Idée fixe


直訳すれば「固定観念」ということになるのでしょうが、ベルリオーズの幻想交響曲の随所に登場する同じ旋律(ベルリオーズの恋人を現すモチーフ)を意味するものでもあるようです。
それでは、三木ヱ門の意識に通奏低音のように存在し続ける文次郎とはどのようなものなのか、そして文次郎はどう思っているのか…書いているうちに、文三木というジャンルに耽溺するお友だちが多い理由が分かった気がする茶屋でした。



「潮江せんぱい、おそいね」
「だね」
 放課後の会計委員会室で、帳簿の準備をしていた団蔵と佐吉が話している。
「委員会代表会議で、なにかモメてるのかな」
 思案気に佐吉が言うが、団蔵はのんびりした声を上げる。
「でもさ~、潮江せんぱいがいないほうが、なんかホッとできる気しない?」
「だよな~」
 墨を磨っていた左門も気軽に同調する。
「そうおもいますよね~、せんぱい」
 団蔵が帳簿のチェックをしていた三木ヱ門に顔を向ける。
「あんまり先輩に失礼なことをいうもんじゃないぞ。いないからって」
「は~い」
 三木ヱ門の微妙な表情に気づかない団蔵たちがふたたび手を動かし始める。
 -ったく…。
 冷や汗が流れる思いで三木ヱ門が小さくため息をつく。
 -潮江先輩がすぐそこまでいらしてるのに、あんな本音ベースの会話を聞かれでもしたら…。
 すでに三木ヱ門は、委員会代表会議から戻ってくる文次郎が、ふと足を止めて部屋の中での会話に耳を澄ましている気配を捉えていた。
 だから慌てて会話を打ち切らせたのだ。なにごとも鍛錬に持ち込みたがる委員長には、あらゆるきっかけを封じておく必要があった。
 幸い、三木ヱ門の機転が早かったらしい。止まっていた足音がふたたび近づいてくる。ようやく気がついた後輩たちが、慌てて準備の手を速める。そんな様子を眼にしながら三木ヱ門は考える。
 -こいつらにはまだ見えてないのかな。潮江先輩は、私たち後輩のこともよく考えてくださってるんだけどな…。

 


「よーし、今日も頑張ったな、ユリコ」
 夕刻の冷たい風の吹きすさぶ校庭の隅にある倉庫の前で、三木ヱ門は固く絞った雑巾でユリコの砲身を念入りに磨き上げていた。
「さ、ゆっくりお休み、ユリコ」
 手入れを終えたユリコを倉庫にしまいこむ。と、急に風の冷たさが身に沁みた。
「うう、さぶ…はやく風呂はいろ…」
 長屋に戻った三木ヱ門は、手拭いを手にして風呂場に向かう。
 -けっこう混んでるな。
 脱衣所の棚をずらりと占める制服に眼をやる。中にいるのは三年生や四年生が多いようである。
「おう、三木ヱ門」
 がらりと浴室の扉を開けると、湯船に浸かっていた守一郎が声をかける。
「やあ」
 短く応じた三木ヱ門が洗い場に腰を下ろす。と、湯船の中での会話を耳が捉える。
「…だから、休み明けの予算会議ははっきり言って会議なんてもんじゃないです。あれは正真正銘の戦なんです」
 熱心に説明しているのは用具委員会の作兵衛である。
「戦って…そんなにすごいのかよ」
 守一郎がたじろぐように訊く。
「そりゃもちろん!」
 作兵衛が言い切る。「特にギンギンに忍者してる潮江先輩の恐ろしさときたら…」
 -私も会計委員なんだけど。一応。
 身体を洗いながら三木ヱ門が内心で突っ込む。
 -それに、あれだけ無駄な予算を積んでおいてよく言うよ…まあ、用具委員会に限ったことじゃないけど…。



