欲深な言葉

 

ひとり12×19企画でちまちま書いていたお話でしたが、12月に入ってから出張やら会議やらでまったく書き進められずにいる間に肝心の12月19日がはるかに過ぎ去ってしまいました。が、せっかく書き上げたのでアップすることにしました。

子利吉と若土井は、切なくなるくらい利吉が土井先生を慕っていたらいいと思うのです。そんな強い思いがあればこそ、再び出会えた喜びもいや増すと思うのです…。

 

 

「もうすぐ、ここを発たないといけない」
 唐突な言葉に、一瞬、思考が空白になった。呆然として見上げた半助は、いつも通り大きな眼で自分を見つめながら微笑んでいる。
「どういう…ことですか」
 言葉を切った瞬間、上空のヒバリの声が鋭く耳に響いた。

 

 

 

 自分でも驚くほど間抜けな問いだった。とっくに覚悟していた言葉だったはずだった。それなのに、その言葉は驚くほど鋭く自分を刺し貫くのだった。そして半助は、予想していた通り優しい表情で、噛んで含めるように説明するのだった。自分は追われている身だということ、いつまでもここにいては迷惑をかけるということ、利吉のことをとても気にかけているということ。
 -でも、僕が聞きたいのはそんな言葉ではないのです…!
 言葉にできないまま、利吉は強い視線で半助を見上げる。
 -僕は、もっと半助さんと一緒にいたい。いろいろな話をして、いろいろなことを教えてもらって、いつかは一人前になった僕と一緒に忍の仕事をしたい。その時まで共に過ごそうと言ってほしいのです…。
 それがとうてい望めないことは分かっていた。それでも、そう望まなければ自分が崩壊してしまいそうで、ただ強い視線で見上げることしかできなかった。

 

 


「半助さん、ちょっと出かけませんか」
 数日後、晴れ渡った朝に声をかける利吉だった。
「ああ、出かけようか」
 気軽に応えた半助が腰を上げる。
「今日はどこへ行くんだい」
 木漏れ日の下を、利吉について歩きながら訊ねる。
「あ…」
 ふいに利吉が足を止める。そこは2,3間(3~5メートル)ほどの幅のある川だった。雪解け水のせいか、流れはかなり速い。
「この川を渡るのかい?」
 どうやら川は利吉の想定を超えた水量だったようである。
「いつもはこんなことはないのですが…」
 当惑したように利吉は呟く。
「橋も…ないようだね」
 一応周囲を見回した半助だったが、山中の川にかかる橋などない。橋の材料になりそうな倒木も見当たらなかった。
「この先にとても眺めのいい場所があるのですが…」
 無駄足をさせてしまった責任に悄然とする。
「そうか。それは見てみたいなあ」
 気を引き立てるように明るい声で半助は言う。「だったら、行ってみないか?」
「でも…」
「なあに、大丈夫さ」
 笑いかけながら袴の裾を膝の上までまくり上げる。「見たところ、それほど深そうじゃない。君ごと渡ってみせるさ」
 え…と立ちすくんでいる利吉に背を向けてしゃがんだ半助が振り返る。「さ、早く」
「は、はい」
 慌てて広い背に身を預ける。「よっ」と小さく声をかけて立ち上がると、半助はそっと流れに足を入れた。
 氷ノ山の雪解け水は、切るような冷たさだった。全身がぶるっと震えたのが、遠慮がちに背に負われる利吉にも分かってしまったのではないかと思われた。見立て通り流れは浅かったが、速い流れに足を取られないように慎重に足を進める。だが、あまりの冷たさに足先から感覚が麻痺していく。
 -なんのこれしき。あと少し…。
 すでに感覚が消えて棒のようになった足を踏み出す。と、そこは思いがけず深くなっていてバランスを崩しかける。すぐに踏ん張ろうとしたが、とっさに足をついた場所は苔で覆われ、二人分の体重を支えようとした足をぬるりと滑らせる。
「うわっ」
 さすがの半助も支えきれずに身体が傾く。「あっ」と声を漏らした利吉が背にしがみつくが、それが却ってバランスを大きく崩した。
「お、お~っ!」
 つるりと滑った足をさらに踏み出そうとしたが、感覚を失った足は思い通りに動かず、ついに大きく前へと身体は傾いた。そしてそのまま一気に流れへと倒れ込む。
 ばしゃん、と派手な水音とともに二人の身体は流れに投げ出された。

 

 

 

