和解

 

はと様の留三郎と作兵衛の作品を読んでいるうちに何かが降臨してきて書き上げたお話です。というわけで、このお話を、インスパイアを与えてくださったはと様に献呈いたします。

タイトルは志賀直哉の作品とかぶってますが、このお話の留三郎と作兵衛にはそこまで深刻な確執はありません。ただ、カッコいい食満先輩も、ときに15歳の未成熟な面を見せる時があって、そんな先輩を扱いかねながらも大好きな作兵衛のコンビの可能性に開眼できたのは、ひとえにはと様のおかげです。

なお、一部に暴力表現がありますので、苦手な方は回避されることを推奨いたします。

 

 

 後悔していた。これまでにないほどに。自分の短慮も、すぐかっとなる性格も、すべてが恨めしかった。
 -こんなことにはならなかったのに…。
 そう考えている間だけ、肉体的な痛みを少しは忘れることができた。だが、そうしている間にも、丸めた背や抱えた膝には容赦なく蹴りが入る。眼をかたくつむって、歯を食いしばって、作兵衛はひたすらこの責め苦が終わることを待ちながら、耐え忍んでいた。

 


 その朝、用具委員会委員長の留三郎はひときわ機嫌が悪かった。顧問の吉野から体育委員会の小平太が掘りまくった塹壕と、作法委員会の喜八郎が掘りまくったタコ壷の埋め戻しを指示されていたのだ。
 作兵衛の指示でまずはタコ壷の埋め戻しにかかっていたところに、頭から湯気を立てんばかりの勢いで戻ってきたのは留三郎だった。
 -また、何かややこしいことが起こったんだな。
 より端的にいうと、予算をめぐる文次郎とのやりあいが物別れに終わった、ということだった。
「また、会計委員長の潮江先輩とやりあってきたんだよ、きっと」 
「で、また予算が取れなかったんだね」
 こそこそと話してくすくす笑っているのは喜三太としんべヱである。
「こら、お前たち。やめないか」
 慌てて作兵衛がたしなめるがもう遅い。
「こら! 喜三太! しんべヱ! なにが『また』だ!」
 耳聡く聞きつけた留三郎が2人に詰め寄る。
「ひ、ひえぇぇ」
「ご、ごめんなさいぃ」
 留三郎の剣幕に震え上がる2人だが、すっかり頭に血が上った留三郎には通じない。
「もういっぺん言ってみろ! 喜三太! しんべヱ! なにが『また』だ! なにがそんなにおかしい!」
「食満先輩、少しは落ち着いてくださいよ」
 拳を握って凄む留三郎の前に、作兵衛が割って入る。興奮状態になったときの留三郎を抑えられる自信はなかったが、いまは後輩たちを守ってやらなければならなかった。
「なにが『落ち着け』だ、作兵衛! これが落ち着いていられるか! 用具委員会の名誉と存亡に関わる事態なんだぞ!」
「そんなおおげさな…」
「なにがおおげさだ! お前、事の重大さが分かっているのか!」
「分かるもなにも、何があったかもわからねぇんですから…」
「なら分からせてやる! いいか、よく聞け! 俺が用具の修理の予算をもぎ取るべく会計委員長の文次郎のところに行ったときだ…おい、聞いてるのか!」
 いつの間にか埋め戻しの作業を再開している後輩たちに向かって、留三郎は怒鳴りつける。
「聞いてますけど…でも先輩」
 鋤を動かしながら作兵衛は答える。
「なんだ」
「予算も大事ですけど、今は七松先輩の塹壕と綾部先輩のタコ壷の埋め戻しが先じゃねぇでしょうか。誰かが落ちてケガしたらたいへんだし…」
「なんだと…!」
 いきり立った留三郎が雷を落とそうとしたとき、
「用具委員長」
 現れたのは、顧問の吉野だった。
「…吉野先生」
 気勢をそがれて口ごもる留三郎にかまわず、吉野は続ける。
「ひとつ言い忘れていました。街の鍛冶屋に修理に出していた鍬ですが、二年生の農業実習で急に使うことになりました。今日中に引き取ってきてください」
 それだけ言うと、ついと背を向けて吉野は事務室へと歩んでいく。

