PLATEAU

 金吾の話を書くつもりが、気がついたら戸部先生の話になっていました(^^;

 PLATEAU(プラトー)とは、高原状態、上昇も低下もしない変動の少ない時期という意味です。同時に、勉強や練習を重ねても、一時的にそれが結果に現れず、停滞しているように見られる時期、という意味でもあります。

 戸部先生は、このプラトーをどう克服するのでしょうか。

   

   1   

 


 暑い夜である。月もない夜の闇が、ねっとりと暑い昼間の空気を伴ったまま、室内に沈殿していた。
 夜も更けてきたが、戸部新左ヱ門は、眠られぬままに文机に向かっていた。灯台に虫が集まって煩いが、新左ヱ門は身じろぎもせず書に向かっている。
 長い間の鍛練を通して、心頭滅却を体得した新左ヱ門にとっては、この蒸し暑さも、皮膚感覚にわずかに張り付く程度にしか感じていない。それとともに、ふと自分が、この夜のような闇に、前にも後ろにも、上にも下にも動くことなく漂っているように感じることが多くなっていた。
 -それは、気の迷いだ。
 そう思い込もうとした。だが、自分が日々から浮遊している感覚が消えることはなかった。
 -私は、どうしたというのだ。
 眠られぬままに、新左ヱ門は考える。

 


 年を重ねるにつれて、日々が薄らいでいくように感じていた。昨日は今日と同じで、先月は今月と変わらず、去年と今年に何らの差も見いだせず、時だけが過ぎていく。
 日々が薄くなるにつれて、過去も薄らいできていた。かつて、剣術修行のあいだに対決し、打ち負かした多くの剣豪たちの名も顔も刀捌きも、すべてが過去の靄の中にあいまいな影としてたゆたうのみである。時に、そんな彼らがリベンジを期して訪れることがあったが、それもまた覚えのないことであり、どうでもよいことでもあった。相手が斬りかかってくればこちらも刀を抜くまでであり、刃を交えれば何の感慨もない勝利だけがあった。そして刀を鞘に収めた頃には、手に残っていた相手の刀の感触も、それが過去に対決した記憶と結びつくこともなく、すみやかに過去の靄の中へと埋没していくだけだった。
 -それに比べて…。
 傍らの布団で健やかな寝息を立てる少年に目をやる。一年は組の皆本金吾である。
 実家が相模である金吾は、帰省するには遠すぎるため、休暇期間中は自分の家で預かっていた。
 まだ一年生で、身体も小さいが、自分に挑みかかってくるその膂力は、日々力強さを増していた。東国の武士の子らしい実直さで鍛練に打ち込む姿にも、ときに新左ヱ門が目を見張るほどの剣捌きにも、伸び盛りの勢いがあった。その勢いに、ときに新左ヱ門は眩惑されつつも、この少年の日々の成長が、自分が無為に重ねている日々にひとつひとつ意味を与えてくれる存在であることを、認識せずにいられなかった。
 ふっと嘆息して、新左ヱ門は、書に目を戻す。

 


「う、う~ん」
 閉じた瞼にちらちらと灯りが揺らめいた気がして、小さくうなると、金吾は目をこすった。
 -戸部先生?
 文机に向かっているのは、師である新左ヱ門である。
 -こんな時間に、なぜ?
 だが、金吾には思い当たる節もあった。ここ最近、自分の剣を受ける新左ヱ門の剣に、違和感をおぼえていた。いつもなら、自分が渾身の力を込めて振り下ろした剣も、岩のように揺るがず受け止める新左ヱ門だったが、その剣から心棒が抜けてしまったような揺らぎを感じるのだ。
 -こんな遅くまで起きておられるからだ。
 それがなぜなのかまで考えが及ぶ金吾ではなかったが、なにか勉強しているのだろうと考えた。
「どうした、金吾」
 新左ヱ門の声に、金吾は身を起こして、布団の上に正座する。
「はい。目が覚めました」
「起こしてしまったか」
「いえ」
「では、早く寝なさい」
「先生」
 不意に、金吾の声に力がこもった。新左ヱ門が向き直る。
「どうした」

 


「先生は、どうされたのですか」
「どういう意味だ」
「さいきん、先生の剣が…」
「剣が?」
 つい語尾が荒くなってしまった。剣とは、自分そのものであると信じている新左ヱ門にとって、剣がどうかしたと言われることは、自分そのものに対する疑義と同じことだった。
「いえ、なんでもありません…お休みなさい」
 金吾にも、悟られてしまったようである。わざとらしい欠伸をしてみせて、布団にもぐりこむ。

 


