Sanctus Sebastianus Martyr

 

「聖セバスチャンの殉教」の絵を初めて見たのはアントワープの美術館でした。裸で縛られた無防備な青年の身体にいくつも突き刺さる矢という図はなかなか衝撃的で、真摯かつ強烈な信仰の究極のカタチである殉教を描くにはこのくらいの迫力と熱情が必要なのだろうと思う一方、もしこの絵を子どものころに見たら確実にトラウマになっていただろうな、とも思ったものでした。

…が、実はこの「聖セバスチャンの殉教」というモチーフが実にエロティックな妄想の菌床であり続けたという事実を知ったのは帰国後のことでした。このあたりの細緻な分析も(興味のある方は)ご参考に。

ああ、もし長次がその逞しい肉体をさらけ出してこのような姿になっていたら…! という妄想は、この辺にしておきますw

 

 

「学園長先生、お客さまが見えてますっ!」
 どたどたと足音が近づいてきたと思うと、遠慮会釈なくがらりと襖が押し開けられた。息を切らしながら声を上げたのは小松田である。
「ふぁ~あ…なんじゃ騒々しいのう。人が気持ちよく昼寝をしておったというに…」
 ぶつくさ言いながら大川が身を起こす。
「早く起きてくださいよう…カステーラさんが見えてるんですから」
 まだ寝ぼけ眼の大川の身体を揺すりながら小松田が言う。
「わかったわかった。これから行くから、そんなに揺すらんでくれ…」

 


「学園長先生、ごぶさたしてマース」
 式台で待っていたカステーラが陽気な声を上げる。
「おや、これはカステーラさん。よく来られた」
 昼寝の邪魔ではあったが、カステーラは南蛮の最新の物資や情報をもたらす貴重な存在でもある。あまり邪険にもできない。だから大川は精一杯愛想よく応える。
「今日はカメ子ちゃんといっしょにきまシタ」
「カメ子ちゃんと? それでカメ子ちゃんは?」
 庵へつづく廊下を歩きながらカステーラが説明する。
「いろいろな人のところへ行くそうデース。しんべヱ君とか、新野先生とか、吉野先生とか、チョージ様とか」
「チョージ様?…おお、そうか。中在家長次のことか」
「そうデース! そう言ってました」
「長次は六年生の生徒じゃ。カメ子ちゃんは長次をずいぶん慕っておるようじゃからの」
「そうデスか。そのチョージ君は外国語も得意だそうデスね」
「おお、そうじゃ。わしにはよく分からんが、南蛮の書も読めるそうじゃの」
「それはスバラシイ! ぜひお話したいデース」
「それなら長次は図書室に居るはずじゃからの、いい機会じゃから会って行かれるといい。小松田君に案内させよう…おーい、小松田君!」
 足を止めた大川が声を上げる。カステーラの相手を長次に押し付ければ、昼寝の続きができると思いながら。

 