「…あの、先輩…?」
 怒りと興奮のあまり明らかに思考停止に陥っている留三郎に、作兵衛はこわごわと声をかける。
「どれから先に…やりますか?」
「どれから…だと…!」
「は、はい」
 タコ壺と塹壕の埋戻しに鍬の引き取りが重なっては、分担を指示してもらわないことには…と作兵衛は考える。そうでなくても人手も時間も足りないのだ。
「おまえ…偉くなったものだな」
 不意に留三郎の声が低くくぐもる。その声に殺気すら感じて作兵衛は背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
「偉くなんかありません! でも…」
「でも、なんだ!」
 今日の先輩はねちっこいな…と思いながら、作兵衛もだんだん留三郎のペースに巻き込まれてしまう。
「だって、やらなきゃいけないことがいっぱいあるんですよ! 先輩がきちんと指示してくれねぇと、俺たち何からやればいいかわからねぇです!」
「上等だ、作兵衛! そこまで言うなら、お前が俺たちに指示してみろ!」
 -な、なんでそうなる…?
 話の展開についていけずに頭が空白になる。その間にも留三郎は拳を握り締めて覆いかぶさるように身を乗り出してくる。不意に作兵衛のなかで何かが切れた。
「わかりました! じゃ、指示させていただきます!」
 両手の拳を握りしめながら、作兵衛はきっと留三郎を睨みあげる。上背のある留三郎が壁のように眼の前にそびえる。いや、これは壁だ、ただの壁なんだ、と作兵衛は考えることにした。そうであれば言いたいことだって言える。
「先輩たちは塹壕の埋戻しをやってください! 俺は鍬を引き取りに行ってきます!」
 吉野先生に外出許可証をもらってきます、と言い捨てて作兵衛は駆け出してしまった。
「…」
 呆然と作兵衛が走り去った後に眼を泳がせていた留三郎の袖を誰かが引く。
「…せんぱい?」
 平太だった。
「…はやく、うめもどしをはじめませんか?」
「お、おう…」
 


 -要は、また予算を取れなかったってことだったみてぇだけど…。
 街を歩きながら、作兵衛は考える。
 -だからって、あんなに俺たちに八つ当たりなさることはねぇんだ…。
 売り言葉に買い言葉のような展開で、一人で鍬の引き取りに出たはいいが、持ち帰らなければならない鍬は1本や2本ではなかったはずである。
 -だいたい、先輩はときどき頭に血がのぼりすぎなんだ…。
 それが文次郎相手なら力は互角だからいいだろうが、自分たち後輩にとってはあらゆる意味で抵抗できないのだから困るのだ。
 -あ~あ、俺、一人で持って帰れるのかな…。
 ぼんやりと考えながら歩いていた作兵衛は、すれちがいざま肩が触れたことに気がつかなかった。
「おい! おまえ!」
 ぐいと肩をつかまれるまで、不覚にも作兵衛は相手に囲まれていることに気づかなかった。
 -しまった!
 思ったときにはもう遅い。
「肩ぶつけたまま謝りもしないで行く気かよ」
 自分を取り囲む上背のある5~6人の集団に見覚えはなかったが、決して性質のよいグループではないことは容易に分かった。
「…」
 ここでうっかり謝れば、たかられるだけだと思った作兵衛は、黙って相手をねめつける。
「おい、なんだその眼は! 人にぶつかっておいて!」
「ずいぶん上等な態度じゃねぇか」
 作兵衛の沈黙は、反抗的と受け取られたらしい。作兵衛を囲む人影がひときわ狭まった。
 -まずい…もう逃げられない…。
 ぐるりと自分を囲む高い壁に、作兵衛は内心たじろいだ。表情は相変わらず相手を強く見据えていたが。
「なんだその眼は」
 ひときわ背の高い相手が、作兵衛のあごを持ち上げる。顔を振ってその手から逃れた作兵衛が叫ぶ。
「触るんじゃねぇ!」
「んだとォ!?」
 別の手が胸倉をつかむ。もはや作兵衛は逃げようがなかった。胸倉をつかまれたまま、小柄な身体が持ち上げられる。
 -くっそ…!
 いや、逃げようはあった。懐には苦無や煙球があったし、甲絆には棒手裏剣や小しころが忍ばせてあった。だが、いずれも忍器である。うっかり使えば、自分が忍術学園の人間だと明かしてしまうことになる。
 -そんなことは、ぜったいできない…!
 だが、それは、反撃の手段を自ら封じてしまうことだった。
 -だけど、秘密はぜったいに守らないと…!
 そのためにできることは限られていた。成功する可能性は限りなく低かったが。
「…悪かったよ」
 ぽつりと呟いて、作兵衛は身体の力を抜いた。
「ほお?」
 胸倉をつかんでいた相手が、作兵衛の顔をのぞきこむ。
「少しは反省する気になったようだな」
 持ち上げられていた身体が下ろされる。と、その隙を狙って相手の脛を思うさま蹴り上げる。
「うげ!」
 胸倉をつかんでいた手が思わず放される。
 -いまだ!
 足が地を蹴って逃げ出そうとする。だが、一瞬早く別の手が作兵衛の襟をつかんだ。
 -!
 しまったと思った瞬間、顔面を衝撃が襲って、身体ごと2,3間飛ばされる。
「この野郎!」
 地面に投げ出された身体を、一斉に足が襲う。完全に窮地に陥った作兵衛には、もはや頭を両腕でガードしてうずくまるしか途はなかった。