「すまない、利吉君…」
 びしょ濡れになった二人がようやく岸に這い上がる。
「うう、冷たかった…」
 唇まで紫色になった利吉が髷や着物から滴をしたたらせながら身体を震わせる。
「大丈夫かい」
 心配げに半助が声をかける。
「はい…大丈夫です」
 声を震わせながら応えた利吉だったが、はっと気がついたように懐から手拭いを取り出して固く絞ると、苦無や手裏剣を拭き始めた。金属製の忍具の水濡れはすぐに乾かすよう日頃から両親に言われていた。
「利吉君…」
 全身ずぶ濡れのまま、真剣な表情で手裏剣を磨く姿に眼をやっていた半助も、どっかと座り込むと懐の忍具を絞った手拭いで手早く拭う。そして髷を解いて髪を拭うと、着物と袴を脱いで絞って草の上に広げた。
「半助さん…?」
 思わぬ行動に、手裏剣を磨いていた手も思わず止まる利吉だった。
「利吉君も、いつまでも濡れた着物を着ていると風邪を引くよ?」
 褌一つで寝ころんだ半助が見上げる。
「は、はい…」
 慌てて残りの手裏剣を磨いて、絞った着物を広げる。そして、頭の後ろで腕を組んで気持ちよさそうに眼を閉じている半助にふと眼をやったとき、利吉ははっとした。
 -治ってる…。
 傷はほぼ目立たない状態になっていて、深そうな刀傷がいくつか古傷として刻まれているきりだった。
 -あんなに傷だらけだったのに…。
 初めて自分の手で包帯を換えたとき、間近に見た半助の身体は、無数の刀傷や打撲傷に覆われていた。思わず眼をそむけたくなるような痛々しさにおぼえた心のざわめきを今でも覚えている。
 -そうか。もう治ったから、出発することができるんだ…。
 利吉は眼をそむけると、少し離れたところに横になった。そして、さんさんと降り注ぐ春の陽射しに眠たげにたゆたうハチの羽音に耳を傾けながら、いつしか眠りに落ちていた。

 

 

 

「利吉君」
 そっと呼びかける声に、ゆるゆると意識が戻って利吉は眼を開いた。優しげな表情でのぞきこむ半助が視野に入ってきた。
「半助さん…」
 半ば夢うつつのまま利吉が声を漏らす。
「だいぶ乾いてきたよ。そら、君の着物だ」
 自分の着物を手渡されて慌てて身を起こす。そして、身体を覆っていたものがずれ落ちる感覚に気付く。それは半助の着物だった。
「あれ…」
 何と言えばいいかもわからず、眼の前の裸の青年に眼を向ける。
「これは…」
「ああ、私の着物が少し早く乾いたからね」
 朗らかに微笑みながら半助は言う。「利吉君が風邪をひいてしまったら、大変だろう?」

 

 

 

「いやぁ、これはすごい景色だ」
 深い森を抜けたところに唐突に開けた絶景に、半助が思わず声を漏らす。
「はい。僕も大好きな風景です」
 利吉が案内した場所は崖の上のちょっとした平地だった。そこからは氷ノ山のふもとに広がる低い山々や平地が一望できた。そしてその彼方に鈍く光る海が見えた。
「…ここに来ると、嫌なことを忘れられるような気がするのです」
 崖下から吹き上げられる風に前髪が揺れる。父親に似た切れ長の眼で遠くを見据えながら利吉は口を開いた。
「そうか」
 思いつめた表情に眼をやった半助も、遠い海に眼を移しながら朗らかに応える。
「そうだな。私だったら、嫌なことがあったらここで大声で叫ぶかもしれないな。すごくスカッとしそうじゃないかい?」
 小さな肩がびくっと動いた。
 -なんで? まるで見ていたみたいに…?
 図星だった。ここに来るといつも、利吉は胸の奥にしまい込んでいたものを叫んでいた。忍の修行の辛さや両親と比べた無力感、日々の閉塞感や将来に感じるそこはかとない不安まで、発散できるのはこの場所しかなかった。
 だがそれは、誰にも秘密だった。事情を知らない者が来れば、ただ景色のいい場所としか思わないはずだった。それなのに、いとも簡単に半助は利吉の秘密を見破ったのだ。だが、利吉がおぼえたのは動揺でも敗北感でもなく、喜びだった。それが良い理解者を得た喜びということまでは理解が及ばなかったが、ただ心の奥底からじんわりとこみあげてくるような温かい感情だった。
 もっと一緒にいたい。心からそう思った。

 

 


「僕は、もっと半助さんと一緒にいたいだけなのに…それは許されないことなのですか」
 涙をにじませた眼で利吉は見上げる。
「なあ、利吉君。私は思うんだが」
 優しい眼で見下ろしながら、伸ばした手をそっと肩に置く。「『だけ』っていうほど欲深な言葉はないよ」
「…どうしてですか」
 くぐもったこえでなおも利吉は訊く。
「そうだな…」
 少し考えるように首を傾げた半助が続ける。「人はえてして、ほんのちょっとしか望んでいないと思って『だけ』と言う。だけど、実はその『だけ』を実現するためには途方もない偶然や努力が必要なことがほとんどだ。私たちもそうだろう?」
 まだ華奢な肩を大きな掌でそっと覆いながら続ける。「偶然、私は君のご両親に助けられた。偶然、私は敵に追われてあの場から転落した。偶然、私は忍になった。偶然、私はこの時代に生まれついた…」
「…」
 堪えきれずに半助の手を振り払うと利吉は背を向ける。そのあとに続く言葉は容易に予想できた。
「私を追う者はいずれここを突き止める。そして襲ってくるだろう。だが、君のお父上はもうすぐここを離れなければならない。お母上は優秀なくノ一だが、複数の敵をいつまでも食い止められるものだろうか。それにこの家の防護を固めるにも限度がある。たとえ城であっても侵入するのが忍だからね…」

