この人なりの、思いやり

予算会議のお話を見ていると、文次郎の副官としての三木ヱ門が、なかなかしっくりはまっているなと思うのです。実は文次郎も、そんな三木ヱ門を、自分の後継者としてきっちり育ててやろうと思うとともに、頼もしく思っているのかもしれません。そして、文次郎なりに粋な思いやりで応えてやろうと思ったりしているといいな…という妄想が、こんなふうに結実してしまいましたw

 

 

「田村! なんだこの決算の帳簿は! 間違いだらけじゃないか!」
「す、すいません先輩…でも、それは左門が…」
「下級生たちが正しく帳簿を作っているかをチェックするのも上級生の役割だ! お前、自覚があるのか!」
 会計委員会室から、襖も破れそうな怒鳴り声が響いている。委員長の潮江文次郎の怒鳴り声が9割、四年生の田村三木ヱ門のぼそぼそした抗弁が1割。
「いいか! 今度俺が野外演習から戻ってくるまでに、予算の見積もりを出しておけ! 分かったか!」
 立ち上がりざま怒鳴りつけると、文次郎は足音荒く委員会室を後にした。
 -ふぅ…。
 部屋に一人残された三木ヱ門は、ため息をつくと、よろよろと立ち上がって、部屋中に散らばった会計書類を集め始めた。
 -なぜ、私が潮江先輩にあんなに怒られなけりゃならないんだ…。
 自分の担当部分は間違いなく仕上げてあった。
 -それなのに…。
 怒られたのは、三年生の神崎左門や一年生の加藤団蔵の担当した部分のことだった。彼らの作成した帳簿をチェックしなかったのは事実だったが、最終的に集計するのは委員長の仕事なのだから、自分がチェックするまでもないと思っていた。それなのに…。
 -次の学期の予算見積もりか…。
 文次郎たちの野外演習は5日間の予定だった。それまでに、各委員会の決算書から予算見積もりを作らなければならない。下級生たちにも手伝わせるとして…。
 -どんなに急いでも、5日はかかる。というか、5日で終えるのはまずムリだ…。
 たったいま文次郎に指摘されたばかりの、間違いだらけの決算書を直すところから始めなければならない。
 くわえて、三年生の左門が行方不明になるとか、一年生の団蔵の字の解読に時間がかかったりすれば、遅れは決定的である。一年生の任暁佐吉は、もう少し当てにできたが。
 -だめだ。いまからでも急いでやらないと、とても潮江先輩が帰ってくるまでに見積もりを完成させておくなんてできない…。
 重いため息をついてから、三木ヱ門は立ち上がる。とりあえず、下級生たちを呼び集めなければならない。

 


「ふあ~あ」
「ふわふわ…」
 夜も更けてきた。先ほどから下級生たちは大あくびをしたりうとうとしたりの繰り返しである。
「おまえたち! なに船漕いでいるんだ! そんなことじゃ予算見積もりが間に合わないじゃないか」
 つい、苛立ちが声を荒げる。
「だって田村先輩、潮江先輩が戻ってくるまでに予算見積もりを仕上げるなんてムリですよ…だいたい、何でそんなに急ぐ必要があるんですか」
 真っ先に食ってかかるのは、左門である。
「これは潮江先輩の指示なんだ。おまえたち、委員長の指示を聞けないのか」
「だって、ぼくたちが聞いたわけじゃないし…」
 団蔵と佐吉が顔を見合わせる。 
「今やらないでいつやるんだ。休みが明けたらすぐに予算会議が始まるんだぞ」
「そりゃそうですけど…」
「でも、いつもはもっと後になってからやると思うんですけど…」
 しぶしぶ作業に戻る後輩たちに眼をやると、三木ヱ門も算盤を弾き始める。
 -だいたい、左門たちは、なんで私にはあんなに反抗的な口を利くんだろう。潮江先輩にはそんな態度、一度だって見せたことがないのに。
 要するに、自分にはまだ貫禄がないということなのだろうか。それだけ、後輩たちからも軽んじられているということなのだろうか。
 -たしかに左門とは一年しか年は違わないけど、それでも先輩は先輩だ。先輩の指示をどうして素直に聞けないんだ…。
 ふと、算盤を弾く音が、ひとつだけになっていることに気づく。
 -さっき起こしたばかりなのに…。
 顔を上げると、左門は文机に突っ伏していびきをかいているし、団蔵と佐吉は肩を寄せ合って眠りこけている。
 -…ったくっ!
 ふたたび怒鳴りつけてたたき起こそうと思ったが、急にその気もなくなった。
 -起こしたところで、どうせまたすぐ寝てしまうんだろう。私がいくら言ったって、潮江先輩みたいなわけにはいかないんだ…。
 何もかもが、急速にどうでもよくなっていく。

