側にいる。
「インフルエンザに、ご用心」の続きです。左近は、精神的には三郎次を頼っていて、だからこそ三郎次の看病をかいがいしくやっていそうです。以上全て茶屋の妄想ですが、そうだといいなと思いつつ書いてみました。
寒かった。ひどく寒かった。
ああ、この感覚をおぼえている、と三郎次は思った。
-あれは、冬の海に落ちてしまったときだった…。
風が冷たく、鉛色の波がうねる海に、父親やその仲間たちと漕ぎ出したときだった。大きな波が舷側をたたきつけ、身が軽い三郎次は弾き飛ばされるように船縁を越えて、海に落ちてしまったのだ。網を上げていた父親たちが三郎次の不在に気づくまでに、少し時間がかかった。
海の中はおどろくほど静かだった。吹き付ける風も、絶えずうねる波もなく、ただ薄暗い幽冥の世界が茫漠と広がっていた。
そして、ひどく寒かった。いや、それは、全身に氷を当てられたような、ぎりぎりと締め付けられるような痛みを感じる冷たさだった。やがて、手足の先から痺れるように感覚がなくなっていくのを感じた。
-ああ。動かなくなっているんだ…。
手足の先から次第に侵食してくる痺れが通ったところでは、あらゆる機能が停止していた。やがて四肢から身体を侵食した痺れは、じわじわと全身の機能を止めていくだろう。
-なのにどうして、頭だけは熱いんだろう。
ひどく熱かった。首から下はあのときの冬の海のように冷たいのに、頭だけは熱かった。頭の中に熾った炭火がいくつもあって、熱波が頭蓋に共鳴しているようにがんがんと響いているような、波動を伴った熱さだった。
「三郎次君の具合はどうですか」
「まだ熱があって、とても苦しそうです」
突然の高熱に襲われた三郎次は、医務室に寝かされていた。三郎次の傍らに付き添っていた左近のもとに、校医の新野と伊作がやってきた。他の患者の診察をしていたため、2人とも覆面姿である。
「汗もひどい…」
伊作が痛ましそうに言いながら、腰に提げていた手拭いで汗を拭ってやる。
「新野先生…三郎次は、だいじょうぶでしょうか」
左近は新野を見上げる。覆面をしたままの顔からのぞく眼が、不安と疲労で充血している。
「左近。いま、三郎次君は病魔と闘っている真っ最中です。さいごは、三郎次君の気力と体力が勝負をきめるでしょう…だが左近。私たちは、三郎次君に加勢することができる」
いつもの優しい眼で、新野は語りかける。見上げる左近の眼に力がこもった。
「私たちは、これから薬を処方します。病魔の力を弱め、三郎次君の体力をつけるための薬です。だが、それだけではまだ不十分だ…なにが必要か、わかりますか?」
「…なんで、しょうか」
かすれ声で、左近は訊ねる。
「身近な人の支えです。家族や友人が、すぐそばにいて励ましてやること。それは、患者には計り知れない勇気を与えるものです。どんな名薬でも及ばないような力を患者に与えることができるのは、この場合、左近、君だと思いますよ」
左近の眼がおおきく見開かれた。
「僕が…三郎次の支えに…」
「そうです」
「でも…僕になにが…」
「側にいるだけでいい。それだけで、じゅうぶん力になれるさ」
伊作の眼が微笑む。
「さきほどの麻黄湯が効いて、少し熱は下がるでしょう。だが、発汗が始まっている以上、また熱が上がる可能性が高い…」
新野は真剣な眼で左近たちを見る。
「善法寺君、次の患者を診なければなりません。一緒に来てください」
「はい」
返事をした伊作は、立ち上がりざま、左近の肩に手を置いた。
「左近。三郎次を頼むよ」
「…はい」
