十年の後にも
学園にいられる時間は短いけれども、土井先生と過ごす時間は十年よりももっと長くあってほしい…きり丸の切なる思いに違いないと思います。
平均寿命が短く、死があまりに近い時代だったからこそ十年という時間は現代とは比べものにならないほど長く貴重であって、だからこそ土井先生もきり丸も十年という時間の継続を願わずにはいられなかったのでしょう。
「ようやく終わりましたね」
「まったくだ…とにかく大事にならずに済んでよかった」
教師長屋には、学園長からの任務を果たして帰ってきた伝蔵と半助がいた。
「さて、それにしても我々が不在の間のは組の授業は、誰が見てくだっさったのだろう」
「学園長先生に報告した時に聞いておけばよかったですね」
「そうだな。うっかり失念していたが、あとでお礼を言わねばならんから、聞いておかねばな」
「はい」
話しながら常の姿から忍装束に着替えたとき、
「失礼します」
声とともに襖が開いた。
「庄左ヱ門。どうした」
半助が声をかける。
「はい。先生方がお戻りになったときいたので、作文を提出にきました」
「作文? そんな宿題を出した記憶はないが…」
「いえ。安藤先生です」
「安藤先生?」
ぎょっとした表情になって半助が身を引く。どうやら自分たちの不在の間には組の授業を見ていたのは、最も苦手とする人物のようである。
「はい。授業で『十年後の自分』という題で作文を書くように言われたのですが、みんな時間中にできなかったので、安藤先生が書き終わったらまとめて土井先生に提出するようおっしゃったんです」
これです、と文机に紙束を置く。
「そ、そうか…ご苦労だったな」
「では失礼します」
ぺこりと頭を下げると、庄左ヱ門は静かに襖を閉めて立ち去った。
「困ったな…勝手に宿題を出されても、見るのは私なのに…」
次の授業の準備もあるのに…とぼやきながら半助は紙束を手に取る。
「しかし、なかなか面白い題としたものですな」
興味深そうに紙束に眼をやりながら伝蔵は言う。
「まあ、そうですが…」
言われてみれば、と思って半助も手にした紙束に眼を落とす。
「ああ、そうだ」
ふと思いついて半助は顔を上げる。
「なんですかな」
わざとらしく立ちあがって文棚に向かってなにやら書類を探していた伝蔵が振り返る。
「どうせなら、一緒に作文を見てもらえませんか。私たちの生徒なのですから、彼らが何を考えているかを共有しておく必要があると思うのです」
「い、いや、まあ…教科の担当は土井先生なのだから、土井先生が先に読むのが筋とは思うのですが、そんなにおっしゃるなら…」
半助の言葉を待っていたようにそそくさとやって来る。
-本当は早く読みたくて仕方なかったんだな…。
いそいそと一番上に置いてあった作文を読み始める伝蔵の後ろ姿に眼をやりながら、半助は苦笑する。
「ほう、さすが庄左ヱ門だな。しっかり書けている」
「家業と忍を草として両立させるとは、一年生ではなかなか書けないですよね」
「伊助は、新しい忍装束を染めたいとあるぞ」
「これを見てください。虎若のやつ、火縄のことしか書いてない」
「それを言うなら兵太夫はからくりのことばかりだ…十年後はどうしたのやら」
文机に向かって並んで座って、生徒たちの作文を読む2人の教師は楽しげである。
「おや?」
空白が目立つ紙を、不審げに眉を寄せた伝蔵が手に取る。紙にはただ一行、
≪土井先生≫
「これはきり丸の作文ですな」
「作文というか、私の名前を書いただけです」
「ふむ…」
裏返して覗き込んだりしながら、伝蔵と半助は顔を見合わせる。
「土井先生、最近きり丸と何かありましたかな」
「いいえ、思い当るようなことは何も…」
探るような眼で訊く伝蔵に、半助は慌ててかぶりを振る。
「しかし、これは何か土井先生に言いたいことがあったということでは…」
