ある風の日に

 

風の強い日は、なんとなく心がざわつくものです。つい余計なことを考えたり、昔のちょっとした出来事を思い出したり。それもあまりポジティブな内容ではなかったりすることが多かったりして。

ちなみに天気と病理の関係を論じる気象医学という学問があるそうです。天候や気温、気圧の変化が心身に与える影響は、思った以上に大きそうです。

 

 

 -急がないと…。
 強い風に砂埃が舞い上がる校庭を早足で移動しているのは伊作である。その手にはトイレットペーパーが山と抱えられている。
 -明日からの演習の準備もしないといけないのに…。
 今日はケガ人が多く、医務室は大忙しだった。伊作も校医の新野とともに次々に訪れるケガ人の対応に追われていた。そして治療が一段落すると、手伝いに数馬と左近を残して一年生たちとともにトイレットペーパーの補充に駆け回っていた。
 -風が強いな…。
 砂埃を巻き上げながら、いま、つむじ風が伊作を襲う。
 -おっと。
 慌てて眼を閉じながら踏み出した足が、ふいに宙に浮いた。
 -え…!?
 


「いててて…」
 気がつくと伊作は深い穴の底にいた。
 -まいったな…この忙しいときに落とし穴に落ちるなんて…。
 高いところにぽっかりと空いたところから、抜けるように青い空が見えていた。風の音も途絶えて穴の中はしんと静まり返っていた。
 -それにしても、ずいぶん深く掘ったもんだな。
 穴に落ち慣れた伊作には、この穴が誰の手によるものかすぐに分かった。
 -学園内は競合地域だから必ずマークを置くはずなんだけど…この風で飛ばされちゃったのかな。
 苦笑いしながら、まずは体の周りに散らばっているトイレットペーパーを穴の外に投げ上げる。両手を空ければ、苦無でよじ登ることもできるだろう。
 -昔はそんなこともできずに、穴の中で泣いていたっけ…。
 腕力も技能もなかった頃は、どうすることもできずに穴の底にうずくまって泣くしかなかった。あるいは膝を抱えてぽっかり空いた穴から高い空を見上げることしかできなかった。穴の入り口に最も親しい友人の顔がのぞいて、助け出してくれるまでは。
 いつしか、何かを探すように穴の入り口に視線を漂わせている自分に伊作ははっとする。
 -何をやっているんだ…僕はもう、ひとりでやっていけるはずなのに…。

 


「よし、あの洞穴で野営する」
「はい」
 夕闇が迫っていた。五・六年生の合同演習でペアを組んだ留三郎と勘右衛門は、演習場の森の中に見つけた洞穴で野営することにした。
「風が出てきたな」
 薄暗さを増す空を見上げながら留三郎が呟く。
「雨が近そうですね」
 勘右衛門も空を仰ぎ見る。上空を速いスピードで流れる雲が急速に分厚さを増していた。強く吹きつける風も湿り気を帯びている。
「…他のチームはどう出るでしょうか」
 少しばかり強い雨になりそうだと思いながら勘右衛門がひとり言のように言う。
「降りかたにもよるだろうが、雨の夜間の行動はリスクが高い。気配は消しやすいだろうがな」
 ぼそっと留三郎が答える。「だが、ひとつ覚えておくといい」
「何をですか?」
「長次に聞いたことがある。このように強い風が吹いて急に天気が変わるときは、気圧が大きく変わるときなんだそうだ。気圧の変化は人間の心身に影響を与えることもあるらしい」
 外に背を向けて洞穴の中に向かって歩きながら留三郎が語り出した。
「といいますと」
 傍らをついて歩きながら勘右衛門がちらと横顔を見上げる。
「体調が変わり、気分が不安定になると、人は時として正常な時とは異なる判断や行動を取ることがある。こういう天候のときもそうだ。敵がいつもと違うような行動を取ったとき、その原因を判断するひとつのヒントとなるだろう」
「なるほど」
 忘れないようにしよう、と思いながら勘右衛門は大きく頷いた。そして、ふと思いついて訊いた。「それでは、これから攻撃を仕掛けてくるチームもあるかもしれないということですか?」
「そうだな。すべてのチームが合理的な判断をするとは考えない方がいいだろう。特に小平太のチームは要注意だ。まあ、アイツは天気がどうあれ何を考えているかまったく分からんがな」
 小さくため息をつくと、留三郎は足を止めてどっかと胡坐をかいた。「よし、ここで休むとするか」
「はい」

 


