インフルエンザに、ご用心

インフルエンザの記事が日本の歴史に登場するのは、平安時代にさかのぼるそうです。それ以来、現代に至るまで、インフルエンザは決して等閑視していい病気ではありません。皆様もくれぐれもご用心あれ。

文中に登場するコンタギオン説(接触感染説)は、1546年にイタリアのジローラモ・フラカストロによって提唱された説で、病原論としては、古代ギリシャから提唱されていたミアズマ説(瘴気説)を発展させたものです。時代的に、室町末期の日本に伝わっていても不自然ではないかな、と思ったりして。(笑)

 

 

 


「え~っと、上焦は表証と半表半裏で、対象となる臓腑が肺と心包(心臓)で、中焦は裏証で、臓腑は脾、胃、大腸で、下焦は裏証で、臓腑は腎、肝と…」
 放課後の教室で、三反田数馬がぶつぶつ言いながらなにやら書き付けている。掃除道具を抱えてやってきた浦風藤内が首をかしげる。
「数馬、なにやってるんだ?」
「あ? ああ…ちょっと病候分類を覚えてるんだ…それから四要は…っと」
「とりあえず、掃除するからどいてほしいんだけど」
「わ、分かったよ」
 相変わらずの生真面目な声で退去を求められた数馬は、慌てて本や書付を片付ける。
「それにしても、保健委員って、そんな難しいことも覚えないといけないの?」
 机を教室の端に重ねながら、藤内は同情したように言う。
「まあね。保健委員会は、委員長の伊作先輩の次の上級生は僕しかいないから。それに…」
 書付を抱えたまま、数馬は、開いた窓から外を眺める。山中にある学園のあたりは、秋の深まりも早い。遠くの山の木々は、すでに葉を落として冬の装いに近付いている。
「…また、前の予算会議のときみたいに、下級生だけで薬の名前も分からないまま予算を組む、なんてことになったら困るし」
 そうなのだ。たださえ不運な伊作が、次の予算会議の前の予算作成に、万全のコンディションで臨めるなど、誰も保証できないのだ。

 


「まったく、この時期になると風邪を引く生徒が多くなる。今日など、クラスの3分の1が風邪で寝込んでしまって授業にならん」
 医務室で、校医の新野を相手にぼやいているのは、二年い組実技担当の野村雄三である。
「三郎次の具合も、まだよくありません」
 新野の傍らで、お茶を勧めながら、川西左近が言う。
「何とかなりませんかな、新野先生」
 ずず、とお茶をすすりながら、野村はため息をつく。
「季節の変わり目とはいえ、少々患者が多いようですな。全校的に状況を調べてみますか」
 手にしていた茶碗を置くと、新野は立ち上がった。その動きを、野村が眼で追う。
「先生方の中には気合や根性が足りないということで済ませる向きもある。たしかに、生活に緊張感がないと、病を呼び込みやすいのは確かだが、感染症だったりすると、それだけでは済まないことになります」
 数日分の診療記録をめくりながら、新野は考え深げに言う。
「感染症ですか?」
 野村が不安げに訊く。
「その可能性も視野に入れて対策を、ということです」
 安心させるようにスマイルを浮かべながら、新野は答える。
 まあぜひよろしく、と湯飲みを干した野村が座を立つと、新野はやや厳しい表情になって言った。
「左近、善法寺君を呼んできてくれませんか」

 

 

