柱の記録

 自分もやったことはないけど、柱の刻み目で成長を確認するというのはけっこうワクワクしそうです。家族で盛り上がればもっとよし。

 そんな記憶とは無縁だった(であろう)土井先生ときり丸も、これから新しい記憶を一緒に刻んでいくことができるといいですね。

 

 

 山から吹き降ろしてくる空っ風が冷たい日だった。冬休みを控えた休日の学園は、大掃除で騒然としている。
「うう、冷て」
 水を汲んできたきり丸は、桶を置くや両手をすり合わせる。
「雑巾がけすれば終わりだから、がんばろうよ」
 乱太郎が声をかける。
「ああ…だけど、その雑巾がけが手間なんだよな」
 ぶつくさいいながらきり丸が雑巾を絞る。
「ねえ、乱太郎。これなに?」
 しんべヱが、柱に刻まれた疵を指差す。
「ああ、それ、俺も気になってたんだ。なんだろな」
 きり丸も雑巾がけの手を止める。
「え…二人とも、これなにか分かんないの?」
 乱太郎が頓狂な声を上げる。
「「ぜんぜん」」
 -きり丸はともかく、しんべヱも知らないなんて…。
「これはさ、背丈をはかったものだよ」
「背丈?」
「そう。たぶん、私たちの前にこの部屋を使っていた忍たまが、この柱で背丈をはかったんだよ」
「どうして」
「なんで?」
 そろって訊いてくる二人を、乱太郎はやや持て余す。
「あのさ、しんべヱは、毎年こうやって背丈を柱にきざんで、家族で今年はどれだけ大きくなった、とかいう話はしないの?」
「ううん、全然…家の柱にキズをつけるなんて、パパが聞いたらきっと怒るし」
「へええ、そんなふうにやるんだ。乱太郎も、家でそうしてたのか?」
「もちろん! 毎年、父ちゃんがはかってくれて、それでこんなに背丈が伸びたって盛り上がるんだ」
「ふうん」
「へええ」
 頭の後ろで手を組んでいるきり丸も、雑巾を片手に鼻水をたらすしんべヱも、境遇は違うが、家族でこんなことで盛り上がる経験はないようである。

 


「そうだ。私たちも、この柱で背丈をはかろうよ」
 乱太郎が提案する。
「面白そうだな」
「やろうやろう」
「じゃ、まずしんべヱ、ここに立って」
「こう?」
「そうそう…あ、しんべヱ、あご引いて」
「うん」
「そうそう…これでよし」
 乱太郎が、定規と小刀で柱にしんべヱの背丈をきざむ。
「次、きりちゃんね」
「おう」
「じゃ、はかるよ…あ、きりちゃん、ズルしちゃだめだよ…ちゃんとかかとを床につけて」
「へへ…バレたか」
 懐かしいな、と乱太郎は思う。そういえば実家でこのように背丈を計るとき、乱太郎も背伸びをして背を高く見せようとしたものだった。
「これでよし」
「じゃ、乱太郎は、俺がはかってやるよ」
「うん。よろしく」
「どれ、乱太郎は…このくらいだな」
 3人の背丈が、新たに柱にきざまれた。
「そしたら、今日の日付と名前を書いておくんだ」
 乱太郎が、刻み目の脇に、日付と名前を書き込む。
「こうやって見ると、きり丸がいちばん大きいんだね」
「へへ、まあな」
「しんべヱは、もう少し横じゃなくて縦に大きくなったほうがいいね」
「どうすれば、そうなるの?」
「麺棒で伸ばしてみようか」
「やめなよきりちゃん」
「ジョーダンジョーダン」
 ははは…と笑い合ってるところに、背後から声がかかる。
「こらお前たち、なにサボっているんだ?」
 気がつくと、見回りに来た半助が立っていた。
「早くしないと片付かんぞ。庄左ヱ門たちの部屋は、もう終わっているぞ」
 そう言うと、半助は次の部屋に向かっていく。

「庄左ヱ門たちは有利だよね」
 雑巾がけを始めながらしんべヱがぼやく。
「そうそう。庄ちゃんはきっちりしているし、伊助は掃除の天才だし、はやく終わって当然だよ」
「俺も、お駄賃もらえるなら気合入れてあっという間にピカピカにしてみせるんだけどな」
「「あー、無理無理」」
 きり丸のぼやきに、乱太郎としんべヱが並んで首を横に振る。
「…だよな」
 きり丸はため息をつくと、またのろのろと雑巾を持った手を動かし始める。

 


「ほう、そんなことしてたのか」
 休みに入った学園をあとに、半助ときり丸は家に向かっていた。歩きながら、きり丸は、乱太郎たちと柱に身長を刻んだことを話していた。
「来年の冬休み前に、また計ることにしたんス。だれが一番伸びてるか競争しようってことで」
「そうか」
 -これから成長期を迎えるからな、一年でぐんと伸びるぞ。
 まだ自分の胸の辺りにあるきり丸の頭も、ずいぶん近づいてくるに違いない。