 -こんなことをやっていては、宿題もできやしないし、テストの勉強もできない…今度のテストで成績が落ちたら、またあの滝夜叉丸が鼻にかけて自慢するだろうし…。
 あの「何をやらせても学年トップ!」を喧伝する自慢の鼻をへし折ってやりたい。それなのに、いまの自分はどう考えても滝夜叉丸を追い越すどころか、前回の成績を下回りそうな状態である。
 -あーあ、どうしてこんなことをやっているのだろう。石火矢の練習だってしたいのに…そうだ! ユリコだ!
 すっかり忘れていた。今日はまだ、石火矢のユリコの手入れさえやっていなかった。
 -ああ、ユリコのやつ、いまごろどうしているんだろう。寂しがっているかな。
 焦燥がざわざわと背筋を伝うようで、三木ヱ門はぶるっと身体を震わせた。

 


「田村三木ヱ門」
「安藤先生」
 翌日、委員会室にこもっている三木ヱ門に、顧問の安藤がやってきた。
「下級生たちは?」
「はい。いまは風呂と夕食の時間なので、先に行かせています」
 ふたたび帳面に眼を落としながら、三木ヱ門は算盤を弾く。
「そうですか。それにしても」
 安藤は上がり框に立ったまま、あごに手をやった。
「はい?」
 意味ありげな仕草に、三木ヱ門が視線を上げる。
「この時期に予算見積もりとは、ちょっと早すぎやしませんか」
「潮江委員長の指示ですから」
「そうですか。だが」
 明らかに聞き流す口調で、安藤は眉を寄せる。
「あまり下級生たちにムリをさせないように…今日、佐吉は授業中に居眠りをしていましたよ。優秀な一年い組にはありえないことです…事情を聞いたら、昨日の晩はずいぶん遅くまでやっていたようですな。だが、こんなことは二度とあってもらっては困る」
「しかし先生、私は潮江先輩が戻るまでに予算見積もりを出しておくよう指示されているのです…」
「ともかく」
 三木ヱ門の言葉を打ち切るように、安藤は声を上げた。
「授業に影響が出るのはいかん。特に優秀な一年い組では、一回でも授業で居眠りでもしたら、取り返しがつかないほど授業に遅れてしまいます…まあ、アホのは組は、起きていても頭の中は居眠り同然だからかまわないでしょうがね…イカンながら」
 洒落をきめたつもりでつるりと頬を撫でると、安藤はきびすを返して、委員会室の襖をぴしゃりと閉めていった。
 -なんだよ。自分の生徒のことばかりじゃないか。
 部屋に残された三木ヱ門は、拳を握る。
 -なにが『下級生にムリをさせるな』だ…潮江先輩には、そんなこと、一度だって言ったことがないくせに…。
 結局のところ、文次郎との貫禄の差なのだ。安藤も、文次郎には言いにくいことでも、三木ヱ門には気軽に言えるということなのだろう。

 

 

 夕食を終えた下級生たちが委員会室に戻ってきて、ふたたび作業が始まった。
「はぁ~あ」
 大きくため息をついて文机の前に座り込む左門と団蔵だったが、佐吉は何か仔細があるらしく、三木ヱ門を気遣わしげに見ている。
「よし。それでは、今日中に決算の数字を固めてしまうんだ。いいな」
 短く指示すると、三木ヱ門はすぐに算盤を弾き始める。
 -結局、後輩たちは当てにならない。私が数字を固めるしかないんだ。
 もう、後輩たちが眠っていても気にするまい、と三木ヱ門は考えることにしていた。安藤にあのようなことを言われてまで、頼りにならない後輩たちを使うことはない。三木ヱ門なりに考えた結論だった。