「どうかしましたか、新野先生」
 薬草の手入れをしていた伊作が、洗った手を拭いながら医務室に入ってきた。
「さきほど野村先生が見えましてな、風邪の生徒がずいぶん多いとのお話でした。二年い組は、今日は3分の1の生徒が風邪で、授業にならなかったとか」
「3分の1ですか…それはずいぶんと多いですね。左近、なにか気がつくことはなかったのかな」
 伊作は、傍らに控えた左近を振り返った。
「それが、前の日までなんでもなかったようなのに、昨日は朝からみんな急に具合が悪くなったみたいで、熱が出たり、体中の節々が痛いって言ったりするんです…」
「ちょっと待って」
 伊作が突然遮ったので、左近はびくっとした。
「熱と関節痛だって? それって…」
「風疫(インフルエンザ)かもしれませんね…」
 新野がうめくように声を低める。
「風疫ですって?」
 左近の声がうわずる。大勢が寮生活を送る学園では、感染症はあっという間に蔓延してしまうおそれがあった。
「だが、医務室に患者が多くなったのは、昨日の午後からだ。少なくとも私がいた間は。先生はどうお思いですか? 午前は、私も授業でいなかったからわからないのですが」
「一年生と三年生の生徒が何人か、風邪らしい症状で来ていました。熱はあったが、関節痛や倦怠感といった風疫の症状はなかったので、部屋で休むように指示しました。二年生、とくにい組の生徒が来たのは、午後だったと私も記憶しています」
「私が診たときは、みな高熱とひどいくしゃみや鼻水で、関節痛などはあまり訴えていなかったのですが」
「風疫の典型的な症状です。最初に高熱と関節痛、倦怠感がきてから、くしゃみ、咳、鼻水のような風邪に似た症状が現れる。そうなると、患者の主訴も熱やくしゃみといったものになりやすい…左近」
「はい」
「二年い組の患者は、昨日の朝から症状があったにもかかわらず、どうして午後まで医務室に来なかったのか、思い当たることはありませんか」
「それは…」
 左近が口ごもった。
「なんですか」
「実は、昨日の午前中はテストがあったんです。それで、みんなムリして受けちゃったので、その間に体調が悪くなってしまったようなんです」
 やれやれ、と新野と伊作が肩を落とす。
 -そんな理由で…。
「でも、三郎次だけは違うんです」
 淡々と話していた左近の口調が変わった。
「…三郎次だけは、何日か前から熱があるみたいで、それはそれでつらそうなんです」
 いつもは元気そのものの三郎次が、青ざめた顔で、時折咳き込んでいる様子を見るだけでも、左近は気が気ではなかった。
「そうでした。2、3日前に風邪ということで医務室に来ていましたね」
 思い出したように、新野が手を打つ。
「ひどいくしゃみや鼻水は収まったんですが、熱っぽいのと咳が続いていて、まだ治っていないんです。医務室に行けって言ったのに…」
 あんな薬くさいところはごめんだよ、と断ってばかりの三郎次だった。
「三郎次君の熱は、それほど高くはなかった…だが、高くはなくても発熱が続けば、確実に体力は失われる。それだけ抵抗力が弱くなる」
 考えこみながら、新野は低く呟いた。
「三郎次のようすを見てきます」
 不安がこみあげてきたらしく、左近は立ち上がる。
「頼みますよ」
 左近を見送っていた新野が、ややあって立ち上がった。不審そうに伊作たちが見上げる。
「…やはり、気になります。私も、二年生を診てきます。善法寺君は、いつ患者が来てもいいようにここで待機していてください」
「はい…」
 気がかりそうに、伊作は新野を見上げる。新野の懸念が当たっているとすれば、少なくとも二年生には風疫の感染が広がっている。医務室に隔離するのはいいとして、果たして床が足りるだろうかと考えたそのとき、
「たいへんです!」
 廊下をどたどたと駆ける足音が近付いてくる。と、がらりと医務室の襖が開かれた。
「どうしましたか、左近」
「三郎次が、急に高い熱を出して苦しそうなんです。すぐ診てください!」
 続いて、久作と四郎兵衛に担がれた三郎次が運ばれてくる。真っ赤な顔で激しく咳き込む三郎次を見た新野が、すぐに声を上げる。
「全員覆面をして! 能勢君と時友君は、部屋を出たらすぐに手をよく洗ってうがいをすること。いいですね」
「は、はい!」
 常ならぬ新野の形相に、三郎次を寝かしつけた久作と四郎兵衛が、慌てて医務室を後にする。
「おっと危ない…あれ? 新野先生も伊作先輩もどうしたんですか?」
 入れ違いに入ってきたのは、教室を追い出された数馬である。
「ちょうど良かった。数馬にも手伝ってもらいます。覆面をして、すぐに水を汲んできてください」
 矢継ぎ早に飛ばされる指示に、数馬は慌てて覆面をすると、抱えていた書付を置いて井戸へと駆け出す。

 

 

