金吾のために

 

友誼に厚いは組っ子たちがじょろじょろ登場するお話を描こう! と思って書き始めたのですが、筆力及ばず、主に金吾、団蔵、喜三太、兵太夫の4人がメインのお話となってしまいました。

というわけで、このお話を、金喜・団金・兵喜というお題をくださった春日さんに捧げます。

 

 

「ねぇ、兵太夫。どうしたの?」
 机に両肘をついて、掌に顎をのせた兵太夫がぼんやりとしている。いつもなら半助の授業そっちのけでからくりの設計を書き散らしている兵太夫のいつにない様子を見かねて、隣の喜三太がそっと声をかける。
「え…?」
 半ばぼんやりとしたまま兵太夫が振り向く。
「金吾のこと?」
 喜三太の声に兵太夫の表情が動いた。
「…うん」
 力なく答えながら、窓の方へと頭を廻らす。窓側のいつもは3人が座る机には、団蔵と虎若の2人しかいない。いつも金吾が座る場所はぽっかりと空いていた。
「気になるの?」
 兵太夫の後ろから窓側の机を眺めながら、喜三太は声をかける。
「だって…ぼくのせいだし」
 四年生の綾部喜八郎が掘りかけたまま放置していた落とし穴に細工をした兵太夫だったが、トラップの目印にするための小石を探しに行っている間に金吾が通りかかってしまった。仕掛けた跳ね板のバネが意外に強力だったので、小柄な金吾は水練池まで飛ばされてしまい、すっかり風邪をひいてしまったのだ。

 


「ねえ乱太郎」
 授業の後、兵太夫と喜三太は医務室を訪ねた。
「どう? 金吾は」
「ちょっと熱があるみたい。新野先生は風邪のひきはじめっていうけど、ちょっとこまっているんだ」
 乱太郎が覆面を解きながら言う。奥では新野が覆面をしたまま薬研をつかっている。
「どうしたの?」
「いま、香蘇散っていうお薬を処方しているんだけど、材料になる甘草がもうないんだ」
「それって、どういうこと?」
 不安そうに兵太夫が訊く。
「薬の材料がないってこと…今夜の分はまだあるけど、明日はどうしようって新野先生と相談してたんだ」
「甘草って、すぐに手に入らないの?」
「それがさ…」
 乱太郎が肩をすくめる。
「甘草は日本じゃつくれない薬種だから、すぐに手に入れるってわけにはいかなんだ」
「まあ、私の知り合いの医者が二つ隣の村にいるので、甘草を分けてもらうようお願いすることはできるのですが…」
 黙って聞いていた新野が覆面を解きながらため息交じりに言う。
「なにかもんだいなんですか?」
「その医者の元に取りに行ってもらう人手が足りないのです」
「どういうことなんですか?」
「だって、委員長の伊作先輩は六年生の合同演習でいらっしゃらないし、三年の数馬先輩とろ組の伏木蔵は授業で学園の外に出てるし」
「二年の左近先輩は?」
「授業が終わったらきてくださることになってるけど…だからって私がいなくなっちゃうわけにもいかないし」
「じゃぁ、ぼくたちがとってくるってのはどう? どこに行けばいいのかおしえてくれれば、ぼくたちでもできるんじゃない?」
 兵太夫が提案する。
「そりゃ助かるけど…」
「じゃ、ぼくも行く!」
 喜三太が手を挙げる。
「喜三太も行くの?」
 意外そうに乱太郎が訊く。
「うん! だって、金吾はぼくとおなじ部屋だし、お薬が作れなくて金吾がずっと病気でくるしんでるなんて、ぼく、がまんできないし」
「そうですな…では、私が依頼状を書きますから、それを持って行ってもらえますか」
 新野が文机に向かうために腰を上げる。
「「はい!」」

 


