教師心得

土井先生がはじめて学園に来た頃のお話です。

いまはは組の教科担任として忍たまたちに慕われている土井先生も、先生になるまでにはいろいろな悩みや葛藤があって、そんな土井先生をそっとサポートする山田先生と、静かに見守る学園長先生がいて…という信頼関係がうまく描けるといいな。

 

ちなみに、最後に出てくる一丈とは、おおむね3.03メートルとのことです。

 

 

「どうかね。土井先生は…少しは慣れたようかね」
「はい、学園長」
 大川に勧められた茶を飲みながら、山田伝蔵は静かに答えた。
「そうか。それは何よりじゃ」
 今は学園は冬休みの最中である。いつもならこの庵にも届く生徒たちの声もなく、学園は静まり返っている。

 初めて学園にやってきた数ヶ月前の土井半助は、二十歳をいくつか過ぎたばかりとは思えない、うつろな目をした青年だった。自らも忍として数多くの忍と接してきた大川さえ、
 -多くのものを見すぎた目だな。
 そう思った。
 数多くの忍と接してきた経験から、目の前の青年が、きわめて優秀な忍であることは、すぐに分かった。しかし、ここは学校である。生徒たちに日々接して、教え導かなければならない。それがこの者にできるのか…自分を見ているようで、どこも見ていないような、空洞のような目を見つめながら、しばし思案したものである。

 


「どうされましたかな、学園長」
 伝蔵の声で、大川は我に返った。
「土井先生が来たときのことを思い出しておった…あのときもこうして山田先生と話し合ったものじゃな」
「ああ、そうでした」
 青年を伝蔵に預けることを決めたのは大川だった。きっかけは、大川が知人から、半助を少しのあいだ学園で預かってほしいと依頼されたことだった。
 半助が携えてきた紹介状を読んでも、大川には、知人もまたこの青年のことをよく知らないということしか判らなかった。なるほど目の前にいる青年は、優秀な忍かもしれない。しかし、それは過去形でいうべきなのかもしれなかった。表情を喪った空疎な面立ちからみて、忍の仕事に戻ることはかなり難しかろうというのが大川の見立てだった。
 その予想は、数日間、半助を学園に置いて観察したことで、確信に変わった。

そして、学園の教師として迎え入れることを決意したのだ。当然、知人からは抗議を受けたが、大川が決意を動かすことはなかった。
 初めてその話を聞いたときの困惑を、伝蔵はいまでも覚えている。自身、戦忍として実績を積み、のちに学園の教師としてのキャリアを重ねてきて、忍としての技量とそれを生徒たちに教えていくことについての自負はあった。しかし、新たに自分に預けられた教師のたまごともいうべき青年にはどのように接するべきか、皆目見当がつかない…。
「そもそも教師に向いているかどうかも分からない者を受け入れることには賛成しかねる、と山田先生はわしに言ったの」
「いやあ、そうでした。事務職ならともかく、親御さんからの大切な預かりものである生徒たちの前に立たせることができるのか、おおいに疑問でしたなあ」
 子供好きでは、忍は勤まらない。いや、好きであっても、時に応じてその心を封じることができなければ、忍は勤まらない。必要であれば子供の前でも殺しを行い、あるいは結果的に子供の命を奪うこともできなければならないのが忍だからである。しかし、教師としては子供が好きでないと勤まらない。そのギャップにそれぞれ折り合いをつけて教室に立っているのが、忍術学園の教師である。

 


「じゃが、わしの決断は正しかっただろうが」
「仰るとおりです」
 伝蔵には、ときどきこの大川という人物のスケールが見えなくなるときがある。いつもはまんじゅう一個やおかずの一品を巡ってヘムヘムと大ケンカしたり、突拍子もない思いつきで学園を混乱させたりと、トラブルを巻き起こす張本人だったりするのだが、時に見せる決断は、深い洞察力と強い意志で学園に大きな影響をもたらすのだ。
「学園長先生。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「半助のどこを見込んだのかと聞きたいんじゃろ」
「仰るとおり…」
「カンじゃ」
 伝蔵は体の力が抜けた。
「学園長先生」
「はっはっは…それは冗談じゃ…だがな」
 大川は不意に戸惑うような表情を浮かべた。
「…実のところ、わしにもうまいこと言えないが、初めて半助を見たとき、わしは哀れでしかたがなかった。あの目は…あまりに多くのものを見てしまった目じゃった」
 大川は瞼を閉じた。そのときのことを思い出しているようだ。
「あの者を助けてやりたいと思った。そして、ここならそれができるのではないかと考えた。どうしてそう考えたかといえば…まあ、カンなんじゃがの」
 -助けてやりたい…か。
 伝蔵も、初めて見た半助の目を思い出していた。あれは、そう、手負いの獣が最後の抵抗をあきらめたときのような、空虚な昏い目だった。もし、学園で受け入れていなかったら、今頃は…。
「学園長先生がお考えになったことが、分かるような気がします」
「そうか」
 言葉が途切れ、おだやかな静けさのなかで、二人は同時に茶碗を口に運んだ。
「そうじゃ、それからの…」
 不意に、大川が口を開いた。