 


 より強い衝撃が背中を襲って、作兵衛は思わず息が詰まった。頭を抱え込んだ腕がつい緩む。
「こいつ!」
 それを見逃さなかった手が、作兵衛の腕をつかんでねじ上げようとする。だが、片腕が持ち上げられた瞬間、その手から力が抜け、作兵衛の腕は自由になった。つぎの瞬間、どうと音がして誰かが自分のすぐ脇に倒れこんだ。
 -え…!?
 作兵衛が身を起こそうとしたとき、ひゅっと風を切る音がしたと思うと、もう一人が声も立てずに昏倒した。
 -どういうこと?
 あたりを見回そうとしたとき、低くくぐもった声が聞こえた。
「俺の後輩に手を出すとはな…いい度胸だ」
 -後輩ってことは…先輩!?
 はっとした作兵衛が声のほうに顔を向ける。そこに立っていたのは、まぎれもなく留三郎だった。片手を懐手にして、もう一方の手で小石をいじりながら、留三郎はそこに立っていた。射るような鋭い視線といい、くぐもった声といい、今まで見たこともないような殺気をたぎらせながら。
「なんだ、コイツの仲間か?」
 腕を捲り上げながら、一人が留三郎のほうに足を踏み出す。
「おうよ。そいつは俺の後輩だ。ずいぶん世話になったようだな…お礼をしないとな」
 じりと間合いを詰めながら、留三郎はにやりとする。

「そうはさせるか!」
 よろよろと立ち上がりかけた作兵衛の襟を、声の主がつかみ寄せようとする。だが、その手が作兵衛を捉える間際に、唸りを上げて飛んできた石がその手を打つ。
「だぁっ!」
 思わず手を押さえて飛びのいたのを見て取るや、作兵衛は大急ぎで身を起こすと、よろめきながらも留三郎のもとへ駆け寄る。
「気をつけろ! アイツ、印地打ち(石投げ)だ!」
 一人が声を上げる。
「印地なら俺だって」
 もう一人が石を拾うや、留三郎に向かって投げつける。
「作兵衛ッ! 早く戻れッ!」
 駆け寄って作兵衛を背後にかばった留三郎は短く命じる。その肩に相手の投じた石が当たるが、構わず懐手に隠し持っていた石を続けさまに投げつける。
「ウオォォォォッ!!!」
 相手がひるんだと見た瞬間、留三郎は雄叫びを上げながら、身を低くして相手に向かって突進していった。