返事はしたものの、左近は不安で押しつぶされそうだった。目の前で横たわる三郎次は、なぜかとても小さく感じた。
-なんだよ、三郎次。なんでおまえがこんなところで寝てるんだよ。健康バカの三郎次のくせに、こんなところで苦しんでるなんて、おかしいぞ…。
いつだって元気でいたずら好きで健康優良児な三郎次だった。根は至ってまじめなくせに、いつも茶目っ気を見せて、笑いの渦の中心にいる三郎次だった。それなのに、いま目の前に横たわる三郎次は、小さく開いた口から咳とともに苦しげな喘ぎ声を漏らしている。大きく上下する胸元の汗を拭ってから、はだけた襟をあわせてやる。
いつもとあまりに違う表情を見せる級友の姿に、不条理なものさえ感じて、左近は膝の上の拳を握りしめる。
-なあ、三郎次。お前がいなくなったりしたら、僕はどうすればいいんだよ…。
つい縁起でもないことに考えが至って、左近はあわててかぶりを振る。
学園に入学してから二年間、いつも側にいる友人だった。共に勉強したり、競ったり、遊んだり、ケンカしたり、笑いあったりした仲間だった。あまりに身近すぎて空気のように当たり前な存在だった。いつも明るく元気な三郎次といることで、どちらかというと感情を素直に表に出すことが不得手な自分が、少しずつ変わっているように感じていた。それは間違いなく、三郎次の影響だった。
-なあ、三郎次。僕には、お前が必要なんだよ…。
横たわる三郎次に視線を落としながら、左近は声には出さず語りかける。
-だから、きっとよくなるよな。それに、約束したろ? こんどの夏休みに、三郎次のふるさとの海に連れて行ってくれるって…。約束は、当然、まもってくれるよな…男だろ?
不意にいつか三郎次が口にしていた約束を思い出した左近は、涙が出そうになるのを必死で堪えて、拳で目元をぐいと拭った。三郎次の額にのせた手拭いを絞りなおす。そのくらいのことしかできない自分が、どうしようもなくもどかしかった。
-おや?
三郎次の変化に、左近は眉を上げる。先ほどより咳やくしゃみが少なくなり、呼吸も穏やかになっている。熱も下がったようである。
-さっきの薬が効いてきたんだ。
額や首筋の汗を拭ってやりながら、左近は考える。
-このまま治ってくれればいいのに…。
だが、さきほどの新野の言葉が頭をよぎる。いずれ、また高熱が三郎次を襲うのだろう。そのとき、目の前に横たわる友は、持ち堪えることができるだろうか…。
夢を見ていた。いや、これが夢であればの話だが。
三郎次は、故郷の海に来ていた。強い陽射しに、波も砂浜もまばゆく反射して、眼を射るようである。遠くで蝉が鳴いている。あれは、鎮守様の森のあたりからだろうか。
-暑いなぁ!
気がつくと、傍らに左近がいた。旅姿である。
-左近。どうしてここに…。
意外に思って訊くが、左近はさらに意外そうに眉を上げる。
-なに言ってんのさ。夏休みに故郷の海に連れてってやるって言ったのは、三郎次だろ?
ああそうか、だから一緒に来てくれたのか、と納得する。急にうれしさがこみ上げてきた。
そうだ。左近に、いちど故郷の海を見せてやりたいと、ずっと思っていた。そして、左近は来てくれたのだ。
-泳ぎに行こうぜ!
声をかけて、砂浜へと駆け出す。
-待てってば、三郎次!
左近も追いかけてくる。漁の道具をしまう苫屋に荷物と着物をしまうと、波打ち際から海に飛び込む。
-海の水もぬるいや!
-このあたりは浅いからね…もっと沖に行こうぜ!
先に立って泳ぎだす。
-待てってば…。
三郎次ほど水練が得意ではない左近は、泳ぎに手間取っているようである。
そうだ。左近にあそこを見せてやろう!