 


 日に日に春の訪れを感じさせるようになってきていた。
 半助を預かることになった日から、伝蔵は教師長屋の自室に半助を迎え入れた。半助は、与えられた仕事を淡々とこなしていた。部屋でも無駄口を叩くことなく、授業の準備をしているか、書に眼を通しているかしている。伝蔵が話しかければ返事をするが、半助から話しかけてくることは絶えてなかった。
 それでも、薄紙をはがしていくように、少しずつ半助が自分に心を開いていくのを、伝蔵は感じ取っていた。
 -無理をせず、ゆっくりでよい。半助の話を聞いてやってほしい。
 半助を受け入れるにあたっての、大川からの唯一の依頼だった。

「土井先生、精が出ますな」
 半助は、今夜も兵法書を読んでいる。
「いえ。私には、まだまだ勉強しないといけないことが多くあります」
「生徒たちに万全の態勢で臨むのはいいことです。しかし、少しは気晴らしも必要ですぞ…どうですか」
 伝蔵の手には、酒の入った瓢箪がある。
「はい。ご相伴します」

 半助の表情も、少しだけ緩む。
「では、上に。今宵はゆかしい朧月夜ですぞ」
「はい」
 月がおぼろに照らす屋根の上に、二人は腰を下ろした。部屋で向かい合っているより、屋根の上の方が半助がくつろいで話せるらしいことに、伝蔵は気付いていた。湿り気を帯びた柔らかな夜風がそよぎ、どこからともなく、桃の花の濃い匂いが漂ってきた。
「もうすぐ、桜も咲きますな」
「そうですね」
 しかし、半助は、春の訪れを喜ぶ気持ちにはなれなかった。桜の花も散り始める頃、館に焼き討ちがあった。自分の運命が暗転した夜。家族を失い、家を失い、多くのものの命が奪われた夜。それから十数年が経ち、再び運命が大きく回転して、自分はここにいる。
 自分には、もう二度と、このような穏やかな生活は訪れないと思っていた。生徒たちの声で賑わう学園は、光に満ちた世界に思えた。業にまみれた闇の世界に生きていた自分には、縁のないものだと思っていた。実はまだ、自分がひどく場違いなところにいるのではないか、と思うことがある。これは夢で、目覚めれば、あの馴染んだ修羅の世界に戻っているのではないか、そう思うこともある。

「まあ、一杯どうぞ」
「ありがとうございます」
 土器(かわらけ)に注がれた酒をぐっと乾すと、「まあ、山田先生も」と酒を注いだ。
 薄墨を流したように、うっすらと雲が流れていく。半助は土器を手にぼんやりと夜空に眼をやった。表情らしいもののない、能面のような顔である。一人でいるとき、半助はよくこのような表情になる。動きのない、うつろな表情。
 -なにかを思い出しているのだろうか。
 伝蔵は考える。しかし、今日は、伝えておかなければならないことがある。

 


「土井先生」
 伝蔵は夜空を伝う雲に目を向けながら声をかけた。
「はい」
「仕事の話で申し訳ないが」
 傍らで、半助がわずかに身構える気配がした。
「…新学期から、私と土井先生は新しく一年生のクラスを持つことになりました」
「え…」
 半助が振り向く。伝蔵は夜空を眺めたままである。
「土井先生には、教科を担当してもらおうと思っていますが、どうですか」
 あの冬の日、大川から切り出されたもう一つの用件だった。「新学期には、土井先生と組んで一年生のクラスを持ってほしいと思っているから、そのつもりでいてほしい。あと、折を見て、彼にも伝えておいてくれないか」と。
「いやその…」
「どうかしましたか」
「私に…務まるでしょうか」
「いま、兵法や火薬の教科を教えてもらっていますが、生徒たちにはとても好評ですよ」
「そう仰っていただくのは、有難いのですが…」
「担任の先生たちも、土井先生の専門知識には及ばないと言っています。先生方にはそれぞれ得意分野がありますから、兵法や火薬の面で土井先生が加わっていただいたのは、学園にとってもレベルアップが図れてよいのではないですかな」
「もうしばらくは、専門科目の担当ということで行くわけには、いかないのでしょうか」
「必要に応じてお願いすることもあるでしょう。しかし、クラス担任との掛け持ちでお願いすることになるでしょうな。忙しくなりますぞ」
 ここまで言って初めて伝蔵は振り向いた。半助の困惑しきった顔がそこにある。
「それとも、専門科目以外は、教えにくいと?」
「まあ、いまの兵法や火薬の授業は、上級生が中心ですから…」
「上級生のクラスを担当したいと?」
「いえ、そういうわけではないのですが…」
「では?」
 するどい視線で問い返されて、半助は観念した。伝蔵にはかなわない。この厳しくも優しい父親のような男には。
 -あのことを、話してしまおう…。