 

 

「ただいま」
 忍たま長屋の自室に戻ると、伊作がなにやら難しい顔をして薬を煎じていた。思わず声を上げる。
「おい、また部屋で薬を煎じてるのかよ…いい加減、医務室でやってくれよな」
 せっかく風呂入ってスッキリしてきたってのによ、と続けながら、手拭いを衝立に掛ける。
「すまない、留三郎。もう終わるから、ちょっとだけ我慢してくれないか」
 言いながら、伊作は薬液を静かに壺に移す。
「ったく、しょうがねえな」
 なおもぶつくさ言っていた留三郎が、ふと好奇心に駆られて何の薬か訊こうとしたとき、伊作が覆面を外しながら留三郎を見上げた。
「ところで、作兵衛とは仲直りした?」
 -!
 いま最も訊かれたくないことを抉り出された気がして、留三郎の意識が一瞬空白になる。
「な、なんでそんなこと訊くんだ」
 言ってしまってからしまったと思った。動揺が露骨に声に出てしまっている。きっと表情にも出てしまっているだろう。伊作がどこまで事情を把握して訊いているのかわからないが、留三郎なりにのっぴきならない気持ちを抱えていることが、これではすべて見通されてしまう…と思った。
「だって」
 煎じ器を片づけながら、伊作はのどやかに言う。
「…午後、保健室当番だった乱太郎のところにしんべヱと喜三太が来て、ずっとその話をしていたよ。二人とも、作兵衛がひとりで修理に出した鍬を持って帰れるのかなってずいぶん心配していたよ」
「お、おい。ちょっと待て」
 留三郎が慌てて遮る。
「俺も、一人じゃ心配だからすぐに街に行ったんだぞ!」
「ああ、そうみたいだね」
 それで、一年生だけで埋戻しをしなきゃいけなかったンだよ! と口をとがらせるしんべヱと喜三太の表情を思い出す。
「でも、仲直りはしてないみたいだね」
 あっさりと宣告する伊作の言葉に、一撃で心臓を刺し貫かれたように感じて、留三郎は言葉を失う。
「ど、どうしてそう思うんだよ」
 辛うじて口からひねり出せた問いだった。
「これまで、何度君たちの意地の張り合いを周旋したと思ってるんだい?」
 伊作は肩をすくめる。
「今日は作兵衛が風呂当番みたいだけど、見るからに落ち込んでいたよ。一緒に街に行ったのに、いったい何があったのさ」
「…」
 畳み掛ける伊作に、今度こそ留三郎は何も言えなかった。
 -たしかに、俺は作兵衛にきちんと謝ってなかった…。
 街の性質の悪い連中に痛めつけられていた作兵衛を助けることは助けたが、すぐに学園に帰らせたので、言葉を交わす余裕はなかった。そのあと、物陰で相手を思うさま叩きのめした留三郎は意気揚々と引き上げてきたのだが、学園が近づくにつれて、どうやって作兵衛に謝ればいいやら見当がつかなくて、すっかり気鬱になっていたのだ。
 -今日のことは、どう考えたって俺が悪かったからな…俺が作兵衛をあんなに追い込んでさえなければ…。
 何が原因であんな連中に関わってしまったのか定かではないが、留三郎にはおおよそ見当がついている。
 -作兵衛のやつ、気が立っていると喧嘩っ早くなるところがあるからな…。
 自分と似た気質ゆえに、手に取るように想像できる留三郎だった。だからこそその原因を作ってしまった自分は、作兵衛に対して、どのような表情で、どのように声をかければいいのかわからない。