ふと思いついた三郎次は、浜にとって返すと、引退した祖父が使っている磯舟で漕ぎ出す。この先の沖にある岩礁は魚が多く、水中の岩に水面の陽が差し込むと、不思議な色に照り映えるのだ。そこまでなら、磯舟で行くことが許されていた。
まだもたもたと泳いでいる左近にあっというまに追いつくと、三郎次は声をかけて、左近の身体を引っ張り上げる。
-どこへ行くのさ。
不審そうに左近が訊く。
-いいところ。
にやりと笑う。仕方ないな、というように肩をすくめて、左近は船縁に背を凭れる。
「容態はどうですか」
ほかの風疫の患者たちを診終わった新野と伊作、数馬の3人が、左近のもとにやってきた。覆面をしたまま腰をおろす。
「少し、落ち着いたようです。いまは、よく眠っています」
「それはよかった」
三郎次のそばに腰をおろすと、新野は手早く様子を確認する。
「いまは小康状態です…だが」
左近の背がびくっと震えた。
「いずれまた熱がぶりかえすでしょう。すでにその兆候が現れている…これからが、正念場です」
覆面越しではあったが、言い切る新野の言葉は空気を切り裂くような緊張感を伴っていた。
「三郎次君は、すでに風邪で体力を奪われたところに、風疫にかかってしまっている。身体の抵抗力が落ちていることが心配です。目下、最も懸念すべき状態にある患者だ」
「ということは…」
考え深げに伊作が訊く。
「風邪と風疫は、症状は似ているが別の病気ということですか」
「今のところは-今の私たちの医療水準では-そう強く推定しうるとしか言えません。風疫には、筋肉痛や関節痛などの全身症状がでるところも、風邪とは別の病気だと推認しうるポイントだと思います」
もうひとつ、風疫の特徴として、子どもや老人、病人のような抵抗力の低いものが罹った場合、最悪、肺炎や脳炎を併発して生命の危険にさらされるということがある。それは左近の前では言わないことにして、新野は伊作に向きなおる。
「善法寺君。さきほど、三郎次君は、発汗していました。風疫の患者で発汗がみられた場合には、なにを処方しますか?」
「柴胡桂枝湯ですね?」
「その理由は?」
「頭身痛による悪寒は表寒証で、甘草、桂枝(けいし)を処方します。発汗がある場合は虚証なので、代謝を活性化するために生姜(しょうきょう)、強壮のために大棗(たいそう)と人参、食欲不振のために柴胡(さいこ)と黄芩(おうごん)を処方します」
-ちょっとまって、伊作先輩。いま、症状分析と処方がつながるようなこと言ってなかった?
すらすらと言ってしまった伊作の回答の意味を追いかねて数馬が訊きなおそうとしたが、「そのとおりです」と満足そうに頷いて立ち上がった新野に続いて、伊作も立ち上がる。
「さて、三郎次君に柴胡桂枝湯を処方するとしましょう。善法寺君、数馬、手伝ってください。左近、三郎次君を頼みましたよ」
ざばっ、と水面が泡立つと、水しぶきを上げながら左近の頭が現れた。
-どうだい?
船べりから手を伸ばして左近の身体を引っ張り上げてやりながら、三郎次は笑いかけた。
-海の中って、すっごくきれいだね! それにひんやりしてて気持ちいいや!
まぶしそうに眼をほそめながら、左近も笑う。
-身体が冷えたら、こうやって太陽を浴びるといいんだ。
ごろりと横になりながら三郎次が説明する。
-ああ。ほんとに気持ちいいね。
左近も、頭の後ろで腕を組みながら仰向けになった。
小さな磯舟には、三郎次と左近の2人きりである。2人とも褌ひとつの裸である。
-左近は色が白いなあ。
強い陽射しに照り映えて、白い肌がいっそう白光りして見える。汗の粒が乱反射して眼を射る。
-なに言ってんのさ。あっというまに三郎次より黒くなってみせるよ。
口惜しそうに左近は言うが、三郎次は笑って首を振る。
-やめとけやめとけ。左近は黒くなる前に、真っ赤になって風呂にも入れないくらいヒリヒリするようになるぜ。
-そうなのか?
