梅が香に

桜は目で、梅は鼻で愛でると聞いたことがありますが、冷たい空気の中に、どこからともなく漂ってくる梅の香を嗅ぐと、春が近づいているのだなと感じるものです。

梅の花とともに近づいてくる春は、いろいろな思いが交錯する季節でもあり、中には春を待ち望むばかりではない思いもありそうです。

たとえば三年生の不運な忍たまであるところの三反田数馬は、どんな思いを抱いているのでしょうか。

 

なお、出血描写がありますので、苦手とする方は回避をお勧めします。

 

 

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  「学園長先生、失礼します」
 三反田数馬が校医の新野の決裁文書を携えて学園長の庵を訪れたとき、学園長の大川は眉間にしわを寄せてなにやら考え込んでいる様子だった。
 -考え事のジャマになってはいけないから…。
 座敷の隅に書類を置いてそっと立ち去ろうとしたとき、大川の視線が数馬の姿を捉えた。
「待ちなさい!」
 思いがけない大川の剣幕に、数馬は思わずびくっとして立ち止まった。こわごわと大川の方を振り返る。にやりと笑みを浮かべて自分を見る眼に、反射的に危機を察する。
 -げ…学園長先生、なにか思いついちゃった眼だよあれは…。
 だからといって、待てといわれたのに逃げ出すわけにも行かない。数馬は観念して大川に向き合うように座った。
「はい、何でしょうか、学園長先生」
「ちょうど良かった、数馬。いますぐ『峰に別れし 雲のうき橋』に継ぐ句を考えなさい」
 つかつかと近づいてきた大川の指示の意味を、数馬はよく理解できなかった。
「え、な、何ですかいきなり」
 数馬は絶句する。
「いいから考えるのじゃ。そうじゃな、忍ぶ恋みたいな感じで継ぐのじゃ」
「だ、だから何なんですか」
 大川の剣幕に、もう数馬はどうすればいいか分からない。
「学園長命令じゃ! 早く考えるのじゃ! よいな、考えるまでお前をここから帰さぬからな」
「そんなムチャな…」
 いくら不運な保健委員とはいえ、こんなことがあっていいのだろうか。わが身の不運を嘆きながらも、数馬は腕を組んで考える。
「よいか数馬、忍ぶ恋じゃぞ」
「忍ぶ恋ですか…僕は忍にはなりたいけど、忍ぶ恋なんて分からないし」
「分かっていようがいまいがどーでもよい! 早くしなさい!」
「そんなぁ…えっと、忍ぶ恋、忍ぶ恋…忍ぶれど…」
「おっ」
 大川の眼が光る。
「そうじゃそうじゃ、その調子じゃ…忍ぶれど、さあ、次じゃ」
「ええ? そう仰られても…忍ぶれど、忍ぶれど…うーん」
「何を考え込んでおる! さっさと次をいいなさい!」
「ちょっと待ってくださいよ、いきなり生徒にこんなの考えさせるなんて…」
「文句を言ってる暇があったら、とっとと考えるんじゃ! さあ、忍ぶれど、次はどうする」
「ええ…っと、忍ぶれど、忍ぶれど…袖に…」
「そうじゃ、それじゃ、袖じゃ! 袖に何がつく」
「袖につく? 袖につくのは…えっと…泥とか鼻水とか?」
「ばかもの! そんなバッチいものをつけるんじゃない! もっと風流でカッコよくてエレガントなものにしなさい!」
「そんなムチャな…僕にそんなもの分かるわけないじゃないですかぁ」
「いいから考えるのじゃ! よいか、こう、なんか人をはっとさせるようなものを考えるのじゃ」
「はっとさせるって…えっと、香とかですか?」
「そうじゃ! 袖じゃ! なんの香じゃ!」
「そんな、そんなこと言われても…僕、香のことなんて知りませんし…」
「誰が香の名前など言えと言った! 何かの香りでいいのじゃ。花でも何でも!」
「花でもなんでも…ですか」
 何かを探すようにきょろきょろと見回した数馬の眼が、庭先の梅をとらえた。
「梅…梅が香に…袖にたちたる梅が香に」
「でかした!」
 大川が跳びあがった。
「忍ぶれど 袖にたちたる 梅が香に…よしっ、これで今度の連歌のときは金楽寺の和尚にぎゃふんと言わせてみせるわい!」
「ところで、いったい何だったんですか」
 忘れないうちにとものに書き付けている大川に、数馬が疲れきった顔で訊ねる。
「これか? これはな、この前の連歌のときに、金楽寺の和尚の句に継ぐことができなくてな。そのときはどうしても思いつかなかったので『いまここで継ぐにはもったいないほどの出来じゃから、次回披露してやる』ということで打ち切ってきたものじゃ」
「そんなぁ」
 数馬は脱力する。
「そんなの生徒に考えさせないでくださいよ」
「まあそう言うな。褒美に、夕食のときにおばちゃんに頼んで、おかずを一品サービスしてやろう。もう戻ってよいぞ」
「は、はあ…失礼しました」
 ようやく学園長の庵から開放された数馬は、重い足取りで校舎に戻る。ひどく疲れていた。

