夢の浮橋


pixivの某企画に便乗させていただいたお話です。

公式で6年前の利吉&半助をやられたときには魂を抜かれたかと思いましたが、いまやそれを糧にせっせと過去話を捏造するまでに至ってしまいました。でも楽しかったからそれでいいもん! という開き直りのお話ですw



 -今の私には、夢の憂き橋、だな。
 利吉は、ため息をつく。
 ありとあらゆる偶然をかき集めてもなお足りないような僥倖を経て、いま隣には、少年だった自分に深い刻印を残して一瞬の閃光のように通りすぎた人物が座っている。あの頃と変わらない面影で自分に語りかけてくれる。
 だが、自分は大きく変わってしまった。もはやあの頃のように傍らにいてくれるだけで満足することなどできない。これほど近くにいるのに、どれだけ手を差し伸ばしても届かないところにいるように感じるのだ。
 それでも自分は忍術学園を訪れる。父に会うため、食堂のおばちゃんの食事を味わうためと言いつつ、求めてやまない人物の傍らに行くために。




「相変わらず忙しくしているようだね。さすがは売れっ子忍者だね」
 軽口をたたきながら迎えてくれた半助は、いつものように酒の入った瓢箪を取り出す。「まあ、一杯どうだい」と言いながら。
「ところで父は」
 きれいに片づけられた父の文机に眼をやった利吉が訊く。
「ああ。山田先生は会議で出張なんだ。数日は戻られないだろう」
 淡々と説明しながら半助は訊く。「家に戻られるよう説得に来たのかい?」
「まあそのつもりだったのですが」
 利吉は言葉を切ると肩をすくめる。「不在なら仕方がないですね。ご相伴します」
「それなら、上で飲もうか」
 半助がにっこりしながら瓢箪と杯を持ち上げる。


「少し月が明るすぎますね」
 軽く眉を顰めながら利吉は杯を干す。
「そうだね」
 伸びやかな声で月を見上げながら半助が言う。「さ、もう一杯どうだい」
 半助が利吉の杯を満たす。
「どうも」
 利吉が短く答える。しばし言葉が途切れ、春の夜風がさわさわと2人の青年の髪を揺らす。
 -そういえば、あの夜もこんな月の明るい夜だった…。
 杯に映った月を黙然と見つめながら、しばし利吉は思い出を紡ぐ。




 
 あいつが家に担ぎ込まれてから数日が過ぎた。


 忘れもしない。両親と久しぶりの野遊山に出かけたときに突如闖入してきた若い忍こそが土井半助だった。
 -せっかくの野遊山だったのに…! 
 そのときは、ひたすら恨めしい男だった。当然ながらその場で野遊山は中止になり、しかも両親はその忍を家に連れ帰って手当てをしようと言いだしたのだから。
 傷を負った若い忍が運び込まれた奥の部屋に入ることは禁じられた。だが、利吉は襖を細く開けてそっと中を垣間見た。
 介抱する両親の身体に隠れてよくは見えなかったが、若い忍は刀傷を多く負っているようだった。利吉からは見えなかったが、背中のあたりにも傷を負っているのだろうか、父親の手が回ったとき、若い忍はほんの一瞬、顔をゆがめて歯を食いしばった。打撲傷かもしれないと利吉は思った。あのとき、この人物は背中から落ちてきたから。
 -すごく痛そう…。
 今まで眼にしたこともないようなおびただしい傷に、利吉は両親が見るなと言った理由を理解していた。
 -どうやったら、あんなに我慢できるのだろう…。
 それなのに、あの若い忍はうめき声ひとつ上げずに耐えているのだ。そのさまに、つい眼を放せずにいた。
 ふと、若い忍が顔を上げた。そして、襖の陰から覗き見ていた利吉とまともに視線が合ってしまった。その瞬間、若い忍は微笑んだ。明らかに、自分を意識して笑いかけた。
 気がつくと閉じた襖を背に立っていた。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。全力で走ったときのように心臓が高鳴っていた。
「おや、どうしたかな?」
 顔を上げて微笑む若い忍に、伝蔵たちが振り返る。だが、そこにはぴったり閉じられた襖があるきりである。
「いえ、なんでもありません」
「こんなにたくさんの傷を負われて、さぞお痛いでしょうに」
 伝蔵の妻が小さく眉をひそめる。
「なに、こんなのいつものことです」
 微笑んだまま若い忍は強がりを言う。
「それも困ったものだが」
 包帯を留めながら伝蔵はぼやく。傍らで妻が片づけを始めている。
「…とにかくこれで応急処置は終わりだ。骨にひびが入っているおそれがあるところもいくつかあるから、当分は絶対安静だ。しばらくはここにいなさい」
「しかし…」
「絶対安静と言ったろう」
 身を起こしかけた若い忍を制した伝蔵は、肩をそっと押して布団に横たわらせる。妻が布団を被せる。
「私がここにいては、皆さんにご迷惑をかけてしまいます。だから…」
 訴えかけるような口調でなおも起き上がろうとする。
「じっとしていなさい」
 伝蔵の片掌が布団を押さえる。
「私がこの家の主だ。この家にいる間は、私の指示に従ってもらう。今は静かに養生することを命じる」
 ここまで威圧的に言い切った後で、伝蔵は声を下げて穏やかに語りかける。
「何があったかはだいたい見当がつく。なに、私も妻ももとは忍とくノ一だ。敵が来ても撃退するなど簡単なことだ。だから安心して休んでいなさい。悪いようにはせん」
 ぽんぽんと布団を軽くはたくと、若い忍が何か言う前に腰を上げて立ち去る。
 