 懐の忍者食を水筒の水で流し込むと、もうやることはない。洞穴の壁に寄りかかりながら腰を下ろした留三郎は、入り口から辛うじて届く明るさを頼りに忍具の手入れを始めた。傍らで勘右衛門も忍具を手入れすることにした。
「さっきの攻撃は、きっと文次郎だな」
 手裏剣を磨きながら、留三郎はぼそっと言った。
「あの、藪から急に煙玉を投げつけてきたやつですか?」
 勘右衛門は意外そうに顔を上げた。あの手の火器を使うのは仙蔵だとばかり思っていたから。
「ああ…あれは仙蔵の攻撃に見せかけているが、間違いなく文次郎だ」
 洞穴の中に吹き込んでくる風が、精悍な横顔にかかる前髪を揺らす。その視線は、手元の手裏剣に注がれたままである。
「どうして、そう思われたのですか?」
「文次郎も仙蔵も、攻撃に踏み込む前に一瞬相手の動きを読むために間を取る癖がある。あの間の取り方は仙蔵じゃない。文次郎のものだ。仙蔵だったらもう少し長く間を取る」
 淡々と語る留三郎に勘右衛門は眼を丸くした。
 -そんな微妙な間で相手がわかるものなのか…。
 これが、五年生と六年生の違いというものなのだろうか。たった一年の違いだが、ここまで途方もなく大きい差なのだろうか。勘右衛門はうつむいて手にした棒手裏剣に眼を落とした。
「どうかしたか」
 ぽつりと留三郎が訊く。
「いえ…」
「ん?」
 何か言いかけた勘右衛門に、軽く続きを促す。
「なんというか…先輩たちのお背中は遠いなって思ったものですから」
「なんだ。そんなことか」
 笑ったりごまかしたりするでもなく留三郎はぼそりと言う。
「そんなこと…ですよね」
 苦笑しながら勘右衛門は気付かれないようにため息をつく。
 -そうだよな…先輩から見れば『そんなこと』だよな。何言ってんだろ俺…。
「何がおかしい」
 不意に真剣になった留三郎の口調に、勘右衛門がびくっとして顔を上げる。
「みんなそうだった…たった一年しか違わないのに、どうしようもなく大きい差があって、でもそれを乗り越えようと必死で鍛錬してきた。お前だってそうだったろ」
「…はい」
「お前が俺たちを遠く感じるように、後輩たちはお前たちの背中がどうしようもなく遠くに見えるはずだ。それは、お前たちがこの一年、きっちり鍛錬してきた証拠だ」
「四年生たちも、そう思っているでしょうか」
「四年生たちか…アイツらはちょっと違うかもな」
 留三郎はくっと笑った。食満先輩も笑うんだ、と勘右衛門は思った。

 


「先輩、ひとつ教えていただいてもいいですか」
「なんだ」
 ふたたび忍器の手入れをはじめながら、2人はぼそぼそと声を交わす。
「先輩は、善法寺先輩と同室でしたよね」
「ああ。それがどうした」
「いえ、その…」
 その続きをどう言葉にすればいいものやら判断がつきかねて、勘右衛門は口ごもる。
「どうした」
「その…食満先輩から見ても、善法寺先輩は不運なんでしょうか」
「伊作が…不運?」
 手を止めた留三郎が考え込むように視線を上げる。
 伊作が不運かどうかと言われれば、考える余地もなく答えはイエスだろう。だが、一番身近に伊作を見ている留三郎には、単にそうと言い切れないものも感じていた。そもそも、今さらなぜ勘右衛門がそのようなことを改まって聞いてくるのだろうと考えた。
「たしかに、伊作は不運だ。だが、俺にはそれだけとも思えない」
 少し考えた後に留三郎が口にした答えだった。
「そうなんですか?」
「アイツは医術が得意だ。そして、俺の見るところ、アイツが治療をしているときには、アイツは決して不運なんかじゃない。だから…」
 言いながら留三郎は数日前の自室でのやりとりを思い出していた。

 


 ごりごり…と低い音が部屋に響く。先ほどから伊作が薬研で何かを砕いている。いつもの光景だった。真夜中であることを除けば。
 衝立の向こうでは、留三郎が布団を引き被っていた。布団の中で耳を押さえている。だが、衝立の向こうの音は、床板を伝って容赦なく響いてくる。
 ついに限界に達した留三郎は、やにわに立ち上がると衝立に手をかけて怒鳴る。
「伊作! こんな夜中に薬研なんかつかうんじゃねぇっ! やるなら医務室でやれよ!」
「ごめん留三郎。でも分かってほしいんだ。僕たち保健委員は予算がなくて…」
 顔を伏せて薬研を動かす手を止めずに伊作は言う。その口調は棒読みの如く平たい。
「ああ分かってる。その話は何度も何度も何度も何度も聞いたからな。よし、俺が手伝ってやる」
「本当かい?」
 眼を輝かせた伊作が顔を上げる。
「で、俺は何をすればいいんだ」
 衝立をまわりこんできた留三郎が訊く。
「そうしたら、こっちの薬研で薬をすりつぶしてほしいんだ」
 いそいそと伊作は物陰からもうひとつの薬研を取り出す。
「これだな。で、どのくらいすりつぶせばいいんだ?」
「これ全部」
 伊作は、骨格標本のこーちゃんの影にあった袋をずしんと置く。
「な、なんだこれは! 五斤(3キログラム)はあるじゃねぇか!」
「そうなんだ。実は、新野先生のお知り合いの医者から、煎じ薬作りのアルバイトを頼まれてね。明日までに大量の煎じ薬を処方しないといけないということなんだ」
「明日までだとっ!!!」