「三木ヱ門君はいるかね」
 翌日の放課後、会計委員会室に現れた安藤が声を上げる。
「はい、ここに」
 算盤を弾いていた三木ヱ門が顔を上げる。釣られるように後輩たちも顔を上げた。
「学園長先生がお呼びです」
 それだけ言うと安藤は踵を返して立ち去った。
「え、でも、その…」
 言いかけた三木ヱ門に「いいから早く行け」と声をかけたのは、算盤に向き合ったまま指を動かし続けている文次郎である。
「は、はい…では、ちょっと行ってきます」
 ためらうように立ち上がった三木ヱ門が部屋を後にする。
「…」
 算盤をはじく指を止めて帳面に何やら書きつけた文次郎がようやく顔を上げる。閉じられた障子がやけに白く見えた。

 


「学園長先生。ご用とは」
 学園長の庵に端座した三木ヱ門が訊く。
「ふむ。砲弾研究家の多田堂禅は憶えておるの」
「はい」
「堂禅がの、三木ヱ門を寄越してほしいと言ってきおった」
「どういう…ことですか?」
「お前はユリコの扱いについては得意としているが、他の石火矢の腕前はどうかを見たいということじゃ」
「つまり…多田堂禅先生は、私がユリコ以外の石火矢を扱えないと…?」
 思わず三木ヱ門の声が上がる。
「それを見極めたいということなのじゃろう」
「行きます」
 大川が言い終わらないうちに三木ヱ門が短く答える。学園一を自認している石火矢などの危険な火器を得意とする自分が、道具を選ぶなどありえないことだった。
「そうか。それなら早い方がよかろう。明日にも出立しなさい」
「はい」 


 

「よく来たの。待っておったぞ」
 石火矢の演習場を訪れた三木ヱ門を、堂禅は朗らかに迎えた。
「よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げた三木ヱ門は、すぐに何かに気づいたように周囲に鋭い視線を配る。「いろいろな城の忍が来ているようですね」
 堂禅ほどの有名な砲弾研究家であれば、新たな火器の開発にしのぎを削る各地の城から忍が放たれていることは驚くようなことではない。だが、一介の忍たまに過ぎない自分が来ていても、演習場を見張る気配が消えないことが不思議だった。
「では、この石火矢を使ってみなさい」
 忍たちのことは気にも留めないように堂禅は言う。
「はい」
 慌てて返事をした三木ヱ門は、眼の前に据えられた石火矢の操作に集中することにした。
 -たしかにいつもはユリコの癖に合わせているけど…コイツにはどんな癖があるのだろう。
 だが、石火矢の癖は見ただけで分かるものではない。だから三木ヱ門は訊く。
「この石火矢を試し打ちしていいですか」
「ああ、構わんよ」
「では、失礼します」
 鷹揚に頷く堂禅に、三木ヱ門は砲弾と火薬を充填して、導火線に点火する。やがてぼむ、と轟音が響いて砲身から火を吹いた。
「どうかね」
 堂禅が訊く。
「はい。この石火矢の癖はだいたい掴めました。次は的に当てられると思います」
 落ち着き払って三木ヱ門が応える。
「この石火矢の癖を、君はどう見た」
 堂禅が訊く。
「仰角が高めでも弾道距離が長いようですね。それに、私のユリコよりも発射時の反動が大きいです。そのぶん、精度が不安定です」
「なるほど。それで、対策は」
「着弾精度を上げるために火薬の量を調節します。弾道距離が犠牲になりますが、仰角の調整で何とかできます」
「ふむ、さすがじゃの。大川が自慢してくるだけはある。では、撃ってみなさい」
「はい」
 手早く砲弾と火薬を充填し、仰角を調整した三木ヱ門が導火線に点火する。ふたたび火を吹いた砲口から放たれた砲弾は大きく弧を描いて落下し、的を砕いた。おお、と潜んでいた忍たちから声にならないため息が漏れる。
「でかした、三木ヱ門」
 満足げに頷く堂禅に、しかし三木ヱ門は違和感をおぼえていた。
 -私の石火矢の腕は、以前来たときにお目にかけているはずだ。今さらこんなことでほめるのはなんでだろう…。


 