 
「利吉、あの方の夕食です。お持ちしなさい」
 母に手渡された膳を受け取ると、利吉はぶすっとしたまま「はい」と言い捨てて若い忍が寝かされている奥の間に向かった。
 -なんで僕が、あんなやつの世話をしなきゃいけないんだ…!
 と思いながら。
 -そういえばあの人の名前を聞いてなかった…。
 両親もあえて訊こうとしなかった。忍の名前など訊くだけヤボというものなのだろうが、それではどう呼びかければいいのだろう。
 -まあいいや。名前を呼ばなければいいんだ。
 奥の間の襖の前でしばし立ち止まったまま考え込んでいた利吉は、ようやく考えをまとめると膝をついて膳を置いて声をかける。
「夕食をお持ちしました」
 返事はない。
「あの、夕食です…」
 少し声を上げてみたが、返事はなかった。
 -なんだよ。わざわざ食事を運んで来てやったのに…!
 そのまま部屋の前に膳を置きっぱなしにしてやろうかとも考えたが、そんなことをすれば両親から叱られるのは眼に見えていたから、利吉はそっと襖を開けて中をうかがう。
 -!
 利吉は思わず息を呑む。
 布団の中で大人しく眠っているはずの人物は、半ば布団から身をはみ出して、背を丸めたままうめき声をあげていた。
 -たいへんだ! 父上を呼んでこなきゃ!
 慌てて立ち上がった気配に気づいたのか、若い忍は苦痛にゆがんだ顔を利吉に向けた。
「利吉君…だったね…」
 かすれ声に呼ばれて利吉の動きが止まる。
「こっちにきて…くれないか…」
 青ざめた顔で、訴えるような眼で、若い忍はうめきながら声を漏らす。呆然と突っ立っていた利吉だったが、このまま捨て置けないと腹をくくって奥の間に足を踏み入れるとおずおずと声をかける。
「どうしたの…ですか?」
「とっても…くるしいんだ…。背中をさすって…くれない…か…」
「は、はい」
 丸めた背をさすりながら、利吉は豊かな髷の向こうにのぞく脂汗のにじんだ首筋や荒い息を吐く横顔をちらと見た。
 -こんなに苦しそうで…かわいそう。
 外傷だけでこのような症状になることは考えにくかった。
 -刀に塗られた毒が身体に回ったのか、それともなにかの病気なんだろうか…。
 忍として必要な医療の知識も学び始めていた利吉は、手を動かしながら考えをめぐらす。だが、利吉の知識ではそれ以上の考えは浮かばなかった。
 -どうしよう。毒にしても病気にしても、背中をさすったくらいで治るものじゃないし、父上や母上にもどうしようもないかも知れないし、でも、今から医者を呼んでも手遅れかもしれないし…。
 悪い考えばかりが頭を巡る。背をさする手にいつの間にか力がこもっていた。
「み、みず…」
 苦しげなかすれ声に、慌てて枕元の桶の水を湯呑に続けさまに汲んで飲ませる。そして、また背をさする。
「…ありがとう。だいぶ、楽になったよ」
 呼びかける声にはっと我に返った利吉は思わず相手を凝視する。そこには、脂汗をにじませたまま弱々しく笑いかける若い忍がいた。
「もう、だいじょうぶなのですか…?」
 背中をさすったくらいであんなに苦しげだったのが治るということなど、ありうるのだろうか。信じられない思いで利吉は座り込んだまま眼を見開いていた。
「ああ。君のおかげだ。ありがとう」
 大きな優しい瞳で利吉を見つめると、若い忍は手を伸ばして頭を軽くなでた。
「子ども扱いしないでください」
 不意に、相手がせっかくの野遊山をだいなしにした張本人であることを思い出した利吉は、ついと顔をそむけて言い捨てる。「食事、ここに置きますから」
 ずかずかと奥の間を出ると後ろ手でぴしゃりと襖を閉じる。
 -なんだって、あんなやつの介抱なんかしたんだろう…。
 そして、ふと思うのだった。もしかしたら、あの若い忍は自分で毒を飲んで果てようとしたのではないのかと。



 -死にそこねてしまったか…。
 ふたたび布団に身を横たえた半助は小さくため息をついた。
 任務に失敗して敵に追われていた自分を助けてくれた家族には感謝していた。だが、忍としての本能がその厚意に身を委ねる危険を知らせていた。そもそも自分を助けた夫婦は、忍とくノ一だと自ら言っていたではないか。追っ手が来たときにあっさり自分の身柄を引き渡しても不思議ではない。あの夫婦には、自分をかくまう何の義理もないのだ。
 だから、携えていた毒を飲んだ。敵の手に落ちて拷問を加えられたとき、自分が任務の秘密を最後まで守りきれる自信がなかったから。そして自力でこの場から脱出できるほどの体力も残されてない今とあっては、自決する以外に方法はないように思われた。
 だが、自ら果てることもできなかった。唾だけで辛うじて呑み込んだ毒だったが、すぐに猛烈な吐き気を催して吐き出してしまったのだ。それでも毒の一部は喉を通り抜け、体の中に入ってしまった。そして死にきれないまま焼け付くような内腑の痛みに悶えていたのだ。そして、そのときに利吉という名の少年が現れたのだ。
 なぜとっさに救いを求めてしまったのだろう。半助は考えずにはいられない。自分がここで果てようとしたことは、どのような意図があったにせよ自分を助けたあの家族の厚意を裏切ることになる。それに、あの少年は自分を恨んでいたはずだ。野遊山をだいなしにされた恨みがましい眼を見れば明らかなことだった。それなのに、少年は必死に自分の背をさすってくれた。そして飲ませてくれた水のおかげで毒も中和されたのだろう、楽になることができた。
 -あの少年に助けられた、ということか…。
 忍として、あらゆる貸し借りを切り捨ててきたはずの自分が、よりによって年端もいかない少年に救われるという借りを作るとは。それもまた、今までの自分にあるまじき姿のようで半助は惑う。



