのですが、医術も本草も、まだまだ勉強の最中です。それに、私は忍術学園の忍たまです。忍術学園とドクタケ城の関係を考えると、ドクタケ水軍の顧問医というのは…」
「君には、医者として命を救う仕事が似合うと、私は思うのだがね」
 ぬっと顔を突き出して、達魔鬼は言う。「そんなことは…」と苦笑いしながら一歩退いた伊作の表情に、揺らぎが生じたのを達魔鬼は見逃さなかった。
 -よし。脈がある。

 

 

 -そんなことは…。
 すっかり惑乱しながら、伊作は学園への道を辿っていた。
 -そんなことは、考えたことすらなかった。私が、医者になど…。
 医術も本草も、忍として必要不可欠な知識のひとつに過ぎない。ただ、保健委員として学びやすい環境にあったことと、それが自分の性に合っていることと、そのほかの成績があまりよろしくないので、医術と本草に長じた忍としてしか自分をアピールできないと思い定めたから、学んでいるのだ。その知識が、医者としてやっていけるレベルに達しているというのか…。
 -いや、あれは達魔鬼の作戦だ。なんのつもりか知らないが、私を忍の道から外そうとするための…。
 そうは分かっているのだが、唐突に突きつけられたもう一つの可能性に、伊作はひどく思い惑う。 
 -医者になれるかもしれない? …私が?
 思いつめた表情で歩く伊作は、学園長のお使いで金楽寺から帰ってくるところだった乱太郎が、自分を見つけたことにも気付かない。
 -あれ…伊作先輩?
 駆け寄ろうとした乱太郎だったが、その背後に別の人影があるのを認めて、反射的に身を隠す。
 背後の人影に、伊作はまったく気付かない様子である。
 -あれは…達魔鬼だ!
 伊作の背後を悠々と歩いていた達魔鬼は、ふと立ち止まると、伊作の後姿に満足げに頷くと、別の方向へと歩み去った。
 -伊作先輩と達魔鬼が同じ道を来るなんて…ひょっとしてどこかで会っていたの? でも、なんのために?
 あとできり丸としんべヱに話さなくちゃ、と乱太郎は考えた。

 


「そうだ。乱太郎から聞いたんだけど…」
 今日も、用具委員会は、委員会室で道具の手入れをしている。
「乱太郎がどうしたの?」
 平太が訊く。
「保健委員長の善法寺先輩が、ドクタケの達魔鬼と会ってるみたいだって…」
 -伊作が?
 鋸の目立てをしながら、聞くともなしにしんべヱたちの話に耳を傾けていた留三郎が、思わず耳をそばだてる。
「達魔鬼って?」
 は組ほどドクタケとの接点がない平太には、聞きなれない名前だった。
「ドクタケのなかでも、いちばんできる忍者だっていう評判の忍者だよ。ドクたまのしぶ鬼のお父さん」
「ドクタケ水軍設立準備室の室長なんだって」
 しんべヱと喜三太が説明する。
「ふーん」
 興味なさそうに気のない返事をする平太だったが、留三郎は考えを巡らせる。
 -それほどできるというドクタケ忍者が、何のために伊作と会っているというのだ…。
 不意にこみ上げてくる不安を紛らわすために、留三郎は押し黙ったまま手を動かし続ける。

 

 

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