 


「あ…数馬先輩。どうしたんですか、遅かったじゃないですか」
 今日の保健委員会が行われている被服倉庫に行くと、保健委員たちが包帯を作っているところだった。乱太郎が声をかける。
「ああ、ちょっと学園長先生にね…」
「学園長先生に?」
「…梅が香をやらされてた」
「は?」
 きょとんとしている委員たちに、数馬は庵での受難を話した。
「それは、数馬も災難だったね」
 委員長の伊作が、同情をこめて笑いかける。
「…それに、ずいぶん疲れてるようだね。包帯作りは皆でやっておくから、少し医務室で休んだほうがいい」
「そうですよ、先輩。顔色も悪いようですし」
 乱太郎も気遣わしげに、数馬を見つめる。
「すいません。では、そうさせてもらいます」
 数馬は、素直に医務室に向かうことにした。
「先輩、お大事に」

 


 医務室には誰もいなかった。数馬は、壁際に延べてある布団に横になると、頭から引き被った。
 ひどく疲れていた。それは事実だった。だが、それは学園長の連歌の代作に付き合わされたことだけではなかった。ここ数日、ある事実が数馬の心にのしかかっていた。

 


 それは、数日前の夜のことだった。夕食の後、数馬は医務室に忘れ物をしたことを思い出して、取りに行くところだった。
「あれ?」
 医務室から明かりが漏れているのを見て、数馬は足を止めた。部屋の中からは、低く話す声も聞こえてくる。
 -おかしいな。今日は、会議をやるなんて聞いていなかったんだけど。
 手元の灯りを消すと、数馬はそっと医務室に近づいた。話し声が内容を伴って耳に届くほどまで近づくと、数馬は気配を消して耳をそばだてた。
「…このことは、誰が悪いというものでもないし、もちろん、どちらかが悪いというわけではない。ただし、状況を考えれば、我々2人の責任であることは間違いない」
 新野の声である。いつもの穏やかな声に、苦悩を帯びている。
「はい。しかし、やるべきことは分かっていたのに、やることができなかったのは、やはり私の落ち度です」
 伊作の声も、苦しげである。だが、続けて漏らした言葉に、数馬は凍りついた。
「…数馬がどうしても気の毒で…」
 -僕がって、いったいどういうこと…?
「そう自分を責めるものではありません、善法寺君。君だって、何もやらなかったわけではない」
 新野が声をかける。
「たしかに、数馬には、彼の理解できる範囲でいろいろと教えてきました。しかし、今の段階では、やはり、委員長が務まるほどの内容を伝えることはできていません…」
 -委員長? そうか…僕に、伊作先輩の次の委員長が務まるかどうかのお話なんだ。
 そして、務まらないだろうという結論に、苦しんでいるのだ。
「いい機会だと思って、数馬に引き継ぐ内容を整理したのですが…彼に教えるには早すぎることばかりでした…」
 押し殺したような低い声で、伊作は話す。
「具体的に、どの分野が手薄になっていますか」
「診療、検査、投薬どれもです…が、いちばん大きいのは薬の取扱です。いや、薬に関すること全般といってもいいかもしれません。薬の名前と種類、調合、どれも彼には難しすぎます」
「そうですな」
 新野がため息をつく。
「三年生の三反田君には、たしかに難しい。善法寺君が卒業してしまえば、彼に教えられる上級生は誰もいない…しかし、私が心配しているのは、彼のスキルではありません」
「といいますと?」
「三反田君には…」
 ためらうように、新野は言葉を切った。
「彼にはまだ、委員長を引き継ぐだけの心の準備ができていないように、私には思えるのです…」
「それなら私も同じことでした…」
「いや、違います」
 ぴしゃりと新野は言った。
「自覚が云々というのではありません。ただ、保健委員は、まして委員長は、いざというときには命のやり取りが求められます。善法寺君は、トリアージについて三反田君に話したことがありますか」
「一度だけ、話したことがあります。ただ、理解は難しかったようです」
「そうでしょうな。助かる命と助からない命の見極めは、現場を経験しないと、本質を理解するのは難しい」
「しかし、三年生では、まだそんなカリキュラムはありません。上級生なら、旗印を取りに戦場に潜り込んだりする演習もありますが…」
「私の知る限り、彼はまだ深い金創(刀傷)や銃瘡は見たこともないはずです。いざというときに彼がもつのか、それが心配なのです」
「上級生になれば、いやでも授業で見ることになります。それは大丈夫かと…」
「それを見たばかりに心が折れて学園を去る生徒たちが、毎年必ずいるのですよ。三反田君がそうならないと、誰が保証できますか」
「それは…」
 珍しく気色ばんだ新野に、伊作はなにも返せなかった。だが、我に返ったように新野の声は、深く静かなものに戻っていく。
「やめる生徒がいることは、仕方のないことです。しかし、保健委員長がそれでは困る。薬のことや診療、検査のことは、私からおいおい教えていくこともできるでしょうが、彼の心が折れてしまっては、私には、なにもできない…」
 数馬はそっとその場を去った。もう充分だった。
 -そうだ。伊作先輩が卒業されてしまったら、次に委員長になるのは、僕しかいない…。
 それは、突然降って湧いたような話ではなかった。現在の学年構成からすれば当然のことで、それでも、まだ三年生である自分には遠い話と思い込んでいた。
 -だけど、もうそんな先の話じゃない。もうすぐ、伊作先輩は卒業されてしまうから…。
 自分には、その準備が出来ているだろうか。いや、まったくできていなかった。