「今頃、作兵衛は終い風呂をつかっているんじゃないかな」
 文机に向かって本を読んでいた伊作が、ひとりごとにしてはいやに明瞭な声でつぶやく。
「…だから、なんだよ」
 まったく君ってやつは…と肩をすくめながら伊作は呆れたように声を上げる。
「決まってるだろ。留三郎も風呂に入ってくるのさ」
「だが、俺はもう風呂に…」
「だから、もう一回入るのさ!」
 さすがの伊作も苛立ってきたようである。
「だが…」
「だがも何もないだろ!」
 立ち上がった伊作が言い募る。
「…身も心も裸になってきちんと謝れば、作兵衛だってきっと仲直りしてくれるさ。何より作兵衛は留三郎のことをあんなに慕っているんだから、いつまでも意地を張っているなんてできないはずだよ。ここで上級生の留三郎が仲直りのきっかけを作ってあげなくてどうするのさ…!」
 はい、これ持って、と衝立に掛けてあった手拭いを押し付けると、伊作は強引に留三郎を部屋の外に押し出す。
「お、おい、何しやがるんだよ」
「さ、とっととお風呂に行った行った。早くしないと作兵衛が風呂からあがっちゃうよ」
 いうだけ言うと、まだ何か言いかける留三郎を無視してぴしゃりと襖を閉じる。
 -まったく、世話が焼ける…。
 襖に背を向けた伊作は、そのまま寄りかかるとふっとため息をついて苦笑いする。
 -ま、それがあの二人らしいんだけどね…。

 

 

 作兵衛は学園に戻っていた。傍目にはなにごともなかったように、風呂場の釜の前で火の番をしていた。

 光背に炎を負っているのが見えるような激しい怒りをたぎらせた留三郎の姿は、まだ作兵衛の眼にはっきりと焼き付いていた。あの怒りの大部分は、自分を痛めつけた連中に向けられたのだろうが、その一部は、自分にも向けられていたのだろうと作兵衛は考えずにはいられない。あれだけぶざまに、一方的に、反撃できずに地面にうずくまることしかできなかったのだから。
 頭を腕でかばったため、首から上のダメージはほとんどなかった。だが、身体のあちこちがひどく痛んだ。腕をまくっただけでも、あちこちに擦り傷やあざができていた。
 生傷だらけの身体を他人に見られるのが恥ずかしかった作兵衛は、風呂当番だったのを幸い、終い風呂をつかうことにした。
 -ひゃぁ、けっこうやられたな…。
 受けの姿勢で防戦一方だったとはいえ、あらためて裸になってみると、眼の届く範囲だけでもあちこちにあざや擦り傷ができていることがよくわかった。いちばん酷くやられた背中はどうなっているのか、考えたくもなかった。もっとも、最初に湯を浴びた時点でひどくしみたことから、どういう状態になっているかは想像がついたが。
 -あーあ、これじゃ当分、風呂当番を引き受けて終い風呂を使うしかねぇのかな…。
 うっかり誰かにこんな傷を見られたら、すぐに医務室に行けと言われるだろう。医務室に行けば、手当てはしてくれるだろうが、その代わりに、なぜこのような傷を負ったか説明を求められるだろう。だが、その説明は、今の作兵衛には、もっとも避けたいことだった。うっかりすると、原因となったトラブルは、留三郎のせいとでも言ってしまいそうだったから。
 -先輩が悪いんじゃねぇ。俺が悪いのに、でも説明し始めたら、きっと俺は先輩のせいだと言っちまう…。
 だから、ぜったいに、傷の原因を探られるようなことはあってはならなかった。少なくとも、ちょっと転んだとでも言い訳できる程度に治るまでは。
「よお、作兵衛」
 ふいに頭上から降ってきた声に、作兵衛は凍りついた。振り返ってみるまでもなく、声の主はあまりにも明らかだったから。
「せ、先輩…?」
 なぜこんな時間に…と問いかける前に、留三郎は口を開いた。
「ちょっと鍛錬に出てたら遅くなってな。作兵衛が終い風呂つかってて助かったよ。今日はもう風呂はあきらめるしかないかと思ってたからな」
 街での立ち回りなどなかったように、留三郎は作兵衛に並んで、どっかと洗い場に座り込む。 
「…そうですか」
 眼を背けた作兵衛がぼそっと呟く。
「…ずいぶんやられたな」
 ちらと作兵衛の身体に眼をやった留三郎は低く言う。背中を洗いかけていた作兵衛の手が止まる。
「なんで反撃しなかったんだ」
 -ああ、やっぱりこの先輩ならそう言うだろうな…。
 作兵衛は心のなかでため息をついた。
「その…あの人数を相手に反撃するには、自分の実力では、忍器でも使わないとむりだし、でも、それじゃ忍術学園の人間だってばれてしまうっていうか…」
 ぼそぼそと答えてから、作兵衛は、留三郎の反応を半ば覚悟して身をすくめた。好戦的な留三郎であれば、「そんな後ろ向きな考え方で忍者がつとまるか!」くらいは怒鳴りそうだったから。
「…よく我慢したな」
 意外な言葉に、作兵衛は手を止めたまま、こわごわと留三郎の表情をうかがう。
 留三郎はうつむいていた。
「…作兵衛なら、あんな連中くらい、忍具を使えばなんとでもできたはずだ。だが、そうしなかった。自分の身分を隠すためにあえて敵に反撃しないということも、忍者にとってはだいじなことだ。そうすることで任務を全うしないといけないからな…」
 穏やかな声で、留三郎は語りかける。だが、その声には苦渋がにじんでいる。
 -俺が作兵衛を追い込んでなければ、こんなことにはならなかったんだ…。
「さっきは、ありがとうございました。先輩が来てくれなかったら、俺…」
 まだ礼を言ってなかったことに気づいた作兵衛は、あわてて留三郎に向き直って端座する。
「俺こそ、悪かった」
 留三郎が神妙な声で続ける。
「…予算が取れなかったからって、お前たちに八つ当たりしたのは悪かった。作兵衛をあんなに追い込んで、大人げなかった。すまない」
 胡坐をかいた両膝の上に掌をついて、留三郎は深く頭をたれた。
「な、なんかおかしいっすね、ハダカでこんなことしてるなんて…」
 互いに頭を下げたまま、気詰まりな時間が流れた。先に頭を上げた作兵衛が、取り繕うように声を上げる。
「…そうだな」