「ねぇ、新野先生のお知り合いのお医者さんって、どのあたりなんだろう?」
 地図を見ながら喜三太が言う。
「ふたつとなりの村っておっしゃってたから、この峠の向こうだとおもうけど」
 傍らで地図を覗き込みながら兵太夫が言う。
「ところでさ…どうしてナメクジをつれてきたの?」
 先ほどから、喜三太は歩きながらナメクジを指先に這わせて遊んでいる。
「だって、部屋には金吾もいないし、ぼくまで出かけちゃったらナメクジさんたちがさびしがると思って」
「そうなの?」
 授業中にも教室にナメ壺を持ち込んでいるのを隣で見ている兵太夫だったが、相変わらずナメクジに慣れることはできなかった。
 -やっぱりぼくにはムリみたい…あんなにナメクジがうじゃうじゃいる部屋で生活するなんて、金吾はすごいな…。
 ぼんやり考えながら歩いていた兵太夫だったが、喜三太の叫び声にふと意識が引き戻された。
「あぁぁぁぁっ! ナメクジさんたちぃ!」
 喜三太が道から外れて崖のほうに駆け出そうとしていた。
「ちょ、ちょっとまって喜三太! どうしたのさ!」
 慌てて喜三太の着物を引っ張りながら兵太夫が訊く。
「ナメクジさんたちが、ぼくのナメクジさんたちが落ちちゃったんだ!」
 半泣きになりながら喜三太が崖下を指差す。
「落ちちゃったって?」
「だから、ナメクジさんたちが…」
 パニック状態の喜三太を制しながら崖下を覗き込むと、崖の途中でナメ壺が引っかかっているのが見えた。
「なんであんなところに?」
「ナメ助が指先から落ちちゃったから、拾おうとしたんだ。そしたらつまづいちゃって…えーん、どうしよう…」
 -ナメ壺を落としちゃったってわけか…。
 うずくまって泣いている喜三太をよそに、兵太夫はため息をついた。
 -こりゃ、ナメ壺をとってくるまで喜三太は動かないだろうな…。
 では、どうすればいいのだろうか。
 -そういえば、わなをしかけるときに使った縄がまだあったかも。
 ふと、罠を仕掛けるときに使う道具が荷物の中に入れっぱなしにしていたかもしれないと思いついた。急いで荷物を解く。果たして、いろいろな道具や板切れや滑車に混じって束ねた縄があった。 
 -よし、これを使えば…。
 手近にあった木に縄を巻きつける、二、三度引っ張って強度を確認すると、泣いている喜三太の傍らにしゃがみこんで、肩に手をかけて話しかける。
「ねぇ、喜三太。そんなに泣くなよ。ぼくがナメ壺とってきてあげるからさ」
「でも…でも、どうやって?」
 涙をぬぐいながら喜三太が顔を上げる。
「ぼく、縄をもっているんだ。それを使えば、あのナメ壺が引っかかっているところまでおりられるかもしれない。だから、ここで待ってて」
 肩に置いた手に力を込めてにっこりすると、兵太夫は立ち上がって、縄を伝って崖を降り始めた。
「だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ!」
 上から呼びかける声に手を振って応えながら、するすると崖を下っていく。座学は苦手でも身体能力はそれなりに高いは組らしい身のこなしである。
「あった」
 あっという間にナメ壺が引っかかっているところまで下ると、落とさないようにそっとナメ壺を手に取る。と、兵太夫の動きが止まった。
 -どうしよう…どうやってのぼればいいんだろ…。
 いくら身軽な兵太夫でも、片手でナメ壺を持ったまま、空いた手で縄を伝って崖を登るという芸当はできない。ナメ壺を懐にでも入れれば両手が空くのだが、どうにも抵抗があった。
 -もし、のぼっているときにふたが取れて、ナメクジが壺からでてきちゃったりしたら…。
 両手がふさがって無防備な状態の身体に、ナメクジが這い回るかもしれない。ぬめぬめとしたものが(それも何十も)素肌を伝う感覚を想像しただけで、兵太夫は怖気をふるった。
 -じょうだんじゃない!
 しかし、片手に縄、片手にナメ壺を手にしたまま、崖の途中にいつまでもとどまっているわけにはいかなかった。すでに縄を掴む手は痺れ始めている。
「兵太夫ぅ、どうしたの? はやくのぼっておいでよぉ」
 ハラハラしながら見守っていた喜三太が、たまらず声を上げる。
 -そんなこと言われたって…。
 どうにかしなければと思うほどに思考が空回りする。
 -いちばんいいのは、ナメ壺を懐に入れて両手でのぼることだけど、それじゃナメクジが出てきちゃうかもしれない…その次にいいのはナメ壺をここに置いてもどることだけど、そうしたら喜三太がまた泣いちゃうだろうし…。
 そうこうしている間にも、縄を持つ手は限界に達しつつあった。足元の崖から突き出した小さな岩に右足をかけようとしたときだった。左足の足場にしていた石が崩れて兵太夫は身体のバランスを失ってしまった。
「うわわわぁぁぁっ!」
 足を滑らせた兵太夫は、とっさにナメ壺を抱えたまま崖下へと落ちて行ってしまった。
「兵太夫!」

