野にかぎろひの立つ見えて

東野炎立所見而反見為者月西渡

(ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ)

                万葉集巻一48 柿本人麻呂

 

人麻呂の有名な歌ですが、一方で解釈が難しい歌としても知られたこの歌。

かぎろひは曙光として解釈されるのが一般的ですが、朝日を軽皇子、月を父の草壁皇子とみなす解釈も広く知られています。さらに藤村由加氏のようにかぎろひを亡霊と解釈して議論を呼んだりもしました。

ここでは藤村由加氏の考察をちょっと拡張して解釈しています。要は伊作に結び付けたかっただけというのはヒミツですwww

 

 

「伊作! 不運を移すのは留三郎だけにしておけ!」
 夜の自主練から戻ってきた文次郎が額に青筋を浮かせてがなる。が、手足も顔も擦り傷だらけで、制服や前髪には乾いた泥がこびりついている。
「すまない、文次郎」
 応える伊作も同じようなありさまである。
「ったくよ!」
 足音荒く踏み鳴らして文次郎が長屋の廊下を去っていく。ため息をついた伊作が部屋の襖を開ける。
「ただいま」
「よう、伊作。文次郎のヤツ、ずいぶん荒れてたがどうしたんだ?」
 文机に向かって演習のレポートをまとめていた留三郎が振り返る。
「ああ。いつもの裏裏山に行く途中で野盗たちがアジトを作っていたから文次郎たちと一緒にやっつけたのはいいんだけど、逃げてった野盗たちが残した食事に野犬の群れが集まってきちゃって、追い払おうと思ったら逆に追いかけられちゃって、追いかけられてる間に授業で仕掛けをいっぱい作ったところに迷い込んじゃって、穴に落ちたり吹っ飛ばされたりして、飛ばされた先が沼で…」
「…もういい。たいへんだったな」
 心から深い同情を込めて留三郎はため息をつく。そして、ふと気づいたように顔を上げる。「そういえば、今日は文次郎と二人だったのか?」
「いや。仙蔵もいた」
「仙蔵はどうしたんだよ」
「野犬に追いかけられた時に焙烙火矢を投げて追っ払って、どこかに行っちゃった。だから、僕たちがよけいに追いかけられちゃったんだけどね」
「そうか」
 ふたたび文机に向きかけながら留三郎が「フロ入っとけよ」といいかけたとき、「しまった!」と唐突に伊作が叫び声を上げる。
「な、なんだよ」
 ぎょっとして振り返る。
「文次郎、すぐに医務室に連れてかなきゃっ!」
 どういうわけか動揺した声と表情が気にかかった。伊作が立ち去って開け放しの襖をしばし見つめる留三郎だった。

 

 

 

「な、なんだよ医務室に行くってよ…」
 制服を掴まれてむりやり廊下を引っ張られながら文次郎は声を上げる。
「いいから!」
 ずかずかと大股で歩く伊作の気配にただならぬものを感じて、文次郎も抵抗しない。
 医務室には灯りがついていた。中に誰かがいることは明らかだったが、伊作はものも言わずに襖を押し開く。
「おや、伊作君」
 中にいたのは校医の新野だった。廊下の足音から誰かが来るとは思っていたが、まさか伊作が文次郎を引きずって現れるとは思わなかった。しかも、二人とも何があったか知らないが、すり傷だらけの泥だらけである。
「いったい、どうしたというのですか」
「ここ」
 言いながら一気に文次郎の右袖をまくり上げる。「ケガしたって言ってたよね」
「え、あ、ああ」
 言われて腕に眼をやる。野盗たちとの立ち回りのときに切りつけられた傷だったとようやく思い出した。治療をする暇もなかったせいで、傷が閉じたり開いたりを繰り返したのだろう。いままたさくりと開いた傷口から血が滴って痛みをもたらした。
「どうしたのですか、この傷は!」
 立ち上がった新野が駆け寄る。
「野盗とやり合ったときについた傷です。でも、そのあといろいろあって治療する暇がありませんでした。ただ、途中で沼に落ちたのが気になったので…」
「沼に? ということは、その泥も?」
 新野の顔色が変わる。
「はい」
 桶に水を汲んで傷口を洗浄しはじめていた伊作がうなだれる。
「え…? ど、どういうことだよ…」
 話に全くついていけない文次郎がうろたえて訊く。
「傷口に土や泥がつくと危ないって、習わなかったかい?」
 伊作が説明する。「特に破傷風はおそろしい病気なんだ」
「げ…マジか」
 ようやく伊作たちの慌てる理由が理解できた文次郎の顔が青ざめる。
「で、俺、どうすればいい?」
「これから、毒消しを処方するから…」
 伊作が言いかけたとき、膏薬をしまう箱を開けた新野がきっとして振り返る。
「伊作君、膏薬はどうしました。一枚もないが」
「あっ!」
 伊作の動きが一瞬、固まる。
「使ってしまったのですか?」
「申しわけ…ありません。新しい膏薬を補充するのを忘れていました…」
「では後で作るとします。君は早く潮江君に毒消しを!」
「はいっ!」
 傷口の洗浄を終えた伊作が薬戸棚に駆け寄る。

