余寒

 

旧暦と新暦の差ゆえに二十四節気もイマイチ現代の感覚とのズレを感じずにはいられないところで、暦の上では立春でもまだまだ寒気に見舞われたり雪が降ったりというのが現代の光景です。

それでも立春のあとに訪れる寒さを余寒と表現されるとそこにはいかんともしがたい床しさを感じてしまうもので、寒の戻りとはまた異なる情趣をおぼえたりします。

行ったり来たりを繰り返しながら移ろっていゆく季節と同じように、忍たまたちも行きつ戻りつ成長していく、そんな風景を描いてみました。

 


「ったく、五年生にもなってこの様とは…気合が足らん…!」
「面目、ありません…」
 ぶつくさ言いながら戻ってきた鉄丸に、勘右衛門が身をおこしかけるが、その声はがくがくと震えている。
「いいから寝ておれ」
 沢水にひたして絞った手拭いをぱしぱしと数度引っ張ってから額に乗せる。「今は安静がいちばんだ」
「…はい」
 


 演習でチャミダレアミタケ城の武術大会を見学に行く道中の五年い組だったが、途中で勘右衛門が原因不明の熱を出して動けなくなってしまった。何かの感染症だった場合に備えて鉄丸は演習を中断し、他の生徒には学園に戻って医務室にかかることと、保健委員の助けを呼ぶよう指示して、自分は勘右衛門に付き添うことにした。あいにく峠にさしかかる山道で、近くに宿を借りられるような村はなかった。もしあったとしても、勘右衛門が感染症だった場合には村人に広めてしまうリスクがあったから、どちらにしても助けを求める選択肢はなかったが。
 -しかし、参ったな…。
 額に冷たい手拭いを載せられて少しほっとしたような表情で眼を閉じた勘右衛門に眼をやると、鉄丸はおもむろに立ち上がって周囲を見渡す。
 そこは峠に近い谷間を伝う細道だった。斜面はうっそうとした森に覆われて昼間でも薄暗かった。あいにく周辺に辻堂や出作り小屋のような雨風を凌げるような建物はなかった。なお悪いことに日が暮れかかり、木々の梢を揺らして山から冷たい風が吹き下ろし始めていた。
 -いかん。勘右衛門を寒気にさらすわけには…。
 忍として幾多のサバイバルを経てきた鉄丸ではあったが、病人を抱えて野宿をした経験はない。とにかく学園から助けが来るまでは、少しでも勘右衛門をましな環境に置かなければならなかった。もっとも、病人を介抱するには環境は悪すぎるほど悪かった。この場に残るという判断が正しかったか、鉄丸は迷い始めていた。
 -ええい、埒もない!
 勘右衛門は道と沢の間の木立の中でひときわ大きい松の根元のうろに寝かせてある。そこなら風も少しは防げるし、大人二人は潜り込める程度のスペースはあった。
 学園からの助けが来た時の目印になるよう、道の上に枝と石を並べて記号を作ると、沢に下りて竹筒に水を汲む。竹筒を手にして立ち上がると、ふと空を見上げる。すでに日は隠れ、紫の濃淡のシルエットとなった峰々の上には妙に暖かげな桃色から虚空の縹色へと淡いグラデーションが広がっていた。その縹色の濃くなったあたりにはいくつかの星が冷たい光を放っていた。そして足元からは絶え間ない流れが耳についた。
「水を飲め」
 勘右衛門のもとに戻った鉄丸はそっとその頭を持ち上げると竹筒を近づける。苦しげに乾いた唇から息を吐いた勘右衛門が、差し出された竹筒に口をつけると、ごくごくと喉に水を流しこむ。
「ありがとうございます…」
 竹筒の水を飲み干すと、ようやくひと心地ついたように勘右衛門は声を漏らした。
「もっと飲むか」
 頭を支えたまま鉄丸が訊く。
「いえ。もう大丈夫です」
 とろんとした眼で見つめながら勘右衛門は応える。と、その身体が痙攣したように大きく震えた。
「どうした」
「いえ、その…ちょっと寒くて…」
 薄暗い中でも紅潮した顔で勘右衛門は言う。どうやらさらに熱が上がってきたらしい。そのまま勘右衛門は横向きに背を丸めて歯をガチガチいわせる。
 -まずいな。
 自分が持つサバイバル技術で今の状況に一番近いのは、雪山でのビバークだった。
 -雪山で立ち往生した時は、雪の中に穴を掘ってその中に身を隠せ。空気穴を忘れるな。突然穴が崩れたときのために、出口をふさいだところには印をつけること。そして…。
 鍵縄の縄と風呂敷を使って木のうろの出口をふさぐ。足元には、乾いた落ち葉がほどよく吹き込んでいた。
 -凍死しないためには体温の維持を図れ。特に着物が雪で濡れたときは危険だ。そういう時は躊躇なく着物を脱いで仲間同士の体温で温め合うこと。
 いまの勘右衛門の状態も危険だった。身体の震えは収まらず、小さく開いた口から時折乾いた咳が漏れる。外ではいよいよ風が強く吹きすさんで、寒気が風呂敷の隙間から容赦なく風のうなりとともに入り込んでいた。
 -待っておれ…。
 自分の着物を脱いで落ち葉の上に敷くと、着物を脱がせた勘右衛門の身体をそっと横たえる。次いで背後からぐっと抱きしめると、胸や腹が冷えないように着物で覆う。
 -すまんな、勘右衛門。
 勘右衛門の肌は女のように白く滑らかだった。裸を見るのは初めてではないはずだったが、これほど近くで、しかもこのような状況で見ることはなかったから、むしろ初めて出会った女の肌をまじまじと眼にしているように思えた。普段は忍の技術もそこそこ優秀で、時に小生意気な態度を見せる生徒だったが、今は怯える小動物のように小さく身体を震わせている。
 -わしにはこんなことしかできん…。
 もし勘右衛門を襲っている病魔が感染症だったら、それも命にかかわるようなものだったら。なぜかそれが自分の身にも危険を及ぼしかねないとは思わなかった。眼の前の生徒を守ることしか念頭になかった。