 


「兵太夫! 兵太夫、しっかりして…!」
 肩を揺さぶられる感覚に、兵太夫はゆるやかに意識が戻っていった。
「喜三太…?」
 すぐ近くでごうごうと水音が聞こえる。自分はどこにいるのだろう…。
「兵太夫ぅ!」
 横たわったままゆっくりと眼を見開いた兵太夫の身体に、喜三太がしがみつく。
「ここは…どこ?」
 喜三太が身体を押し付けてきたために、自分の身体がひどく冷え切っていることに気付いた兵太夫だった。 
「よくわからないけど…どっかの谷底」
 相変わらず頼りない喜三太の返事だったが、兵太夫は少しずつ記憶を引き戻していた。
 -そうだ、ぼくは喜三太のナメ壺をとろうとして足をすべらせて…。
 そのまま谷底まで落ちたに違いない。
 -だけど、そんなにからだがいたくないのはなぜなんだろう…。
 泳がせた視線の一端に、垂れ下がった縄が捉えられた。
 -そうか。縄が届くくらい谷底まではひくかったんだ。だから、ナメ壺が引っかかっているところからおちてもそんなにケガしなかったんだ…。
 ひとまず自分がそれほどのケガを負わなかった原因を分析すると、兵太夫は急速に身体から力が抜けていくのを感じた。

 -それで、ぼくは谷底の川におちちゃったんだ…。
 自分の身体がひどく冷たい理由も理解した兵太夫は、ふと気になって声を上げる。
「で、喜三太はどうしてここにいるの?」
「だって兵太夫が落ちちゃったから…ぼくもおりなきゃと思って」
「おりてこなくてもいいのに…」
 むしろ、誰か助けを呼びに行ってほしかった、と苦笑した兵太夫は、もうひとつ気になることを思いだした。 
「そうだ、喜三太のナメ壺は…だいじょうぶだった?」
「うん! 兵太夫がしっかりかかえてくれていたおかげで、ナメクジさんたちもみんなぶじだよ!」
 喜三太の弾んだ声を耳にして安心感が湧き上がる。
「でも、兵太夫、びしょぬれになっちゃった…どうしよう」
「ねえ、とりあえず火をたかない? ぼく、とっても寒いし、それに煙で誰かが見つけてくれるかもしれないし」
 おろおろしてばかりの喜三太に却って冷静になった兵太夫が言う。
「そ、そうだね!」
 弾かれたように喜三太が反応する。
「そしたら、ぼく、たきつけになるようなの探してくる!」

 

 