 いつからだろう。この定式化したやりとりを経て、伊作の手伝いをするようになったのは。
 薬研をつかいながら留三郎は考える。
 なるほど、自分で認めているとおり、伊作は不運だった。演習に出れば、伊作の持つロープは必ず切れ、飛び移った枝は折れ、足を踏み出せば何かのフンを踏んづけた。学園にいても後輩の掘った落し穴にはまり、床の上に置いた紙に足を滑らせ、予算は真っ先に削られた。それでも伊作は困ったような笑顔を見せながら、「仕方がないな」と言うのだ。たとえどんなにボロボロになっていても。
 そんな伊作を間近で見ているうちに、留三郎は、伊作の不運はどうやれば軽くなるのだろうと考えるようになっていた。そして、いつしか自分が守ってやれば、それはできるのではないかと思い至っていた。
 -あれは二年のころだったか…いや、一年のころだったかな。
 薬研を動かしながら、留三郎は記憶をまさぐる。
 どんなきっかけがあったのかはもはや憶えていない。だが、その日、留三郎は決めたのだ。どんな奴であろうと、伊作に手を掛ける奴は俺が叩きのめしてやると。たとえ、相手が運命とかいうものであったとしても。

 


 むすりと考え込む留三郎の横顔を勘右衛門がうかがう。
「そういえば、先輩は、善法寺先輩の不運がうつってるといわれてますが」
 留三郎の横顔にはしった意志の所在を読み切れなかった勘右衛門だったが、ふと思いついたことだった。
「まあな」
 短く言い切る留三郎に、勘右衛門は眼を見張る。
「いいん、ですか…?」
「いいも悪いも、俺が決めたことだ。アイツの不運を少しでも減らしてやるために、俺が食い止めてやろうと決めた。少しぐらい不運が移ったって、ちょっとした向う傷みたいなものだ」
「…」
 -さすが武闘派といわれる食満先輩…相手がなんであろうと戦っちゃうんだ…。
「…だから、お前みたいな巻き込まれ型不運とはわけが違う」
 続いて留三郎の口をついて出た言葉に、勘右衛門は一瞬、意識が空白になった。
 -え…なんでここで俺が出てくる? というか、先輩もどう見たって巻き込まれ型不運としか見えないんだけど…。

 