「それにしても、これだけでは如何とも…」
「そうですな」
伝蔵がため息をつく。
「せめて助詞がついていれば、『土井先生が』でも『土井先生と』でも『土井先生を』であっても何となく見当はつくものですが、それさえないと…」
-十年後、ね…。
周りのクラスメートたちがせっせと筆を動かし始めたなかで、きり丸は机に肘をついて筆の尻をくわえたまま考え込んでいた。
-想像もつかねえや。十日後のことだって分かんねえのに。
そもそもアルバイトで学費を稼いで、そして学園で学び続けるだけで精一杯だった。そのさきに何を目指すべきかなど考える暇もなかったし、それでいいと思っていた。
-なるようにしかなんねえわけだし…。
未来がどうなるかなど見当もつかなかったし、自分でどうこうできるようにも思えなかった。生まれてから十年、運命がジェットコースターのように変転し、翻弄されてきたきり丸には、結局のところ、今を何とか生きていくことしか考えることができなかった。
-だけど…。
くわえていた筆尻に歯が立つ。
-土井先生とはなれるのはやだな…。
十年どころか、学園を卒業すれば、もはや学園にとどまる理由はなくなる。それは、半助との縁の切れ目を意味しているようにきり丸には思えた。
-でも、やっぱり土井先生とはなれないといけないのかな。
いつかは覚悟しなければならない事実であることは分かっていた。家族も家もあっさりと奪い去る戦火を経験したきり丸には、いつまでも続く存在というものは信じられなくなっていた。
-それに、先生だって、でっかくなった俺にいつまでもかまっちゃいられないだろうし、いくらなんでもいっしょに住むなんてできないだろうし…。
学園を卒業し、一人前の忍者になっている(はずの)自分が、いつまでも半助と生活を共にできるはずがないことは分かっていた。まだ自分が子どもだから、そして生徒だから面倒を見てくれているに過ぎないのだ。それでも、心の中では半助を、共に過ごす日々を望んでいた。
-ちっくしょう、将来のことなんていわれても、土井先生のことしか思いうかばねえや。
気がつくと用紙に≪土井先生≫と書いたところで筆が止まっていた。そのまま授業が終了し、放課後になってしびれを切らした庄左ヱ門が皆の作文を集めに来た時も、筆は全く進んでいなかった。そして、乱太郎やしんべヱの作文の下に紛らして提出してしまったのだった。
「乱太郎、しんべヱ」
校庭を暇そうにぶらついている2人に半助は声をかけた。
「なんでしょう、土井先生」
振り返った2人が半助を見上げる。
「きり丸はどうした」
「バイトです」
しんべヱが答える。
「そうか…ところで、最近きり丸の様子はどうだ」
実はきり丸がバイトに出かけたことは確かめてあった。そうして、一番仲のいい乱太郎としんべヱに話しかけるチャンスを狙っていたのだ。
「どうした、といいますと?」
乱太郎が不思議そうに首をかしげる。
「いや、そのだな、ちょっと考え込んだり、悩んでるようなことはなかったかなと思ってだな」
どう訊けばいいものかと迷いながらの問いだった。
「なんか気がついたことある、しんべヱ?」
乱太郎がしんベヱに向き直るが、しんベヱにも心あたりはないようである。
「ぜんぜん…昨日も小銭がたまったってたのしそうだったし」
「ああそうだったね」
いつもより長く小銭を数えるきり丸の声に、なかなか寝付けなかったことを思い出す。
「というわけで、べつにいつもとかわらないと思います」
ふたたび半助を見上げた乱太郎が結論を告げる。
「そうか、わかった。すまなかったな」
いろいろと聞き質したい気持ちを抑えてさらりと言うと、半助は立ち去る。
「どう思う?」
その後ろ姿を見送りながら乱太郎が訊く。
「どう思うって?」
「いや、きり丸になにかあったのかなって思って」
「なにかって?」
「それがわからないんだって」
