秋の寓話
いつもギンギンに忍者してる文次郎ですが、では室町末期~戦国の世に生きるとはどのようなことなのか、そのことに大人たちは一抹の危惧を抱いているのではないでしょうか。そして、そんな大人たちのたくらみを文次郎はどのように受け止めるのでしょうか。
「精が出るね」
「おかげさまで」
薬研をつかう単調な響きのなかにくぐもった声が交わされる。
「本当に治療はそれだけでよろしいのですか」
静かに訊くのは薬研を動かす手を止めずにいる新野である。
「十分だ。もう少し休ませてもらえるとありがたいのだが」
壁に背を預けた偉丈夫-雑渡昆奈門が応える。
「もちろん構いませんが」
ぱらぱらと薬研に薬種を加えながら新野は言う。「せめて横になられてはいかがですか。せっかく布団も用意してありますから」
「お心遣い痛み入るが」
平板な声で昆奈門は続ける。「どうも無防備に横になるのは抵抗があってね」
「タソガレドキの忍組頭としてはそうなのでしょうが」
新野は小さくため息をつく。「私の立場としては、休息が必要なのではないかと思いますよ」
「そうかね」
昆奈門は作戦行動中に負ったケガの治療を求めて学園の医務室を訪れていた。敵方に潜入作戦を展開していたとき、思いがけず大規模な反撃を受けて部隊はバラバラに退却を余儀なくされた。昆奈門自身も部下の退却を見届けながら立ち去ろうとしたときに火縄の弾を受けてしまったのだった。
タソガレドキにあるまじき失態だった。近年なかったほどの失敗だった。部隊の犠牲がなかったことだけが救いだったが、自分を含め多くの負傷者を出してしまっていた。そして追手がすぐそばまで迫っていた。一般的にタソガレドキと忍術学園は敵対関係にあるとみなされていたから、まさかタソガレドキの忍組頭が忍術学園に逃げ込んでいるとは思われないだろう。
「他の皆さんは大丈夫なのでしょうか」
手早く治療しながら、気がかりそうに新野は訊く。
「うまくできたものでね」
淡々と昆奈門は応える。「良くも悪くも私は目立ちやすい。だから十分敵を引き付けておいたさ。部下たちはうまくタソガレドキ領内まで逃げおおせたはずだ」
「それならよろしいのですが」
静かに新野は頷く。「少なくともここにいる間はあなたには指一本触れさせません。私の責任において」
「すまないね」
無関心そうに応じながらも昆奈門は内心の驚きを抑えきれずにいた。
-どうしたらそこまで断言できるのか…この男が保健委員たちに影響を与えているというわけか…。
善意そのものの笑顔を浮かべ、怪我人を見るや敵味方構わず手を差し伸べる保健委員たちが脳裏をよぎる。
「残念ながら、今日は保健委員たちは全員薬草採りに出ておりまして」
内心を読み取ったように新野は言う。「戻りは夕方の予定です。もしそれまでお待ちいただけるなら、みな喜ぶと思いますが…さて、これで一時的な手当ては終わりました」
「すまないね。それに、そんな時間まで居座るつもりはないよ」
すりつぶした薬種を煎じ器に入れる新野の手元を眼で追う。「それよりあんたと話をしたかった」
「私でよければ何なりと」
煎じ器に火を入れながら新野は応える。
庭先からか細く虫の声が聞こえる。いつの間にか蝉の声が絶えたかと思うと、昼でも虫の声が聞こえるようになっていた。
「あんたは人の命を奪ったことがあるかね」
静けさを破る唐突な問いだった。あえて挑発的に投げつけた問いだろうと新野は考えた。
「医者というものは、命の積み重ねの上で腕を磨いていくものです」
自嘲的な口調で新野は言う。「因果なものですな」
「まるきり忍と同じだね」
昆奈門が肩をすくめる。「目的はずいぶん違うが」
「まあ、そうかもしれませんな」
新野も否定しない。忍が命を積み重ねるということは、作戦行動の中で犠牲を厭わないという意味である。
高名な医師のもとで修行していた時代、思えば多くの死に立ち会ってきた。その間に、いつしか死への感性も摩滅していたかつての自分だった。時に助からないと分かっていてもあえて薬効を確認するために投薬したこともあった。そういったひとつひとつの積み重ねの上に自分がある。
-所詮、賤業にすぎませんからな…。
忍も、医師も。
ずかずかと荒い足音が廊下を伝う。隻眼を見開いた昆奈門が立ち上がろうとするが、新野が制する。
「あなたにはまだ安静が必要です。傷口が広がったらことですからな」
そう言うと昆奈門が口を開く前に医務室の襖を開けて廊下に立つ。
「新野先生…」
そこには文次郎が立っていた。昆奈門が学園に忍び込んだらしいと聞きつけて、まっさきに医務室に向かったのだ。そこにいる可能性が最も高いから。だが、医務室の前の廊下に立ちはだかる新野に思わず足を止める。
「申しわけないが中に患者がいましてな」