「あなた、お気をつけて」
「行ってらっしゃいませ、父上」
 母親に続いて利吉が上り框に手をつく。
「うむ。行ってくる」
 玄関先には旅姿の伝蔵がいた。
 -ああ、出かけてしまうんだ。
 不意に涙がこみ上げてきそうになって、利吉は頭を垂れたままでいた。12歳にもなって、泣き出しそうな顔を人に見せたくなかったから。
 休暇が終わり、伝蔵は単身赴任先の忍術学園へと旅立つ日だった。ごく小さいころから慣れていた場面であるはずだったが、それでも数か月の別れとなる父の出発の日は心が重かった。
「…」
 父親の足音が遠ざかり、傍らの母親が立ちあがって奥へと消えていっても、利吉は手をついて頭を垂れたままその場にいた。
 -僕はもう12歳なのに。父上から、『母上のことを頼むぞ』と言われて僕が母上を守らないといけないのに、僕はいつまで子どもみたいに泣きそうになってるんだろう…。
 父親が出かけた後の家はどこか空虚で、いつもながら慣れるのに数日かかるのが常だった。いずれ大きくなればそのようなことも感じなくなるのだろうと思いながら、今年もまた喪失感を感じずにはいられなかった。
 -いつまでもくよくよしてちゃだめだ! 父上がいない間こそしっかり忍の修行をして、帰ってきた父上を驚かせてやるんだ!
 必死で自分を鼓舞してようやく顔を上げた利吉は袖でぐいと眼を拭うと立ち上がった。
「利吉」
 奥で母の呼ぶ声がする。「はい」と返事をすると、利吉は小走りに声の方へと向かった。



「これをあの方に。着替えをお手伝いして差し上げなさい」
 替えの夜着を手渡された利吉は、憮然とした表情を隠せなかった。
「まあ、なんて顔でしょう。あの方はまだ立ちあがることも難しいのですよ。あなたがお手伝いして差し上げなくてどうするのです」
 眉をひそめても美しい母だったが、その口調に有無を言わせぬものを感じた利吉は「はい」と返事をするしかなかった。
 -だいたい、いつまであいつを家に置くつもりなんだ! その間、あいつの世話を僕がするなんてごめんだ!
 だが、父が出かけてしまったとあっては、忙しくなる母に代わって自分が厄介な客の世話をせざるを得ないことは明らかだった。
「失礼します」
 無愛想に声をかけると奥の間の襖を開ける。
「やあ」
 布団に身を横たえた若い忍が顔を向ける。「今日は利吉君が来てくれたんだね」
「父が出かけてしまったものですから」
 利吉はつんとして答える。「着替えをお持ちしました。お手伝いします」
「ありがとう」
 微笑みかける相手を無視して布団を退けると、持ってきた夜着を広げる。次いで着ている夜着の帯を解いて袷を開く。全身に巻かれた包帯が露わになって利吉は少し眉をひそめたが、すぐに何も見なかったように汗で湿った夜着から身体を持ち上げると新しい夜着の上に移す。袖に腕を通して袷を重ねて帯を締める。
「利吉君、ありがとう」
「気安く人の名前を呼ばないでください」
 利吉の声がきつくなる。「僕は、あなたのこと嫌いですから」
「そうか」
 寂しそうな笑顔で半助は言う。「まあ、君に嫌われても仕方のないことだが…」
 言いかけたところでその表情が急に強張ると同時に「危ないっ!!」と鋭い声がして利吉の身体は床に押し倒された。動かすこともままならなかったはずの若い忍の身体が自分の上に覆いかぶさっていた。次の瞬間、梁から刀を振りかぶった忍が飛び降りてくるのを利吉の眼は捉えた。びゅっと風を切って刃が振り下ろされる。思わず眼を閉じる。と、利吉の身体が跳ね飛ばされると同時に、だん、と大仰な音がして空を切った刃が床にぶつかる。
 慌てて眼を見開いた利吉の眼の前には、若い忍の背があった。信じられないことに両の足で踏ん張って、自分を背後にかばって、闖入してきた忍と対峙していた。そのとき、利吉は衝撃的な事実に気づいた。この若い忍は丸腰なのだ。体術の構えはとっていたが、刀を持った相手の敵ではないだろう。
「こんなところに潜んでいたとはな」
 刀を構えた忍の声が覆面の下から低く響く。「だが、観念するのだな」
 そのとき、外で派手な金属音が鳴り響いた。この忍の仲間がいるのだと利吉は思った。戦っている相手は母に違いない。手裏剣などの投擲武器であれば男と同等に戦えるだけの実力はある母だったが、それでも相手を食い止めるのが精一杯だろう。それなのに、こちらはまだ未熟な子どもと手負いで丸腰の男しかいないのだ。そして、いま、外の物音にちらりと眼をやった忍がふたたび刀を構えてじりじりと近づいて来ていた。だが、自分をかばっている若い忍は立っているのもやっとなのが利吉にも容易に見て取れた。そのとき。
「私の家族に何をする!」
 部屋に踏み込んできたのは苦無を構えた父親だった。
 ちっと舌打ちをした忍が素早く梁に飛び上がると走り去る。
「大丈夫か」
 苦無を懐にしまいながら伝蔵が訊く。と、どうと音を立てて若い忍の身体が床に崩れ落ちた。
「お、おい」
 慌てて駆け寄った伝蔵が振り返りざま言う。「利吉、母さんを呼んできなさい!」