 指示をするにはしたが、その結果を当てにはするまい。そもそも戦力として当てにすればするほど却ってストレスがたまるばかりである。何にも期待しなければ、余計な苛立ちを感じないだけ、精神衛生上まだマシというものである。
 ふと眼を上げると、すでに団蔵はうつらうつらしているし、佐吉もあくびをかみ殺している。左門はまだ辛うじて算盤を弾き続けている。
 こんな連中にいくら発破をかけてもムダである。投げやりに近い気持ちで、三木ヱ門は声を上げる。
「よし、おまえたち、今日はもういいぞ」
 団蔵と佐吉がはっとしたように顔を上げる。左門が意外そうな表情で三木ヱ門をうかがう。
「もう…いいんですか?」
「ああ。まだ明日も作業があるからな。ムリはするな」
「あの…田村先輩」
 佐吉が、遠慮がちに声を上げる。
「なんだ」
「安藤先生のことでしょうか…」
「そうだ。ムリはさせるなと、指示があった」
 はらわたの煮えくり返る思いを押さえ込みながら、三木ヱ門は平静を装って言う。
「安藤先生が?」
 左門が意外そうに声を上げる。
「そうだ。授業に影響が出るようなことはするなとのことだ。だから、今日はお前たちはもう休め」
「あの安藤先生がそんなこと言うなんて…」
 左門が首をひねったところに、佐吉が遠慮がちに声を出す。
「僕ならまだ大丈夫ですから…」
「え?」
 意外な言葉に、三木ヱ門は眼を見張った。
「だが、今日、授業中に居眠りしてたそうじゃないか。そんなことはあってはいけないと、安藤先生はおっしゃってたぞ」
「佐吉が居眠りすることなんて、あるの?」
 団蔵が素っ頓狂な声を上げる。
「ああ…今日はさすがにだめだった。授業のあと、安藤先生に呼ばれて注意されたときに、予算見積もりで遅くなったことを話したら、先生がすごく怒って授業に影響の出るようなことは即刻やめさせるっておっしゃったんだ。だから…」
「へえ。そんなことがあったんだ」
 -だからか…。
 左門と団蔵が、目配せをして頷く。自分のクラスの授業を優先するためなら、三木ヱ門にそのくらいのことは言いそうだとすぐに得心できた。
「団蔵は眠くなかったのか?」
 佐吉が訊く。
「まあ…少し、ね」
 団蔵は照れたように頭に手をやる。
「少しって?」
「土井先生の授業ぜんぶ…」
「「寝てたのか?」」
 信じられないといった表情で、佐吉と左門が顔を見合わせる。
「いやぁ、さすがに怒られたけど、土井先生に事情を話したら分かってくれたし、庄左ヱ門がノートを写させてくれるって言ってくれたし」
 それに、は組では居眠りは珍しくもないし、と顔を赤らめながら、団蔵は説明する。
「まあ、そういうことだ。あまり授業中に居眠りされても困るからな。お前たちは早く寝るんだ…あとは私がやる」
 三木ヱ門が引き取って声を上げる。
「でも先輩…」
 なお、佐吉が言う。
「なんだ」
「こんなにたくさん、先輩だけではムリですよ。僕ももう少しだけやっていきます」
「僕たちも、もう少しだけやっていきます。あとちょっとで一区切りつくから…な、団蔵」
「はい!」
 左門と団蔵も頷く。
「そ、そうか…」
 なぜ後輩たちが急に協力的になったのか、いまひとつ理解できないまま、三木ヱ門は曖昧に答える。
「それじゃ、各自、キリのいいところまでできたら休むように。いいな」
「「はい」」

 


「安藤先生」
「ああ、田村君。入りなさい」
 放課後、三木ヱ門は、安藤の離れを訪ねていた。
「予算見積もりの概数は出ましたか」
「はい、一応は。まだ動くとは思いますが」
「それで結構です。概数が出たら、事務のおばちゃんに報告しておかなければならないことは聞いていますか」
「いえ。なぜ、事務のおばちゃんに報告しないといけないのですか?」
「学園全体の経理を行っているのは、事務のおばちゃんなのです。来期に各委員会で使う予算がどのくらいになるかを早めにお伝えしないと、おばちゃんとしても学園としての予算や資金計画が立てられなくなるのです」
「わかりました。では、すぐ事務室に…」
「ちょっと待ちなさい」
「は…?」
 立ち上がりかけた三木ヱ門を、安藤は制した。
「もうひとつ、君に用件があります」
「なんでしょうか」
「わかりませんか」
 苦虫をかみつぶしたように眉間にしわを寄せて、安藤は腕を組む。
「また今日も、佐吉は授業中に居眠りをしていました」
「…」
 結局、昨夜も佐吉は遅くまで委員会室に残っていた。佐吉だけでなく、左門も団蔵も、キリのいいところまでは終わらせると言い張ったのだ。だが、止めなかったのは事実だった。
 -また、私が悪いと責められるのか…。
 唇をかむ。
「だが、言うことが変なのです。昨日の晩はずっと草紙を読んでいて寝るのが遅くなったと。だが、私にはそうは思えない」
 意外な言葉に、三木ヱ門は眼を見開く。
 -佐吉…私をかばおうとしたのか?
「昨日も、会計委員会は遅くまでやっていたようですな」
 探るように、安藤は言葉を切った。
「佐吉は、いなかったのですかな」
 押し黙ったまま、三木ヱ門はうつむいている。