 -これでよいのか、か…まあ、そう思われても仕方ないの…。
 堂禅からの手紙に眼を通していた大川は、ひとつため息をつくと懐にしまった。
 -だがの。これが三木ヱ門のためだと、わしは思っておる…。
 たとえ誰に理解されなくても、教育者としての間違いのない感覚だった。
 三木ヱ門に石火矢の腕を披露する機会を作ってやってくれと堂禅に依頼したのは大川だった。それも、大勢のスカウトたちが垣間見ているのを承知の上で。
 -三木ヱ門ほどの石火矢の腕があれば、スカウトたちも放ってはおくまい。
 それこそが大川の狙いだった。多くの城がいま最も必要としているのは、三木ヱ門のような火器、それも石火矢のような重火器を扱える者だった。そしてそういう人材はどこの城でも不足していた。
 何の後ろ盾も持たない少年たちをプロの忍として城や忍集団に就職させることの難しさを知り尽くしているからこそ、あらゆる城が欲しがる特殊技能を持つ生徒をいち早く就職に結びつけることがどれだけ重要かを大川は考えずにはいられないのだ。なぜなら、その特殊技能が数年後にも求められるものかは保証の限りではなかったから。
 -いい条件が提示されるうちに、自分の能力を高く売りつける。それもまた、この乱れた世で生き抜くためには大切なことだ。
 だからこそ、三木ヱ門を堂禅のもとに遣ったのだ。より多くの城に競わせて、もっともよい条件を提示した城に就職できれば、それは後々まで三木ヱ門のキャリアに箔をつけることになるだろう。それによる忍術学園そのものの評判に期待する打算がないでもなかったが、大事な生徒をより良い条件で忍として送り出したいという親心でもあった。

 


 -お、あれは…?
 グラウンドを歩いていた文次郎が、ふと足を止める。
 -あれは、三木ヱ門のユリコちゃんじゃないか…。
 だが、いま、ユリコの砲身を丁寧に磨いているのは虎若である。
「虎若」
 気がつくと声をかけていた。びくっとしたように虎若がこわごわと顔を上げる。
「潮江…せんぱい…なんでしょうか」
「なんでお前がユリコちゃんの手入れをしている」
「田村せんぱいにたのまれたのです。お留守のあいだ、ユリコちゃんのお世話をするようにって」
「そういえば、三木ヱ門はいつ戻って来るんだ?」
 訊いてしまってから失敗したと思ったが、もう遅い。
 -同じ委員会の俺が知らなくてどうする…!
 頭を壁にぶつけたくなったが、「さあ…」と首をかしげる虎若を見て辛うじて衝動をこらえた。
「そういえば田村せんぱい、なかなか帰ってきませんね…ぼく、いつまでユリコちゃんのお世話をしないといけないんだろ」
 もうすぐ教室掃除の当番も回ってくる。教室掃除にユリコの世話に委員会活動まで重なったら、放課後に友人と遊ぶこともできなくなる…と虎若は思い至る。三木ヱ門が出かけてから3日が経っていた。
「せんぱい、田村せんぱいがいつお戻りになるかきいてませんか?」
 今まさに自分がかけた質問とは明らかに分かっていない問いだったが、文次郎は一瞬言葉に詰まった。
「い、いや…そうだな」
 咳払いをしながら文次郎は応える。「まあ、数日中には戻ると言っていたが」
「そうなんですか…こまったな」
 文次郎の曖昧な口調に気づかないように虎若は肩を落とすと、ふたたび砲身を磨き始めた。「はやく帰ってきてくださらないと、ぼくの放課後がなくなっちゃうんです…」
「そうか」
 そっけなく答えると文次郎はその場を後にする。ふいに、不安がこみあげてきた。
 -堂禅先生のところでなにしてやがるんだ、三木ヱ門は…!

 


 -どういうことなんだこれは…!
 床に横たわった三木ヱ門が、天井板を睨みながら考える。
 -こんなに次から次へといろんな城の忍者がスカウトに来るなんて…。
 演習場で石火矢の腕前を披露した直後から、演習場に潜んでいたとみられるあらゆる城の人事担当の忍たちが三木ヱ門のもとを訪れていた。翌日になってもスカウトが止むことはなく、一日中応対していた三木ヱ門は疲れ切っていた。
 -私はまだまだ忍たまだし、学園で学びたいこともいくらでもあるのに。
 三木ヱ門の決心は変わることはなかったが、引きも切らずに訪れるスカウトたちの手練手管を尽くした口説き文句に心が動かないといえば嘘だった。そのたびに頭に浮かぶのは、なぜか文次郎の姿だった。仁王立ちになって、腕を組んで、鋭い眼線を放つ文次郎だった。眼にしただけで、一瞬、心臓が冷やりとする表情だった。
 -どうしてだろう…あんなに十キロ算盤も匍匐前進もイヤだったのに…。
 文次郎の姿を思い浮かべては、揺らぐ心を辛うじて支えていたのも事実だった。
 -だけど、そろそろ限界かも…。
 精神的にはまだ子どもといってもいい三木ヱ門には、自分の石火矢の腕を褒めちぎる大人たちの甘言