「先生。なぜ、覆面をするよう指示されたのですか」
 三郎次の薬を調合している新野のもとに、必要な薬種を運びながら伊作は訊いた。
「いい質問です。だが、まずは善法寺君はどう考えるかを知りたい」
 にこやかに、しかし厳しい問いを新野は投げかける。
「覆面をする…理由ですか?」
 今までも、風邪や風疫の患者を診るときには、覆面をすることが多かった。だから、新野の指示もごく自然に受け止めていたのだが、言われてみれば、それはなぜなのだろうか。
「なんというか…私たちにも病気がうつるからでしょうか」
「なぜ、うつるのですか?…いや、表現を変えましょう。何が、うつるというのですか?」
「…」
 もはや、伊作にはなにも答えられない。
「少々、難しい質問でした。善法寺君が答えられなかったからといって気にすることはありませんよ。今の問いは、おそらく今の日本ではほとんど答えられる人のいないものなのです」
「…どういう、ことですか?」
 伊作も、その後ろで控えている数馬と左近も身を乗り出す。
「そうですな。いい機会だからお話しておきましょう」
 秤を前にして処方を確認しながら、新野は微笑む。
「私たちが拠っているのは、唐で生まれた医術です。いま、数馬が一生懸命勉強しているところですが、傷寒理論で表裏、熱寒、虚実を分類し、さらに温病理論で三焦、四要に分けて病候を分析し、それに対応した処方を行っている。それはそれで治療に当たって大事なことです。しかし」
 言葉を切ると、新野は伊作たちに眼をやった。 
「…私たちが拠っている医術は、病根の分析という点では決定的に弱いというのが現状です」
 ふたたび秤に向かって、新野はため息をつく。
「といいますと?」
 量り終わった薬種を煎じ器に入れながら、伊作が訊く。
「たとえば今回の風疫です。そもそも、なぜ風疫などという病気に罹ると思いますか?」
「それは、身体の陽と陰のバランスが崩れて…」
「同じような時期に、大勢の人が同じ症状を発する。それはなぜだと思いますか?」
「それは…」
 自分が今まで学んできた医術では、同じような時期に大勢の人が身体の陽陰のバランスを崩した、としか説明しようがない。だが、新野がそんな答えを求めているはずがないことは明らかだった。果たして新野は淡々と続ける。
「唐の医術では、同じような時期に、大勢の人が身体の陰陽のバランスを崩した、としか説明できません。唐の医術は、あくまで患者一人ひとりの診療に特化しているためです。群としての患者がいた場合の病因分析という考え方がそもそもない…風疫という名をつけた一般の人々のほうが、よほど病因分析に近い考え方をしているといえるでしょう」
「…そうかもしれませんね。風によって邪気が広がり、集団感染するということですから」
 風によって病気が広まる、という考え方は、むしろ本質をついたものなのかもしれない、と伊作は考えながら相槌を打つ。
「南蛮の医学では、こうした伝染病は、穢れた空気によって伝染するものと説明されています」
 秤が釣り合うように、慎重に薬種を皿に移しながら、さらりと言った新野の言葉に伊作が反応する。
「先生、いま、なんと…?」
「つまり、大勢の人間が同時に病気になるということは、それなりの外的な原因があるのだろうということです」
「それが、穢れた空気ということですか」
「そうです。それをミアズマすなわち瘴気といいます。しかし、それでは説明できない伝染病も出てきた。梅毒のことは知っていますね」
「は、はい…」
 それがどのような行為によって伝染するかを聞いたことのある伊作は、思わず赤らめた顔を伏せる。背後の数馬と左近はきょとんとした顔をしている。
「梅毒は、明らかに空気によって感染する病気ではない。患者同士の直接的な接触によって感染している。つまり、空気以外の病気を媒介する何かがあるのではないか、という説があります。コンタギオン説(接触伝染説)といいます」
「病気を媒介する何か…」
「それが何かはまだはっきりとは分かっていません。患者のくしゃみから出たつばや痰、血液や精液などの体液あるいは排泄物などのなかに入っていて、それを体内に取り込むことによって病気に感染する、ということのようです…さて」
 計量を終えた残りの薬種を煎じ器に入れる。控えていた数馬が煎じ器に火を入れる。
「ミアズマにしても、そうではない『何か』にしても、それによって体内の陽陰のバランスを崩す要因であるということなんですね」
 伊作が確認する。
「いまはまだ、それも学説に過ぎません。ただ、私は、私たちが拠っている唐の医術を補完しうる理論だと思います」
 新野の表情は覆面に隠れて窺えない。それでも、穏やかながらも決然とした声に、確信を持っていることは明らかだった。
「とすると、今回の風疫も…」
「風疫は、咳、くしゃみに加えて、急な高熱、関節痛が特徴です。もしコンタギオン説をとるならば、患者のくしゃみや咳から出るつば、あるいは鼻水のなかに、風疫を媒介する何かがあるのではないかと考えるのが自然です。とすれば、治療する私たちが感染しないためには…」
「覆面で、患者のくしゃみや咳に含まれるつばを吸い込まないようにする…」
「あるいは、つばや鼻水がついたものは洗ってから使うとともに、私たちも手をこまめに洗って、清潔に保つことが必要になる」
 なるほど、と数馬や左近も頷く。難しい話だったが、なんとなく納得できるものも感じた。
「南蛮の医学にも、学ぶべきことが多いということなんですね」
 左近がぽそりと言う。
「その通りです。しかし、だからといって唐の医術を軽んじていいということではありません。病候の分析や処方に関して言えば、患者ひとりひとりの病状に対応していく唐の医術は、南蛮の医学よりはるかに実践的であると私は思います」
「私たちは、唐と南蛮のいいところを活かしていくことが求められているんですね」
 伊作が覆面をしながら言う。煎じあがった薬を三郎次に与えるのだ。
「それができるという幸運な立場にある、と私は思いますよ」
 覆面からのぞく新野の眼が微笑む。
「でも、それって、南蛮の医学も覚えなければならないってことですよね」
 いまの医術を覚えるだけでもたいへんなのに、と数馬がため息をつく。
「そういうことです。数馬も、いずれは左近も、これからもっとたいへんになりますよ」
「「え~っ」」