「先輩、用心縄を張ってきました」
「ご苦労さま」
 同じころ、森の中で野営することにして陣幕を張っていた伊作のもとに、三郎が戻ってきた。
 -まあ、木の上から襲われるときには、用心縄など役に立たないけどね。
 なぜこのような場所に野営するのかまったく理解できない三郎は、さすがに口には出さないものの心の中でぼやく。そもそもこんな森の中で野営しようと言い出したのは伊作だった。
 -それに、こんな強い風で梢がざわざわ鳴っているのだから、敵が近づいて来ても分からないじゃないか…!
「六韜(りくとう)の奇兵編にあるだう? 深草蓊蘙(おうえい)たるは遁逃する所以たり、つまり、草木が生い茂ったところに布陣するのは、退路を確保するのに都合がいいからってね」
 三郎の不満を読み取ったように伊作が説明する。
「同じ奇兵編に、山林茂穢(ぼうあい)なるは往来を黙する所以なりともいってますよね。山林の密生したところに布陣するのは、軍の動きを読まれないためだと。ま、それは大軍を動かすときの話ですけど」
「さすが三郎。よく勉強しているね」
 さりげなく褒めながら、伊作はにっこりする。
「でも、どうせなら守りを固くできる要地に布陣する方がいいのではないかと思いますけど」
 なお不服顔で三郎が言う。
「だが、分かっているだろう、三郎。守りを固くできる地は、退却には不向きなんだよ」
「まあ、そうですけど」
 不承不承に三郎が頷く。
「敵はまず誰をつぶしにかかってくると思う?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら伊作が訊く。
「さあ…それはチームによって判断が分かれるのでは?」
「違う。僕たちさ」
 これ以上もない爽やかさで言い切る伊作に、三郎は軽い戦慄をおぼえた。もっともそれは、雷蔵の仮面の下のほんの微かな表情の揺れに過ぎなかったが。
「どうしてそう思われるのですか」
 動揺を隠すために、あえて平板な声で訊く。
「分かっているだろ? 僕が一番片づけやすいからさ」
 半ば予想していた答えをあっさり口にする伊作に、三郎は改めて戦慄を覚える。
 -どうして、この人は、こんなに自分を突き放したような言い方ができるんだろう…。
「ひとつ覚えておくといい。退却しやすいということは、次の局面での展開もやりやすいということなんだ。守りが固く、それゆえ退却できないということは、その場を守るしか選択肢がない。だが、僕たちは忍だ。何が何でも生きて任務を果たさなければならない。そのためには、退路を確保し、新たな局面で主導権を握ることを常に考えなければならないんだよ…そら、来たようだ」
 三郎が気付くより一瞬早く、伊作は自分たちに迫ってくる気配を気取ったようである。
「おっと」
 素早く木の枝の上に身を潜めた三郎より、伊作の動きが遅れた。
 -先輩、わざとだな…。
 三郎を先に逃がして、敵を引き付けるつもりなのだろう。果たしてびゅんと風を切って飛んできた微塵に足を取られる一瞬前に、手にしていたトイレットペーパーを巻かせている。次いで、ひらりと身をかわす。次の瞬間、縄鏢が背後の木の幹にとす、と刺さる。身を翻らせながら、伊作が手にした袋から何か粉のようなものをまき散らす。折しも吹き抜けた風に粉がぱぁっと広がる。
 とっさに、何か危険な薬だと三郎は感じた。これは実戦形式の演習である。下手をすれば相手を殺傷しかねない。実戦と同じ武器を使い、本気で勝負するのだ。当然、伊作が持ち歩く毒薬も、敵襲と同じものに違いない。
「先輩!」
(退け!)
 物陰からうわずった声が上がる。この投擲武器コンビは長次と八左ヱ門である。
「三郎、こっち!」
 不意に風向きが変わった。まき散らした粉の一部がこちらに流れてくるかもしれない。そう思った次の瞬間、三郎は伊作の声のした方に向かって一目散に枝を蹴っていた。

 

 

「先輩、何をしているのですか」
 雲間に残る薄明りが木の間から漏れている。その光を頼りに何やら数えたりしている伊作に、声をかける。
「ああ、必要な膏薬や包帯があるかを確認しているんだ」
「さすが…保健委員長ですね」
 長次と八左ヱ門の襲撃を逃れた伊作たちは、ふたたび木陰に宿っていた。
「まあね。こういう演習ではどんなケガ人が出るか分からないから」
 包帯の数を数えながら伊作は答える。
「そういえば、さっき、伊作先輩は、私たちが最初につぶしかかられると仰ってましたが…」
「ああ、そうさ」
「それって、やはり…」
「そう。やはり僕が一番つぶしやすい相手だということなんだろうね」
 ひい、ふう、みい…と膏薬を数えながらあっさりという伊作に、三郎は言葉を失いかけながらも言わずにはいられない。
「でも、先ほど先輩もすごい反撃をされていたではないですか」
「ああ、あれかい?」
 苦笑しながら伊作は続ける。
「…あれは、霞扇につかう眠り薬さ…もっとも、本物は効き目が強すぎるから、すこし弱くしてあるけどね」
「でも、この演習は、本気で勝負するべきものでは…」
「そりゃそうなんだけどね…」
 伊作は当惑したような笑みを浮かべる。
「僕たちは所詮は忍たまだ。どんな忍具を使ったって、勝負は知れている。だけど、毒薬や火薬は違う。その効果は容赦ない。だから、演習用に効果を抑える必要がある。仙蔵も火薬をいろいろ持ち込んでいるはずだろうけど、きっと火力を抑えているはずだ。それは、僕たちなりのけじめなんだ」
「そんなもんなんですか…」
「そうさ」
「でも、食満先輩や潮江先輩は、きっと本気でかかってくると思いますが」
 得意武器を振りかざした2人の姿を思い浮かべる。
「そうかもね。あの2人はまじめだから」
 伊作も否定しない。
 -だけど、留三郎は、最後はきっと手加減してしまうだろう。忍として、そんなことは許されることではないのに…。

 