不安そうに左近は身を起こす。とはいえ、帆もない磯舟のうえには、身を覆うものなどなにもない。
-どうすればいいんだよ。
-あきらめろって。
寝そべったまま、三郎次はあっさりと言う。
-…それに、海の男は、海ではハダカでいるもんさ。
-どういうことさ。
-海の神さまは、とってもヤキモチ焼きの女神さまなんだ。だから、海に入るときには、『僕は男ですよ。だから、ヤキモチを焼かないで、魚を分けてください』って分かってもらうために、ハダカでいたほうが手っ取り早いだろ?
ま、陸の上でかわいい女の子に気をひかれるのは大目に見てもらうけどね、と付け加えて、三郎次は白い歯を見せる。左近はなおも興味深そうに訊く。
-ヤキモチを焼いたら、どうなるのかな。
-そりゃもうたいへんだよ。何日も何日も海が荒れて、とても漁に出られなくなる。そしたら僕たち漁師はあっという間に飯の食い上げさ。
-そっか。それじゃしょうがないね。
左近はふたたび、ごろりと横になった。
-海の神さまがヤキモチを焼かないように、少しくらいヒリヒリしても、僕がガマンするよ…。
柴胡桂枝湯を煎じた新野たちが戻ると、左近が三郎次の寝間着を替えているところだった。
「また、汗がひどくなってきたので、替えてたところです」
汗でぐっしょりになった寝間着を三郎次の身体の下から引っ張り出しながら、左近はぼそぼそと説明する。
「そうですね。そうやって、汗の吸収をすすめることも大切です。ついでに、固く絞った手拭いで身体を拭いてあげるといいですよ」
新野が覆面の下で微笑む。患者に何が必要とされているか、自分で判断して行動している左近に、内心、軽く驚いてもいたのだが。
「はい。そうします」
短く答えて、左近は傍らの桶に浸した手拭いを固く絞って、三郎次の身体を拭い始めた。そのあいだに、伊作が新しい寝間着を布団に広げる。
実のところ、左近にとっては、なにか手を動かすことができれば何でもよかった。じっと三郎次の傍らに座っているだけでは頭がどうかなってしまいそうだったし、長い間、気が張ったままでいて疲れもピークに達していた。
「左近は足のほうを持って」
三郎次の背中と腰に腕を差し込んだ伊作が指示する。よっこらせ、と三郎次の身体を広げた寝間着の上に移すと、左近は黙って袖に腕を通し、前をあわせてやる。
「疲れているようだね。すこし休んだ方がいい」
見かねた伊作が声をかける。
「いえ…だいじょうぶです」
帯をしめてやりながら、左近は低く答える。
「だが…」
「もう少しだけ、三郎次の側にいさせてください」
絞った手拭いを額にのせながら、左近は顔を伏せたままである。
「…わかった」
新野と目配せをした伊作は、ゆるゆると立ち上がる。
「だが、くれぐれもムリはするな。疲労で体力が落ちると、左近まで風疫に罹ってしまう虞(おそれ)があるからな…数馬ももう休んだ方がいい」
言い置いて、新野と伊作は立ち去る。
「だいじょうぶか、左近」
傍らに腰を落として、心配げに数馬が顔を覗き込む。
はい、と覆面の下でもごもごと答えて、左近はふたたび三郎次の寝顔に眼をおとす。
-目覚めたときに誰もいなかったら、三郎次はとても不安になるだろうから、僕はここにいるよ…。
強い陽射しが閉じた瞼をちくちくと射る。暑さにたまりかねた三郎次は、船べりから水面へ飛び込む。たちまち、全身をここちよい冷たさが包む。ぼこぼこ…と、自分の吐いた息が、泡となってたちのぼっていく。細かくゆれる水面に照り映えた光がさしこむ海中は、万華鏡のように細かい光の束が散らばり交錯する。
いつの間にか、傍らに左近もきていた。潜り方がわからないらしい左近の手を引くと、一気に深みへと潜っていく。驚いて逃げていく魚たちの色とりどりの鱗が、いくつもいくつも反射していく。
-どうだい? きれいだろ?