 伊作に代わって、左近や乱太郎たち、そして新しく入学してくる一年生たちを統率すること、必要な薬を調達し、後輩たちに必要な知識を伝え、怪我人や病人が出れば看護し、予算会議で予算を確保する…そして、新野が言っていた『命のやりとり』を自分が仕切る…そんなことが、できるのだろうか…。
 -ぜったい、ムリだ…。
 目の前に立ちはだかる巨大な壁に方向を失ってしまったような気がした。そう、自分が担うことになる委員長という職務は、途方もなく巨大な壁のように感じられた。
 しかし、壁は、突然現れたものではなかった。
 -こうなることは分かっていた。分かっていたのに、僕は、何の準備もしてこなかった…。
 委員長職を引き継ぐために、早いうちから伊作に教えを乞うべきだった。伊作が、まだ三年生の自分への引継ぎをためらっているのであれば、押し切ってでも引継ぎを願い出るべきだった。そうでないと、困るのは自分なのだから。
 どこをどう歩いたのか、もはや憶えていなかった。気がつくと、忍たま長屋の入り口に突っ立っていた。そのまま自室に戻る気にもなれず、数馬は庭に面した廊下に座り込んだ。吹きっさらしの廊下に冬の夜風は冷たく、板敷きの廊下から寒さが凍み上げてきたが、それも気にならなかった。むしろ、このままずっと冬であってほしかった。伊作が卒業する春など、永遠に来なくてもよかった。
 鋭く輝く月は、まだ冬のものだった。まだまだ、寒さは続くし、春には遠い、そう思って、数馬はなんとか自分を安心させようとした。しかし、次の瞬間、冷や水を浴びせられたような気がした。どこからともなく、梅の花の香りが漂ってきたのである。

 


 -僕には、まだムリだ。伊作先輩を継いで委員長になるなんて…。
 布団を引き被ったまま、数馬は声にならない声を上げていた。
 -どうして、今日、また、梅なんて…。
 梅なんて言葉を口走ってしまったのだろうか。
 それが、時季にふさわしい言葉だからこそ、大川からも評価されたのだが、いまの数馬には、別の意味にしか捉えられなかった。
 -こうしている間にも、梅が咲いて、散って、桜が咲いて、そして散る頃には、伊作先輩がいなくなってしまう…。
 それなのに、やるべき事に気付いていたにもかかわらず、何もしていなかった。ただひたすら、冬が続くことを願い、現実から眼をそらし続けていた。

 

 

 

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