「怪しい忍が我が家に向かっているのを見たのでな。心配になって戻ってきたらこの有様だ」
 気を失ったままの若い忍を寝かしつけると、伝蔵はため息をついた。
「この方を追って来たようです。どこの忍かは分かりませんでしたが」
 傍らに端座した妻が言う。
「危険だな」
 ぼそっと言うと伝蔵は腕を組んで若い忍の寝顔に眼をやる。「相手は彼がここにいることをつかんだ。きっとまた来るだろう」
「そうですわね」
 妻がそっとため息をつく。「ここに来たのは2人でしたが、数人の気配が周囲にありました。今回は女子どもが相手だと見くびっていたかもしれませんが、今度はもっと大勢でかかってくるでしょうね」
「だが、よそへ移せるような容態ではない」
「まあ、何とかいたしますわ」
 膝の上できちんと手を重ねたまま妻はあっさりと言う。
「大丈夫か」
「あなたの出張セットに仕込むための仕掛けも火薬もまだ余分がありますから」
 ああそうだったと伝蔵は軽く上を仰ぐ。妻が本気になれば、家の周りを仕掛けだらけの要塞にするのは簡単なことだろう。
「ですから、安心してお仕事に行ってらっしゃいませ」
 少し家に帰る間が空くと過激な出張セットを送りつけてくるのはいい加減やめてもらいたいものだと思わないこともなかったが、あえて口にせずに伝蔵は立ちあがる。
「うむ…では、くれぐれも気をつけてな」



「父上!」
 奥の間から出てきた伝蔵の姿を認めた利吉が駆け寄る。
「あいつら、何者だったのですか? どこの忍者だったのですか…?」
 訊きながら、奥の間にちらと眼をやる。闖入者の目的がそこで眠る人物であることは明らかだった。
「素性は分からんが、何にせよ気をつけねばならん。利吉。お前も母さんをしっかり守ってくれ。頼むぞ」
「でも…」
 利吉は口ごもる。今回は父親が駆けつけてくれたから助かったようなものだが、遠い忍術学園に行ってしまったら、そんな僥倖は期待できない。それなのに、あの人物がいる限り襲撃の危険は消えることはないのだ。
 -あいつさえいなければ、こんなことにならなかったのに…!
 そう思わずにはいられなかった利吉だったから、口を衝いて出た台詞には自分でも驚いた。
「あの人は、大丈夫なのですか?」
 -なんで? あんなやつの心配をする義理なんかぜんぜんないのに、僕はなんてことを訊いてるんだろう?
「ああ。見たところ、新たな傷を負った様子はない…だが、あんな状態でよく立ちあがることができたものだ。ケガの治りが遅くならなければよいが…」
 ちらと奥の間を振り返りながら呟く。「よほど利吉を守らねばと思ったのだろうな」
「え…!?」
 思いがけない言葉に思わず声が漏れる。
 -僕は嫌いだといったのに、いなくなればいいとも思ったのに、あの人は僕を守ろうとしただって…?
 だが、それは自分をかばって立ちはだかる姿から想像がついたことだった。あのとき、若い忍はただ意志の力だけで立ちあがり、敵と対峙していたのだ。 
「では、行ってくる。それから、あの人には外に出るには充分注意するよう言っておいてくれ。母さんの仕掛けはかなりえげつないからな。まあ、しばらくは絶対安静だから外に出ることはないと思うが…」
「わたくしの何がえげつないと…?」
 利吉の耳に顔を近づけて言いかけた伝蔵がびくっと肩をふるわせる。いつのまにか妻が背後にいた。口調はおっとりしているが眼は笑っていない。
「あ、いや、そのだな…いま、利吉にくれぐれも母さんを頼むと言い含めておいたところだ。では行ってくる!」
 形勢不利を悟った伝蔵は慌ただしく言い捨てると一目散に走り去る。
「仕方のない方…まあ、仕方ないわ。利吉、わたくしは外でやることがありますから、あの方の様子を見てらっしゃい」
「…はい」
 外でやることが父の言う「えげつない仕掛け」であることは利吉にも分かっていたので、不承不承に頷く。
 -どうせまだ起きてないに決まってる。
 そう思った利吉は、声もかけずに奥の間の襖を開ける。
 果たして布団に身を横たえた若い忍は、まだ気を失ったままのようだった。
 -なんでこの人は、僕を守ろうとしたんだろう…。
 あれだけ露骨に嫌っていたというのに、それも本来なら立つこともままならないほどのケガを負っていたというのに。
 -どうしてだろう…。
 傷口の熱が全身に回っているのだろうか、顔が紅潮し、息が苦しげになる。傍らにあった桶の水に手拭いを浸して絞ると、顔や首筋の汗をそっと拭う。もう一度絞りなおした手拭いを額に載せると、呼吸が少し穏やかになった。
 そのまま利吉は枕元に座り込んで、しばらく様子を見ることにした。やがて若い忍は「う…」とうめき声を漏らして顔を数回振った。額から落ちた手拭いを利吉が拾ったとき、若い忍は眼を開けた。
「利吉…君…」
 かすれ声で呼びかける。
「…はい」
 心なしかその眼がうるんでいるように見えて利吉は戸惑う。
「大丈夫…かい? ケガはなかった…かい…?」
「…」
 -どうしてだ? なんで僕を気遣う? 
 返事を見つけられないまま押し黙って見つめる利吉が心配になったらしい。若い忍は布団から出した片腕をよろよろと伸ばす。
「利吉…君?」
「なぜですか」
 伸ばしてきた手を両掌で受けた利吉が押し殺した声で訊く。「なぜ、さっき僕を…?」
 助けようとしたのですか、と言いさして口をつぐむ。
「決まってる…じゃないか…」
 若い忍は少しうるんだ瞳のまま笑いかけた。「利吉君は…私の命の恩人の大切な息子さんだ…命をかけてでも守るのが当然だろう…?」
「…助かった命なら、もっと大事にしてください」
 半ば予想していたが、あまりに純粋な答えに却って動揺した利吉は、ぶっきらぼうに言い捨てるのがやっとだった。
「そうだな…君の言うとおりだ」
 若い忍は寂しそうに笑う。「君は、本当にしっかりしているね…」
「とにかく」
 相手を遮って利吉は声を上げる。「まだ具合が悪いのですから、じっとしていてください」
 絞った手拭いを額に載せると、利吉はずかずかと部屋を後にする。