 -いつからだろう。留三郎に庇護されるようになったのは。
 薬研をつかいながら、伊作は考える。
 もはや、いつの頃からは分からない。だが、忍術学園に入って、留三郎と同室になって、そしていつの間にか、留三郎は自分の楯として振舞うようになっていた。
 それが何に対しての楯なのか、伊作にもよく分かりかねるところはあったが、ともあれ留三郎はまだ身体も小さい低学年のうちから、自分を守ってくれていた。それは確かなことだった。
 -だが、自分は、それに狎れてしまっていた。
 苦い思いに伊作は奥歯をかみ締める。そして、そのような思いは初めてなのだと改めて考える。
 思えば、生まれ育った広壮な屋敷で、誰からも守られることなく、あてがわれた役割をこなすことだけを期待されて生きてきた。畳敷きの座敷を絹の衣装の裾を引きずりながらいざり歩き、その顔には白粉を塗られ、鉄漿で歯を染め、頬に紅さえさされた格好を余儀なくされていた。
 -あの頃は…。
 屋敷の外の生活を知らなかった頃の自分を思い出すと、伊作はいつも胆汁が逆流するような内臓が焼けつく感覚に顔をしかめずにはいられなかった。まちがいなく、あの頃の自分は、意思を持つことを許されない動く人形でしかなかった。
 今の自分は、狭く殺風景な板敷きの部屋に、麻の忍装束の制服をまとって生きている。だが、そこには留三郎が、仲間たちがいる。そして、自分で切り開いていくことができる曠野が目の前に広がっている。それは、初めて自分の意思で歩くことを許された大地だった。そして、その地を歩むための知恵を、忍術学園で学んできたのだ。なぜなら、それはとても危険な地でもあったから。
 六年間という長い時間を学んだいま、伊作にははっきりと見えている。一人曠野に踏み出す自由も、そのために支払うべきコストも。
 -だからこそ、もうそろそろ終わらせなければならないんだ。留三郎に守られるような関係は。
 それなのに、穴の縁から顔をのぞかせて、腕を差し伸べてくれる留三郎を待っている自分がいるのだ。そうして、穴の底で膝を抱えて、物欲しげに空を見上げている自分がいるのだ。

 


「伊作先輩は、不思議なお人ですね」
 ころころと転がってきた包帯を拾って、掌のなかでいじりながら、三郎はつぶやく。
「そう? どこがだい?」
「先輩はなにをやってもうまくできる…そう私には思えるのに、六年の先輩方はあまりそう思ってらっしゃらないようだし、伊作先輩ご自身もそうです」
「そんなことないさ」
 中身を確認した薬壺の蓋を、ふたたび紐でゆわえる。その顔は壺に向けられているようにいささか伏せているが、その視線がどこを向いているのか、豊かな前髪に隠れて三郎には見分けられなかった。
「僕ほど忍に向かない者はいないし、僕にもそれは分かっている…六年の連中も、先生方も、他の城の忍からも言われてるのにね」
 -他の城の忍って、あのタソガレドキのホータイ野郎か…。
 頭巾と包帯の間からのぞく、あの人を舐めきった隻眼に、苛立ちがよみがえる。
「でも、今の六年生の先輩たちの中で、一番最初に人を斬ったことがあるのは伊作先輩だと…」
 気を取り直した三郎が続ける。その言葉に伊作の肩が鋭く反応する。
「…たしかに、僕は、学年で最初に人を斬った。その命を奪った。それは事実だ」
 伊作の声が平板になる。
「それも、心臓を一突きだったとか」 
 -やめてくれ!
 頭を抱えて叫びだしたい衝動を辛うじて抑え込みながら、伊作は別の薬壺の紐を解く。
「そんなことを三郎に話したおしゃべりは、誰なんだい?」
「立花先輩です」
「仙蔵か…意外におしゃべりなんだな」

 


 強い風が梢を揺らす夜だった。四年生だったあの夜、自分たちは実習で、行軍訓練に出ていた。そして、たまたま演習中だったある城の忍者隊と遭遇してしまったのだ。
 四年生では、まだ本格的な戦闘訓練はほとんど行わない。これが五・六年生なら、ひとまず戦って食い止めつつ逃げるところだが、体力的にも大人を相手に戦うには無理があるから、何かあればすぐに逃げ帰るよう教師たちから注意を受けていた。
 後衛をつとめていた仙蔵が、走りながら背後に煙玉を投げつけようとする。点火しようとして一瞬手元に注意を奪われ、足が遅くなった瞬間を追っ手は見逃さなかった。敵の手から放たれた投げ縄がその足を捉える。地面に身体を投げ出された仙蔵が、苦無で縄を切ろうとするが、その間に敵の影が迫る。ようやく縄を切って立ち上がろうとしたときには、すでに相手は手を伸ばせば自分の身体を捉えられるところまできていた。刀を大きく振り上げたシルエットが覆いかぶさる。
 -やられる!
 思わず眼を閉じた。そのとき、眼の前を誰かが駆け抜けた。その気配は、とても馴染んだ、そしてこの場面では、いちばん意外なものだった。
 -伊作!?
「ぐっ!」
 覆面の下からうめき声が漏れる。はっとして振り返った仙蔵の眼に入ったのは、地面を蹴って、身体ごと相手にぶつかりながら、正確に心臓の位置に刃を突き立てた伊作の姿だった。スローモーションのように相手の身体がのけぞりながら倒れる。伊作が刃を抜くと、大量の血が噴き出すのが、月明かりの下で黒い噴水のように見えた。
 眼前で展開するあらゆる意味で非現実的な光景に呆然と立ち尽くしていた仙蔵の手をぐっとつかむと、ものも言わずに伊作は駆け出した。その影を、雲が吹き払われてこうこうと冴え渡る月が照らし出す。


