厳禁解禁

 

例によって仙蔵の天敵、しめりけコンビですが、実は助けにもなるというお話です。

仙蔵からすれば天敵そのもののしめりけコンビですが、傍から見ている文次郎にとってはそれなりにしっくりしているように思っていたら面白いな、と。

 

 

「ああ、食った食った」
 すでに日は落ちていた。食堂から忍たま長屋へと続く廊下を夕食を終えた留三郎が頭の後ろで腕を組みながら歩く。
「腹八分目ということを知らんのか」
 その後ろを歩く仙蔵が長い髪をかき上げながら言う。
「おばちゃんの飯を残すつもりかよ」
 留三郎が軽く振り返る。「俺にはムリだな。せっかく俺たちのために盛りをよくしてくれてんだぜ?」
「私はおばちゃんに頼んで飯を少なめにしてもらっている」
 ついと顎を持ち上げながら仙蔵は言う。さらりとした髪が揺れる。
「お前っていつもそーやって涼しげに言うけどよ」
 おかしそうに留三郎が笑いをかみ殺す。「しんべヱと喜三太は、よくお前の物まねをして遊んでいるぞ」
「なんだと」
 唐突に放たれた天敵の名に思わず口調が硬くなる。
「どこで憶えたのか知らないが、『予備がある』なんぞといっては笑っている」
 -あいつら、私の知らないところで、そんなことを…。
 思わず握りこぶしに力が入る。
「…名誉毀損だ。やめさせろ」
 動揺を隠そうと顔を伏せた仙蔵はぼそりと言う。
「いいんじゃないのか。それだけ慕われてるってことだろ?」
 あっさりと言い捨てると、留三郎は頭の後ろで腕を組んだまま立ち去っていった。
 -ったく、用具委員には、人に対する敬意というものがないのか…。
 ずかずかと廊下を歩きながら、仙蔵ははらわたの煮えくり返る思いを抑えきれずにいた。
 -留三郎。お前の後輩に対する甘さを見ていると、後輩たちになにか弱みでも握られているのではないかと疑わざるを得ないことがよくある…。
「仙蔵」
 その後姿に声をかけたのは、学園長の大川だった。だが、仙蔵は気付かない。
「これ、仙蔵」
 大川の声のトーンが上がる。
「は、はい。学園長先生」
 やっと声に気付いた仙蔵は、慌てて声のほうへ振り返る。
「なにをぼんやり歩いておる」
「い、いえ。何でもありません」
 いつものように、落ち着き払った風に戻りながら、仙蔵は答える。
「さっそくじゃがな、仙蔵に頼みがある」
「なんでしょうか」

 

 

 

 