穏やかながらも決然と新野は口を開く。「安静が必要です。少し静かにしていただけませんかな」
「お言葉ですが、中に誰がいるのかは分かっております。くせ者を学園内にかくまうというのはいかがなものでしょうか」
言いながらもすでにその手には袋槍の穂が握られている。
「患者のプライバシーを守る義務が、医療者にはあります」
上背を乗り出してくるように凄む文次郎にもまったく堪えずに新野は応える。「たとえ学園長命令であっても、それは破れないものでしてな…おや」
ふと、その視線が右腕の袖口に注がれる。「ケガをしているようですな」
「あ、いえ、それは…」
しまったという表情になった文次郎が腕を引っ込めようとするがもう遅い。右手首を掴んだ新野は空いた手で袖口をぐいとまくり上げる。
「どうしたのですかこれは。打撲だらけではありませんか」
手首から二の腕にかけて細かい傷と打撲傷があちこちにあった。新野の声が尖る。「いけませんな。すぐに手当てしないと」
「い、いえ、ですからいいです…」
「治療の必要性を決めるのは私です。来なさい」
どこにそんな力があったのかと思うような力で手首をぐっと掴むと、がらりと襖を開けた新野が文次郎を医務室に引きずり込む。
「ですから先生…って、この野郎! やっぱいやがったか!」
本気で振り切るわけにもいかず、されるがままに医務室に足を踏み入れた文次郎が、昆奈門の姿を認めて眼をむく。
「いいからここに座りなさい」
今にも袋槍の穂を振りかざして襲い掛かりそうな文次郎の方に両手を置いて強引に押し下げて座らせる。すばやく上着と襦袢を脱がせて他に傷がないかチェックする。
「胴体には多少傷があるもののこれらは大丈夫でしょう。左腕にもいくつか打撲傷がありますね…いったい何があったというのです」
いつの間にか袋槍の穂は取り上げられ、上半身を裸にされて戦意もだいぶ喪失したようである。昆奈門がすぐ近くにいても文次郎はぼそぼそと応える。
「はい…留三郎と…」
「勝負というわけですか」
小さくため息をつく。「ということは、足蹴を防いでできたということですな」
「…はい」
大柄な体を縮ませて文次郎が頷く。
「わかりました」
言いながら立ち上がると、小さな壺に入った塗り薬を丁寧に塗り始める。「少し沁みると思いますが我慢してください。あと薬湯を出します」
「薬湯…ですか?」
小さく眉をしかめて沁みる傷口を堪えていた文次郎が意外そうに顔を上げる。
「そうです。傷から細菌が入っているかもしれませんから、抵抗力をつけるための薬湯です」
説明しながら薬を塗り終えると、手早く煎じ器に砕いた薬草を入れて煮出す。
「さ、熱いから少しずつ飲むのですよ」
湯呑に注いだ薬湯を手渡す。
「はい…」
口をつけた文次郎は、苦さに一瞬顔をしかめたが、あとは吹いて冷ましながら少しずつ飲んでいく。
「ありがとうございます」
湯呑を新野に返した文次郎が上着に袖を通しながら訊く。「もう戻ってもよろしいでしょうか」
「いいえ」
あっさりと言うと壁際に延べてある布団を指さす。「薬湯の効果を引き出すためには安静が必要です。そこで横になってください」
「あの…自分の部屋で、というのではだめでしょうか」
おずおずと文次郎が訊く。いくら何でも昆奈門がいる前で布団に横になるなどという無防備な姿をさらすのは耐えられなかった。
「なんのためにここで休むよう指示していると思っているのですか」
新野の声に容赦はない。「そこで休んでください」
「…はい」
あきらめたようにのそりと立ち上がると、布団に身を横たえる。と、急激に全身から力が抜けていくのを感じた。
-ちっくしょ。これも薬のせいか…力が入んねえ…。
何やら難しい効能を述べて飲まされた薬のせいだろうと思うことにした。
「さて、お話の続きですが」
ふたたび薬研をつかいながら新野は口を開く。
「続いてたのかね」
「雑渡さんも、人を手にかけたことを気に病んでいらっしゃるのですかな」
「…」
答える前にちらと文次郎に眼をやる。大丈夫、というように新野が小さく頷く。
「毎年、この時期になると思い出すことがある」
おもむろに口を開く昆奈門だった。「ある城と籠城戦になったとき、苅田狼藉(かりたろうぜき・収穫前の敵地の収穫物を刈り取ること)をやってね。収穫直前だった。稲も粟も芋も栗もね。通常ならばそこまでやれば長くないのだが、その城はよほど備蓄があったのか、ひと冬乗り切った。次の春にどうなったと思うかね」
「あまり想像したくありませんな」
短く新野は応える。
「雪解けと同時にそこら中に死体が散らばっていたよ。逃散もできず、城に逃げ込むことも断られた農民たちが、骨と皮ばかりになってね」
あえて続ける昆奈門に宿ったトラウマを感じる新野だった。
「それでも籠城が続いたということなのですな」
