知るも知らぬも

 これやこの 行くも帰るも 別れては

     知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

           蝉丸(10番) 『後撰集』雑一・1089

 

恋や自然描写や、その両方を詠んだ歌の多い百人一首の中では、蝉丸のこの歌は一種独特な雰囲気で、シンプルな歌いようでありながらとてもミステリアスにも感じられて、昔から気になっていました。

山中で育った利吉の少年時代は、外界との接触も少なかったはずで、だからこそ、突然現れた若半助との出会いはとてつもない刺激だったのだと思うのです。

そしてもう一人、刺激的な人物が利吉の前に現れたとしたら…

 

 

「どうやら、追手がここを嗅ぎつけたようだな」
「そのようですわね」
 夜の囲炉裏端で忍具の手入れをする伝蔵と、繕い物をする妻がぼそぼそと声を交わす。
 抜け忍となり、追われていた半助を保護してしばらくして、二人は家の周辺の胡乱な気配に気づくようになっていた。
「思ったより早かったな」
「仕方ありませんわ。この辺りであのような方を保護できそうなのは、ここしかありませんもの」
 手を休めることなく妻は呟く。そもそも里から離れた氷ノ山の山中では、猟師や杣氏の作業小屋くらいしかない中で、堅固な石垣に囲われ、ひときわ大きいこの家はあまりに目立った。
「だが、まだ傷も治っていない。別の場所に移すにしてももう少し時間がかかる」
 研いだ手裏剣を囲炉裏端に置きながら、伝蔵は沈痛な表情で言う。
「そうですわね」
「私が守ってやれればよいのだが…」
 休みが終われば忍術学園に戻らねばならない。だが、まだ女子どもと、敵につけ狙われているけが人を置いて家を空けるのはあまりに危険だった。解決策を見いだせないまま、次の手裏剣を手に取る伝蔵だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「これで包帯の交換は終わりです」
 父が旅立った数日後、利吉は半助の包帯の交換を手伝っていた。
「いつもありがとう、利吉君」
 夜着に袖を通しながら半助が話しかける。
「いえ」
 言葉少なに利吉は応える。
 いつの間にか、自分から進んで半助の包帯の交換を手伝うようになっていた。
 なぜそうするようになったのか、自分でもよく分からなかった。あるいは父が不在となり、多忙となった母の手助けをしようという気持ちなのかもしれなかったし、あるいは突然現れた敵を身を挺して守ろうとしてくれた人物を信頼し始めたからかもしれなかった。ただひとつ確かなのは、この若い忍の肌に刻み込まれたおびただしい生傷をこの眼にしっかりと焼き付けようと思っていたことだった。それは、いままで意識したことのない『忍の現実』を、利吉なりに掴もうとする試みだった。

 


 そんな利吉の変化を、どう理解したものかと半助は考える。
 -私に心を許してくれているとしても…。
 それはそれで、ひとつの懸念だった。自分はいずれここを去らなければならない。それも、できるだけ早く。
 -そのとき、利吉君は…。
 唇を引き締めたまま、まだ小さな手で手早く包帯を片付ける少年に眼をやる。と、胡乱な気配にとっさに布団を蹴って、布団の下に隠していた忍刀を手に構える。全身の筋肉にきしむ痛みが走ったが、その感覚もすぐに消えた。
「えっ!?」
 唐突な半助の動きに、利吉がうろたえたように声を漏らす。が、すぐに半助が睨み上げる先に眼をやる。
 -また敵が!?
 いつの間にか天井の梁の上に大きな影があった。だが、すぐに眼の前に半助の大きな背中が割り込んできた。
「よっ、探したぜ、土井」
 しゅたっと梁から飛び降りてきた人物から殺気が放たれていないことに気づいた利吉が、そっと半助の背から顔をのぞかせる。
 -!
 思わず声をのんだ。そこにいたのはあまりに異形な人物だった。サングラスにぼさぼさ髪、耳には赤いピアスが熾火のように光っている。 
「石川! 石川じゃないか!」
 半助が声を上げる。だが、そのうれしさと警戒のない交ぜになった声に、利吉はまだこの人物が歓迎すべき存在か判断できずにいた。
「この子は?」
 利吉に眼を向けた五十ヱ門が訊く。
「私の命の恩人の息子さんだ…利吉君という」
「そっか。俺は石川五十ヱ門だ。よろしくな」
 しゃがみ込んで利吉に顔を近づけた五十ヱ門は、おもむろに手を伸ばすと利吉の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「あ、あの…山田利吉です」
 されるがままになりながら、なお眼を見開いて異形の人物を見上げる利吉だった。
「ほら、石川。利吉君が驚いてるじゃないか」
「おっと失礼」
 軽口で応えた五十ヱ門がサングラスを外す。切れ長の眼だが、その瞳は意外にも優しく利吉を捉えていた。
「石川は、忍者の修業時代の仲間なんだ」
 その様子を見ながら微笑んでいた半助が説明する。が、その表情はすぐに硬くなって五十ヱ門に向き直る。
「それで石川。ここに何しに来た」
「ご挨拶だな」
 半助に向かい合って胡坐をかいた五十ヱ門は、片膝に肘をついて、軽く曲げた指先に顎を載せる。「修業時代の仲間として、これでもずいぶん心配して探したんだぜ? でもってようやく見つけたってとこだ」
「何をしに来たと聞いている」
 いつの間にかふたたび忍刀に手をかけている半助だった。
「あのよ、誤解があるようだが」
 五十ヱ門の声がなだめるように低まる。「風の噂にお前が組織を抜けたと聞いたから、ちょいと心配になって探しに来たまでさ。べつに組織の命令でお前を消しに来たわけじゃない。ま、今のお前ならそれも簡単そうだけどな」
 言いながらニヤリと口角をゆがめて歯を見せる。
「そうか…」
 忍刀を握りしめていた手からゆるゆると力が抜けていく。やがて、指先を離れた刀ががたり、と音を立てて床に触れた。
「で、土井よ。お前さん、戻るのかい、戻らないのかい」
 半助を見つめる眼光が力を帯びる。
「…私は抜け忍として組織を裏切った身だ。戻る場所などない」
 顔を背けて半助はぼそりと呟く。
「そっか」
 五十ヱ門が低く呟く。「ま、お前ならそう言うと思ったよ」
「…ああ」