 -離れたところから斬りかかる場合、心臓めがけて刀を突き立てても、うっかりすると肋骨に当たって刃が折れるリスクがある。伊作は、刃を寝かせて相手に突き立てていた。それは、肋骨の隙間を抜けることを狙っていたからでもあったし、その先に心臓がある位置を正確につかんでいたからでもあったのだろう。あの瞬間、そこまで判断して敵に斬りかかるというのは、並みの判断ではできないことだ。伊作が忍に向かないと言い切れないのは、それが理由だ。
 いつか、仙蔵が自分たちに語ったことを、三郎は思い出していた。 


 -そんなことはない! 
 伊作は奥歯をぎりと噛みしめる。
 -たしかに僕は一撃で敵を倒した。だが、何も感じなかったとでも思っているのかい…?
 その夜、学園に戻った伊作は、血まみれの忍装束を脱ぐことも、乾いた血がこびりついたままの刀を離すこともできなかった。長屋の自室に戻ってほっとした瞬間、身体の震えが止まらなくなってしまったのだ。仲間たちが言葉を尽くし、手を尽くしてもむだだった。そして、最後に同室の留三郎が言ったのだった。
「ここは俺がなんとかするから、お前たちはもう休んでいろ」
「だが、とてもなんとかできるようには見えんが…」
 うろたえながら文次郎が言いかけるが、なおも留三郎は「いいから!」と言うと、仲間たちを部屋から押し出した。
「伊作…」
 後ろ手に障子を閉じると、留三郎は痛ましそうに呼びかけた。
「…」
 刀を握って立ち尽くしたまま、全身が細かく震えている伊作は、口がこわばって返事もできずにいた。うつろな眼に、自分に向かって歩み寄る友人の姿がうすぼんやりと映っていた。と、その眼が大きく見開かれた。
 -!
 留三郎は、伊作の身体を抱きしめた。最初はそっと、そしてだんだんきつく。
 -留三郎! あぶないよ…僕は、刀を持ったままなんだよ…それに、手が震えるのが止められないんだ、君の身体を傷つけてしまうかもしれない…!
 ものも言わずに、留三郎の左腕は伊作の背をしっかりと捉え、右手は伊作の頭を抱えていた。
 -やめてくれ! 留三郎! 僕は血だらけなんだ。殺めた相手の血を体中に浴びているんだ。こんな穢い僕に触るのはやめてくれ…!
 留三郎の腕を振り切ろうとした。だが、震えが止まらない身体を動かすことはできなかった。留三郎の腕に力がこもる。頭にまわされた手に押されて、自分より少しだけ高い位置にある肩に顔をうずめながら、伊作はそのまま立ち尽くしていた。

 


「あの優秀な立花先輩がそう仰っているのに、どうしてそんなに自信がないようなことを仰るのか、私にはよく分かりません」
 三郎は立ち上がると、手にしていた包帯を伊作の救急箱に収めた。
「ありがとう」
 顔を上げた伊作が微笑む。その瞳がうるんでいる。
 -伊作先輩…いったいどうしたんですか…。
「ねえ、三郎。君ならわかっていると思うけど、忍は技だけではないんだよ」
「それはまあ、そうでしょうけど…」
 頷きながらも、三郎の口調は納得していない。
 -確かに僕は、学年で一番早く人を斬った。狙った通りに正確に、人の命を奪った。でも、そのあとの醜態は、とても忍といえるものではない…。
 あのあと、体力の限界を迎えた伊作が刀を取り落し、膝が崩れるまで、留三郎は何も言わずに抱き続けてくれたのだ。
 -結局のところ、僕は留三郎に寄りかかって、この六年間を過ごしてしまったのだ。
 つまりそれが、今こそ断ち切らなければならないものだった。

 