「なにせ降参しないのでね…苦労して相手の水源を絶って、ようやく落城させたのだが」
「なるほど」
そこに至るまでの酸鼻をきわめる状況まではさすがに想像しかねた。
「私は当時、狼組の小頭の補佐をしていたのだが、さすがにここまでする必要があるのかとは思ったね。まあ、領民のことを鑑みずにそこまで抵抗する城主が悪いのだが…同盟を求めてあちこちの城に放った密使は全部捕らえて首を刎ねて送りつけてやったのだから、抵抗してもムダだと分かっていたはずなのだが」
「城主は選べませんからな」
「そのときつくづく思ったよ。頭の悪い城主をもった領民がどれだけ不運かとね。今の世もそんな城主はあちこちいるが」
日が暮れてきたらしい。虫の声が高まる。
「実は私も、この時期になると思い出すことがあります」
薬研をつかう手を止めた新野が昆奈門に向き直る。「あれは10歳くらいの子どもでした。学園の一年生くらいですな。ひどく腹痛を訴えていました。みぞおちから右下腹部の痛み、発熱、嘔吐など、典型的な虫垂(盲腸)炎の症状でした。虫垂には一般的に腸癰湯(ちょうようとう)を処方することから、私はそう師の医師に提言しました。だが、私の師の判断は違いました」
そこまで言うと苦しげに新野は小さく頭を振った。
「…」
黙って昆奈門は続きを待った。
「師は新たな薬の逐次投与を指示しました。唐渡りの珍しい薬種を配合した薬でした。そのような薬が虫垂に効くとは私が読んだどの医書にもありませんでしたが、師がそう指示する以上、きっと私のまだ知らない処方なのだろうと思いました」
「それでどうなったのかね」
結論はほぼ見当がついていたが、昆奈門は訊く。
「子どもは亡くなりました。非常に苦しんでね」
思いつめた表情でここまで言うと、新野は大きくため息をついた。「後で知ったことですが、師はまったく新たな処方を試みようとされでいました。薬効については、今から考えればもしかしたら効果はあったかも知れません。ですが、あのような少量ずつの投与ではどのみち効果は望めませんでした。いたずらに患者の苦しみを延ばしただけでした。それでも、虫垂は致死率が高い病ですからそのこと自体は仕方がないことだと思いました。しかし、私はそのときの師の言葉は忘れることはできません」
苦しげに息をついた新野が続ける。「『なんだ、もう少し所見が得られると思ったのだが』というのが師の言葉でした。助けられなかった命かもしれませんが、あえて苦しみを増したことについてなんの反省もない、これでいいのかと私は義憤に駆られたものでした。しかし、それは筋違いだとすぐに思い知らされました」
「…」
「私はすぐに、腑分け(解剖)をすべきだと師に提案しました。虫垂の直後の状態がどういうものか、この眼で確かめたかったからです。しかし、師は『腑分けした遺体を受け取った遺族がどう思うのか考えろ』と叱責しました。それで私は気付いたのです。結局のところ、師と私は同じレベルのところにいた。患者の尊厳など微塵も顧みないことでは同類だったのだと」
眼を閉じて静かに口を閉じた新野に代わって、鈴虫が高い音で鳴き始めた。
「子どもを鳥辺野に送ったときも、鈴虫がよく鳴いていたそうです。きっと子どもに代わって家族に声をかけたのだろうと参列者から聞きました」
「まるきり定家の歌だね。鳥辺山 ふり行くあとを あはれとや」
「野辺の鈴虫 つゆに鳴くらむ…それ以来、どうも虫の声は私の心をざわつかせるものとなってしまいました…」
再び口を開いた新野が苦笑しながら昆奈門に向き直る。「さて、潮江君の処方で後回しになってしまいましたが、薬湯ができあがりました。お飲みなさい」
いつの間にか煎じあがった薬湯を湯呑に注いですすめる。
「これはなんの薬かね」
湯呑を手にした昆奈門が訊く。
「身体の抵抗力を増すための薬です。外傷から菌が体内に入り込んでいる可能性がありますから、内部から菌に侵されないためのものです」
「彼に処方したのと同じということかね」
いつの間にか寝息をたてている文次郎に眼をやりながら確認する。同じようなことを説明していたような気がした。
「少し違います」
いたずらっぽく小さく唇の端をゆがめて笑いを浮かべた新野が応える。「その薬は単純な滋養強壮薬ですが、潮江君には身体の機能だけを先に麻痺させる薬を飲んでもらいました」
「ということは、我々の話は聞こえていたということかね」
呆れたように肩をすくめながら、懐から出したストローで湯呑の薬湯をすする。
「まあ、聞こえていたでしょうな。彼は慢性的に寝不足ですから、すぐに眠った可能性の方が高いですが」
-くっそ、何の話をしてやがる…。
全身の筋肉から力という力が抜けてしまったようだった。
ひどく気だるかった。もう二度と布団から起き上がる気力が戻らないような気がした。
-そんなに疲れていたか…?