「失礼しま~す。中在家君はいますか~?」
 図書室の襖をがらりと開けた小松田が呼ばわる。
(小松田さん。図書室では静粛に。)
 文机に向かっていた長次がもそもそと注意する。
「あっ、失礼しました~。ところで中在家君にお客さまです。じゃ、失礼しま~す」
 カステーラを紹介もせずに、用は終わったとばかりに鼻歌を歌いながら小松田は立ち去った。
「あの…失礼しマース」
 廊下に取り残されたカステーラがおずおずと図書室を覗き込む。と、文机の前に座ってこちらを見上げている長次と眼が合った。
「私はクエン・カステーラといいマース。あなたが…中在家、長次クンですか?」
(…。)
 もそりと何か言いながら長次が頷いた。
 -なんだ、この重苦しい空気は…それに、この中在家長次という男、本当に生徒なんだろうか? ずいぶん老けて見えるが。頬の傷など、まるで兵士みたいだ…。
 上り框に突っ立ったままそんなことを考えているカステーラに、長次は文机の前にある円座を指す。座れということらしい。
 -私は椅子の方がいいのだが…。
 ないものは仕方がないので、苦労して脚を折って胡坐をかく。
「中在家クンは外国語が得意だそうですね。ポルトガル語やラテン語も?」
 文机に肘をついてカステーラは訊く。
(話したり、書いたりすることは苦手ですが、読むくらいなら…。)
 円座は文机をはさんで長次の向かいにあったので、今度は長次が何を言っているか聞き取ることができた。
「ほう。それはすごいデース。どんな本を読むのですか?」
(火器や医術、戦術、南蛮の国の情勢などです。)
「なるほど。とても実践的な本を読むのデスね」
(…。)
 もはや長次は応えない。
 -カメ子ちゃんはずいぶんこの男を好きなようなことを言っていたが、こんな無愛想な男のどこがいいのか私にはさっぱりわからない…。
 会話が途切れ、長次はまた手にしていた書に眼を戻している。カステーラもその書をちらと見やる。
 いま長次が読んでいるのはポルトガル語やラテン語ではない、縦書きでなにやら書かれた本である。
「何を読んでいたのデスか?」
 場つなぎになにか話さなければと思ったカステーラが訊く。 
(義経記です。)
「ギケイキ?」
(昔の武将の話です。武士の世をつくるために平氏と戦った源義経の生涯の話です。)
 もそもそと口を動かして長次が説明する。
「あなたが好きな登場人物は、その義経という人デスか?」
 内容は全く見当がつかなかったが、何かの小説らしいと見当をつけて訊く。
(いえ。弁慶です。)
 短く確固とした答えに、カステーラは軽く眉を上げた。
(主君である義経に知力、腕力を尽くして仕えたのが弁慶です。どんな逆境でも忠誠を貫き、大勢の敵を相手に最後の一人となっても闘い、敵の矢が無数突き刺さったままの姿で立ちはだかりながら主君を護って死にました。)
「…」
 重苦しいオーラを放ちながら陰鬱な話を聞かされたカステーラは気が滅入ってきた。
 -たしかにこの男には向いた登場人物に違いない。だが…。
 ふと思いついたカステーラは、ポケットから聖書を取り出した。
「そのベンケイとかいう人の最期は、こんな感じだったのデスか?」
 ページの間に挟み込まれていた折りたたんだ紙を広げてみせる。長次の眼が大きく見開かれた。
 それは鮮やかな色合いの版画だった。背後の柱に、裸の青年が縛りつけられていた。そしてその身体にはいくつもの矢が刺さり、身を捩じらした青年の視線は天を振り仰いでいる。眼をそむけたくなるようなむごたらしい光景だったが、なぜか視線を奪われた。
「これは聖セバスティアヌスの殉教図デース。聖セバスティアヌスはローマの軍人でした。しかし、当時は禁じられていたキリスト教を広めたために、このような刑を受けたのデース」
(…。)
 長次の眼は、版画に吸い寄せられたままである。
「実は、この刑を受けても聖セバスティアヌスは亡くなっていませんでした。聖イリーネの介抱で元気になったのですが、またキリスト教を広めようとしたので、今度こそ本当に殺されてしまいました。聖セバスティアヌスは軍人や伝染病よけの守護聖人としてとても人気がありマース。この版画も、マラッカの守備隊長にもらいました」
(…。)
 しばし版画を見つめていた長次だったが、やがて元通りにたたむと、カステーラに手渡した。
(お返しします。)
「いいのデスか?」
(あなたを守るためのものならば、お持ちになっていた方がいいと思います。)
 おや、とカステーラの眼が一瞬見開かれた。思ったよりも考え深い言動の主であるように見受けられた。
「そうデスか。ではそうさせてもらいましょう」
 カステーラは再び聖書を取り出すと、紙片をはさみこんだ。
「もうすぐカメ子ちゃんが来るでしょう。私は学園長先生のところに行ってマース。今日は君と話すことができてうれしかった」
 立ちあがりながらカステーラが言う。と、ふたたび自分に顔を向けた長次の口が動いた。
(Obrigado.)(ありがとうございました。)
 たしかに、そう聞こえた。にっこりしたカステーラが答える。
「De nada.Ate breve.」(こちらこそ。また会いましょう。)

 


「…。」
 カステーラが立ち去り、図書室にひとり残された長次は、ふたたび文机に向かって本を読み始めた。だが、少しも読み進められなかった。
 つい先ほど眼にしたヴィジョンが、まだ鮮烈に意識に焼きついていた。それは、いつの間にか、弁慶の最期のシーンと重なっていた。
 

 黒羽、白羽、染羽、色々の矢共風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるるに異ならず。

 