「私どものように商売を行っておりますと、どうしてもトラブルというものは不可避なものでございます」
 坂井屋の豪壮な屋敷の奥座敷で、主は淡々と語る。大川の指示は、堺の豪商のひとつ、坂井屋からの依頼によるものだった。
「脅迫が寄せられることなども、まあ、正直言うと珍しいことではありません。たいていは、まともに相手するにも値しないものです…しかし」
 坂井屋は気がかりそうにため息をつく。
「ことが跡継ぎ息子の弥右衛門のこととなりますと、そうも言ってはおられません。万一のことを考えると、身を守ってやらねばならない」
「ごもっともです」
 仙蔵も神妙な面持ちで相槌を打つ。そしてふと顔を上げて視線を眼の前の相手に合わせる。「して、弥右衛門君を狙っている者に心当たりは?」
「それがですな…」
 坂井屋が肩をすくめる。「このような脅迫状がとどいておりましてな」
 懐から二、三通の紙片を取り出す。「失礼します」と仙蔵が手に取る。
「…なるほど」
 できるだけ困惑を顔に表さないように淡々と言いながら紙片を返す。
「どうも、漠然としていますね」
 それは筆跡を気取られないよう利き手ではない手で書かれたようなぎこちない文字だった。そしてそこには一言。『弥右衛門をさらってやるぞ』
「その通りです」
 紙片を懐に戻しながら坂井屋は小さく首を振る。「しかし、弥右衛門の部屋に何者かが忍び込んでいたとなれば、やはり危険が迫っていると考えざるを得ない」
「そのようなことが?」
「夜中に、弥右衛門の部屋に何者かがいたというのです。暗かったので顔は見えなかったが、たしかに誰かがいたと…親の私が言うのもなんですが、弥右衛門は幼いながらとても聡い子です。何の根拠もなしにそのようなことを言うとは思えないのです」
「…そうでしたか」
 全面的には同意しかねて曖昧に頷く仙蔵だったが、坂井屋は構わず続ける。
「しかし、これで一安心でしょう。立花さんは、お見受けする限り、お若いのに実に凛々しく、賢い面立ちでいらっしゃる。弥右衛門の新しい家庭教師という名目で警護していただくにはまさに打ってつけです。いや、福冨屋さんには、実にいい方をご紹介いただいた」
「は?」
 最後の一言に、仙蔵が反応する。
「ほんとうに、福冨屋さんにご相談してよかった。息子のしんべヱ君の学校の先輩で、学力優秀、剣の腕も立つ秀才がいると聞いて、私としても藁にもすがる思いでお願いしたのです。立花さん、ぜひ弥右衛門のこと、お願いしますよ。必要なものならいくらでも調達しますから、遠慮なく手代に申し付けていただきたい」
 明るい口調に戻る坂井屋を前に、仙蔵の表情がみるみる強張る。
 -どういうことだ…。
 はやくも仙蔵の胸中には、不吉な予感が確信に変わりつつある。だが、すでに自分は、学園長の指示で、坂井屋の跡取り息子の弥右衛門の警護を引き受けてしまっている。今さら断るわけにはいかない。
 -堺と聞いた時点で警戒すべきだった。なんたる不覚。
 学園長から堺の大商人である坂井屋と聞いた時点で、同じくしんべヱの実家である福冨屋も堺の豪商であることに思いが至るべきだったのだ。
 -まさか、しんべヱが一緒にいることはないだろうな…。
 自分が警護する弥右衛門は8歳という。しんべヱより少しばかり年下だが、同年輩の遊び友達であっても不思議はない。もっとも、大商人の子弟たちの交友関係は、もしかしたら自分たちとは違うものかもしれない。いや、きっとそうに違いない…。
 どうぞこちらへ、と先に立つ手代に続いて長い廊下を歩きながら、仙蔵はなんとか自分を納得させようとしていた。このような豪壮な屋敷で生活している御曹司が、近所の友人の家に気軽に遊びに行くなどということはきっとないであろう。乳母や家庭教師、厳選された遊び友達に囲まれているに違いない…。
「坊ちゃま。あたらしい家庭教師の、立花仙蔵さまをお連れしました」
 立ち止まった手代が、閉まったままの襖に向かって声をかける。
「入って!」
 弾んだ少年の声がした。
「失礼いたします」
 手代は襖を開けると、うやうやしく一礼してから仙蔵を中へと導いた。
 そこは、一面に畳が敷き詰められた広い座敷だった。そして、部屋の主である眼がくりんとした少年が、座敷の真ん中にちょこんと座っていた。
「立花せんせい! おまちしておりました。弥右衛門ともうします!」
 期待に満ちた眼で仙蔵をまっすぐ見つめて名乗った少年は、畳に手をついて深々と頭を下げた。
「こ、こちらこそ。立花仙蔵といいます。今日から、よろしく」
 仙蔵も慌てて頭を下げる。
 -利発そうな子だ。
 第一印象は、悪くない。大商人の御曹司とは、子どものうちから人に仕えられることに慣れているような、鼻持ちならない存在かもしれないと考えていた仙蔵は、少し安心した。もちろんしんべヱも福冨屋の御曹司だが、あれは例外的であろう。そもそも、忍術学園に入ろうなどと考えた時点で。
 だが、弥右衛門が続いて発した言葉に、仙蔵は思わず顔がこわばるのを感じる。
「…しんべヱ兄さまには、いつも立花せんせいのお話をきかせてもらっていました! だから、お会いできるのがたのしみでたのしみで…」
 -な、なんだと…福冨しんべヱが、ここに出入りしていたのか…。
 仙蔵がショックで言葉を失っている間にも、弥右衛門はにこにこしながら続ける。
「それに、しんべヱ兄さまのお友達の喜三太兄さまからも、いろんなことを教えていただいていたんです!」
 もっとも聞きたくないと思っていた名前を立て続けに耳にしてしまい、後頭部を殴られたような衝撃が仙蔵を襲う。
 -や、山村喜三太も来ていたというのか…?
 思わずそのまま立ち上がって帰ろうかと思ったとき、弥右衛門の背後に据えられた屏風のうしろから声がした。あまりに聞きなれた、禍々しいまでに馴染んだ2人の声が。
「立花せんぱ~い!」
「こんなところで会えるとは思いませんでしたぁ!」
 屏風の後ろから飛び出してきたのは、紛うことなきしめりけコンビである。