「ふん、ふん、ふ~ん♪」
 放課後、鼻歌を歌いながら早足で廊下を行く団蔵の姿があった。
 -早く清八と会いたいな。村のこととか、馬のこととか、いろいろおしえてもらうんだ!
 今日は清八が荷物を学園に届けに来る日だった。委員会もない日なので、放課後はまるまる清八と過ごせる予定だった。しぜん、足早となる。
「団蔵、ちょっと」
 医務室の前を通りかかったとき、団蔵は押し殺した声で呼びかけられた。
「え…だれ?」
 きょろきょろする団蔵に、更に声がかかる。
「こっちこっち」
「…金吾?」
 医務室の襖を細めにあけて、金吾が手招きをしていた。
「どうしたのさ」
 そっと医務室に身体を滑り込ませた団蔵が訊く。
「喜三太たちがいなくなったって、ほんと?」
 仔細げに金吾が訊き返す。
「そうなんだ。みんなで心配してたとこなんだ」
「喜三太たちがどこにいったか、ぼく知ってる」
「ホント?」
「しーっ!」
 思わず声を上げる団蔵を、金吾が慌てて制する。
「どこに行ったの?」
 声を潜めた団蔵が、顔を寄せて訊く。
「薬草をもらいに、二つとなりの村の新野先生のお知り合いのお医者さんのところにいったんだ」
「どうして金吾が知ってるの?」
「ぼくがここに寝ているとき、そんな話をされているのを聞いたんだ」
「よしわかった! じゃ、おれがさがしてくる!」
「待って」
 力強く宣言して立ち上がりかけた団蔵の袖を、金吾が引っ張った。
「なんだよ」
 バランスを崩して前のめりになる。
「ぼくも連れてって」
 袖をつかんだまま、金吾が低い声で言った。
「え? だめだよ。だって、金吾、まだ熱あるんだろ?」
 見るからに具合の悪そうな金吾だった。
「たのむ、団蔵…! ぼく、喜三太たちがいないって聞いて、気が気じゃなくて…どうしてもさがしに行きたいんだ。たのむ!」
 まだ熱があるらしく、とろんとした眼を精一杯見開いて、金吾が懇願する。
「だけど、やっぱ、まずくない…?」
 金吾の必死の表情に、すでに気圧され気味な団蔵だったが、一応抵抗を試みる。
「たのむ、一生のお願い! いま行かなかったら、ぼく、一生後悔するとおもうんだ。だからたのむ! 連れってよ!」
「う~ん、でも…」
「たのむ!」
 低いながらも熱のこもった声で訥々と訴える声に、団蔵の侠気がむくむくと頭をもたげた。
 -しょうがない。金吾がこんなにたのんでいるのにことわるなんて、おれにはできない…!
「…わかった」
 抑えた声で、それでも力強く団蔵は頷いた。
「その代わり、清八の能高速号はすごくはやく走るけど、つかまっていられる?」
「うん、だいじょうぶ!」
 金吾の表情がぱっと明るくなる。
「じゃ、清八んとこ行こう! 見つからないように、そ~っとね」
 そっと襖をあけて廊下をうかがった団蔵は、誰もいないことを確認すると、金吾の手を引いて医務室から忍び出る。

 