 留三郎が頭を上げて、まっすぐ作兵衛を見つめる。身の置き所のない思いがして、作兵衛は左右に視線を泳がせる。と、その視線が、留三郎の左腕に巻かれたものを捉えた。
「先輩…その腕、どうしたんですか」
 ぐるぐると巻きつけられただけの手拭いには、茶色いしみができている。
「ああ、これか」
 留三郎も左腕に眼を落とす。
「連中の一人が小刀を持ってやがってな…ったく、こっちは丸腰だってのに卑怯な野郎だぜ」
 軽く舌打ちすると、まだ腕の手拭いを凝視してなにか言いかけた作兵衛に眼を戻して、明るく声をかける。
「よし、作兵衛。俺が背中を流してやろう。向こうを向け」
 留三郎が手拭いを手にする。
「え、いや、あの…先輩に背中を流してもらうなんて…俺こそ、先輩のお背中を…」
 舌をもつれさせながら、作兵衛が腰を浮かそうとする。
「いいからあっち向け」
 留三郎の両手が作兵衛の肩をつかむと、造作もなく後ろ向きにさせたれた。
「ずいぶんやられたな…あとで医務室で見てもらわないとな」
 傷やあざを慎重によけながら、留三郎は背中を流してやる。その左掌は、作兵衛の肩を捉えたままである。
「い、いや…それはいいです」
 居心地悪い思いで座っていた作兵衛がぼそっと言う。左肩を捉えていた手に、やや力が入った。
「どうしてだ?」
「いや、その…なんていうか、ケガしたわけを説明したくないっていうか…」
「…そうか」
 留三郎は小さく頷く。
「なら、風呂上がったら、俺たちの部屋に来い。同室の伊作は保健委員長だからな」
「え…でも、それじゃ」
 作兵衛が慌てて振り返る。
「向こうを向いてろ」
 留三郎の手が、作兵衛の背を押し戻す。
「伊作には、理由を訊くなと言っておく。それならいいだろ」
「え、ええ、まぁ…あいたたた!」
 あいまいに頷いた作兵衛が、けたたましい声を上げる。
「お、どうした、作兵衛」
 留三郎が訝しげに首をかしげる。
「先輩…痛いですよぉ」
「お、すまんすまん、傷口の上をやっちまったか」
「カンベンしてくださいよ、もぅ」
「悪かったって…作兵衛、そうおこるな」