歩調に合わせて揺れるきり丸の髷に眼をやりながら、半助は考える。その髷が、つと遠ざかった。
「先生は、柱に刻み目つけて身長はかったこと、ありますか?」
 きり丸が半助を見上げている。
「そうだな…」
 半助は、少し考える。
 福原の領主の子だった頃、あるいはそんなことがあっただろうか…思い出そうとしてもそのような記憶を手繰りだすことができなかった。恵まれ、幸せだった子どもの頃と、今の穏やかな教師生活の間には、あまりに深い断絶があった。あまりに昏い闇があった。それが、子どもの頃の記憶を遠く隔てている。子どもの頃の記憶を辿るということは、そこまでの深く、昏い断絶を通るということにほかならなかった。それは、いまの半助にとっても未だ癒えない痛みを伴うものだった。
「そうだな、そんなことがあったかも知れんが、覚えていないな」
 記憶の切っ先が、すでに半助の心に、一筋の傷を刻んでいた。つっと血が伝う。その痛みを必死に堪えながら、半助は苦笑いを浮かべる。
「でも、先生だってそんなに昔のことじゃないでしょう。覚えてないんスか?」
 腕を頭の後ろで組みながら、あまり興味なさそうにきり丸が言う。
「う…ま、まあな」
 きり丸には、できれば自分の過去は伏せておきたかった。きり丸の前では、忍に向かないことを自ら悟って教師となった、過去形の忍の姿だけを見せていたかった。
 -それも、いつまでもつか分からんが…。
 だから半助は、口ごもる。もしかして過去を語ることになってしまったとき、あるいは平静ではいられなくなるかもしれない。そのくらい、半助にとって過去とは痛みに直結するなまなましい記憶だった。
「へんな先生…あ、あそこの茶店で少し休みましょうよ」
 半助の屈託に気付くゆえもないきり丸にとって、すでに関心は茶屋での休憩に移っている。
「なにを言ってるんだ、今日のうちに家を掃除しないといけないんだぞ、のんびり休んでいる場合か」
 なんとかいつもの調子に立て直しながら、半助はきり丸の頭を軽く小突く。
「いて…いいじゃないスか。ちょっとくらい休んだって」
「だめだだめだ。さあ、家に急ぐぞ」
「あ、先生…待ってくださいよ」

 


「やっと片付いたな」
 埃よけの覆面を解きながら、半助が言う。
「ったくぅ、先生、大家さんやご近所のおばちゃんたちと話してばっかりじゃなったスか…家の掃除、ほとんど俺一人でやったんスからね」
 きり丸が口を尖らす。
「悪い悪い…これもご近所とうまくやっていくために必要なことなんだ…」
 頭をかきながら、半助がなだめる。
「とにかく飯にしよう。汁を作るから、きり丸、野草を頼む」
「あいよっ」

 


「そういえばきり丸、おまえ、身長はどのくらいなんだ?」
 食事の片付けも終わり、布団を敷いていたきり丸に、半助は声をかける。
「身長…? どのくらいでしたっけ」
 布団を手にしたまま、きり丸が首を傾げる。
「お前、身体測定のときにちゃんと聞いてなかったのか」
 半助が、呆れたように声を上げる。
「いやぁ、物覚えの悪さでは天下一品のは組だし…」
 照れ笑いを浮かべるきり丸に、思わず半助が拳を握る。
「おまえな…自分の身長から塀などの高さを測る方法を教えただろう。自分の身長を把握しておくことは大事なんだぞ」
「へ?」
 きり丸の眼が点になる。
「まさか、忘れたわけではないだろうな…」
 拳を握り締めたまま、ぬっと身を乗り出す。
「い、いやぁ、ちょっとど忘れしたっていうか…」
「まあいい」
 元の場所で胡坐をかいた半助は、ふっとため息をつく。
「いい機会だ…おまえには特別補習授業を行うことにしよう。明日からバイトなど入れてくるなよ…休みの間、朝から晩までみっちり補習授業をしてやるからな」
 にやりと笑う。
「ちょっと待ってくださいよ先生…もうバイトの予約、受け付けてきちゃったんですから…」
「断って回るんだな。宿題もあることだし、とてもバイトの片手間にはできんぞ…」
「ちょっと先生、それだけはカンベンしてくださいよぉ…教師として、生徒の生きがいを奪うというのはいかがなものかと思わないんスか?」
 きり丸が上目遣いで半助の膝を揺する。いつになく真剣なようでいて甘えているような仕草に、ふと半助は可笑しくなる。
「なにが生きがいだ。生徒の本分は勉強だぞ」
 言いながらも、つい笑いが漏れる。
「先生、笑い事じゃないっスよぉ」
「ははは…分かった分かった。では、半日だけにしてやろう。バイトは午前中だけにすること。わかったな」
「…わかりました」
 これ以上の譲歩を半助から引き出すことは無理と観念したのか、きり丸はしぶしぶ同意する。
 -ちぇ、せっかく門松作りと獅子舞の門付けのバイト、先生にも手伝ってもらうつもりで引き受けてきたのにぃ…。