 


「では、今日は論語の素読をやりましょう。弥右衛門君、論語の素読をやったことは?」
 テキストを用意しながら、仙蔵が訊く。
 坂井屋に家庭教師として入り込んで、数日が過ぎていた。
「はい! まえのせんせいにちょっとだけ…」
「そうですか。では、今日は論語の里仁をやりましょう。私の読んだとおりに言ってください」
「はい!」
「子曰く」
「し、いわく」
「富と貴きとは」
「とみと、たっときとは」
「是れ人の欲する所なり」
「これ、ひとのほっするところなり」

 


「なんか、立花せんぱい、ムズカシイこと言ってるね」
「そうだね」
 その日も遊びに来ていたしんべヱと喜三太が、屏風の裏側でぶつくさ言い交わしている。
「早く終わんないかなぁ」
「せっかく弥右衛門くんと遊ぼうと思ってきたのにね」
 -アイツら、もう来ないと思っていたのに…。
 テキストを読み上げながら、仙蔵の眉間に針が立つ。
 屏風の裏側でのやり取りは、仙蔵の耳に全て届いていた。ここ数日、しんべヱと喜三太が姿を見せることがなかったので、仙蔵は安心して弥右衛門に素読や剣術の初歩を教え込むことができた。ところが、今日に限ってあの二人がやってきたのだった。
「其の道を以てせざれば」
「そのみちを、もってせざれば」
「之を得るも処らざるなり」
「これをうるも、おらざるなり」

 

 

「立花せんせい、あの…」
 素読が一段落したところで不意に弥右衛門が口ごもった。
「どうしましたか」
「あの…お寺に行きませんか、海鵬寺に」
「お寺?」
 仙蔵は軽く首をかしげる。長い髪がさらさらと流れる。その髪をまぶしそうに眺めながら、弥右衛門はなおも言った。
「はい。ぜひ、いきたいのです」
「どうしてですか?」
「あの、その…草紙を見に行きたいのです。極楽草紙を見たいのです」
「それは、本当ですか」
 すでに、仙蔵には弥右衛門が下手なうそをついていることがありありと見て取れている。ただ、あまり相手を追い詰めないように小さく微笑みながら、理由を聴くことにした。唐突に寺に行きたいなどと言い出した理由を。
「え…あの、その…」
 弥右衛門は早くも動揺している。だが、やがて腹をくくったと見えて、小さく息を吐くと、顔を上げた。
「はい…ほんとうは、海にいきたいのです」
「海?」
「はい。海鵬寺の裏はそのまま海につながっているのです。まえは、ちちうえも、いつでも海にいかせてくれたのに、いまは家からでてはいけないといいます。でも、ぼくは、海にいきたいのです」
 -そういうわけか。
 思いつめた顔で告白する弥衛門を見て、仙蔵は納得した。弥右衛門には、身に危険が迫っていることなど当然知らされていない。だから、突然外出を禁じられることが耐えられないのだろう。
 -思えば不憫な子だ…。
 豪商の家に生まれて何不自由なく育っていながら、ごく限られた世界しか見聞きすることが許されない環境に生きる少年だった。そして今は、こんなに海に近いところにいながら、海に連れて行ってほしいと懇願している。
 連れて行ってやろう、と思った。
 -だが、今はだめだ。
 なぜなら、もれなくしめりけコンビがついてくるに決まっているから。
「弥右衛門君」
 だから仙蔵は慈しみに満ちた笑みを浮かべて言う。「君の気持はよくわかりました。では、私からご両親にお許しいただけるようお願いしてみましょう。もちろん、極楽草紙を見るご許可ですが…」
「ホントですか!?」
 言い終わらないうちから弥右衛門が弾んだ声を上げる。「ありがとうございます! ほんとうに、ほんとうにありがとうございます!」

 