 


「理由は訊くなって言われてるから訳ありなんだろうなとは思ってたけど、想像以上だね」
 風呂上りに留三郎とともに訪れた部屋で、伊作は呆れたような声を上げた。
「…すいません」
 褌ひとつになって伊作の前に端座した作兵衛が、首をすくめる。
「ま、何があったかは見れば分かるけどね…打撲痕に擦過傷。ずいぶんひどく蹴られたんだね。痛かったろ?」
 燭台を引き寄せて背中から腕にかけて念入りに診察した伊作は、痛ましそうに言う。作兵衛は下を向いた。
「幸い、重くなりそうな傷は見当たらない。今日のところは全体に殺菌のための薬を塗っておこう。明日以降、治りが遅い傷の治療を重点的に進めていく。それでいいかい?」
「あ…はい」
 小さく答えた作兵衛に微笑みかけると、伊作は薬を塗り始めた。
「よかったな、作兵衛」
 傍らで胡坐をかいた留三郎も笑いかける。
「はい!」
 ようやく張りのある声を上げて、作兵衛が留三郎を見上げる。その様子に微笑みながら眼をやっていた伊作は、薬を塗り終わると、壷にしっかりとふたをする。傍らの救急箱からいくつか膏薬を取り出すと、厳しい表情になって留三郎に向き直る。
「さて、次は留三郎だね。服を脱いで」
「な、なんで俺が…」
 唐突に命じる伊作に、留三郎はたじろぐ。
「君もケガをしてるんだろ…むしろ治療が必要なのは留三郎のほうだと思うんだけどね」
「ど、どうしてそう思うんだよ…」
「さっきから左腕をかばうような動きをしているのに、気づかなかったとでも思ってるのかい? その傷はただの打撲や擦り傷なんかじゃない。違う?」
 低く平板な声で、伊作は指摘する。だが、その声にはらむ怒気に、留三郎は観念する。
「わかったよ、伊作…」
 立ち上がった留三郎は寝間着を脱ぎ捨てると、伊作の前に胡坐をかいた。
「…だから、そう怒んなよ」
「怒ってなんかないさ…ほら、こんな雑な処置で」
 左腕に巻かれた手拭いを解きながら、伊作は変わらない低い声のままで言う。
「怒ってるじゃねぇか」
「怒ってるとしたら、君がきちんと治療を受けようとしないからだよ」
「それは…」
「おおかた、この程度の傷なら治療なんか要らないと判断したんだろ…だけど!」
 燭台を引き寄せて、仔細に他の傷がないかを調べる。
「君たちは、ちょっとした傷くらいなら治療なんか要らないと勝手に判断する。それどころか、そのくらいで医務室にいくことは恥ずかしいとさえ思ってる。だけど、ほんのちょっとした擦り傷から雑菌が入って化膿して、すぐに治療しなかったばかりに悪化してついには手足を切断しなければならなかったような症例を私たちは知っている。だから、ちょっとしたケガでもすぐ医務室に来るよう口を酸っぱくして言っている。その理由を、君たちは考えたこともないようだけどね」
「…」
 伊作の表情は豊かな前髪に隠れて見えない。だが、その口調から怒りを抑えきれない様子を感じて、留三郎は黙っている。作兵衛に至っては、初めて見る伊作の剣幕に、息を呑んだままである。
「…ほら、ここにも傷が」
 無表情な声のまま、伊作が肩甲骨の脇を軽く押す。
「…ッ!」
 一瞬、走り抜けた痛みに留三郎はぎりと歯を食いしばる。
「あと、この肩の打撲も…印地をまともに受けたんだね」
 伊作の声に、作兵衛も思わず留三郎の肩を凝視する。たしかに、右肩のあたりに紫色のあざができていた。
 -先輩なら、あのくらいよけられないはずがない…ってことは、俺をかばおうとして…!