はあまりに心地よかった。もともと、石火矢や火縄などの火器の扱いにかけては自信があった。ときに照星から厳しい指摘を浴びても、その指摘を受けてさらに腕を上げた自負はあった。ともすれば、自分は受けて当然の評価を受けているに過ぎないように思いかけることもあった。自分を立て直すために思い浮かべる文次郎の姿が薄らいできつつあった。明日もその姿を思い浮かべることでしのぐことができるだろうか…。
 -それにしても、なぜ、こんなことに…。
 考え込んでいた三木ヱ門が、ふいに何かに気がついたようにがばと身を起こした。そして、思いつめた表情で部屋を後にする。

 


「なぜ、堂禅先生は、あえてたくさんの城のスカウトが見ている前で私に石火矢を使うよう指示されたのですか」
 夜更けの堂禅の部屋には、寝間着のまま端座した三木ヱ門がいた。何か書き物をしていたらしい堂禅は、文机に向かって筆洗で筆先をすすぐと、ゆるりと三木ヱ門に向き合った。
「お前の持つ実力を見せてやるためじゃよ」
 あっさりとした答えに却って戦慄が走った気がして三木ヱ門は一瞬、次の言葉に詰まった。
「ですが、私はまだ忍たまです。まだまだ学園で学びたいことがあるのです」
 ようやく自分を立て直しながら三木ヱ門が言う。
「お前の石火矢の腕は、どの城も欲しがるレベルに達している。それだけで十分と思うが」
 唐突に放たれた、自尊心をくすぐらずにはいられない甘美な台詞に思わず動揺する三木ヱ門だったが、そこで引き下がるわけにはいかなかった。
「しかし、私には火器以外にも学ぶことが残っています」
「分かっておる」
 大川からの依頼ということは口止めされている堂禅は、少し考えながら応える。「じゃが、お前の石火矢の腕前は、いま求められている。そして、二年後に求められているとは限らない」
「では、私は『いま』就職すべきということなんですか」
 押し殺した声で三木ヱ門が問う。
「自分を高く売ることも大事なことじゃ。所詮、自分の価値は世間が決めるもんじゃからの」
 言いながらも、堂禅は眼の前の惑乱する少年が哀れでならなかった。
 -渦正。おまえが三木ヱ門を思ってこうしているのは分かるが、これが本当に三木ヱ門のためになるのか、わしは疑問でならなぬのじゃぞ。
「学園で学ぶかどうかを決めるのも、自分ですよね」
「わしは機会を作ったに過ぎぬ。それを生かすも生かさぬも、お前次第じゃ」
「…」
 突き放したように言う堂禅に、しばし三木ヱ門は唇を噛んだまま黙り込んだ。
 -そうか…せっかく堂禅先生が下さったチャンスを、私は捨てようとしているんだ…。
 頭の片隅で「違う!」と叫ぶ声が聞こえるようにも思えたが、それでも三木ヱ門は考え始めていた。それが堂禅の好意であるなら、学園を去るというのも一つの選択なのではないかと。


 

 重い足取りで三木ヱ門はあてがわれた客間へ戻ろうとしていた。堂禅とのやりとりは、結果として何の解決ももたらさなかった。残ったのは徒労と出口のない迷いだけだった。
 -はぁ~あ。明日もスカウトの人たちをやり過ごさないといけないのか…。
 心の中でため息をついた瞬間、
「!」
 気配を感じ取った三木ヱ門がとっさに身構える。だが、寝間着姿でなんの忍器も持っていなかった。