「利吉、あの方の洗顔を…あら」
 翌朝、洗顔用に汲んだ桶と手拭いを母親から受け取った利吉は、ものも言わずに包帯を手にした。
「ついでに包帯も取りかえます。そろそろ替える頃ですよね」
 硬い声で利吉は言う。
「え、ええ。そうね」
 あれほど拒んでいた人物の包帯を自分から交換すると言いだした息子の心境の変化を掴みかねて、母親は曖昧に頷く。
「では、母上は朝食の用意をお願いします」
 むすりと言い残すと、利吉はすたすたと奥の間に向かう。
 -まあ、いいでしょう。
 その後ろ姿を見送りながら、小さく笑う。
 -利吉もようやく、あの方に心を開きかけたといったところなんでしょう…。



「包帯を…替えてくれるのかい?」
 洗顔の手伝いを済ませると包帯を取り出した利吉に、若い忍は意外そうに眼を見開いた。
「そろそろ替えなければいけませんから」
 しかつめらしく言うと「夜着を脱いでください」と促す。
「あ、ああ」
 夜着を脱いだ身体から包帯を巻き取る。
 -!
 肌があらわになるにつれ、利吉は衝撃を覚えずにはいられない。間近で眼にしたその身体は無数の刀傷や打撲傷で覆われていた。
 -こんなに、ひどかったなんて…!
 考えれば、両親に手当てされる様は細く開けた襖から垣間見ただけだったから、どれだけの傷を負っているかを見るのはこれが初めてだった。
 -これだけの傷を負って、痛くて仕方なかったはずなのに…。
 父が言うには、肋骨と左の大腿骨にひびが入っているという。
 -それなのに、この人は僕を守ろうとしてくれたんだ…。
「君は…大丈夫なのかい?」
 ふいに若い忍が訊く。
「何をですか?」
「こんな傷を見て…驚かないのかなって」
 ためらうような問いとともに心配げな瞳が自分に注がれる。
「僕も忍の家の子ですから」
 短く答えると新しい包帯を巻きはじめる。
「そうだね。君のお父上はとても偉大な忍のようだね」
「そうですが」
 短く答えて利吉は上背のある上体を見上げる。
「君やお母上を見ていれば分かるさ。偉大な人物は、周りの人にも素晴らしい影響をもたらす」
「…そんなものですか」
 まるでよほど人物眼があるような言いかただ、と思いながら利吉は曖昧に応える。確かに父が偉大であることは誇りであったが、この人は何をもってそんな知ったような言いかたをするのだろうか…。
「そうさ」
 大きく頷いた若い忍は微笑みかける。
「…というか、包帯を巻くので腕を上げてください」
「あ、すまない」
 これ以上どのような表情を見せたらいいのか分からなくなった利吉は、つんとして声を上げると、胸周りに包帯を巻きつける。
「もういいです、その…」
 包帯を留めた利吉は、腕を持ち上げたままの相手に呼びかけようとしてふと口ごもった。
「私の名前かい?」
 腕を下ろした若い忍は小さく首をかしげると続けた。「私の名は、土井半助だ」
「どい…はんすけ…」
 思わずおうむ返しに言った利吉だったが、すぐに疑わしげな視線になる。
 -忍があっさり本名を教えたりするものだろうか…あやしい。
「疑うのは当然だが、土井半助は私の本名だ」
 利吉の疑いを見透かしたように相手は続ける。「命の恩人に自分の名前すら名乗らないのはあまりにも失礼だからね」
「では、土井さん」
「半助でいいよ」
「半助…さん」
 口に出したとき、急に相手が近い存在になった気がして、こそばゆく感じた。
「ありがとう」
 半助はふたたび微笑んだ。「名前で呼んでくれると、親しくなれたような感じがするね」
「そ、そんなことより」
 優しい視線に耐えられなくなった利吉は赤らめた顔をそむける。「足の包帯も取りかえますから、横になってください」