-ああ。こんなきれいなの、初めてだ!
声は交わせないが、確かな意思の疎通を確信して、三郎次はさらに深みへと水を蹴る。
-まだ、潜るの?
左近が不安そうな視線を送る。
-この先に、もっときれいなものがあるんだ。左近にも、見てもらいたいんだ。
-でも、もう息がつづきそうにないよ…。
-もう少しだから。な? いっしょに来てくれよ…。
左近の手をよりつよく握り締めようとする。だが、ほんの一瞬早く、左近の指がするりと抜けていった。左近の身体がみるみる上へと昇っていく。
-待てってば、左近! どうして先にもどるんだよ…。
左近を追おうとした。だが、なぜか身体が動かない。見えない水圧で頭を抑えられてしまったように、上に行くことができない。左近の身体は、みるみる小さくなって、水面近くの光に掻き消えて見えなくなっていた。次第に息が続かなくなってくる。
-苦しい…。
もがけばもがくほど、酸素を無駄に消費してしまう。だが、このままでは水面に戻る前に息が切れてしまう。その間にも、ぼこぼこ、と自分の身体から抜けた空気が、泡となって水面へと昇っていく。
-たすけ…て…。
水面の光が、急速に明るさを失っていく。それは、自分の意識が遠のいているからだろう。海で育った身体が、冷静に分析する。息がもたずに失神するとき、急にまわりが真っ暗になる、と大人たちから聞かされたことを思い出す。そのためにも、自分がどれだけ息が続くかはいつも考えておかなければならない、と。
-死にたくない…まだ、しにたくない…。
それなのに、意思に反しておおきく喘いでしまう。がぼっ、とひときわおおきな泡が吐き出されると、たちまち上へと消え去ってしまった。大きく開いた口に、勝ち誇ったように海水が奔流となって流れ込む。そして、喉も、鼻腔も、たちまち海水で満ちてしまう。
-しずむ…。
浮力を失った身体が、徐々に深みへと沈んでいく。水圧がぎりぎりと頭を締め付ける。次第に混濁していく意識の中で、辛うじて一筋の思いだけが形をなしていた。
-たすけ…て…左近…。
急に呼吸が通じた気がして、三郎次は眼を開いた。薄ぼんやりとした視界に映るのは、ほの暗い明かりに照らされた天井板だった。
-ああ、熱を出していたんだ。
ひどく喉がかわいていた。背筋にへばりつく悪寒も、額の辺りにたまった熱も相変わらずだった。
全身に力が入らない。身体にかけられた布団がずっしりと重く感じた。辛うじて首を明るい方に曲げてみる。
まず眼に入ったのは、ぼんやりとした灯台の灯だった。そして、その隣に頭を垂れている影がひとつ。
-左近?