「なあ、ホントにだいじょうぶなの?」
 馬を駆りながら団蔵が訊く。
「だいじょうぶだってば…」
 団蔵の背にしがみつきながら金吾が応える。
「ならいいんだけど…」
 細かいことは気にしない性質の団蔵は、外出届を得ないまま、清八の愛馬を駆って塀を乗り越えてしまったことにはさして気を留めていない。気になるのはまだ熱があるはずなのに、強引に自分と一緒に出てきてしまった金吾の体調である。
「やっぱりもどったほうがよくない?」
 自分の胴にまわしている金吾の腕にいつものような力がないことを看取った団蔵は、振り返りながら声をかける。
「いいから…! それより、はやく喜三太たちをさがさなきゃ」
 団蔵の背に顔を埋めながら金吾は強い口調で言う。
「…わかったよ」
 これ以上、金吾を説得することはムリだと観念した団蔵は、喜三太たちが向かった村に向かって馬を駆ることにした。これだけ帰りが遅いということは、何かの事件に巻き込まれたか、あるいは何らかのアクシデントがあったとしか考えられない。いまは、一刻も早く喜三太たちを見つけて、学園に連れ戻すのが先決だと考えることにした。
「ちょっと…団蔵」
 峠道に差し掛かったとき、ふいに金吾が声を上げた。手綱を引いて馬のスピードを下げながら団蔵が訊く。
「どうかした?」
「あの煙…なんかへんだとおもわない?」
「けむり?」
「ほら、あそこ」
 金吾が指差す方向に、谷底から細く上がる煙があった。
「ホントだ…」
「それにあれ」
 団蔵も、木の幹に結び付けられた縄に気が付いたようである。
「縄、だよね」
「「ってことは…」」
 2人が顔を見合わせる。
「「喜三太と兵太夫だ!」」

 


「おーい! 喜三太! 兵太夫! 聞こえるかぁ!?」
 谷底に向かって団蔵が声を張り上げる。だが、聞こえるのはごうごうと谷底を流れる川の音ばかりである。

「おれ、ちょっとおりてみる」
 谷底へと垂れ下がった綱を、団蔵が手に取る。
「だいじょうぶ?」
 心配そうに覗き込む金吾に軽く手を振って応えた団蔵だったが、次の瞬間、足を踏ん張っていた石がぼろぼろと崩れ落ちた。
「おっとっと…」
 体のバランスを崩しそうになった団蔵は慌てて縄を掴み直す。
「団蔵!」
 崖の上からハラハラしながら覗き込んでいた金吾が思わず声を上げる。
「うっわぁぁぁ!」
 汗で縄を掴む手が滑った団蔵が、とっさに別の足場を求めて足をつく。だが、無情にもその足場もぼろぼろと崩れて、完全にバランスをった身体が谷底に吸い込まれていってしまった。
 -え、どういうこと…?
 眼の前で起こった出来事の意味が整理できかねて、金吾は谷底を覗き込んだまましばらく身動きできずにいた。
 -いまのって、団蔵がおちちゃったってことだよね…とすると…。
 怪我をしているかもしれない。
「お、おーい! 団蔵! 団蔵! へんじしてよ~っ!」
 急速に頭の中で悪い事態が次々と展開し始めた。金吾は動転して声を張り上げる。だが、返事はなかった。
 -ど、どうしよう…。
 もしかしたら、団蔵が大怪我をして動けなくなっているかもしれない。喜三太や兵太夫が手当てしてくれればいいが、そもそも谷底には誰もいないかもしれなかった。何かを探すように辺りを見回す金吾の視界に、団蔵の乗ってきた馬の姿がとまった。
 -そ、そうだ! 学園に戻って、だれかよんでこなきゃ…。
 東国の武士の子として、最低限の乗馬の心得はあった。ふらつく身体をおして馬の背によじのぼると手綱を取る。
「能高速号、たのんだぞ」
 首筋を二、三度軽くたたくと、掛け声をあげる。
「はいやっ」

 

 