 

 

 

「他のなにもかもを捨てても半助さんといたいと言っても、それでも欲深なのですか…」
 小さく背を震わせながら、くぐもった声で利吉はうめく。
「そうだな…」
 君は両親との縁を捨てる、生まれ育った家を捨てる覚悟があるのか、という問いを半助は呑み込んだ。それはこの生真面目な少年に刃のように突き刺さって生涯の傷になりかねないと感じた。だから少し考えてから口を開く。
「…やっぱり、欲深だと思うな」
 なぜ、と問うように握った拳に力がこもる。
「私たちはつい、生まれてから身の回りにあるものは、あって当たり前のように思うものだ。君のように素晴らしいご両親と安全な家がある環境で生まれ育てば、それが当然になる。でも、それは誰もが当たり前に持っているものではない」
 爆発しそうな感情を辛うじて抑え込みながら細かく背を震わせている少年がいたましかった。だが、今の半助はさらに厳しいことを言わなければならない。
「…あって当たり前のものに比べれば、目新しいものは貴重に見える。たとえ当たり前にあるものがどんな偶然と幸運に恵まれたものであっても、目新しいものを手に入れるためには失っても構わないとさえ思う…」
「半助さんは、僕のなにを知っているというのですか!」
 唐突な叫びに半助が思わず胸元を見下ろす。向き直った利吉が、眼に涙をいっぱいにたたえて睨み上げていた。
「安全な家があって、食べるにも困らなくて、優秀な両親に忍の手ほどきを受けられて、それがどんなに恵まれてるかくらい僕だって分かります! でも、僕はここしか知らないんです! この家と、家の周りの森と、それしか知らないんです! 世の中にどのような人がいてどのように暮らしてるのか、世の中がどう動いていくのか、教えてくれるのは両親と本だけだったんです!」
 いったん堰を切った感情は止められなかった。
「ここから氷ノ山が見えます!」
 振り返って指さした先には木々の向こうに氷ノ山の稜線がのぞいていた。「でも父は、違う場所からみれば違う形に見えると言います。僕は、違う場所からみた氷ノ山がどんな形か知りたい、そう望むのはそんなに欲深なんですか!? 半助さんに両親や本からは得られない話を聞いて、一緒に出かけたい、そう望むのは欲深なんですか!? それなら僕は、なにを望むことなら許されてるのですか…」
 最後は嗚咽に消えて、利吉はふたたび背を向けて涙をぐいと拭う。だが、言いたいことを言って、結局自分が望んでいたものはやはり欲深な言葉なのだという思いもじわりと広がってきた。これ以上、半助を困らせてはいけない…。
「…すいませんでした」
 涙声だったが、硬い口調で早口に言う。「困らせるようなことを言ってしまいました。気にしないでください」
「利吉君…」
 急激な変化におろおろと腕をさし伸ばす半助だったが、背を向けたまま逃れるように一歩離れる。
 だが、そのまま立ち去ると思った利吉はその場に立ったまま動かなかった。
「なあ、利吉君」
 精一杯肩を張った小さな後姿に声をかける。肩が反応した。
「一期一会という言葉は知っているだろう?」
「…」
 無言の背が、続きを待つ。
「たった一回の出会いで、それが今生の別れになっても、出会った瞬間を大切にする。それが一期一会だ。だから私も、利吉君に出会えたことは決して忘れない。君と話したことも、笑ったことも、一緒に川に落ちたこともね」
「…」
 利吉は押し黙ったままである。だが、背中が小さく震えていた。
「私が最初に君の父上と母上に助けていただいたころ、君は口もきいてくれなかったよね。楽しみにしていた野遊山を台無しにされたのだから当然だけど、私はこのまま利吉君と話すこともできずに終わってしまうのかなと思って寂しかったんだ」
 穏やかに語りながら利吉の背に近づくと、ふたたび 肩にそっと手を置く。一瞬、肩に力が入ったが、利吉は動かない。
「だから、私に口をきいてくれるようになってとっても嬉しかったんだ。一緒にいたいと言ってくれるようになるなんて、想像もつかなかった」
「…」
 息を詰めて、利吉は立ちすくんでいた。
「こうやって、君と過ごす時間は、私にとってとても尊い時間なんだ。そんな時間を私は『だけ』なんてとても言えない。何重にも重なった偶然がなければありえない時間だからね」
 次第に半助の言葉が熱を帯びる。
「私は利吉君に会えた。それだけで幸せなんだ…」
 もう限界だった。こらえきれずに利吉は振り返ると固く温かい胸に顔を埋めた。
「…っ…!」
 こぼれる涙が握った着物の袷ににじむ。何か言おうにも嗚咽にしかならなかった。
「だから、もう二度と君に会えなくても…」
 いとおしそうに頭を撫でながら半助は続ける。
「…私は構わない。君との記憶はしっかりと刻んだから…」

 

 

 

<FIN>

 

 

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