 

 

 

 眼の前で展開されている二人の青年の会話を、利吉はなかば白昼夢を見る思いで聞いていた。思えば半助がこの家に来てからというもの、知らない世界のにおいをまとった人物があまりに多く現れた。敵であれ、そうでない者であれ。それは、両親と自分だけでほぼ完結した世界しか知らなかった利吉には途方もない刺激だった。殺気をたぎらせて襲い掛かってくる敵も、サングラスやピアスをまとった異形の人物も、いままで自分を覆う世界にない、どこから来てどこへ去っていくのかも分からない存在だった。

 

 


「ま、無事でなによりだったな」
 話は終わったとばかりに五十ヱ門が立ち上がる。
「あ、あの…お茶でも召し上がってから…」
 慌てて利吉が立ち上がる。
「俺みたいなアウトローにおもてなしは無用ってもんだ」
 チッチッと人差し指を振りながら五十ヱ門がニヤリとする。
「だが…」
 半助が腰を浮かしかける。
「まだ安静が必要なんだろ?」
「それはそうだが…」
「お前はいつだってよくよく考えてから行動してた。今回のことだってよほど覚悟の上でのことだろ?」
 ふいに五十ヱ門の声が改まる。
「…」
「それがお前の選んだ道なら、俺がとやかく言う筋合いはない。それにアウトサイダーなら俺のほうが先輩だからな。ま、互い達者でやろうや」
 手を伸ばして半助の肩を軽く二、三度たたくと、五十ヱ門は背を向ける。「知るも知らぬも逢坂の関…」とのどやかに口ずさみながら襖を押し開けて歩み去る。

 

 


「あの…半助さん…」
 まだ半ば呆然としながら利吉は声をかける。「五十ヱ門さんって…」
「ああいうヤツだ。いつも忙しくて、言いたいことだけ言って…」
 半助の眼は、押し開かれて白い光で満たされたままの縁側を向いている。外のまぶしさに眼が慣れてくると、そこにはぽっかりと空いた空間に何事もなかったように、庭先と氷ノ山の緑の山容が収まっていた。
「アウトローとか、アウトサイダーって…」
「石川は、修業時代から優秀だった。私が修業についていくのに精いっぱいだった時、石川にはもうその先にあるものが見えていたようだ。修業を終えると、忍みたいなつまらないものにはならない、日本一の大泥棒になるんだって出奔していったんだ…」
 独り言のように半助は説明する。
「では、五十ヱ門さんは…」
 利吉は息をのむ。
「途方もない、男なんだ。私など、及びもつかないくらい、ね」
 静かな諦念とともに半助はさみしげに微笑む。
「…」
 その横顔を、利吉は見つめていた。閉じられていた世界に奔流のように清新な風を吹き込ませた存在であるこの青年もまた、ここを去る日が来る。そのとき、再び閉じられた関の戸を前に、自分はどんな思いで立ちすくむのだろうか。
 -僕は、ガマンできるのだろうか…。
 不安でならなかった。

 

 


 -利吉君も、いつか広い世間を知るだろう。
 奥歯を噛み、きりりと引き締まった少年の横顔を、半助は痛ましげに見つめる。
 -そして、往く人、来る人に出会うだろう。
 その会者定離が、いつか少年を大人にする。
 -それが利吉君にとっての逢坂の関になるんだ…。

 

 

<FIN>

 

 

 

 

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