 


「そうだ、きり丸、この際、おまえの背丈を測ってやろう。そこの柱の前に立ちなさい」
 ふと思いついて、半助は声をかける。
「え、今からですか?」
 口を尖らせていたきり丸が、弾かれたような表情になる。
「そうだ」
「いいんスか? 借家でそんなことして」
 たしかに、きり丸の言うとおりだった。借家で柱に傷でもつけたら、問答無用で追い出されても文句は言えなかった。
 -それでも、今は私の家であるこの柱に、きり丸の背を刻んでおきたい。
「なに、いつもきちんと家賃払っているのに、勝手に別の人に貸してしまう大家さんに意趣返しだ」
 ふとした思いつきなのに、いつになく、半助はこだわっていた。
 -ここが、私ときり丸の家なんだから。
「しらないっスよ。今度こそ追い出されても」
「いいからそこに立て」

 


「こうスか?」
 きり丸が、柱を背に立つ。
「そうだ。じっとしていろよ…こら、かかとは床に付けろ」
 小刀と定規で測りながらの半助の台詞に、おもわずきり丸は吹き出す。
「なんだ」
「いえ…乱太郎にも同じこと言われたなと思ったら、なんかおかしくて」
「そうか。乱太郎にも同じことを言われたのか」
「はい」
 -乱太郎なら、ご家族とこういうふうに背を刻みながら、楽しく笑った経験があるのだろうな。
 改めてきり丸の背を定規で当てながら、半助は考える。
 -きり丸にも、おそらく私にも、そんな経験はない。だが…。
 片膝をついたまま、刻み目の横に日付ときり丸の名前を書き込む。
 -これから新しい記憶を刻んでいけばいい。
 そう考えながら、床から刻み目までの長さを測る。
「四尺…七寸といったところだな」
「そんなもんスか…もっとあると思ったのにな」
 きり丸は、やや不服そうである。
「気にするな。お前はこれから本格的に成長するのだからな」
「ホントすか?」
「ああ。私が保証する」
「そうすか。楽しみだな」
 きり丸も、柱の新しい刻み目を見る。
「来年には、このくらいまでいくかな」
 そう言ってきり丸は、刻み目のずっと上に手をやる。
「おいおい、いくらなんでも、一年で一尺は伸びないだろう」
「ムリすか、やっぱり」
「そんなに慌てなくても必ず大きくなるから安心しろ」
「先生みたいに?」
「ああ。あるいは私を追い越すかもな」
「だといいんスけど」
 他愛もない言葉を交わしながら、半助は深い安らぎを感じていた。
 -これだ。これが、私にもきり丸にもなかったものなのだ。
 かりそめの、いつか終わる日が確実にやってくる、「家族」としての時間。
 だからこそ限りなくいとおしい、「家族」としての会話。
 -いつか、きり丸がこの家を去る日が来ても、私もまたこの家を去る日が来ても、この家がなくなる日が来ても、お前の背丈を刻んだ柱の記憶は、ぜったいに消えることはない。
 筆や小刀を文箱にしまいながら、半助は確信する。
 なぜなら、いま、きり丸は自分の家族だから。

 


「っくしっ」
 きり丸が小さくくしゃみをする。
「どうした。風邪か?」
「いえ、そうじゃないと思うんスけど…ちょっと寒いかなって」
 たしかに、どこからともなく吹き込む隙間風で、家の中にも外の冷気が入り込んでいた。
「早く布団に入って寝なさい。風邪を引くぞ」
「う…でも、もう少し火のそばにいたいんスけど」
 きり丸は、炉辺が離れがたいようである。
「だめだ。火にあたっていても、背中が冷える。だから布団に入るんだ」
「…はあい。おやすみなさい」
 しぶしぶ着替えて布団にもぐりこむきり丸に、声をかける。 
「おやすみ、きり丸」
 布団の中で丸くなっていたきり丸が、やがて寝息をたてはじめる。
 -四尺七寸か…。
 真新しい刻み目に、半助は眼をやる。
 -あと何回、この柱に刻みを入れることができるのだろう…。
 たとえそれが一回限りであっても、それでいいと半助は考える。
 -たとえこれが最初で最後の刻み目であっても、私にとってはかけがえのない記憶だ。たぶん、きり丸にとっても…。
 戦で、病で、いつどちらが命を落としてもおかしくない時代だからこそ、一回限りの記憶がいとおしいのだ。
 がたり、とひときわ強い風が戸板を鳴らす。からころ、と往来を桶のようなものが転がり去る音がする。
 -寝るか。
 寝間着に着替えると、熾った炭火を灰に埋め、燭台の灯を吹き消す。
 -冷えるからな。
 布団に潜り込む前に、脱いだ着物をきり丸の布団の上にかけてやる。
 -おやすみ、きり丸。

 

 

<FIN>