「あ、そうか」
-結局のところ、分からずじまいか。
テストの採点の手を止めて半助は考え込んでいた。
-きり丸は何を言いたかったのだろう。私に言えないことがあるのだろうか。
そういえば、休暇中に家にきり丸を引き取っている時も、あまり2人でゆっくり話をしたことがないことに気付く。たいていきり丸は半助に手伝ってもらう前提でバイトを引き受けてくるので、説教しつつも手伝いに忙殺されてしまうのは毎度のことだったし、家にいる時を見計らったように怪しげな忍者がやってきて騒ぎを起こしたりすることも茶飯事だった。
-私はきり丸の保護者気取りでいたが、実はきり丸はそれを厭うているのかも知れない。そしておろかにも私はそのことに気付いていなかったのかも知れない…。
きり丸がほんとうに望んでいることはなにか。前々からきちんと向き合って話さなければと思っていたことだった。そうするにはあまりに妨害が多かったのは事実だが、きり丸の口から結論を聞いてしまうことが怖ろしくて先延ばしにしていたのもまた事実である。
-いい大人が、なんという意気地なしなのだろう…。
忸怩たる気持ちで小さく顔を振る。それでも、もしきり丸から本心では自分と過ごすことを望んでいないと言われたときには、自分が受けるダメージは計り知れないだろう。同じような境遇で育ったからこそ、自分がもっともきり丸の心に寄り添えるという自負があったから。
-たとえきり丸が私と過ごすことを望まないとしても、本人がいちばん望むようにすることが教師である私の務めではないか…。
「どうですか。何か分かりましたか」
唐突に傍らからかけられた声にびくっとした半助は、筆を取り落しそうになる。いつの間にか部屋には伝蔵が戻っていた。自分の文机に向かってなにやら書類を整理している。
「いえ。さっぱり…」
「そうですか。困りましたな」
そう言いながら、深い懊悩が刻まれている半助の横顔をちらと見る。
-だいぶ思いつめているようだな。
休みの間、きり丸を引き取っているときの半助は、たいていきり丸のバイトの手伝いと何らかの騒動に巻き込まれて胃を痛めているかげっそりと疲れ切っているのが常だったが、それでもそれが楽しくて仕方がない様子を見せていた。きり丸にもっとも近いからこそ理解していると思っていたし、本人も自負していただろう。だからこそ、この事態に戸惑い、苦しんでいるのだ。
「で、あなたどなた?」
その頃、半助の家を訪れた大家は、威張りくさって上がり框に足を組んでいる人物に声をかけていた。また怪しい手合いが来ていると隣のおばちゃんが通報したのだ。
「わしはな、エラいお役人様だ!」
明るく言い切る声に大家が眉を寄せる。偉い役人にしては供も連れずに一人で来るのはおかしいし、刀を差してはいるが服装はあまりにみすぼらしい。おまけにその話しぶりはあまりにも軽い。
「で、何のご用?」
今や露骨に怪しげなものを見る視線で大家は訊く。もともと半助の家を訪れる連中は怪しげな手合いが多かったが、この自称役人はいかにも怪しすぎる…。
大家が考えを巡らせている間にも、相手はしたり顔で続ける。
「この家に、土井半助という独身のおっさんときり丸という子どもが住んでいるはずだ」
「はい。確かに私は土井半助にこの家を貸していますし、きり丸も住んでいます。でも2人とも留守でいつ帰ってくるか分かりませんよ」
大家が肩をすくめる。この自称役人は、とりあえずこの家の住人に関する事情はある程度把握しているようである。役人とはとても思えないが、何かの調査のために来たのかも知れない。どちらにしても半助もきり丸も留守である。それが分かれば帰るだろうと思った。だから、続いて相手が放った台詞は大家をひどく当惑させた。
「分かった。では待たせてもらう」
当然のように腕を組んで言い切る相手に、大家は慌てて言う。