「っててて…」
 谷底では、唐突に落ちてきた団蔵に喜三太と兵太夫が慌てて駆け寄っているところだった。
「団蔵、団蔵! だいじょうぶ?」
「しっかりしてよ、団蔵…」
 だが、尻を強打してしまった団蔵は立ち上がるのも困難なようである。
「兵太夫、喜三太、いたんだ…」
「うん、いたよ!」
 ナメ壺を抱えた喜三太がにっこりとする。
「上から呼んだんだぞ。返事くらいしろよ」
 2人を見つけてほっとしたと同時に力が抜けて、団蔵にようやく文句を言う余裕ができた。
「そんなの聞こえるわけないだろ。こんなに川の音がうるさいのに」
 兵太夫が口をとがらせる。
「まあ、そうだけどさ」
 谷間に轟く沢の音に、団蔵も不承不承に頷く。
「で、どうする?」
 兵太夫が崖を見上げた。
「この崖って、ぼろぼろくずれやすいから、のぼるのはたいへんだと思うんだ…」
「じゃ、どうするの? 団蔵はお尻がいたいっていってるし」
 喜三太も並んで崖を見上げる。
「金吾が…なんとかしてくれると思う」
 まだ立ち上がることのできない団蔵が、腹這いになったまま言う。
「金吾、来てたの?」
 喜三太の表情が期待に輝く。
「ああ。喜三太のこと、すっごく心配してた。だから、まだ熱があるのに、どうしてもいっしょに行きたいっていうんだ」
「で、金吾はどうすると思うの?」
 兵太夫が訊く。
「おれたち、馬に乗ってきたんだ。金吾だって馬に乗れたはずだから、学園にもどってだれか呼んできてくれるとおもう」
「だといいけど」
 兵太夫がつぶやく。一本気な金吾のことだから、団蔵が崖から落ちたと見るや、すぐに自分も縄を伝って助けに行こうとするかもしれない。4人とも谷底にいたのでは、いよいよ助けられる見込みは少なくなる。
「金吾、まだおりてこないよ…」
 心細げに喜三太が崖を見上げる。
「そういう方向かよっ!」
 兵太夫が突っ込む。
「…でも、まだ落ちてこないってことは、もしかしたら学園に向かっているのかも」
「信じてまってようぜ」
 苦労して身体を横向きにした団蔵が、頬に掌をつく。

 


「はぁっ、はぁっ…」
 馬の手綱を必死に握りながら、金吾は馬の背にしがみついていた。乗馬の心得はあったから、団蔵とともに乗ってきた馬を駆って学園に向かうことはたやすいことだった。だが、しだいに熱がぶり返してきたのか、背中の悪寒に続いて全身から力が抜けていく。いまや、手綱を握っているのさえやっとだった。
 -はやく…学園にもどらなきゃ…。
 だが、意思に反してもはや身体を起こしていることすら困難だった。金吾は馬の背に身を伏せて、たてがみと手綱を一緒に掌に握っていた。その掌からも徐々に力が抜けていった。
 -ふり…落とされそう…。
 そんな意識がよぎった瞬間、身体がぐらりと大きく揺れると、するりと馬の背から滑り落ちた。ほんの一瞬、宙に浮いた感覚をおぼえたと思うと、金吾の身体は地面に転がっていた。
 -?
 背中に乗っていた小さな身体がいなくなったことに気付いた馬が戻ってくる。倒れたままの金吾を鼻先で軽く突つく。湿った鼻先の感触に顔を上げた金吾は、よろよろと身を起こす。
 -ありがとう。来てくれたんだね。
 ありったけの力を振り絞って馬の背によじ登ると、金吾は馬の首を軽くたたいた。もはや掛け声を上げる気力も残っていなかったが、馬は学園に向けて走り始める。

 


「もう、さっきから何の騒ぎだろう…」
 庭の掃除をしていた小松田秀作は、門の外から聞こえる馬のいななき声に、ぶつくさ言いながらほうきを置いた。
「門の前まで来ているなら、ちゃんとノックして名乗ってもらわないと…は~い、いま開けますよぉ~」
 声を張り上げながら、閂を外して扉を開く。と、そこへぬっと突き出したのは馬の首である。
「ひ、ひえぇぇぇっ! う、馬!?」
「若旦那!」
 腰を抜かした小松田の声に、清八が駆けつける。団蔵の帰りが遅いことが気になっていたのだ。
「あ…!」
「金吾くん!」
 だが、馬の背の上に2人が見たのは、ぐったりとした金吾の姿だった。

 