 義経記は矢を全身に受けた弁慶の最期を情緒的にすら描く。矢傷は焼け付くように痛むのに、武蔵野の秋風のように吹き抜ける風は、肌を伝う血や汗に冷やりとしたさやけさをおぼえさせるだろう。
 -私は、そのような死に耐えられるだろうか。
 それは、おそらくそのような死をあえて受け入れるほどのものを、自分は持ちうるか、ということなのだろうと長次は考える。
 -弁慶にとっての忠義、聖セバスティアヌスにとっての信仰に値するものは、あるのだろうか。
 それは、まったく思い当らないことはないように思えた。自分のこの肉体がどんなに責め苛まれようとためらわない何かは確かにあるはずだった。ただ、今はそれが何かを説明することはできないだけだった。
 -今はそんなことを考えている場合ではない。それより書庫の未整理本のカードを作らねば…。
 実のところ、書庫の一角に積み上がっている未整理本の図書カードを作るために来たのに、ふと手に取った義経記をつい読みふけっていたのだった。

 


 ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。その足音は、決して小松田のようにいきなり襖を押し開けるような真似はしないだろう。長次が知っているその足音は、まだ幼いながらあるべき立ち居振る舞いといものを心得ている者だから。
「しつれいいたします」
 一呼吸置くような間ののち、遠慮がちな声とともに襖がそっと開かれた。
「図書室にいるとうかがいましたので、おじゃまかとおもいますが…」
 そう言いながらも現れたカメ子の表情は期待に輝いている。
「…。」
「あの、中在家さまに、お菓子をおもちいたしました」
 傍らに置いた包みを解きながら、カメ子は上気した顔で続ける。
「わたくし、中在家さまにお会いできるのがうれしくて、昨日の夜は眠れないかとおもったほどうきうきしていました…でも、眠れてよかったとおもいます。中在家さまの夢を見られたのですから!」
「…。」
 どのような夢を見たというのだろう。興味を引かれて思わずカメ子を見つめる長次だった。
「中在家さまは、わたくしをピクニックにつれていってくださいました。きれいなお花がたくさんさいていました。いっしょに走ったりわらったり、あと中在家さまが肩車をしてくださいました。高いところに咲いた花をつめるように、と」
 視線に気づかないようにカメ子は続ける。と、現実に引き戻されたように長次を見上げる。のっそりと長次が立ちあがったから。
(図書カードの整理があるので、少し待っていてほしい。)
 もそもそと言い残して、長次は書庫へと向かった。

 


 未整理の本を書庫から持ってこなければならなかったのは事実だったが、それだけならあえてカメ子の話の腰を折ってまでやらなければならないことではなかった。実のところ、カメ子の夢の話をイメージしただけで猛烈に照れくさくなって、その場を立たずにはいられなかったのだ。
 考えただけで顔が火照る思いがする。この無骨な自分が、カメ子のようないとけない童女と花畑で戯れるなど。
 せっかく自分と会うのを楽しみにしていたカメ子を一人にするのに気がとがめないわけではなかった。だが今は、ともすれば暖かいものに蕩けそうになる自分の心を立て直すのが精いっぱいだった。それは長次がいままで自分に課してきた冷徹とか峻厳とかいうものからはもっともかけ離れた感情だったから。
 -私は、何を考えているのだ…!
 苛立ちに近い感情を発散させるように重たい本の束を運んで文机にどさりと積み上げる。心を鎮めるように墨をすりながら、余計な感情を忘れようとする。その傍らにちょこんと座りこんで草紙を読み始めるカメ子がちらと視界に入ったが、構わず筆を動かし始める。

 


「…。」
 かくりと傾いたカメ子の頭が筆を持つ肘に当たって、長次は手を止めた。草紙を読んでいるうちに眠くなったらしい。前の晩もあまり眠れなかったようなことを言っていたし、学園までの道中で疲れたのだろう。意識が半ば飛んで上体がゆらゆらしている。
 -そういえば、カメ子ちゃんは私をこわがらない…。
 自分のすぐ傍らで眠りかかっているカメ子を、たとえば図書委員会の後輩たちが見たらなんと言うだろうか。自分の面構えや放つオーラに恐怖を感じるという後輩たちが自分の前で居眠りする姿など、彼らにも当の長治にも想像がつかない。
 文机の上で開かれていた草紙のページに載っていた指がするりと滑り落ちた。ゆらりと傾いた身体が長次の太腿に寄りかかったところで止まった。
「カ…」
 声をかけて起こそうとしたが、ふと声を呑み込む。安心しきったような寝顔に、眼が吸い寄せられる。いまや背を丸めて横になり、長次の太腿を枕に眠るカメ子は小さく寝息を立てている。
 -起こさずにおこう…。
 陽が雲に隠れたのか、図書室の中がふいに薄暗くなってしんと冷え込む。カメ子を起こさないようにそっと制服の上着を脱いで、小さな身体に着せかける。露わになった腕が冷えた空気にさらされるが構わなかった。
 もぞと小さく身体を動かしたカメ子の表情に笑みが浮かぶ。何やら言うように唇がかすかに動く。
 -楽しい夢でも、見ているのだろうか…。
 自分が登場する夢を見たと楽しげに語る様子を思い出す。夢の中で自分がどういう表情をしているのかは想像もつかなかったが。
 窓から風が吹き込むのか、襦袢一枚の身体は冷えたが、太腿のカメ子の頭が載っている部分だけは暖かい。また少し身体を動かして、小さな指先が制服の袴を軽く握る。
 -そうか。私が護りたいのは、そのために殉じてもいい存在とは、これなのだ。
 次の瞬間に考えたことだった。
 小さいもの、かよわいもの、無邪気なもの。それを護るためなら、弁慶にも、聖セバスティアヌスにもなろう。自分が守るべきものは、忠義でも信仰でもない、この小さく暖かいものなのだ。
 ろくな話し相手にも遊び相手にもなってやれない自分ができることは、この身を挺してでも護ることだけだったから。