 

 


「…まずいですな。熱が上がり始めた」
「はい…」
 一刻(二時間)後、新野と伊作は眉をひそめて座っていた。その前に延べてある布団には文次郎が横たわっている。治療を始めてから間もなく、文次郎は急に熱を出したのだ。
「やはり、破傷風でしょうか」
 上目遣いに伊作が新野の横顔を見る。
「いや、まだ判断するには早計でしょう。顔の強張りや手足の痙攣が出てくれば、破傷風とみてほぼ間違いないが」
「…はい」
 沈痛な表情で伊作が俯く。破傷風に治療法はない。全身の痙攣や呼吸困難で死亡する可能性も高い。患者は非常な苦痛を長期間訴えると医書にあったことを思い出す。
 -もし、文次郎がそんな症状になったら…。
 屈強な兵士でさえも簡単に屠る病である。いくら体力に自信のある文次郎といえども持ちこたえることは難しいかもしれない。もっと早く傷に気づいて治療していれば防げたものを…奥歯をぎりと噛みしめる。
 -どうして、あのとき、すぐに治療できなかったのだろう…。
 あのあとすぐに野犬に追われたりして、落ち着いて治療するどころではなかったのは事実だった。それでも、森の中を逃げる時、木の上に逃げて野犬をやり過ごすことはできたはずだった。それなのに、あのときは自分も文次郎も、なぜかひたすら地面を走り続けていた。
 -完全に思考が狭窄していた。きっと文次郎も…。
 ため息をついて立ち上がると、薬戸棚から解熱の薬種を懐紙に取り始める。意識が戻ったら飲ませなければならなかった。
 -どうしてあの時は…。
 今の自分なら、必要な量の薬種を取って、薬研ですりつぶして、坩堝で煮だすまで身体が勝手に動いていく。医者のタマゴとして当然のことだった。同じように、忍者のタマゴであれば、あのような局面であってこそ、周囲を観察してより効率的な避難なり反撃手段を講じているべきところだった。
 -木の上にでも退避していれば、竹筒の水で傷口を洗浄できたし、消毒用の薬を塗ることもできたのに…。
 どれもカラクリ地帯で吹っ飛ばされたりしているあいだになくしてしまっていた。
 -あのときは、どうかしていたとしか言いようがない。だけど、任務でそんなことを言っていたら任務どころか生きて帰ることもできない…。
 黙然と考え込んだまま、坩堝に火を入れて抽出を始める。
 -ひょっとして、僕は、とんでもなく初歩的なところがマスターできていなかったということなんだろうか…。
 考えれば考えるほど、蟻地獄にはまった蟻のように思考がズルズルと深みへ落ち込んでしまいそうに思えて、伊作は小さく頭を振ると薬の抽出に意識を集中させることにした。

 

 

 

「おっと…」
 物を取ろうと立ち上がりかけた新野が身体をよろめかせると、腰に手を当てて座り込む。
「先生、大丈夫ですか」
 伊作が新野の身体を支えながら訊く。
「ああ、ちょっと疲れただけです。私のことは構わず潮江君を…」
 応える新野の顔には、疲労が色濃く刻まれている。
「文次郎は僕が見ています。先生は少しお休みになってください」
「しかし…」
「文次郎の熱はいまは小康状態です。二人がかりで見ている必要はないでしょう。何かあったらすぐに声をかけますので、それまでは」
 真剣な眼に、新野は気弱に笑う。
「君の言う通りですな。いまは戦力は分散したほうがいい。これから長丁場になりそうですからな」
 そして伊作の手を借りてよろめき立つと、次の間に延べた布団に横たわる。
「失礼します」
 そっと襖を閉じると、ふたたび文次郎の枕元に座る。
 -すまない、文次郎。医者としても忍者としても、僕はまだまだなようだ…。
 心の中で語りかけながら、額や首筋の汗を拭っていく。そして、ふたたび坩堝に向かうと、団扇で風を送りつづける。