 

 

 -あったけえ…。
 たゆたう意識の中で、じんわりと包まれる暖かさを感じていた。そういえばさっきまで、ひどく寒かったのを思い出した。背中に巨大な氷を押しつけられたような、身体の内部から氷結していくような冷たさを感じていたはずなのに、今は背後から暖かいものに包み込まれていた。心地よさに再び眠りに戻ろうとする意識がふと立ち止まる。
 -まて、いま、俺、どうなってる?
 それが現実なのか夢幻なのか、にわかに分かりかねた。どうでもいいことだった。今、自分は寒くない。氷漬けの物質になる寸前でもない。だけど、自分は山中で、熱を出して倒れたのではなかったのか?
 勘右衛門はゆるゆると眼を開けた。
 そこはひどく暗かった。すぐそばをうなりを上げて風が吹きすさび、隙間風があらわになった胸や腹を間断なくひやりと冷やしていた。だが、背中には暑い鼓動が押し付けられていた。そして、熱を発する帯のように暖かさを帯びた腕が背後から腹に回され、そこだけが熱を帯びていた。
 -木下先生…?
 ようやく自分の状況が把握されてきた。それはあまりに非現実的な状況だった。つまり、半裸の自分が、同じく半裸の鉄丸に背後から抱きすくめられているという図だった。そして、ややあって二人分の着物が自分の身体を覆っていることに気付いた。
 -そっか。俺が寒がってたから先生が温めてくれてたんだ…。
 ようやく勘右衛門が現状を把握した時、「大丈夫か」と背後から声が響いた。
「はい、その…」
 返事をしようとしたが、乾いた喉からはかすれた声が漏れるだけだった。
「水を飲め」
 腹に回されていた腕が動いて竹筒を持たせる。ごくごくと喉を鳴らして飲むと、干からびた全身に水分が染み入っていくような気がした。
「…ありがとうございます…」
 ひと心地ついてようやく声にできた一言だった。
「なんの」
 低い声が応える。「熱は下がったか」
「はい、その、たぶん…」
 そういえば背中に張りついた寒気が消えていた。「だいぶ楽になったような」
「それならよい」
 背後の声にいささか安心したような気配を帯びる。
「寒くないか」
「はい。あったかいです。それに…」
「それに?」
 陶然とした口調で勘右衛門は続ける。「オヤジのにおいだ…」
「なにがオヤジだ」
 気を悪くしたように鉄丸が唸る。背後の熱量が少し上がった。
「いや、そうじゃなくて…」
 慌てて勘右衛門が付け加える。「俺のオヤジと同じにおいがして…なつかしいな…」
 言いながらも急速に瞼が重くなってきた。
 -なんでだろ。いままでそんなこと、一度も思ったことなかったのに…。

 

 

 

 