「こ、困りますよ。どこの誰ともわからない人に上がりこまれては…」
「何を言う! わしはエラいお役人様だと言っているだろう!」
「どこのお役人様だか知りませんが、今この家は半助に貸しているのです。知らない人に上がりこまれては私が怒られてしまう」
「だったら土井半助をすぐに呼ぶのだな。それまでは断固としてここで待たせてもらうからな!」
「そんな無茶な…」
-とりあえず半助に手紙を書いてすぐ帰ってくるよういうしかないな。
半助の家を後にした大家はため息をつく。
-今回はやっかいな騒ぎにならなければよいが…。
「ヘムヘム」
翌日、半助の部屋にヘムヘムが手紙を届けに来た。
「大家さんからだ。何の用だろう」
家賃はきちんと納めてあるはずだが…と不思議そうに手紙を読み始めた半助だったが、手紙をたたむと、おもむろに立ちあがって平服に着替えはじめた。文机に向かっていた伝蔵がいぶかしげに見上げる。
「山田先生。私は至急家に帰らなければならなくなりました。午後の授業、代わりにお願いできますか」
「それは構わないが…どうされましたかな」
また何か事がおこったのかと思う。
「大家さんからです。いま、私の家に役人と名乗るものが来ていて、私が帰るまで待つと言って上がりこんで困っているそうです」
「役人? なにか心あたりは?」
「それが、全くないのです」
荷物を袈裟懸けにして結わえながら、半助は当惑した表情を浮かべる。
「きり丸を連れていきなさい」
腕を組んで考え込んでいた伝蔵が不意に顔を上げる。
「しかし、授業が…」
「授業も大切だが、こういう時はきり丸がいたほうが何かといいだろう。きり丸は妙なときに頭の回転が速くなるし弁も立つからな。思わぬ助けになるかもしれん…それにな」
「…はい」
「きり丸も同居人として、トラブルに関わる権利があるのではないかな」
「へ~え。俺たちの家にお役人がね」
頭の後ろで腕を組みながら、興味なさそうにきり丸が言う。折った腕の間で髷が揺れる。
-わざわざ山田先生が2人になれるように送り出してくださったのだ。この機会にきり丸から話を聞かないと…。
揺れる髷を横目に見ながら半助は考える。だが、どう話を切り出せばいいものかまったく分からなかった。言葉を探しあぐねる半助の傍らをちんたら歩きながらきり丸が欠伸をする。
「そんなに興味がないなら学園で授業を受けてもらっても一向にかまわんのだぞ…!」
思わず拳を握りながら声を荒げる。
「い、いやだなぁ、俺が先生のお家の一大事にキョーミがないなんてこと、あるわけないじゃないっスかぁ」
慌てたきり丸が取り繕う。半助に代わって伝蔵が行うことになった授業が女装の特訓と聞いたからには、何がなんでも回避しなければならなかった。
「まあいい」
いつもの声に戻った半助がひとり言のように続ける。「それにしても、勝手に人の家に上がりこむとは、ずいぶん横暴な役人とみえる」
「そうっスね」
きり丸も興味を抱いたようだ。「いったいどんなヤツなんですかね」
「さっぱりわからん。急ぐぞ、きり丸!」
半助が足を速める。
「あ、まってくださいよ~」
「で、私の家にいるお役人は、何の用件で来ているのですか?」
家に戻る前に大家の家に立ち寄った半助たちは、座敷で大家と向かい合って座っていた。
「それがだな、『用件は半助たちに直接言う』の一点張りなのだよ。それに…」
肩をすくめた大家が言いよどむ。
「それに?」
「…あの役人と称する男、どういう育ちをしているのだか…ああまで家の中をぐちゃぐちゃにしてしまうとは」
「え!」
「い!」
半助ときり丸が思わず声を上げる。
「どうかした?」
いぶかしげに大家が訊く。
「い、いやぁ、それ片づけるの、我々かと思うと…」
半助が苦笑しながら言い繕う。だが、2人には役人と称する男の正体が見えていた。
-花房牧之介だ…!