 

 


「潮江君の具合はどうですか」
 襖を開ける音に、坩堝に風を送っていた伊作が振り返る。
「新野先生、もう起きられたのですか…まだ一刻ほどしかお休みになっていないのに」
「『忍者はガッツだ』とよく学園長先生が仰っていますが、医者も同じなのですよ」
 言いながら文次郎の傍らに座って、額に手を当てる。
「…まだ熱はあるようですな」
「はい。汗もひどいので、あとで夜着を替えます」
「そうしてください。だが、その前に伊作君も休んだ方がいい」
 疲れが刻まれた横顔に眼をやる。
「この薬を…文次郎が起きたときに飲ませたいのです」
 坩堝のなかで煮立つ薬湯に視線を落としながら、ぼそぼそと伊作が言う。
「そうですか。では、私は膏薬を作っておくとしましょうか」
 もう少し文次郎のそばにいたいのだろうと思った新野は、おもむろに立ち上がると薬戸棚に向かって必要な薬種を籠に取り始める。

 

 

 

「そうだ、伊作君。君にはまだかぎろひの話をしていませんでしたね」
 薬種を薬研ですりつぶしながら新野が口を開く。
「かぎろひ…ですか?」
 坩堝を扇ぐ手を止めないまま、首をかしげるように新野に眼をやる伊作である。
「そうです。医師たちの間での言い伝えのようなものです」
「言い伝え…ですか?」
 話が見えない伊作がさらに首をかしげる。
「そうです」
 頷いた新野がひと呼吸置くと口を開く。
「今頃のような真冬の夜明け、いちばん寒い時間帯に朝日が昇るとき、地平線に炎のようなゆらぎが見えます。それが、医師にとっては、かつて手掛けて救えなかった患者、知識や技量不足で治療に失敗した患者たちの幻のように見えるときがある。医師たちはそれをかぎろひと呼んでいます」
「かぎろひ…」
「それをどう捉えるかは医師によって違います。救済と思う者もいれば、呪いと思う者もいる。捉えようによって光にも見えるし、亡霊にも見える。それがかぎろひです」
「…」
 思いがけない話に伊作は口を開くこともできない。しばし医務室は伊作がうちわを使う音と新野が薬研を使う音だけが響いた。
「…新野先生は、そのかぎろひをご覧になったことはあるのですか」
 押し殺した声で伊作が訊く。
「あります」
 短い答えに、伊作の背がびくっと震える。
「先生は、どうお感じになられたのですか」
 訊いてしまってよいものかと思いながらも、問わずにいられなかった。
「そうですな」
 駘蕩とした表情で新野はすこし考える。
「…実のところ、どうとも感じなかったのですよ」
「どういう…ことですか?」
 拍子抜けしたように伊作が訊く。
「怖いともありがたいとも思わなかった。私がかぎろひを見たのは草原の真ん中で、風の強い朝でした。太陽が登るにつれて、地平線に広がる草に一斉に光が広がって、たしかにそこに私がかつて手掛けた患者たちの姿が見えました。でも、私が思ったのは、ただただ申し訳ないということでした」
「申しわけない、ですか」
「私にもう少し知識や技量があったら、救えた命でした。あれだけの人たちを私は救えなかった。そのとき、私は、かぎろひとは、医師の覚悟を再確認させるものなのだと思いました」
「…その人たちに思いをいたして、精進しろということですか」
 考えながら伊作が口を開く。
「その通りです」
 満足そうに新野は頷く。「医師とは命の積み重ねの上に成り立つものです。だからこそ、救えなかった命に謙虚に反省し、精進を誓うべきである、かぎろひを見た朝、私はそう気づかされました」
 小さなため息とともに言葉を切ると、新野は穏やかな眼で伊作を見つめた。
 -先生…。
 その視線に伊作はたじろぐ。
 -先生は問われている。僕に、その覚悟はあるのか、と…。
 もし文次郎の傷口から破傷風の毒が入ってしまったとしても、今の医療では治すことはできない。対処療法で症状を和らげるしかない。だが、もう少し早く傷の洗浄と最低限の手当てができていれば、破傷風のリスクをもっと低くすることができた。今まさに、自分は『命の積み重ね』の第一号を文次郎で飾るかどうかの瀬戸際にいるのだ。
 -でも僕は、文次郎を失いたくない! 学園で学んだ仲間の誰一人、失いたくないんだ…!
 つまりそれは、命の積み重ねに立ち向かえるだけの覚悟ができていないということではないか。
 -それでも僕は…!