「何を読んでいるのですか」
 数日後、起き上がれるようになった半助は、陽の当たる縁側で何やら本を読んでいた。
「ああ、これかい?」
 傍らに立った利吉に振り向きながら半助は応える。「これは六韜だ」
「りくとう…ですか?」
「そうだ。利吉君は孫子の兵法は知ってるかい?」
「はい。父に教えてもらいました」
「中国の主な兵法書を武経七書という。そのなかで一番有名なのが『孫子』だが、その次に有名なのが『六韜』と『三略』なんだ」
「はあ」
 優しい青年という印象しかなかった人物の口から唐突に深遠な知識が迸ったように思えて、利吉は当惑する。だが、それよりも好奇心が勝って半助の隣に腰を下ろした。
「どんなことが書いてあるのですか」
「戦を始めるにあたっての心構えから、いろいろな状況別の戦略や戦術まで、いろいろなことが書いてある。忍者にとっても、とても参考になるんだ」 
「『彼を知り己を知れば百戦して殆うからず』みたいなことですか」
 とりあえず憶えているところを言いながら、半助の膝に開いた本を覗き込む。
「よく勉強しているね。もちろんそれだけではない。いろいろなことだ。たとえばここだが」
 半助は開いた頁を指差す。「ここは『六守』について書いてある。六守とは、登用すべき人物に備わっている六つの条件のことだ。太公曰く『一に曰く仁、二に曰く義、三に曰く忠、四に曰く信、五に曰く勇、六に曰く謀。これを六守と謂う』。文王曰く『謹んで六守を択ぶとは何ぞや』。太公曰く『これを富ましてその犯すなきを観、これを尊くしてその驕るなきを観…』」
 半助が読み上げるが、利吉にはまだ難しい内容だった。内容が頭を通過していくままに低く穏やかな声を聞いていた利吉は、いつの間にか半助の腕によりかかって寝入ってしまった。
「『これに付してその転ずるなきを』…あれ?」
 ふいに暖かい感触が腕に押し付けられて、半助は顔を上げる。
 -利吉君…まだちょっと難しすぎたかな。
 小さく口を開けた寝顔があどけなく見えて、しばし見入ってしまう。起きているときは凛々しい印象をおぼえる少年だが、自分に身を預けて眠る姿には守らずにはいられないものを感じた。
 -こういう子たちに兵法や算術を教えるような教師になれたら…。
 抑えがたい願望が頭をもたげて、思わず半助はくっと眼を閉じる。
 -だめだ。私が生きてるのは、そんなことが許されるような世界ではない…。
 敵を欺き、出し抜き、命さえ容赦なく奪うような世界なのだ。
 -いずれはこの世界に入ってくるのだとしても、せめて今だけは…。
 それがひどく甘い考えであることは分かっていた。だが、この小春日和のような温もりの刹那が永遠に続くように願わずにはいられなかった。



 -まあ。
 用足しから戻った母は、縁側の光景に思わず小さい笑みを漏らす。
 -いつのまにやら仲良くなったものだこと。
 柔らかい陽射しのなかで、本を膝に広げた青年と少年がもたれ合って眠っていた。少年の肩に廻された青年の腕がまるで守っているようでほほえましかった。
 -あの方がいつまでここにいられるか分からないけど、しばし利吉の兄のような存在でいてくださるといいのだけど。
 難しい年齢を迎えつつある利吉が極端に人間関係の狭い山奥の寓居で育つことにいささかの不安を抱えている母は、年の近い存在の必要性を感じていた。自分も夫も忍の世界の人間という環境で育たざるを得ない利吉は、自分たち大人の敷いた一本道を進むしかない。もっと里に近ければ、他の生業もあることを眼にすることもできるだろうが、その機会もない。そして何より、自分たち大人だけでは不安定になりがちな思春期の心を受け止めきれないだろう。同じような年頃の子どもたちとぶつかり合ったり励まし合ったりしながら、ともに乗り越えていくしかないのだ。
 -でも、いずれあの方はここを去るでしょう。そのとき、利吉はどうなるでしょうね…。
 或いは父親の不在より深いダメージを受けるかも知れない。利吉にとって、すでにあの青年は自分たちが与えられないものを与えてくれる存在になっているだろう。本人が気付いているかどうかは別として。



「てやっ!」
「おっと…まだまだ」
 庭先では拾った木の枝を剣に見立てて半助と利吉が打ち合っている。
「えいっ!」
「いいぞ利吉君…もっと踏み込みを強く!」
「こう、ですかっ!」
「そうだ、その調子!」
 -まだ僕のこと、ばかにしているな…!
 余裕綽々といった様子の半助の台詞に軽い反発を覚えた利吉は、わざと疲れたように荒い息をして半助の様子をうかがう。
「どうしたんだい? もうこのへんにしておこうか?」
 気遣わしげに半助が声をかけたとき、
「てやぁっっ!」
 渾身の力で地面を蹴った利吉が枝を上段に構えたまま半助の身体に突進する。
「うぉっと…!」
 突然の利吉の動きに避けきれなかった半助は、まともにぶつかってきた利吉の身体をとっさに抱き止めながら尻餅をついてしまう。
「いっててて…」
「大丈夫かい、利吉君」
 気がつくと、利吉は地面に横倒しになった半助の身体に馬乗りになっていた。
「…って、あれ?」
 眼の前に立っていたはずの長身の青年が唐突に視界から消えた利吉がきょろきょろと周囲を見回す。
「いやぁ、降参降参」
 下から聞こえてきた声に慌てて視線を落とす。苦笑する半助と眼が合う。
「あ、あれ? どうして…」
 動揺した利吉がようやく立ち上がる。頭を掻きながら半助も身を起こした。
「私もまだまだだな…疲れたふりをした利吉君にすっかりだまされてしまったよ。それに今の気迫はすごかったよ」
 言いながら半助は縁側に腰を下ろす。並んで利吉も座る。
「でも、半助さんもすごいです。父と手合わせしているような感じでした」
 利吉はまだ上気した顔で眩しそうに半助を見上げる。
「それは光栄だなあ。私の剣術が君のお父上と並ぶとは思えないが」
 半助が照れたような笑いを浮かべる。
「半助さんは、どなたに剣術の手ほどきを受けたのですか?」
 熱心な眼で見上げながらの問いに、半助は一瞬ひるんだ。
 -それは…。
 剣術に興味のある少年なら当たり前の問いだったが、半助にとっては辛い記憶につながる問いでもあった。 
 -最初に私に剣の手ほどきを施してくれたのは、父だった…。
 そして、このように剣の相手をしてくれたのは、年上の乳母子や家臣たちだった。
 -だが、誰もいなくなってしまった。
 あの兵火の夜、父や主だった家臣たちは討ち死にし、そうならなかった者たちも四散して行方も分からなくなった。そして自分は、敵から身を隠すために名を変え、寺に預けられて育った。剣の手ほどきの思い出は、今、闇と業の世界に生きる自分とはあまりに深い断層の向こうにあった。その思い出に触れることは、いつも半助に堪えがたい痛みをもたらした。
「…いや、私の剣は無手勝流だ」
 抑えた声でこれだけ答えるのがやっとだった。不審そうに利吉が首をかしげる。
「でも、利吉君はお父上からきちんと学べるのだから、きちんとした流派を名乗れるのだろう? うらやましいなあ」
 苦労して朗らかな声を上げながら半助は話題の方向転換を図る。だが、それはあまりうまくいかなかったようだ。
「でも、いつも父はいないのです」
 不意に利吉は俯いた。眉を上げた半助が顔を向ける。
「いない?」
「父はずっと遠い場所に仕事に行っています。家に戻ってくるのはほんの短い休みのあいだだけです。僕はもっと父上から剣術も、忍法も、兵法や算術も学びたいのです。でも…」
「そうか」
 痛ましげな眼で半助は俯く利吉に眼をやった。そして、ふとこの少年の不在の父を恋しがる気持ちと忍術を学びたいという手段は本当に一致しているのかと考えた。家族が忍であれば自分も忍を目指すという気持ちは当然にも思えたが、それと本当に忍になりたいのかということは別であると半助は考える。
 -利吉君は聡い。いずれお父上に並ぶような一人前の忍になれるだろう。だが、それは利吉君が本当に望む結果なのだろうか…。
 望むと望まざるとに関わらず、忍にならざるを得なかった自分とはまた別の隘路に追い込まれているように見えて、半助は自分がこの少年に対しておぼえたいたましさの原因が見えてきたような気がした。
「でも、今は半助さんに剣術を教えてもらえるから大丈夫です。僕、将来だれに剣術の手ほどきを受けたか訊かれたら、半助さんだって答えます! いや、それとも半助流を学んだって答えるかな…」
 再び明るさを取り戻した声で利吉は見上げる。
「おいおい、そんなことを言ったら、せっかくの剣の腕前を誰も信用してくれなくなるぞ…そう言ってくれるのはうれしいが」
 照れたように言いながら利吉の頭を軽くなでる。くすぐったそうに首をすくめた利吉が眼を閉じる。そんな様子を眼にしながら半助は思わずにはいられない。
 -ああ、私にこの子の孤独を癒すことが許されていたら…!