 


「山田先生」
「なんですか」
「実は…、私は…」
 言いよどんだ半助の手の土器をそっと持ち直させて、伝蔵は酒を注いだ。
「…」
 しばし、半助は土器のなかに映った朧月を見ていた。やがて、朧月が細かく揺れ始めた。土器を持つ手が震えていた。半助は、ぐっと朧月を飲み干した。
「私には、親がいません。元服前には、親をなくしていました」
 淡々と語ったつもりだった。が、声が少し震えているのが自分でも分かった。目は、空になった土器の、月のあったあたりをさまよっている。
「私の目の前で、両親は殺されました。それ以来、私は、他人を信じることができなくなりました。だから…」
 伝蔵が、黙って酒を注ぐ。
「私には、私の言葉を信じきって見つめてくる生徒たちの目が、怖ろしいのです」
「あなたは、嘘を教えているわけではない。それでも、怖ろしいのですか」
「もちろん、嘘を教えているわけではありません。しかし、もし誤った知識に基づいて教えてしまったとしたら、それは、嘘を教えたことになるではありませんか。それは、私を信じて私の言葉に耳を傾けている生徒たちを裏切ることになる」
 裏切る、という言葉を歯軋りとともに搾り出した半助に、この青年が囚われてきた昏い闇を見た気がして、伝蔵は胸を痛めた。
 -この人は、一人きりで、数限りない偽りや裏切りにさらされてきたのだろう。それもごく小さい頃から。
 伝蔵は、改めて、うつむいている青年が憐れになった。しかし、この段階を乗り越えないと、いつまでも前へ進むことはできない。

 


「土井先生。私たちは、プロの教師なのですよ」
「私も、ですか」
 半助が顔を上げた。
「もちろん。現に教えている以上、土井先生も立派なプロの教師です。しかし、人間である以上、仰るように、結果として誤ったことを教えてしまうこともあるでしょう。私もそうでした。しかし」
 伝蔵は言葉を切ると、自分の土器に酒を注いで、飲み干した。
「そのときには、素直に誤りを認め、改めて正しいことを教える勇気が必要です。そして同時に、誤りを犯さないよう、じゅうぶんな準備をして授業に臨むことが必要だ。『一丈のほりをこえんと思わん人は、一丈五尺をこえんと励むべし』という言葉をご存知ですか」
「いえ…」
「法然上人の言葉です。しかし、教師として教えるためには、二丈や三丈をこえるための努力が求められているのかもしれません。そうすることで、生徒たちの信頼に応えていけばいい。また、生徒たちはそうした私たちの姿勢を、実によく見ているものだ」
「三丈をこえんと励むべし…」
「そうです。だがそれで怯むことはない。最初から完璧にできる人間なんて、いないんです。そもそも完璧にできる人間なんて、いないのかもしれない。しかし、完璧に近づこうと努力し続けることが大事なのであり、その背中は、常に生徒たちに見られている、そのことは忘れないほうがいい」
「はい…」
「誰だって、初めて教えるときは緊張するものです…頑張りましょう!」
 伝蔵は勢いよく半助の肩をたたいた。半助の手にしていた土器から、酒がこぼれる。
「あ…」
「いやこれは失礼」
「いえいえ、大丈夫です」
 土器に残った酒を飲み干しながら、半助は初めて笑顔を見せた。

 


 -よく話してくれた、半助。
 心なしか和らいだ表情になって月を見つめる半助の横顔を見ながら、伝蔵は思った。
 この人には、まだまだ他人に言えないことが澱のようにたまっているに違いない。大川が「多くのものを見すぎた」と表現したのは、おそらく正鵠を得ているだろう。だが、それは、半助が一人で背負い続けていかなければならないものではないはずである。同僚として、先輩として、友人として、半助を縛り続けている過去から解放してやりたい、伝蔵は、心からそう思った。
 

<FIN>