 ひょう、と冷たい風が吹き抜ける。足早に雲が駆け抜けて月がふたたび手元をさやかに照らす。立春はとうに過ぎたはずなのに、月の光は真冬と変わらず研ぎ澄まされた光を放っていた。凍えるような夜だったが、鉄丸は教師長屋の屋根の上で、ひとり杯を傾けていた。いま、またごうごうと峰々の梢を鳴らしながら吹きおろしてきた風が袖をはためかせ、前髪を巻き上げる。
 -月が明るすぎるな…。
 忍にとってはあまり良いコンディションではない、と思いながらも鉄丸は黙然と杯を口に運ぶ。と、その耳ががさがさと萱を踏みながら近づく足音を捉えた。
「尾浜勘右衛門。こんな時間にどうした」
 眼を遠い峰にやりながら鉄丸は声を上げる。
「どうも、先生」
 小さく舌を出しながら勘右衛門が近寄ってくる。
「何の用だ」
 短く問う鉄丸の口からほんの一瞬、白い息が吐きだされる。だがそれはたちまち冷たい風に吹き散らされる。
「生徒が担任の先生のところに来ちゃまずいですか?」
 混ぜっ返すような台詞にすっかり体調が回復した様子をおぼえて、鉄丸は小さくため息をつくとふたたび杯を傾ける。学園から駆け付けた新野たちによって、勘右衛門が危険な感染症に罹ったわけではないことはすぐに判明したが、数日間は医務室での安静を命じられていた。
「早く部屋に戻らんか。また風邪をひいても知らんぞ」
 結局、勘右衛門の高熱は感染症ではなく風邪だったことが判明した。
「はい、でも…」
 まだきちんと礼を言っていなかった。高熱でおぼろな記憶しかなかったが、たしかに鉄丸に守られ、温められた。だから、忍たま長屋に戻ることが許されてすぐにやってきたのだ。鉄丸はよくこのような夜に屋根の上でひとり杯を傾けていることを知っていたから。
「おいしいですか」
 なぜか言いたいことが口に出せず、関係ないことを訊いていた。
「これか」
 果たして鉄丸は飲み干したばかりの杯をまじまじと見る。そこになにか深遠なものが秘められているように。そしていう。「いずれ分かる。わしが言えるのはそれだけだ」
「そうですか」
 ああなんて間の抜けた会話だろうと自分の頭をぽかぽか殴りたくなった。そんなことを言いたいわけじゃないんだ。もっと大事なことを言いたいのに…。
「その…」
 もう一度言いかけて口ごもる。今度は鉄丸も黙って続きを待つ。「おかしいですよね。五年生にもなってこんなことになるなんて」
「お前の言う『こんなこと』が風邪だというなら、それは違うな。気合が足らんとは思うが」
 杯を満たしながら鉄丸は低く言う。「好きこのんで病気やケガを負う者はいない。忍として大事なのは、そうなったときにどうするかだ。分かるか」
「最悪の事態が起こった時の想定をしておけということですか」
「そうだ」
 表情を変えないまま鉄丸は杯を傾ける。「生きていれば、多かれ少なかれ避けられないことはある。その時の判断と行動が忍として大成するかどうかの分かれ目になる。分かったか」
「はい…でも…」
「どうした」
「僕には時間がありません」
 いつの間にか、鉄丸の傍らに座った勘右衛門が膝を抱えて月を見上げていた。その面立ちが明るく照らされる。思いつめたような口調で勘右衛門は続ける。「あと一年ちょっとで卒業してプロ忍者にならないといけないんです。こんなことしている時間なんてないんです…」
「…」
 軽い驚きとともに鉄丸は傍らに座る生徒の横顔を見つめる。い組の生徒らしく何事もソツなくこなし、明るく元気で、いささか軽い少年だと思っていたのだが、いま、勘右衛門は深い懊悩を声に滲ませている。その追い詰められたような固い表情も初めて見るもののように思えた。
「ひとつ憶えておけ」
 杯を干してふたたび月に視線を戻しながら鉄丸は言う。傍らでわずかに身じろぎする気配があった。
「人間というものはな、決して一直線に成長するものではない。止まったり、迷ったり、違う方向に行きかけてまた戻ったりしながら成長していくものだ」」
 そして、ややあってふたたび口を開く。「季節が進むのと同じようにな」
「…」
 黙って勘右衛門は続きを待った。
「もう立春を過ぎているが、まだこのような寒い日もある。春寒とか余寒と言ったりする」
 鉄丸の声が小さく吐かれた白い息とともにたちまち消え去る。遠くの森で梢が鳴る音が耳に響いた。
「…だが、それでも季節は必ず進む。いつまでも冬のように寒いと思っていても、いつの間にか梅が咲き、桜が咲いて春になる。時間がとどまることがないように、人もいつまでも同じところにとどまっていることはできない。特にお前たちのような年頃なら猶更だ」
 そのとき、びゅうとひときわ強い風が吹きすさんで勘右衛門は思わず震え上がったが、鉄丸は夜空に眼をやったまま杯を傾ける。
「…五年生ともなれば卒業までにどのレベルに達しているべきかも見えておるだろう。焦る気持ちもあろう。だが、一見、遠回りしているように見えても、それが必要なプロセスだったということもあるものだ。前に進めずむしろ戻っているように思えることがあっても、お前が前に進もうとすれば、いずれはまた進むこともできる。まあ、今回はそういうことだったと思うのだな」
 勘右衛門は半ば呆然として傍らの人物の横顔を見つめていた。いつも額に青筋を浮かべて怒鳴り声を上げているようにしか思っていなかったのに、いま、鉄丸は初めて聞くような穏やかな声で諄々と語っている。
「わかったか」
「…はい」
「…ならいい」
「あの…」
 ためらうようになおも声をかける。
「なんだ」
「もう少し…ここにいてもいいですか」
 何も話さなくてもいい。自分を助け、導いてくれる人物の傍らにいたかった。その気配を側に感じていたかった。
「また風邪をひいても知らんぞ」
 低く答えがあった。
「はい」
 それきり声は途切れ、さらに研ぎ澄まされたように光る月が、二人の影を屋根に刻む。

 

 

<FIN>

 

 

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