「半助さん! 出かけましょう!」
 文机に向かう背中に、利吉のはつらつとした声が響く。
「私はかまわないが…」
 筆を置いて振り返った半助は気がかりそうに言いよどむ。
「母上もいいとおっしゃってます! 行きましょう!」
 先回りしたように利吉が続ける。
「そうか」
 頷いた半助は筆洗で筆先を洗うと立ち上がった。「よし、行こうか」



「この先に道があるのかい?」
 獣道のような細い踏み跡を進む利吉に、半助はためらうように声をかける。
「だいじょうぶですよ。この先に僕しか知らない秘密の場所があるんです」
 振り返った利吉は、いかにも大切な秘密を打ち明けるようににやりとする。
「そうか。たいしたものだ」
 頭上の枝をくぐりながら半助は感心したように言う。身軽に進む利吉に比べて上背のある半助には厄介な行路だったが、それでもうれしかった。利吉がここまで心を開いてくれるとは、当初のとげとげしい態度しか見せなかった頃には想像もつかないことだった。
「ここです」
 利吉が立ち止まった。
「どれどれ…おおっ」
 顔を上げた半助は思わず感嘆する。そこは木々が切れた急斜面の突端で、はるか遠くの山々まで一望できた。
「これはすごいね、利吉君」
「それに、あそこ」
 利吉が谷底を指差す。「街道がよく見えるのです。ここから見ていれば、山陰と畿内の人や物の流れがつかめるのです」
 鋭い眼で谷底を見下ろしながら利吉は言う。その眼はたしかに忍としての観察眼を仕込まれた眼だった。
「うん、たいしたものだ。ここは兵法の視点から見てもまたとない勝地だ。それで利吉君は、ここからどんな流れをつかんだ?」
 利吉の傍らに立った半助が、両手を腰に当てて谷底を見渡しながら訊く。
「もうすぐ田植えの時期なので、兵の動きは大きくありません」
 報告文を読み上げるような平たい口調で利吉は答える。「ただ、畿内から下る荷が増えているように思われます。何が起こっているのかは分かりませんが」
「そうだな。下り荷が多いということは、戦の近づいている場所から財産を逃がすためか、或いは山陰道方面での物資の調達が増えているか、といった解釈が妥当なところだろうな」
 考え深そうに半助が片手を顎に当てる。
 -半助さんも忍者としてそういう流れを探る仕事もしていたのでしょうね。
 忍に任務を訊くなどエチケット違反だということは利吉も知っていた。だが、思わずにはいられない。それが危険なものであったから半助は敵に追われ、そして自分たちの前に現れた。そしてその人物は、いまや兄とも友ともつかない親密さで自分の中にしっかりと根付いていた。
「半助さんがどんな任務だったのか知りませんが」
 片手を腰に当てて谷底に眼を向けたままの利吉の口調がひどく大人びていて半助は思わずその横顔に眼をやる。
「忍者にとって安全な仕事などないことは聞いています。でも」
 拳をぐっと握りしめる。
「…半助さんには無事でいてほしい、そう願うのは間違ったことなのですか」
「利吉君…」
 思いがけない告白に、半助は言葉に詰まる。だが、自分を慕ってくれている少年にごまかすようなことは言えないと思った。
「たしかに君の言うとおり、忍に安全な仕事などない。それに私はまだ未熟だ。だから君たちに助けてもらった時のようなへまもする。だから私ももっと精進することにする。君のためにも。今、君に約束できるのはそれだけだ」
 言いながら利吉の表情をうかがう。「…それで勘弁して、もらえないか?」
「半助さんはもうすぐ行ってしまうのですよね」
 斜面を吹き上げた風が利吉の前髪を揺らす。「せめて無事だと信じることができないと…」
 そんなことも分からないのですか、とは言いかねて利吉はぎりと歯を食いしばる。
「そうだな。いつまでも厄介になるわけにはいかないな」
 晴れ渡った空を見上げながら、半助はまぶしげに手をかざす。