 


 -これは…?
 軽い圧迫感を感じてカメ子の意識がゆるゆると戻る。
 -背中になにかあるのでしょうか…?
 意識が戻るにつれ、背中に覆いかぶさるずっしりと重い麻の服の感覚をおぼえはじめる。
 -このにおいは…?
 眼を閉じたまま、誰が服を着せかけてくれたのだろう、とぼんやりとした意識の中で考えたとき、不意に鼻が持ち主をかぎつけた。
 -これは…中在家さまのにおい…!
 そのとき、ようやく自分が誰かの足を枕にしていることに気付く。
 -これはひょっとして…。
 うっすらと眼をあけて確かめる。眼の前にあるのは、憧れの人物が着ている緑色の袴である。
 -そうだわ。中在家さまのとなりで草紙をよんでいて、きっとそのままねむってしまったのだわ…。
 ということは、自分が顔を載せているのは、憧れの人物の足ということになる。
 -そんな! わたくしが中在家さまのおみ足にふれているなんて…!
 あらゆる意味ですぐに離れるべきだと考えた。だが、身体は動きを拒否していた。
 -だって、こんなにあたたかいのですもの…。
 発達した筋肉の存在を知らせるように、長次が小さく身じろぎするたびに硬く締まったものが袴の下で波打つ。
 -でも、こんなことをしていたら、中在家さまのお仕事のおじゃまになってしまうわ。
 それでもなお去り難い想いで長次の太腿に頬を押し付けているカメ子だった。

 


「失礼しま~す! あ! やっぱりカメ子ちゃんここにいた!」
 がらりと襖を開けて声を張り上げるのは小松田である。
(小松田さん、カメ子ちゃんは寝ている…)
 慌てて長次が言いかけたとき、カメ子の身体が小さく動いた。そしてもぞもぞと上体を起こす。
「あ…中在家さま」
 しょぼしょぼとした目つきは、まだ半ば眠っているようである。だが、ずかずかと入ってきた小松田は、構わずに続ける。
「カメ子ちゃん、カステーラさんがお呼びですよ。学園長先生の庵でお待ちですから、早く行きましょう!」
「は、はい…では、しつれいいたします。あの、お菓子はみなさまでめしあがってくださいませ。では…」
 小松田の声にせっつかれたカメ子は、あたふたと荷物をかき集めて立ちあがると、ぺこりと頭を下げて立ち去った。

 

 

 再び図書室に独り残された長次だった。
(…。)
 作業を再開しようと思った。だが、その気になれなかった。眼は、まだカメ子の頭があった辺りに注がれている。ほんの小さな身体だったが、いなくなったあとはぽっかりと大きな穴があいたように空疎さを感じた。
 -私は、惑っているのか。
 一人になって、ようやく少し冷静に考えられるようになった。
 -だが、私が守るべきもの、殉じるべきものは、まぎれもなくあの小さな存在なのだ…。
 聖セバスティアヌスの殉教図がちらりと脳裏を過ぎる。
 一方で冷静な思考は考えずにはいられない。今の自分は、慣れないあからさまな好意に舞い上がっているだけではないのかと。
 -それでもいい。
 黙って筆を動かし続けながら結論付ける。
 -それが好意であり続ける間は、いつでもこの身を捧げよう。私にできることは、そのくらいしかない…。
 ふたたび陽が出たらしい。高いところにある格子窓から差し込む光が図書室の床を照らす。まぶしげに陽を仰ぎ見る視線が聖セバスティアヌスと同じものになっていることに、長次は気付かない。

 

 

<FIN>

 

Page Top