 

 

 

「う、うぅ…」
 熱に浮かされて悪い夢を見ていたような気がした。だが夢の内容は思い出せず、ただぞわりとした不快感だけが意識の中に残っていた。
 頭が痛くて熱い。背中は氷を押し当てられたように冷たい。気がつくと身体ががたがた震えていた。
 -そうか。俺は熱を出して…。
 ゆるゆると瞼を開く。ぼんやりした燭台の灯がわずかに揺らぎながら天井にうつる。ゆっくりと頭を動かすと、枕元に座る伊作が見えてきた。
 低くうめく声にはっと目覚める。文次郎の枕元でいつの間にか眠ってしまったようだった。
「文次郎、大丈夫かい」
 言いながら額の手拭いを取って熱をみる。「まだ熱があるようだね」と呟きながら手拭いを絞りなおして額に置く。
「伊作…」
 うっすらと眼を開けた文次郎がかすれ声で言う。
「どうした、文次郎」
「この熱は…破傷風なのか…?」
「それはまだ分からない。破傷風は熱のほかにもいろいろな症状があるけど、文次郎はまだ熱以外の症状が出ていないから、新野先生も診断を下せずにいるんだ」
「そうか」
 布団に横たわったまま、文次郎は天井に眼をやる。
「俺は死ぬのか」
 変わらぬ口調で訊く。
「そう決まったわけじゃない」
 苦労して平常を装いながら伊作は応える。
「もし破傷風だったら、死ぬ確率が高いんだろ」
「そう…だね…」
 伊作の声に苦悩がにじむ。燭台の灯影が横顔に濃い影を刻む。
「俺が破傷風で死んだとしても、気に病むんじゃねえぞ」
 ふいに文次郎の口調が変わる。はっとして伊作が顔を上げた。
「ケガはザコ相手に油断した俺の責任だ。野犬に追われてバカみたいにひたすら逃げてたのも俺の判断ミスだ。原因はすべて俺にある…」
「ちがうよ、文次郎」
 固い声で伊作が遮る。「あのとき、もっとまともな逃げ方ができなかったのは、僕にも責任がある。それにね」
 言葉を切ると、寂しげな眼を文次郎に向ける。
「未病という言葉がある。すべての病には微兆がある。医療者は、未病が病になる前に治療をすることが最上とされている。ケガも同じだ。傷が小さいうちに治療してしまえば、毒が入って悪化することもない。僕は文次郎がケガをしているのを見つけていたのに、きちんと治療できないままリスクを抱えさせてしまった。致命的なミスなんだ」
「それで俺が死んだら、一生抱え込むつもりなのかよ」
 いつの間にか文次郎の強い視線が伊作を捉えていた。
「そんなことは…」
 伊作の視線が宙を泳ぐ。
「医者は命の積み重ねなんだろ。だったら患者が死ぬのは当たり前のことじゃねえか。それを恐れるなら、医者なんぞ目指すな。俺でも分かる理屈だ」
「そういうことじゃないんだ、文次郎」
 うつむいた伊作の表情は、豊かな前髪に隠れてほとんど見えない。絞り出すような声で続ける。「たいせつな、大切な仲間だから、僕は文次郎を失いたくないんだ」
「甘いな、伊作」
 眼を細めた文次郎がふっと笑いを漏らす。「仲間だろうがなんだろうが、死ぬときは死ぬ。そんなこと気に病んでたら、忍にもなれないぜ。それに」
 いたずらっぽく笑いかける。
「俺が死んだら、お前が見るかぎろひの第一号になって、お前が小便ちびるほど追い掛け回してやるから覚悟しておくんだな」
 

 

<FIN>

 

 

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