 


「こんな時間にお発ちにならなくても…」
 母が当惑げに指先で口元を覆う。
「いいえ。今がいちばんのチャンスですから」
「それはそうですけど…」
 言葉を切った2人は、森の一画にちらと眼をやる。そこに半助の追っ手が潜んでいることは分かっていた。
 しばらく消えていた追っ手の気配が再び現れたことに気づいたのは前日のことだった。利吉の母の周到な仕掛けを警戒して家には近づかないものの、味方が集まるのを待って襲撃してくるつもりだと2人は理解した。
「今なら見張りは一人ですから」
 微笑む長身の青年の戦略を、母も合理的とは思っていた。
 -今なら、この方が家を出たことを把握するのがせいぜいのはず。リスクは一番少ないでしょう。
 半助の狙いは、もはやこの家には自分がいないことを相手に印象付けることにある。そうすることで自分たちを安全圏内に置こうとしている。だが、一方で、利吉のことが気がかりでもあった。
 -明日、眼が覚めてこの方がいなくなっていることを知ったら…。
 ようやく心許せる存在ができた利吉が、ふたたび一人になってしまう。利吉の心にはぽっかり穴が空いてしまうだろうが、自分は何もしてやれない。
「…月が明るすぎますわね」
 月明かりが照らし出す氷ノ山の峰々を見上げながら、母は呟くように言う。
「利吉君なら大丈夫ですよ」
 つられて峰に眼をやった半助が力強く言う。「歳よりずっとしっかりした子ですから、きっと」
「そうですわね…ならいいのですけれど」
 言葉を切った母は半助を見上げると、弁当の包みを差し出した。「道中、お気をつけて」
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げて荷物に弁当をしまいこむと、今度は深々と頭を垂れた。「本当に、お礼の言葉も…」
「わたくしどもこそお礼を申し上げなければなりません」
 楚々と頭を下げた母は続ける。「あなた様がいてくださったおかげで、どんなに利吉が救われたことか」
「いえいえ」
 半助は苦笑して小さく頭を振る。「私こそ、利吉君にはいろいろ教えてもらいました。きちんとお別れをしないのは心残りですが…」
 言いさした半助は何かの気配を感じたのか、鋭い視線を背後の森に向ける。
「そうですわね」
 同じく気配に気づいたのか、母はおっとり返しながらもさりげなく前掛けに隠した手裏剣を指先で探っている。
「では」
 月明かりに笑顔を残すと、半助は素早く庭を横切って森へと姿を消した。慌てたように見張りの気配が動く。
 -行ってしまいましたわね…。
 喪失感と安堵が入り混じった空虚な気持ちで庭先に立ち尽くしていた母はふたたび夜空を見上げる。と、「母上」と呼びかける声がした。
「利吉…起きていたのですか」
 寝間着姿だったが、その眼が赤く泣きはらしているのを見て取った母は「こちらにおいでなさい」と声をかける。
「はい」
 利吉は素直に傍らにやってきた。
「あの方は出立されました。大事なお仕事に戻られるためです。分かりますね」
 穏やかに、だが毅然と母は語りかける。
「…はい」
 利吉は俯く。月明かりに泣きはらした顔を見られたくないのだろう。
「いずれは別れなくてはならない方なのです…利吉、ごらんなさい」
 肩に手を置いた母の声に、利吉が顔を上げる。
「ほれ、あの峰にかかった雲のように…」
 もう一方の手で母が指差した先には、氷ノ山の峰に遮られて二手に分かれた雲が月明かりに照らし出されていた。
「峰にわかるる 横雲の空、といったところね」
「…」
 もの問いたげに利吉が見上げる。
「定家の歌です。春の夜の 夢の浮橋とだえして」
「…峰にわかるる 横雲の空…」
 戸惑うように利吉が続ける。
 -春の夜の夢みたいにはかない方だったとでもいうのか…!
 ゆったりとたなびく雲を睨みながら利吉は考える。
 -そんなことはない! これが今生の別れだったとしても、半助さんは僕の中でずっと生き続けてくれるのだから…!
 おぼろに浮かぶ月も雲もにじんできたような気がして、利吉は拳でぐいと眼を拭った。

 



 -あの春の夜に、私は一つの時間を置いてきてしまったのですよ、半助さん。
 月を見上げながら、利吉は声に出さずに呼びかける。
「どうしたんだい、利吉君」
 気がつくと傍らの半助が気がかりそうにのぞきこんでいた。
「い、いえ。何でもないです、半助さん」
 とっさに返した台詞に思いがけず昔の呼びかけをしてしまい、利吉は顔が赤くなるのを抑えられなかった。
「ん?」
 意外そうに半助は眉を上げる。「いま、なんか懐かしい呼び方を聞いちゃったような気がするなあ」
「気のせいですよ、気のせい」
「そうかなあ」
「そうですとも」
 言いなした利吉はふたたび夜空を見上げる。


 -峰に分かれた雲は、もう合わさることはないのだろうか。



<FIN>



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