「で、なんで俺がお前のバイトの手伝いなんぞしないといけねえんだ」
 ぶつくさ言いながら足を進める文次郎である。
「バイトではない。学園長先生からのご指示だ。もちろん私一人でもお守りすることは十分可能だが、万一のことがあってはいけないからな」
 仙蔵が護衛の補強に選んだのはクラスメートの文次郎だった。坂井屋とその妻が許可を出し、しんべヱと喜三太が来ない日を見繕って弥右衛門の外出日を設定するのは意外と骨折りだった。そしてようやく日を決めると、ぶつくさ言う文次郎を強引に連れ出したのだった。
「なんだよ万一って」
 まだ文次郎はぶつくさ言っている。
「私の任務先が堺の大店の坂井屋と言ったろう」
 足早に歩きながら仙蔵が口を開く。「その世継ぎを狙うのだ。よほど腕に自信のある誘拐犯か、どこかの城が絡んでないとも限らんだろう」
「お前の推測だろうが」
 ぎろりと文次郎が眼をむく。「らしくねえな…狙いは何だよ」
「狙いだと?」
 涼し気な流し目で言い放つ仙蔵だったが、瞳がぎこちなく揺れる。
「とんだ猿芝居だぜ…そこまで動揺するとはな」
 仙蔵の異変を見逃す文次郎ではなかった。「いい加減、言えよ。事情が分かれば俺だって協力しないこともない」
「…」
 仙蔵が黙り込んだのでしばし足音だけが耳についた。
「…リスクは二つある」
 前を向いたままぽつりと仙蔵が呟く。文次郎が太い眉をぐいと上げる。
「二つ?」
「夜中に弥右衛門の部屋に忍び込んだ者がいたそうだ。その部屋を私も確認したが、天井裏に人が立ち入った痕跡があった」
「つまり忍者ってことか」
 だとすれば厄介だな、と文次郎は考える。だが先に確かめることがあった。「二つ目はなんだよ」
「…の二人だ」
 食いしばった歯の間から漏れる息とともに仙蔵が唸る。
「あ?」
「あの二人だ…福富しんべヱと山村喜三太だ…!」
 観念したように言い捨てると仙蔵はそこに汚物でも見たようについと顔をそむける。
 -なるほどな。
 その険に満ちた横顔に眼をやりながら文次郎は納得する。これこそいつもクールな仙蔵がペースを乱される元凶だった。

 

 

「こんにちは~」
「弥右衛門くんいますかあ」
 いつものように坂井屋を訪れたしんべヱと喜三太だった。
「やあ、いらっしゃい」
 にこやかに手代が出迎える。だが、すぐに申し訳なさそうな表情になって続ける。「申しわけないのですが、今日は弥右衛門様は外出されているんですよ」
「え~、でかけちゃったの?」
 残念そうにしんべヱが言う。
「はい。立花先生とご一緒に海鵬寺にお出かけです」
「そーなんですかあ。じゃあ、またきますー」
「しつれいしま~す」
 あっさりと引き下がると手代に手を振りながら立ち去る二人だった。そして手代が店の中に姿を消すのを確かめるや顔を見合わせてニヤリとする。
 -海鵬寺だって!
 -立花せんぱいもごいっしょだって!
 -じゃ、いくしかないよねっ!

 

 

「さあ、海に着きましたよ」
 海鵬寺に着いた仙蔵たちは住職への挨拶もそこそこに境内の裏手から浜辺へと抜ける。
「うわぁ!」
 弥右衛門が眼を輝かせる。そして手をつないだままの仙蔵を見上げる。「もっと、もっと近くにいきたいです!」
「いいですよ」
 手を放した仙蔵が頷くと、片膝をついて足袋と草履を脱ぐのを手伝う。
「わーい!」
 裸足なった弥右衛門が波打ち際へと砂浜を走る。「立花せんせいも来ませんか!?」
「ええ、行きますよ」
 微笑んで言いながら、すでに仙蔵は周囲に胡乱な気配を感じていた。
 -来てるな…文次郎、頼んだぞ。

 


 -誰だ、あいつら。
 その頃、物陰に潜んだ文次郎は仙蔵たちを囲む数人の忍たちの姿を捉えていた。
 -三人か…先に手を出すのは控えておくか。
 見たところそれほど腕の立つ忍には見えなかったから、相手が手を出す前に追い払おうかとも考えたがやめた。追い払う自信はあったが弥右衛門に気付かれないようにとなるといささか心もとなかった。弥右衛門にとっては久しぶりの外出なので、身辺に迫る危険を忘れられるような日にしたいと仙蔵に言われていた。
 -その代わり、変な動きしやがったらいつでも追っ払ってやるからな!
 いつの間にか気が高ぶっていた。懐にたくし込んだ袋槍の穂を握る手に力がこもる。
 -それにしてもあいつら、見覚えがあるな…。
 記憶を探りながらその動きを注意深く追う。
 -そうだ! あいつら、ドクアジロガサ忍者だ!