ずれた覆面が首にかかっている。すっかり顔があらわになった左近が、胡坐をかいたまま眠り込んでいた。
-左近…いてくれたんだ。
それだけで、なぜかじんわりとした安心感が沁みあがってくるように感じた。
-…。
縛り付けられたように動かない身体を無理やり動かして、どうやら片腕を布団から出すことができた。指先が、だらりと下がった左近の指先を捉えようと近づけていく。
左近を起こしたくはなかった。だが、あの海中で離れていった左近の指を、ふたたび手にするまでは、どうにも不安でならなかった。たとえ、目の前に左近の姿を捉えていても。
-もう少し…。
ぎしぎしと全身を抑えつけている枷が身体に食い込む。それでも、三郎次は腕を伸ばし続けていた。
-もう少し…。
ありったけの力を振り絞って腕を伸ばす。もう少しで左近の指を捉えることができる、と思ったとき、額に乗せられていた手拭いがぱさり、と落ちた。その気配に、左近の身体がびくっと震えた。
「三郎次…」
左近の眼に飛び込んできたのは、自分に向けて苦しげに腕を差し伸べてくる三郎次だった。
「どうしたんだ、三郎次。苦しいのか」
無意識のうちに自分に向けて伸びていた指をしっかりと包み込みながら、左近は訊ねる。
「左近…」
左近の手が、あれほど渇望していた左近の手が、いま自分の手を包み込んでいてくれる。それだけで、三郎次はため息が漏れるような安堵をおぼえる。意識の片隅で、海中で自分の頭を抑えつけていた見えない水圧が不意に取れた感覚をおぼえていた。いま、自分は水面に向かって、一直線に水を蹴っている。
「どうした、三郎次」
左近の手に力がこもる。もはや自分は冷たい海底なんかに囚われていない。左近が側に居てくれる。
「左近…みず…」
心地よい安心感にひとしきりひたったあと、ようやく身体的な欲求を思い出した三郎次は、かすれ声で言う。
「水だな? わかった。すぐ持ってくるからな」
三郎次の手を布団に戻すと、左近は立ち上がって駆け出した。
左近が運んできた桶から、湯飲みに汲んだ水を手渡す。喉に流し込んだ水は、全身に染み入るようにたちまち吸い込まれていく。むさぼるように飲み続ける三郎次に、左近はなんども桶から汲んだ湯飲みを手渡す。
「あんなに汗をかいたんだからな。喉がかわいてるだろ?」
ひとしきり湯飲みを干した三郎次がようやく一息ついた。左近が語りかける。
「ああ…そんなに汗かいてた?」
ひどく汗をかいていたわりにはそれほど重くない夜着に眼を落とす。
「すごかったんだよ。あんまり汗をかくもんだから、夜着を僕が替えてやったんだからな」
伊作先輩にも手伝ってもらったけど、と左近は照れたように笑う。
「そうだったんだ…ごめん」
「あやまることなんてないさ。新野先生がおっしゃってた。熱邪を出すには、汗をたくさんかかないといけないって」
「そうなんだ」
「さ、もう少し寝るんだ。まだ三郎次の熱は下がってないんだからさ」
「…なぁ、左近」
眠りに入る前に、ひとつだけ確認したかった。
「なんだ?」
「左近は、ずっと、側にいてくれたのか? 僕は、どれくらい寝ていたんだ?」
「…ああ」
疲れのにじんだ顔で、当惑したように左近は考えこむ。それだけで、自分がずいぶん長い時間、寝込んでいたことが察せられた。そして、その間、左近がずっと側にいてくれたことも。
「…そうだな…まあ、半日以上といったところかな。昨日からここにいて、もうそろそろ丑の刻(午前2時頃)だから」
「ずっと…いてくれたのか?」
「あたりまえだろ」
にこりともせず、左近は答える。
「なぁ、左近…」
「ほら、病人はおとなしく寝てろよ」
三郎次の病は、もう峠を越えた。そう感じた左近は、急速にいつものぶっきらぼうな口調に戻っていく。
「…わかったよ」
左近の口調の変化が、安堵ゆえだと感じ取った三郎次は、ちいさく笑いかける。
「なぁ、左近。頼みがあるんだ…」
ふたたび布団から出した手を左近に向けて伸ばしながら、三郎次は言う。
「なんだよ」
「もう少しだけ、ここにいてくれないか」
言いながら、伸ばした手が左近の指を捉える。左近が眉を上げる。
「三郎次…」
「たのむ」
三郎次の指に力がこもった。
「…しょうがないな。こんなわがままな患者は初めてだ」
ぶつくさ言いながら、左近は三郎次の手を両手で包み込んだ。
「これでいいだろ?」
-ありがとう。
もう口を開く気力もないほど、急速に眠気が襲ってきた。心地よい眠気に侵されながら、あの夢の続きを見たいと思った。
-左近。こんど、故郷の海に行こう。な、いいだろ…?
<FIN>
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