 -…く! 体術はまだあんまり得意じゃないんだけど…。
 しかも相手は複数の大人である。
「まあ、そう身構えるものではない」
 もはや相手は姿を現していた。廊下に立ちはだかる影が二つ、背後にも複数の気配。三木ヱ門は両側を壁で挟まれた廊下で、前後をふさがれていた。手にした灯を持ち上げると、相手の顔が見えた。
「あなたは…!」
 昼間、スカウトに訪れていた城の忍者の一人だった。かなり執拗に粘っていたことを思い出す。
「憶えていてくれたとは光栄だね。だが、あまり大人を手玉に取るものではない。あれだけ頼んでもなお勉強を続けたいなどと言っていたが、本当のところはどうなのだ。カネか。待遇か」
「いえ…」
 どうやっても意思を通じあうことのできない相手というものはあるものだと思い知らされた人物の一人だったことを思い出す。いくら学園で勉強を続けたいと意を尽くして説明しても、給料や待遇を吊り上げるための方便としか理解しようとしないのだ。
「他の城はどれだけ払うと言っているのだ。それとも、火縄隊の隊長にするとでも言って来ているというのか? さあ、言ってみろ」
 ずいと一歩踏み出した相手がのしかかるように身を寄せる。
「だから、私は学園で学び続けたいのです。まだまだ学びたいことがあるのです。どうして分かっていただけないのですか!」
 気丈に叫んだつもりだったが、声が震えているのが自分でもわかった。暗闇を背にぼんやりとした灯に照らされた相手の眼は、昏い情念が燃え盛っているように見えた。
「…それに、会計委員会の仕事だってあるんです!」
「まだそんなことを言うか」
 相手の手が自分の身体を捉えようと伸びてくる。
 -たすけてください!
 思わず眼を閉じた。次の瞬間、
「ぐっ!」
 ばりばりと板が割れる音と、異様な気配が天井から舞い降りる気配に、三木ヱ門は思わず頭を抱えてうずくまった。自分を追いつめていた男のものらしいうめき声が聞こえる。「敵だ!」という声も聞こえた。
 狭い廊下で殴り合うような鈍い音が響く。そろそろと眼をあけたが、取り落した灯が消えた廊下は真っ暗闇である。身を低くしてそっとその場を去ろうとしたとき、自分の身体がひょいと持ち上げられた。
「や、やめろ! はなせ!」
 相手の忍者が実力行使に出たと咄嗟に考えた三木ヱ門は、大声で叫びながら暴れる。
「いってぇな。大人しくしてろ」
 ぼそっと呟く声にはっと気づいた三木ヱ門は抵抗をやめた。急に、自分を拉した男が身近な存在だったことに気づいた。
 幅広い肩の上に担ぎ上げられたまま、耳元には風がうなりを上げていた。不思議な気持ちだった。昔男の物語で男に盗まれた女というのはこういう気分だったのだろうかと意識の片隅で考える。
 -すごい熱いや…。
 小刻みに動く筋肉が発する熱を忍装束越しに感じて、その背にそっと頬を寄せたとき、ふいに動きが止まって身体が宙に放り出された。
「いてて…」
 地面に投げ出された三木ヱ門は、したたかに打ち付けた腰をさすりながらよろよろと身を起こした。
 -あれ? 先輩…?
 荒い息に顔を上げた三木ヱ門の眼に入ったのは、傍らで胡坐をかいて肩で息をする文次郎の姿だった。
 -そうか。私を運んできたんだから…。
 日々鍛錬に励み、ギンギンに忍者してると自称している文次郎であっても、自分を担ぎ上げて全速力で走るのはかなりの苦行であったはずである。
「あの…先輩、大丈夫ですか…?」
 声をかけて背をさすろうと身体を寄せようとした瞬間、その背を大きな手ががっしと捉えた。
 -!
 次の瞬間、三木ヱ門の身体は文次郎に抱きすくめられていた。
 -先輩…?
 すぐ耳元で荒い息が聞こえる。自分を抱きすくめる大きな身体全体が激しく動揺し、あつい熱を放っていた。そして、胸元に寄せた頬にも心臓の大きなどよめきが伝わってきた。
 -こんなにしてまで、先輩は私を…。
 今できることは、手弱女のように自分を盗んだ男に身を任せるだけ、と、三木ヱ門は抱きすくめられるままに身を寄せていた。激しい鼓動を聞いていた。
「俺のことはいい…だけどな…」
 ようやく息が収まってきたらしい。顔を伏せたまま文次郎は言う。「お前も四年なら…もっと…自分の思いは主張しろってんだよ…」
「ちゃんと言いました! でも…」
 思わず顔を上げて言い返した三木ヱ門の頭を、文次郎の掌がすぐに捉えて肩口に押し付ける。
「おぼえとけ…口で言って、筆で書いて、それで世に通じると思ったら大間違いだ…自分の思いを通したいなら、行動あるのみだ…分かったか…!」
「は、はい…」
 絞り出すような文次郎の声に、三木ヱ門の答えもくぐもる。そして、ずっとしまっておいた問いを口にする。「でも…どうして先輩が来てくださったんですか?」
 思えば、堂禅を訪ねると文次郎には言っていなかったことを思い出す。そのときは、少しばかり石火矢の腕を披露してすぐに学園に戻るつもりだった。多くの城のスカウトに足止めされるなど考えもしなかった。
「ったりめえだろ…俺の次に会計委員会を担うのはお前だ。だから腕づくで奪い返した。それだけだ…」
「え…?」
「勘違いするな。お前が今すぐどっかの城に就職したいと思おうが思わなかろうが関係ねぇ…俺は、俺の都合でお前を奪ってきた」
 不意に自分の身体が離された。両の肩をがっしとつかまれて、文次郎はぎっと三木ヱ門を睨み上げた。「だからお前も、自分が望むことがあるなら行動で示せ。誰かに察してもらおうなんて思うな。自分のことは自分でケリをつける、それが忍ってもんだ…わかったか!」
「私が…私が望むことは…」
 -学園で学び続けること。この人を副官として支えること。そして、その側で…。
 そこから先は言葉にできず、三木ヱ門はするりと肩を捉える手から抜け出すと、そっと頭を文次郎の身体に添える。一瞬、眼を見開いた文次郎だったが、宙に残された腕でその肩を抱き寄せる。
 -俺が三木ヱ門を必要としているのは、委員会だけじゃねぇ…。
 色白な細い首筋を、まだ華奢な肩を自分の無骨な掌でなぞりながら文次郎は考える。
 -コイツの矛盾を、俺は…。
 匂い立つような白く柔らかな肌、さらさらと流れる髪、何かを問いかけるような瞳、そして全身に染みついた火縄と火薬と鍛鉄のにおい。
 まるで娘のように細くしなやかな指先が操る火縄や石火矢が火を吹いたときにもたらされる破壊。矛盾を併せ持つ三木ヱ門という存在に、自分はいつしか尽きぬ興味を抱いていた。そしてその興味の中には、もっと別の感情も含まれていた…。