自主トレから戻った後とはいえ、いつものケンカだった。新野は大げさに治療したが、ケガだっていつもと変わらなかった。それなのに、薬湯を飲んで布団に横たわると、これまで感じたことのない脱力感に襲われた。
それなのに、ぼそぼそと話す新野と昆奈門の声は、妙にクリアに耳に届いた。
-新野先生とくせ者ヤローがどんな話をしてるっていうんだ…。
文次郎は耳をそばだてた。意外なほどはっきりと話が聞こえてきた。それは、あまりに意外な話だった。
-…。
昆奈門の話も新野の話も、あまりに淡々と語られるので現実とは思えないほどだった。それぞれ凄惨な経験を積んだ二人が、茶飲み話でもするように穏やかに向き合って話している。
-俺に、できるだろうか…。
もちろん戦場に潜り込んだことも何度もある。人の命を奪う経験と無縁だったとはいえない。だが、そこまで人の命が軽かった経験があっただろうか。自分に、そのような経験が耐えられるだろうか。
-…。
ふいに意識に暗幕がかかり始めた。新野が昆奈門に薬湯をすすめている声が聞こえたような気がしたが、急速に声が遠ざかり、思考が途絶えた。
「ただいま戻りました」
「遅くなってしまいました~」
にぎやかな声とともに襖があいて、籠一杯の薬草を背負った保健委員たちが医務室に戻ってきた。
「おや、お帰りなさい。たくさん摘んできましたな」
文机に向かって書き物をしていた新野が微笑む。昆奈門はすでに姿を消していた。
「はい。思いのほかたくさんの薬草がとれたもので、って、あれ?」
笑顔で床に籠を下ろしていた伊作が、壁際の布団で眠る文次郎に眼を止める。
「ああ。食満君とケンカをしたらしくてケガをしていたのでね。治療して休ませていたところです」
「もう、いつも文次郎と留三郎は…それで、留三郎は?」
うんざり顔になった伊作が訊く。
「ああそうでした。まだ食満君には医務室に来るよう伝えていませんでした」
ふと気がついたように新野が言う。
「わかりました。あとで医務室に来るよう伝えます…ったく、留三郎もいつもムチャするくせに治療を嫌がるんだから…さ、薬草の整理は明日にしよう。今日は戻っていいよ」
ぶつくさ言った伊作が、籠を部屋の隅に固めるよう指示する。
「は~い」
「おつかれさまでしたあ」
疲れた表情の中にも明るく笑いながら、後輩たちが長屋へと戻っていく。
「では私も。すぐ留三郎を連れてきます…治療は僕がしますから、先生はお仕事を続けていてください」
一礼した伊作も足早に長屋へと向かう。
-少しは現実を知るよすがになればよいのだが…。
静けさが戻った部屋で、筆を走らせ始める新野だった。ふたたび鈴虫の声が耳に届きはじめる。
実技、教科ともに優秀と教師たちから聞いている文次郎だったが、その行動に危うさを感じているのも事実だった。
-だが、この乱世に世に出るとは、そんなに甘いことではないのだ…。
だから、あえて意識だけは残るような薬湯を飲ませて話を聞かせた。昆奈門も意図を汲んだかは分からないが、話に乗った。
-それで君の行動に変化を与えられるかは分からない。だが、少なくともその機会だけでも与えたかったのだ…。
太い眉が応えるようにぴくりと動いた。だが、健やかな寝息は止まらない。
虫の声が、さらに高まる。
<FIN>
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