 

 

「さ、麻黄湯です。これを飲むと楽になりますよ」
 左近が三郎次の身体を助け起こす。苦しそうな三郎次に、新野は煎じたばかりの薬を手渡す。
「三郎次、しっかりしろ。薬を飲んだら、きっとよくなるから」
 左近が声をかけると、苦しそうにあえいでいた三郎次が、ようやく手にした薬を口に運んだ。
「せ…んせい、ありがとうございます…」
 まだ苦しそうに、三郎次が言う。
「先生。三郎次は、僕が見ています」
 薬を飲み終わった三郎次の身体を横たえながら、左近が言う。
「分かりました。頼みましたよ」
 新野は立ち上がりながら、声をかける。

 

 

「どうやら、三郎次君は、風邪から風疫の症状を発症したようです。きっと、クラスの誰かから、風疫の症状となる何かをうつされてしまったのでしょう」
 医務室に運ばれた患者たちを、衝立や屏風で仕切った残りの狭いスペースで、次の処方の準備をしながら、新野たちはごそごそと話していた。
「しかし、まだ風疫と決まったわけでは。それに、風疫にはまだ時期が早いです。どうしてそうお考えになったのですか?」
 数馬が訊く。
「実は、昨日、山田先生とそのようなお話をしました。山田先生が利吉君から最近受け取った手紙によると、西国のほうで風疫の流行が始まっているそうです。また、いつもの風疫と異なって、症状が重い傾向があるそうです」
 苦しげにため息をつきながら、新野は薬種を秤に乗せる。
「重い…んですか?」
 左近が声を詰まらせる。ここ数日、熱が続いていて、それだけでもつらそうだったのに、更に重症化するという風疫が襲いかかったら、三郎次はどうなってしまうのだろうか。
「…そうです」
 重い口調で、新野は続ける。
「左近が心配しているように、三郎次君は、すでに風邪で体力が落ちている。危険な容態であることはたしかです…だが、左近」
 新野はふいにきびしい声で向き直った。左近が思わず膝を正す。
「私たちは、かならず、三郎次君を治さなければならない。その覚悟は、ありますね」
 何の覚悟を求められているのか、左近にはまだ見当がつきかねた。それでも、力強く頷く。
「はい!」

 

<FIN>

 

 

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