 


 -先輩、やっぱりあったかいや…。
 しばし文次郎の身体に身を寄せていた三木ヱ門だったが、すっと足元に吹き込む冷えた風に、ふと意識が半ば戻った気がした。
「あの…先輩」
 厚い胸板が放つ熱に眩みそうになりながら、三木ヱ門がようよう声を絞る。
「どうした」 
「そろそろ…帰りませんか」
「おう、そうだな」
 身体を離す動きは自然だった。顔にかかった前髪を払いながら立ちあがった三木ヱ門は、「あ」と思わず声を漏らした。白い寝間着に裸足という、夜の野外を歩くにはおよそ似つかわしくない姿だったから。
「そうだな。さて、どうやって学園まで帰るか?」
 立ちあがった文次郎が、にやりとしながら顔を突き出す。
「だ、だいじょうぶです! 帰れます!」
 憤然とした三木ヱ門が足を踏み出したが、すぐに尖った石の角にでもぶつけたのか、「いてて」と顔をしかめる。
「しょうがねえな。俺が連れてってやるか…ほら乗れ」
 あきれたように声を上げた文次郎が、しゃがみこんで背を向ける。
「い、いや…でも…」
「早くしろ」
「は…はい」
 おそるおそる広い背に身体を預けると、「よっ」と小さく声を吐いて文次郎は立ち上がった。
「あの、先輩」
 そっと声をかける。
「なんだ」
「あの…重かったら言ってください。すぐ降りますから」
「お前が重いだと?」
 ふっと文次郎は笑う。「俺はいつも米俵を背負って自主練してるんだ。お前ごときに重いだなど…」
「すいません」
 首を縮めた三木ヱ門は、眼の前で揺れる髷に眼をやりながらうすぼんやりと考える。
 -この歳で、それも先輩に負ぶわれるなんて…。
 こんな姿を学園の皆に見られたら、それこそセンセーショナルを引き起こすだろう。ライバルの滝夜叉丸は腹を抱えて笑い転げるだろうし、会計委員の団蔵や佐吉は卒倒するかもしれない。鬼の会計委員長としての文次郎しか知らない他の委員会の生徒たちは、口をあんぐり開けて見つめるのがせいぜいだろうか。
 -みんな、先輩のことを知らなさすぎるんだ。ほんの一面しか見ないで、それで勝手なイメージを作っているんだ。ホントの先輩は…。