「やはりな、花房牧之介。なぜ私の家に上がりこんでいる…!」
後背に燃え盛る炎を背負う仁王のような怒りをたぎらせて半助が戸口に立ちはだかる。
「お、土井半助、なんだお前意外に早く来たなぁ。もう少しゆっくりさせてもらおうと思ってたのによ」
板の間に寝そべった牧之介が振り返る。
「ああっ、牧之介、こんなに家の中散らかしやがって!」
半助の背後から駆け込んできたきり丸が叫び声を上げる。
「え、やっぱりこの人、お役人じゃなかったの?」
後から姿を現した大家が訊く。
「お役人なんかじゃないですよ。コイツは花房牧之介といって、自分では剣豪だって言ってるけど誰にも勝ったことのないヘボで、おまけにこんなふうに人にメーワクばっかかけてるような野郎で…!」
きり丸がいきり立って説明する。
「チッチッチッ、それは違うなきり丸」
人差し指を振りながらしたり顔で牧之介が言う。
「なにがちがうってんだよ!」
きり丸が怒鳴り返す。
「俺は、お前らにちょっと用があって来ただけなんだぜ?」
「用、だと?」
きり丸が歯ぎしり混じりに訊く。
「そうだ。お前たちには、俺の永遠のライバル、戸部新左ヱ門を呼んでもらいたい。断ることはできないはずだ」
「なんの理由があってそんな戯言を…」
妙に自信たっぷりに言い切る牧之介に一抹の不安をおぼえながら半助が唸る。
「え? 言っちゃっていいのォ?」
思わせぶりな牧之介の台詞に苛立ちが募る。
「何を言うというのだ」
「たとえばぁ、お前たちは親子とかじゃなくてもっとタダナラヌ関係なんだとか…」
「だあっ! 黙れっ!」
言いかけた牧之介に半助ときり丸が飛びかかる。
「え? 関係?」
大家が興味深そうに訊く。
「あ、いえいえ、なんでもないっスよ…」
牧之介の口を押さえつけながらきり丸がへらへら笑う。
「そうそう。何でもないですから…」
暴れる牧之介の身体を半助が強引に組み伏せる。
「うぐ…んぐんぐぐ…」
息ができずにもがいていた牧之介が、ついに我慢できずに口をふさいでいたきり丸の指に噛みつく。
「いってぇぇっ!!」
思わず大声を上げたきり丸が、指を牧之介の口から引き抜いて飛びのいた。慌てて半助がきり丸に駆け寄る間に、ぜいぜいと息を切らせながら牧之介が立ちあがる。
「おまえらな…この剣豪花房牧之介様を殺す気か…!」
「なにが剣豪だ! この不法占拠ヤローがっ!」
噛まれた指をさすりながらきり丸が怒鳴り返す。
「うっるせぇ! とっとと戸部新左ヱ門呼ばねえとお前らの関係バラすからな!」
「ほう。お前になにかバラせるようなものがあるとも思えんがな」
きり丸を背後にかばいながら半助が静かに言う。
「んだとお!」
いきり立った牧之介だったが、ふいにその顔色が青ざめていく。
「い、いやその、だな…いまのぜんぶジョーダンていうか…」
「ほう。ジョーダンか」
じりじりと後退しながら口笛を吹いたりしてごまかそうとする牧之介だったが、半助の声に思わず視線を向けてしまう。と、その眼がぎょっとしたように見開かれる。大家からは見えないように懐手に隠していたが、その手には小刀があったから。そしてなにより、半助の尋常ではない殺気がまともに放たれていたから。
「えっと、あのですね、お、おじゃましました~っ!」
これ以上ここにいては危ないと感じた牧之介の行動は速かった。くるりと踵を返すと、裏口から一目散に逃げていく。
「なんだ? あいつ」
半助の背後から顔をのぞかせたきり丸が首をかしげる。
「それで、あんたたちの関係って、いったい何なの?」
興味深そうに大家が身を乗り出す。
「い、いや~っ。いつも言ってるじゃありませんか、私たちはあかの他人だって…」
瞬時に殺気を消して大家に向き合った半助は、苦笑しながら言う。
「そうなの? なんかただならぬ関係だと言いたそうだったけど…さっきの花房牧之介とかいう人は」
「いやいや、ホントにそんなたいしたもんじゃないんですって…」
きり丸も一緒になって首を振る。
「あっそ…みんな気にしていたからいい機会だと思ったんだが…とにかくこれ以上あんまり変なの近づけないでおくれよ」
肩をすくめた大家はそれだけ言い置くと、おもむろに背を向けて帰って行った。
「だいじょうぶか、きり丸」
包帯を巻きつけながら半助が訊く。
「だいじょうぶっスよ、こんくらい…ちょっと歯形がついただけっスから」
牧之介も大家も立ち去って2人だけになって、ようやく半助はきり丸の手当てに取りかかることができた。