「まったくお前たちは…」
「私の胃にいくつ穴をあければ気が済むんだ…」
 教師2人にお説教をされた4人は、医務室にいた。
「おこられちゃったね」
 たいして堪えていないように喜三太がぺろりと舌を出す。
「そりゃそうだよ。薬をもらいに行った2人がそろって谷底におちちゃって、おまけに薬が必要な当の本人がさがしにきて途中で具合が悪くなっちゃったんだから…」
 どこから怒ればいいのかも分からないくらいだね、と兵太夫がこれまたケロッとした顔で言う。
「でも、団蔵の馬のおかげでたすかったんだ」
 布団に横たわったまま金吾が言う。
「あれは、おれのじゃなくて清八の馬で能高速号っていうんだ。アイツがあんなに頭がいいなんてしらなかったよ」
 団蔵が頭を掻く。馬を褒められると、自分のことのようにうれしいのだ。その団蔵が不自然にそわそわと尻を浮かしているのを、桶に水を汲んでやって来た乱太郎が見逃さなかった。
「ねぇ、団蔵。さっきからなんかへんな動きしてるけど、どうしたの?」
「い…いやいやいや、なんでもないって」
 慌てて両掌を振りながら後ずさる団蔵だったが、尻が床に触れた途端「いてっ」と声にしてしまう。
「あっ、分かった! 団蔵、がけのうえから落ちてきたときに、お尻をぶつけたから、いたいんでしょ」
 喜三太がぽんと手を打つ。
「え、いや、そんなことは…」
「団蔵、それ、ホントなの?」
 じっとりと問い詰めるような乱太郎の視線が、団蔵を射る。
「いや、その、そうなんだけど…で、でも! ぜんぜんいたくなんてないから…さ!」
 苦笑いしながら後ずさって医務室から出ようとする。だが、乱太郎の尖った声にその動きが止まる。
「そんなこと言って! いいからここに腹ばいになりなさい!」
「わ、わかったから…そんなにおこるなよ」
 観念した団蔵が、乱太郎の前に腹ばいになる。
「おこってなんかないよ。具合が悪いのにきちんと治療を受けようとしないってのがダメだって言ってるだけ」
 言いながら、団蔵の着物の裾をぐっとめくり上げる。
「ほら、こんなに腫れてる…ずっとガマンしてたんでしょ。だめだよ。いますぐ新野先生にみていただかないと…」
「そんなに、ひどい?」
 さすがに気になったのか、首をひねって覗き込もうとする。
「まっ赤になってるよ」
「よくここまでがまんできたね」
 喜三太と兵太夫がため息交じりに言う。
「げ! そんなにやばいことになってたなんて…」
 なおも首をひねって状態を確かめようとしたとき、
「ほらほら、団蔵君、ムリに身体を起こしてはだめですよ…喜三太君と兵太夫君は、自分の部屋に戻りなさい。金吾君はまだ熱があるのです」
 乱太郎に呼ばれてやってきた新野がたしなめる。
「はあい」
「ほにょ~」
 喜三太と兵太夫が医務室を後にする。すでに新野は団蔵の診察を始め、乱太郎は桶に浸した手拭いを絞って、金吾の額に置いている。

 


「ねえ、喜三太」
「なぁに?」
 部屋の隅でナメクジたちを遊ばせていた喜三太が振り返る。眼に入ったのは、裸になって背中に手を

回そうと悪戦苦闘している同室の金吾の姿である。
「はにゃ?…金吾、なにしてるの?」
 というか、そんな格好になって大丈夫なの、と思って喜三太が訊く。
「うん。熱はもう下がったから、今日は部屋に戻っていいって新野先生がおっしゃったから…でも、馬から落ちたときに背中をすりむいちゃって…喜三太、薬をぬってくれない?」
 金吾が背中を向ける。その背には数か所のすり傷があった。
「いいけど…どうして新野先生に治してもらわなかったの?」
「熱があって、とても気がつかなかったんだ。背中がぞくぞくしてたし。熱が下がってからやっと背中から地面にぶつかったことを思い出したんだ」