「答えられないのなら、率直に聞きましょう。君は、佐吉に、そう答えるよう指示したのではないかね」
「なぜ、指示する必要があるのですか」
「もちろん、佐吉を遅くまで拘束しなかったことにするためです」
「そんなことをしても、佐吉も私も、何の得にもなりません」
「…まあいい」
 うつむいて自分と眼を合わせようとしない三木ヱ門を持て余した安藤は、大仰にため息をつく。
「とにかく、優秀な一年い組の、それも優等生の佐吉が2日連続で授業中に居眠りをするなど、前代未聞であり、あってはならないことだ。そのことをよく考えるように」
「はい…行っていいでしょうか」
「行きなさい」
 ようやく開放された三木ヱ門は、よろよろと事務室に向けて足を進める。

 


「申しわけありません、先輩」
 野外演習を終えて、ひときわ灼けて精悍な顔になって戻ってきた文次郎を待っていたのは、うなだれた三木ヱ門だった。
「どうした。田村」
「先輩からのご指示のあった予算見積もりですが、まだ終わっていません…」
 消え入りそうな声で、三木ヱ門がいう。
「ほぅ」
 腕を組んだ文次郎の低い声に、三木ヱ門は雷の落とされる気配を感じて首を縮めた。
「…で、いつ終わる予定なんだ?」
 意外な問いだった。
「その…明日には…」
「そうか。なら、明日、俺に見積もりを見せるように。いいな」
「は…はい!」

 

 

「よし。よくできてるな」
 翌日、ようやく出来上がった予算見積もりに眼を通した文次郎は頷いた。
「遅れて申しわけありませんでした」
「いや、そんなことはない…よく頑張ったな」
 文次郎の言葉に、三木ヱ門が思わず顔を上げる。
「先輩…」
「これで、三木ヱ門も照星さんの稽古を受けられるな」
「照星さん…ですか!?」
 思わず三木ヱ門の声が裏返る。
「そんなに変な声をだすな」
 笑いをこらえるように文次郎が揶揄する。
「実は、来週、照星さんが学園にお見えになる。そこで、山田先生が、俺たち六年生に火縄の稽古をつけてくださるようお願いしてくださった。照星さんは学園に2,3日滞在されるそうだから、田村もゆっくり稽古をつけてもらえるだろう」
「先輩…」
 三木ヱ門の眼が大きく見開かれる。
「それじゃ、予算見積もりを急いだのは…」
「お前の性分では、照星さんに稽古をつけてもらったあとでは、ぽーっとして集中力がなくなるからな。だからさ」
「先輩…」
 涙声になりそうになって、思わず言葉を飲み込む。と、文次郎がすっと立ち上がった。 
「ところで、田村」
「はい」
「予算見積もりの間は、ずいぶん根をつめてたそうだな…運動不足になってないか?」
 文次郎がにやりとする。三木ヱ門はいやな予感がした。
「い、いえ…そんなことは…」
「そんなことは、あるだろう?」
 文机の上にあった10キロ算盤2個を軽々と持ち上げた文次郎は、1個を三木ヱ門に放る。
「ほら、早く来い! 算盤持ってランニングだ! ギンギン!」
「そ、そんなぁ…」
 算盤を抱えた三木ヱ門がよたよたと後を追う。
「なんだその走り方は! 足腰がへたってるぞ! 火縄を扱うには足腰の鍛錬が必要なんだ。俺がいまから照星さんの前に出しても恥ずかしくないように鍛えなおしてやる!」
「待ってくださいよぉ、先輩…」
 算盤を頭に載せて、文次郎の背を追う三木ヱ門は、息を切らせながらも小さく笑みを浮かべる。
 -照れてるんだ、先輩。
 先ほど、思わず泣きそうになった自分を見て、すかさず鍛錬に切り替えたのも、そのためだ。目の前で人に泣かれるのは、文次郎がもっとも苦手とする場面のひとつだから。
 -先輩は、本当はやさしい人なんだ。面に出すのが不器用なだけで。
 だから三木ヱ門は、算盤を持つ手に力をこめると、必死で追いかけて文次郎に並ぶ。
「先輩、どうしたんですか? 早く私を、照星さんの前に出ても恥ずかしくないように鍛えてくださいよ」
 横走りになって文次郎の顔を見上げながら、不敵に笑う。
「なんだと三木ヱ門! そこまで言うからには俺の鍛錬にきっちりついてくるんだろうな」
 片手で算盤を持った文次郎が、眉を上げる。
「はい! ついて行きます! 先輩がもういいと言ってもついて行きますから!」
「いい度胸だ! ついて来れるもんならついて来い!」
 夕暮れのグラウンドに、二つの長い影が伸びる。

 

<FIN>