「たしかに血が出ているわけではないが、念には念をいれないとな。あの牧之介のことだ。どんなバッチいものを持ってるか分からんからな」
「へんな先生…なんか斜堂先生みたい」
「そうか? 私はあそこまで潔癖症ではないぞ」
他愛ない言葉を交わしながら包帯を巻き終わった半助は、「よし、これで完了!」と端を結び付ける。
「それにしても牧之介のやつ、わざわざぼくたちをよびよせて『戸部新左ヱ門をよべ』なんて、どこまでずうずうしいヤツなんだ」
夕食を済ませて、半助ときり丸は囲炉裏をはさんで向かい合って座っていた。2人の手には、白湯を満たした湯呑がある。
「まあな。戸部先生もさぞご迷惑なことだろう」
いささか心ここにあらずの態で半助が答える。
「それにしても、みんなぼくたちのこと、気にしてるみたいっスね」
「そのようだな」
「ぼく、いつも先生のこと『せんせい』ってよんでるけど、それもまずいですかね」
ちろちろと燃える炎を見つめながら、きり丸がぽつりと言う。
「そんなことはないだろう。教師と生徒なんだから」
ずず、と半助が白湯を一口すする。
「でも、忍者の学校にかよっていることは、だれにもひみつなんですよね?」
「世の中には忍術学園以外にもいくらでも学校はある。だから気にするな」
「そっか…そういえばそうっスよね。ぼくは学校っていっても忍術学園しか知らないけど」
安心したように小さく歯を見せて笑う。
「…そうだな」
半助の声が少し重くなる。
「それにしても、牧之介のやつ、ぼくたちの関係を知ってるなんていってたけど、ホントなんすかね」
きり丸の声は安堵を帯びたように少し明るくなる。半助との関係の全てを隠す必要がないことに安心したようである。
「さあな。さして何かを知っているとも思えんがな」
静かに半助は答える。
「やっぱそうスよね。ったく牧之介のやつ口ばっかりでやんの…」
くつろいでごろんと横になったきり丸がぼやく。
「すまないな。こんなことのためにわざわざ付き合わせてな」
顔を伏せた半助の言葉に、意外そうな視線を向ける。
「べつにぼくは…」
「山田先生が仰ってな…この家のことなら、同居しているきり丸にも意見をいう権利があるだろう、と…」
唐突な半助の言葉にきり丸がはっとして顔を上げる。
「ぼくにも…ですか?」
「もちろんだ。ここはお前の家なんだから」
穏やかに言い切る半助の面差しにきり丸の視線が吸い寄せられる。
「でも、ここは土井先生の家だし…」
「私が決めたのだ。お前の家だとな」
「でも…だからって、いつまでもいるわけにはいかないし…」
俯いてつぶやくきり丸に半助が反応する。
「いつまでもって、どういうことだ」
「だって…いまは先生と生徒だからいっしょにいられるけど、そうじゃなくなったら…」
ぼそぼそときり丸が説明する。
「そうであろうがなかろうが」
立ちあがった半助は、きり丸の傍らに胡坐をかく。「自分の家なのになにをそんなに遠慮することがあるんだ」
「でも…」
言いさしたきり丸はちらと上目で傍らの半助を見上げる。
「でもも何もあるか。ここにいる間は、お前はここの家の子だ。堂々としていればいい」
きり丸の肩に腕を回してそっと引き寄せる。照れくさそうな笑いを浮かべながらきり丸が見上げる。
「そんなこというと、俺、ずっと先生のそばにいますよ」
「ああ、構わんさ」
そして思い至る。もしかしたら、きり丸の作文はこのあたりに起因しているのではないかと。
-ん? なんだこれは…?
片腕のずっしりと重い感覚に半助は眼を覚ます。と、ごく近いところに慣れた寝息を聞く。
「ぐ~、すぴ~…」
-きり丸?
すぐ傍らで健やかな寝息をたてているのは、きり丸だった。だが、隣の布団に寝ていたはずのきり丸が、なぜいま自分の腕に頭を載せて眠っているのだろう…。
-そうか、そういえばきり丸も寝相が悪かったな。
乱太郎やしんべヱと同じくすさまじい寝相であったことを思い出した半助は小さく笑う。
-風邪をひくぞ、きり丸。
半助の腕に頭を預けたまま寝入るきり丸の身体は、布団を跳ね上げ夜着もはだけてすっかり露わになっている。
袷を直してやり、布団をかけてやりながら声に出さずに語りかける。
-おまえの十年を、私は知らない。
健やかな寝息をたてる寝顔に向けて小さく微笑みかける。
-すべてを教えろとは言わない…言いたくなければ言わなくてもいい…ただ、これから先の日々を、許される限り私とともに過ごさせてほしい…。
<FIN>
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