「ほかの連中は、伊作が忍に向かないだの不運すぎるだのと言いやがる。だが、俺は、伊作がそれだけのヤツとは思えない」
 忍器を手入れする手を休めないまま、留三郎は低く言う。
「そういえば、伊作先輩は医術の面ではすごいですからね…そうでなければ、敵の心臓を一突きにするなんてできることではないと」
「そんな話を、誰から聞いた」
「立花先輩です」
「そうか…伊作をそういう行動に駆り立ててしまったということで、仙蔵なりに負い目があるのだろうな…」
 学年でもひときわプライドの高い仙蔵が、あえてそのようなことを後輩に語るということは、仙蔵なりの自責なのだろう。
「あの時の伊作先輩の迫力は忘れられない、と仰っていました」
「そうか…」
 留三郎はその瞬間を見ていない。だが、作戦行動を終えて長屋の自室に戻ってきたときの、全身血まみれで、血糊がべっとりとついたままの忍刀を手にしたまま震えが止まらず立ちすくんでいる伊作が、ただひたすら哀れだった。口を開くこともできず、怯えた子犬のようにただ眼を見開いて震えているばかりの友人が、ひたすら痛ましかった。そして、その思いを伝えるには、ただ受け止めるしかないと思ったのだ。だから、血糊のついたままの刀の切っ先が自分の身体のすぐ側でカタカタ揺れているような剣呑な状況でも、ただ伊作を受け止めていた。この両の腕に。
「ま、伊作もやるときはやるということだ。お前もその話を聞いたなら分かるだろう」
 伊作にとっての痛みを伴う記憶は、自分の痛みでもある。そう考える留三郎にとって、これ以上伊作の痛みを探るような話はするべきではなかった。ぼそりと話を打ち切ろうとする。
「…はい。でも…」
 勘右衛門の疑問はまだ続きがあるようである。
「なんだ」
「つまりその、伊作先輩は忍者になれるのでしょうか」
「なぜそんなことを聞く」
「それは…私たち五年生にとっては、六年生の先輩のお一人おひとりがランドマークですから」
「そうか。そうだな…」
 そう言われれば、留三郎も応えざるを得ない。
「いろいろなことを言うヤツはいるだろうが、俺は伊作が忍になれないとは思わない。アイツの医術は俺たちにはないメリットにもなるからな。だが」
 留三郎の手が止まった。勘右衛門がそっとその横顔をうかがう。
「あとはアイツがそれを生かそうとするかどうかだ。そればかりは俺にも分からない」
「…といいますと?」
 おずおずと勘右衛門が訊く。
「アイツの医術はプロ級だ。新野先生が認めておられるくらいだから間違いないだろう。敵陣に医者として潜り込んで情報を取ったり、新しい毒薬を開発したりすることもたやすいことだろう。だが、アイツの医者としての心はそんな行動を許すのか、結局のところそこでアイツがどちらの道を選ぶかが、忍になれるかどうかの分かれ道だと俺は思う」
 それは六年間、誰よりも間近で伊作を見てきた留三郎の確信だった。
「厳しい…選択肢ですね」
 気圧されたように勘右衛門が呟く。
「医術の才を持ったがゆえの試練なのだろう」
 ふたたび忍器の手入れを始めながらぼそっと言う。
 -そのことでは、俺は何の役に立つこともできない…アイツがどんなに苦しんでいるかが分かるのに、俺にはどうしてやることもできないんだ…!
 そんな不甲斐なさに比べれば、不運そのものが乗り移っているといわれようが物の数でもないと留三郎は考える。
「だが、最後にはきっと、医者の道を選ぶんだろうな…」
 顔を上げる留三郎の横顔に視線が吸い上げられる。強い風にあおられる前髪と、心なしかさびしそうな表情が刻み付けられた横顔に。
 -あの、先輩…。
 声をかけようとしたまま言葉を呑み込んだ勘右衛門は、小さく開きかけた口を慌てて閉じた。
 -先輩は、それでいいのですか…?
 とっさに呑み込んでしまった疑問だった。

 