 作兵衛ははっとして留三郎の表情をうかがう。その留三郎は、苦笑して伊作に言う。
「ったく、伊作にはかなわねぇな。全部お見通しってわけか」
「このくらい、望診(見診)でわかって当然だよ…留三郎にも内臓に及ぶような怪我はないようだけど、刀創(刀傷)は気になるね。あとで熱邪を帯びるかもしれないから、膏薬を貼っておくよ」
「悪いな」
「悪いと思ってるんだったら…」
 伊作の声に押し殺した感情が加わった。
「留三郎も、作兵衛も、その短慮をなおしてくれ。どんな事情があったか知らないけど、こんなケガをする以上、よほどのトラブルがあったんだろう? だけど、忍はたとえ卑怯者呼ばわりされても任務を果たすことが優先することくらい、分かってるだろ? それなのに君たちは…」
 怒りをこらえきれないように細かく肩を震わせた伊作は、言葉を切ると、勢いよく膏薬を留三郎の左腕に叩きつけた。
「っってぇっ! 伊作、なにしやがる!」
「あたりまえだろ」
 顔を伏せたまま、伊作は低く言う。
「ケガ人に対してその態度はねえだろ」
「ケガ人だと思っているなら、ケガ人らしく振舞ったらどうだい」
「…くっ」
 こらえきれずに笑い声を漏らした作兵衛を、きょとんとした顔つきの伊作と留三郎が見つめる。
「な、なんだよ」 
「いえ…お2人は、仲がいいなって思ったもんですから」
 くっくっと笑いをこらえながら作兵衛は答える。
「こんな扱いされて、なにが仲がいいだよ…ったく」
 膏薬の上をさすりながら、留三郎がぶつくさ言う。
「ケンカするほど仲がいいって言いたいのかもしれないけど…でも作兵衛」
 ため息をつきながら救急箱を片付けていた伊作が、ふいに作兵衛に向き直った。作兵衛もあわてて居ずまいを正す。
「は、はい」
「私は、君にも注意をしているんだよ。今後、二度とこんなケガをするような短慮はおこさないこと。どんなことがあっても、生きて戻ってくること。いいね」
「はい…以後、気をつけます」
「留三郎も。いいね」
「わかったよ」
 不承不承に留三郎も頷く。
「よし! ではこれで治療終わり!」
 ぱちりと手を叩いた伊作は、にっこり笑って立ち上がる。
「さあ、もう遅いから寝るとしよう。2人とも、なにハダカのままそんなところに座っているんだい? 治療は終わったんだし、早く寝間着を着ないと風邪を引くよ?」
 燭台を片付けた伊作は、早くも布団を敷き始めている。
「お、おう」
「は、はい」
 急いで寝間着に袖を通して、作兵衛は「失礼しました」とぺこりと頭を下げると、部屋を後にする。

 


「あの…ところで、鍬はどうされたんですか?」
 部屋の外まで見送った留三郎を見上げながら、作兵衛はふと気づいて訊く。
「…腕にあんなケガされてたら、とても持ち帰れなかったでしょう?」
「ああ、そうだったな」
 両手を腰に当てた留三郎はにやりとする。
「…吉野先生には、修理がまだ終わってなかったとご報告しておいた」
「それじゃ、明日、みんなで引き取りに行かねぇと」
 弾んだ声で作兵衛が留三郎を見上げる。
「そうだ。明日、みんなで、な」
 だから今日は早く寝ろ、と作兵衛の肩を軽くはたく。
「はい! それじゃ、失礼します!」
 ぺこりと頭を下げると、作兵衛は小走りに自分の部屋へと向かっていった。その後ろ姿を見送った留三郎は、庭先の前栽に眼を移しながら呟く。
 -明日、みんなで…か。
 夜風が前栽を揺らしている。

 

 

<FIN>