 

 -やれやれ、まさか連れ帰って来るとは…。
 三木ヱ門を後ろに控えさせた文次郎がごく事務的に報告する首尾を聞いた大川は、ちいさくため息をつく。
 -それも、よりによってこの文次郎がの…。
 常よりギンギンに忍者している、だからこそ自分を拘束するあらゆる人間関係から距離を置こうとしているように見えた文次郎が、わざわざ敵を作ることを覚悟してまで三木ヱ門を奪い返してくるとは、意外としか思えなかったのだ。
 そして、文次郎の横顔を斜め後ろから真剣なまなざしで見つめている三木ヱ門に、ふと思った。
 -そうか。まだ文次郎が必要なのか…。
 そうであれば、決して悪い話ではないはずのスカウトを蹴ってここまであっさり学園に戻ってくるとは考えにくかった。
 -それはそれで良しとしよう…これも生徒の望むことじゃ。
 それでも、頭の片隅で思わずにはいられなかった。
 -せっかく学園の名を高く売るチャンスだったが、残念なことじゃ…。

 


「なあなあ、砲術研究家の多田堂禅先生のところで、石火矢の腕を披露してきたんだろ?」
 その夜、寝間着に着替えた三木ヱ門は、髷を解いた髪を梳っていた。すでに守一郎は布団の上に枕を抱えて腹ばいになって三木ヱ門に顔を向けている。
「ああ」
「んでもって、あちこちの城からスカウトされまくってたんだろ? すげえよな、三木ヱ門は」
 眼を輝かせながら守一郎が話し続ける。
「ん…まあね」
 悪い気はしない三木ヱ門が気取ったように鼻を鳴らす。
「それなのに、なんでぜんぶ断って戻ってきちゃったりするのさ」
 素で訊いてくる守一郎に、三木ヱ門の手が一瞬止まる。
「だって、私は忍たまだぞ。火器の扱いのほかにも勉強しないといけないことがまだまだあるんだ」
「そっかなあ?」
 信じられないよいうように守一郎は小さく頭を振る。「いくつもの城からスカウトされる忍たまなんて、超カッコイイじゃん。そんなチャンスなんて、そうそうあるもんじゃないんだろ?」
 -そうか。やっぱり、それが普通の考え方なんだろうな…。
 改めて自分の選択は正しかったのか、考えあぐねて三木ヱ門は小さくため息をつく。
「でも、あの潮江先輩に掻っさらわれてきたんじゃ、是非もないよな」
 あっけらかんとした言い方に、思わず反応する。
「どういうこと?」
「だってさ、潮江先輩って、鬼の会計委員長なんだろ? 予算会議のときの凶暴さは並ぶものなしだって聞いたぜ」
 -そうか。守一郎も、もう先輩の固定観念を植え付けられちゃったのか…。
 数日前、風呂場で守一郎に熱心に語っていた作兵衛を思い出した。
「たしかに先輩は誤解されやすいタイプだけどね」
 小さく笑いながら、ふたたび顔を伏せ気味に髪を梳る。
 -学園のみんなはステレオタイプの先輩しか知らない。でも私が知っている先輩は、とっても優しくて、頼りがいがあって、照れ屋の先輩なんだ…。

 

 

 

<FIN>

 

 

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