「…まったく、伊作先輩がどういうお人なのか、ますます分からなくなったよ」
 数日後、学園の校庭の木陰に五年生たちが集まっていた。寝そべっている三郎がぼやく。
「そんなに難しいお話をしたのかい?」
 傍らに座った雷蔵が首を小さく傾げる。
「ああ」
 ぼんやりとした視線を晴れ渡った空に向けながら三郎は答える。「医術にすごいだけじゃない、忍としての実力だってあるはずなのに、六年の先輩たちも本人もそのことを認めようとしない」
「んなことないと思うけどな」
 手にした団子をぱくつきながら勘右衛門が言う。「食満先輩は、伊作先輩がすごいと認めておられた。だけど」
「だけど?」
 雷蔵が訊く。その傍らで三郎が興味深そうに視線を向ける。
「…伊作先輩は忍に必要な心を持っていない、だから、最後には医者の道を選ぶのではないかと仰っていたよ」
 あの風の強い夜の記憶に、軽い戦慄が蘇る。
「でも、それなら敵の心臓を一突きなんてできるわけないと思うけど」
 勘右衛門が抑えた声で言う。
「それ、先輩が四年生だったときの話だろ? 敵に追われているときに、しかも夜なのにそんなことができるなんてすげえよな」
 寝そべっていた八左ヱ門が感心したように声を上げる。
「だからわからないって言ってるんだ」
 三郎の声に苛立ちが混じる。
「食満先輩は伊作先輩と同室だし、いちばん伊作先輩のことをよく知っていると思うけど、やっぱり忍には向かないと思っておられるのかい?」
 雷蔵が訊く。
「それがさ…食満先輩の仰ったことを思い出してんだけど、先輩は伊作先輩が忍に向くとも向かないとも仰っていなかった…ただ、伊作先輩がどう思うかだけだって」
「伊作先輩の思いが、忍に向いてないってことなのかな」
 考え深げに兵助が言う。
「でもさ、忍としての実力もあるのに忍に向かないなんて訳わかんないし。だったらなぜ学園にいるのさ」
 吐き捨てるように三郎が言う。
「…食満先輩がいるからじゃないかな」
 ぽつりと勘右衛門が呟く。
「どういうこと?」
 雷蔵が訊く。
「食満先輩が仰ってたんだ…伊作先輩の不運を食い止めるためなら、ちょっとくらい不運がうつっても構わないって」
「なるほどね…伊作先輩もそれがうれしいってことか」
 三郎が皮肉っぽい口調で言う。だが、すぐに厳しい表情で続ける。「でも、ちっとも答えになっていないけどね」
 -結局のところ、あの晩先輩たちが話してくれたことは、先輩たちがお考えになっていることの全部じゃなかったってことなのかな…。
 団子をもぐもぐ噛みながら寝そべった勘右衛門が空を見上げる。
 -俺たち後輩に先輩たちが心の中のことをすべて話すなんてあるわけないし、話してくれたことがいつものお考えかどうかも分からない。あの晩みたいに風が強い時は、人の心にもいつもと違う影響があるって食満先輩は仰ってたし…。
 青空に浮かんだ大きな雲がゆるやかに流れていく。
 

 

「…噂をすれば、食満先輩と伊作先輩だ」
 勘右衛門の耳に雷蔵と三郎の声が聞こえてくる。
「あ、ホントだ」
 と、唐突に2人の姿が見えなくなった。
「あれ、消えた」
「穴に落ちたんじゃね?」
「マジかよ」
 興味をそそられた勘右衛門ががばと身を起こす。
「ほら、あそこ」
 雷蔵が指差した先に、土埃の立つ穴が見えた。

  

「いってぇ」
「いててて…」
 その頃、伊作と留三郎は穴の底で折り重なっていた。
「だいじょうぶか、伊作」
「ああ。留三郎は?」
「まあ、なんとかな…ところで」
 もぞもぞともがきながら留三郎がぼやく。「これはあの穴掘り小僧のしわざか?」
「ああ、この穴は喜八郎のものだね」
 穴の入り口を見上げながら伊作が言う。
「ったくよ…伊作は落とし穴の評論家にでもなるつもりかよ」
 ぼやきながら留三郎も見上げる。
「そうじゃないけどさ…くっ」
 とぼけた答えをしながら小さく笑う伊作を、いぶかしげに留三郎が見る。
「なんだよ、急に笑いやがって」
「いや…ちょっと思い出してね」
 晴れやかな表情で伊作は留三郎を見ると、再び空を見上げる。
「何をだよ」
「昔から僕はよく穴に落ちていたよね。そんなとき、僕はいつもこうやって穴の入り口を見ながら、留三郎が助けに来てくれないかなって思っていたんだ…そうしていると、たいてい君は来てくれた」
「ああ、そうだったな」
 校庭にぽっかり空いた穴を見つけると、必ず駆け寄って中を覗き込んだものだった。なぜならそこには必ず伊作がいて、自分の顔を見るや頬に涙の跡を残したままぱあっと明るい笑顔になったから。
「僕はいつも穴に落ちていた…だけど」

 伊作の顔が留三郎に向けられる。「留三郎まで一緒に落ちるなんて珍しいな、と思って」

「うっせぇな」

 照れた表情を隠すように顔をそむけて、留三郎は苦無を取り出す。「俺は先に出るからな。お前も自力で上がって来やがれ」

「ああ、そうするよ」

 ふたたび晴れやかな顔になって伊作は答える。

 -そう、こうやって、自分の力で進んでいかないと…!

 

 

<FIN>

 

 

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