 -私の迷いが、剣に現れているということか…それが、金吾にも悟られているということか…。
 自分の迷いが、思ったよりも深刻であることに、新左ヱ門は、より深く惑う。
 -迷いだ。一時の気の迷いだ。だが…。
 その迷いがいつから生じていたのかは分からない。だが、その存在が決定的に新左ヱ門に突きつけられたのは、一月ほど前のできことだった。

 


 まだ、学園が夏休みに入る前のことだった。新左ヱ門は、出張の帰途についていた。
 この山を越えれば学園が見えてくる、という山中のことだった。山道に、ひとりの男が倒れているのが目に入った。
 どうなされた、と声をかけようとした。が、不意にいやな予感がして足が止まった。
 -この男、ただの行き倒れではない。
 腰に差している大小にも見覚えがあった。
 -関わりあいになるな。
 そう考えて、男をよけて歩き去ろうとしたときだった。
「こら、戸部新左ヱ門! せっかく人が倒れているというのに無視するとはハクジョーではないか!」
 その声も、聞き覚えがある声だった。いや、二度と聞きたくない声だった。なおも新左ヱ門が足を進めると、
「背中を見せるとは、さては戸部新左ヱ門、恐れをなして逃げるつもりか!」
 -いちいち人の名前をフルネームで呼ぶな…。
 そして、背後から刀を抜いて飛びかかってくる気配。
「戸部新左ヱ門! この剣豪、花房牧之助と尋常に勝負しろ!」
 -やはり…。
 ついと振り返りざま、脇差を抜くと、牧之助の刀を払う。音を立てて刀が弾き飛ばされ、空手になった牧之助は、頭から勢いよく地面に衝突する。
「ごわ…」
 すでに脇差を鞘に収めた新左ヱ門は、口を利くのも億劫とばかり、歩み去る。その背後から牧之助が、地面にめり込んだ顔を上げて、土だらけの顔で不敵な言葉を投げつける。
「ふっ、戸部新左ヱ門。お前にも迷いが出てきたようだな」
 -どういうことだ。
 一瞬、足を止めそうになりながら、その言葉の意味を探ろうとする。
「お前の剣は、成長が止まっている。俺の剣を受けたときの力の抜け具合を見ると、すでに衰えが始まっているようだな、戸部新左ヱ門。この分なら、俺の実力の前にお前がひれ伏す日もちか~い! はっはっはっ」
 -だから、いちいち、人の名前をフルネームで呼ばわるな。
 笑いながら山道を飛び跳ねていく牧之助の声に苛立ちながらも、新左ヱ門のなかに、ひとつの疑問がむくむくと湧き上がってきた。
 -私の剣から、成長が消えた…だと?

 


 ふたたび眠りに落ちた金吾の寝顔を見つめながら、新左ヱ門は考える。
 -さきほど、金吾が言おうとしたことも、同じことではないのか…。
 埒もないことだった。牧之助はあのとおり、道化に過ぎない。大言壮語を吐いてはあっさり負けてゆく。
 -そのような者の言葉に、何故これほど惑わされる。
 その理由も分かっている。自分でも、剣が目標を見失っていることに気付いていた。
 -だからこそ…牧之助のあのような言葉に惑わされる。
 そして、金吾にも気づかれる。
 -ええい! 修行が足りん!
 拳で文机を叩きそうになるのを辛うじて思いとどまる。金吾が起きてしまう。
 -平常心(びょうじょうしん)だ。平常心を取り戻すのだ。
 古徳曰く、平常心是れ道なり。謂ゆる平常心は、造作なく是非なく、取捨なく断常なく、凡無く聖無し…修行中に、ある禅僧から教わった言葉である。常なる心こそが道であるのだ。その言葉から、余計な気負いをもたず、ありのままの心で事に臨むべし、と理(ことわり)を見つけたのではなかったか。
 -少し、山に入って修行しよう。
 どうやら、自分には、ただ心を無にして剣を打ち込む時間が必要なようだった。山に入って、山の気を全身に受けながらひたすら剣に集中して、もはや剣を持つことを意識しなくなるまでに打ち込めば、このような惑いからも解き放たれよう。だが、ひとつ問題があった。
 -金吾を、どうするか。
 自分を師と慕い、また休みの間は親代わりとして預かっている金吾を置いていくわけには行かなかった。それが修行の障りとなることは分かっていたが。
 -たかが子ども一人連れているくらいで障りとなる修行なら、この惑いを振り切ることなどできるわけがない!
 金吾が同意すれば、共に山に入ろう、新左ヱ門は、そう決意した。そしてようやく、床に就くことができた。

 

 

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