 照れくさそうに説明する金吾、ようやく喜三太は心配げな表情になる。
「だいじょうぶ? いたくないの?」
「そんなにいたいってわけじゃないけど…でも、ちょっとずきずきするかも」
「でも、この薬でいいの?」
 金吾が差し出した小さい壺に入った塗り薬に眼をやりながら、喜三太は訊く。
「いいんだ。これは、いつもぼくが戸部先生に稽古をつけていただいたときにすりきずがいっぱいできるからって、乱太郎にもらった薬だから」
「そうなんだ。ならいいけど」
 指先にすくった薬を傷口にそっと塗る。
「いたかったりしみたりしない?」
「うん、だいじょうぶ…ありがとう」
 ほっとしたように金吾がため息をつく。
「そういえば、金吾のお薬はだいじょうぶなの? ぼくたち、新野先生のお知り合いの先生のところに行くところだったけど、けっきょく行けなかったし」
「それならだいじょうぶ」
「どういうこと?」
「清八さんが代わりに行ってくれたんだ」
「そうなんだ。ならよかったね」
「…」 
 ふと会話が途切れた。喜三太は黙って薬を塗っている。しばし部屋の中に沈黙が訪れた。
「喜三太、器用だね」
 背中を伝う指のひやっとした動きが、いつの間にか二本に増えていることに気付いて、おもむろに金吾が口を開いた。
「はにゃ?」
「だって…両手でべつべつの場所に薬をぬるなんてすごいなって」
「はにゃ…おわっ!」
 言われたことに覚えがない喜三太が金吾の背に眼を戻す。
「どしたの?」
「だめじゃないか、ナメ子…かってにお散歩しちゃ」
「げぇぇぇっ! それじゃ、いまのは…」
 飛び上がった金吾が振り返る。
「うん。ナメ子が金吾の背中でお散歩してたんだ…だめだよ、ナメ子。つぼでおとなしくしてなきゃ」
 にっこりした喜三太が、手にしたナメクジをそっと壺に戻す。
「ちょっとさ…そういう問題じゃないとおもうんだけど…」
 腰を落としたまま後ずさりする金吾が口を開く。
「そう? きっとナメ子は金吾が好きなんだとおもうけどな」
「い、いや…ナメクジに好きになられても」
 顔をそむけた金吾の頬が染まる。
「あ、金吾ったら、照れてるの?」
 すかさず喜三太がからかう。
「そ、そんなことないさ!」
 むきになって金吾が言いつのる。
「あはは…じょうだんだって。ほら、金吾。もうすぐお薬ぬりおわるから、こっちに背中むけてよ」
「わ、わかったよ…」
 再び薬をつけた喜三太の指が背中を伝う。少しひやっとした感触が、たちまち喜三太の体温にまぎれて背中に広がっていく。
 -なんでだろう、こうやってるとホッとするな…。 
 胡坐をかいて背中を向けている金吾は、小さくため息をつく。
 -なんだかんだ言って、喜三太はぼくのこと心配してくれているから…でも、それはみんなもそうだ。
 団蔵や兵太夫、乱太郎の表情が脳裏をよぎった。
 -ぼくが喜三太や兵太夫のことが心配だったみたいに、みんなもぼくのこと、心配してくれてるんだ。
 そう考えるだけで、なにか暖かいものが湧き上がってくる心地がした。
 -ぼく、は組のみんなと知り合いになれてよかった…なんて言ったら、みんな変な顔するかな?
 だが、それは偽りのない思いだった。
 -ぼくも、もっと喜三太やは組のみんなのためにがんばろうっと。
 小さな決意を固める金吾と、その背に一心に薬を塗り続ける喜三太の穏やかな沈黙が続く。格子窓からそっと風が吹き込む。

 

 

<FIN>