 

 

 ≪あつらえ向きに動き出しましたね。≫
 ≪ああ。待った甲斐があったな。≫
 文次郎に見つけられていることにも気づかずドクアジロガサ忍者AとBが矢羽音を交わす。
 ≪今なら付き添いの男ひとりだ。やっちまおう。≫
 浜辺に仙蔵と弥右衛門の二人しかいないのを眼にしたドクアジロガサ忍者Cが小心そうにせかす。
 ≪ああ、やるか。≫
 ドクアジロガサ忍者Aが言ったとき、ひゅっと風を切って飛んできた手裏剣が足元に刺さる。
「何者だっ!」
 とっさに飛びのきながら思わず声を上げてしまう。
「忍術学園六年い組 潮江文次郎だ」
 悠然と姿を現しながら文次郎が低く唸る。「悪いがお前らの好きにはさせねえぜ」
「たかが忍たま一人で我々を相手にするつもりか?」
 ドクアジロガサ忍者Cがねっとりした口調で言う。「あまり大人をなめるもんじゃないよ」
「それはどうかな」
 不敵に笑みを浮かべた文次郎がうそぶく。「そーゆーことは手合わせしてから言うもんだぜ!」
 次の瞬間、三人に向けて棒手裏剣を放つ。
「そうはいくか!」
 ドクアジロガサ忍者たちも応戦する。

 


「…」
 にわかに勃発した戦いを仙蔵は当惑しながら視線の片隅に捉えていた。無防備な子どもと二人、人影のない浜辺にあってはできることは限られている。もし飛び道具で狙われては、自分が身を挺しても防ぎきれるか怪しかった。それに、弥右衛門には今まさに身が狙われていることを勘付かせたくなかった。そうでなくても聡い少年は、海に行きたいと言ったことを後悔して自分を責めるだろうから。
 -だが、どうする…。
 久しぶりの海で、波打ち際に足をひたしてはしゃいでいる少年を穏当に引き上げさせられるような口実を、さすがの仙蔵もにわかには思いつかない。そのとき、
「弥右衛門ぼっちゃま!」
 遠くから駆け寄ってくる男がいた。
 -あれは…。
 坂井屋の番頭だった。いかにも急いでいそうな表情に仙蔵は内心ほっとする。何か急ぎの用事で連れ戻しに来たということであれば弥右衛門も怪しむことなくここを離れられるだろう。だから手拭いを手に弥右衛門の傍らにしゃがんで言う。「さあ、足を拭きましょう。お屋敷に戻らなければならないようですよ」
「うん…でも…」
 駆け寄ってくる男を凝視したまま弥右衛門は呟く。「へんなの…」
「どうかしましたか」
 その口調にふと気になるものを感じた仙蔵が訊く。
「だって…吉之助は父上と出かけてるはずだから…」
 次の瞬間、仙蔵はとっさに立ち上がって弥右衛門を背後にかばって立ちはだかる。
「弥右衛門ぼっちゃん、お迎えに上がりましたっ」
 その間にも近寄ってきた男が声をかける。だが、その声はますます弥右衛門に違和感を抱かせたらしい。いまや弥右衛門は仙蔵の背にしがみついて着物をぐっと掴んでいる。
「ほう、どなたかな」
 刀に手を掛けながら仙蔵は落ち着き払ったように声を上げる。
「なにを仰るんですか。私ですよ。番頭の吉之助ですよ」
 さらに歩み寄りながら男は言う。「さあ、お店に戻りましょう。旦那様がすぐに戻るよう仰ってますよ」
「それはどうかな」
 刀を抜きかける仙蔵の眼が次第に冷たくなる。「坊ちゃんはあんたに見覚えがないようだが」
「けっ」
 みるみる険しい顔になった男が唾を吐く。「こんなガキにバレるとはな」
「きさま、何者だ」
 怯えきって背中に顔を押し付ける弥右衛門の身体をかばいながら仙蔵も冷たい声で問う。
「お前に答える義理はねえ」
 男は取り合わない。「ケガしたくなかったらとっととそのガキを渡しな」
「その言葉はそのままお返ししようか」
 細めた眼で男を凝視しながら仙蔵は返す。「ケガをしたくなければ今すぐ立ち去ることだな」
「この若造が」
 男が吐き捨てる。「この市之介様を…」
 -市之介? そうか。こいつ、ドクアジロガサ忍者か。
 まだ狙いは分からないが、正体が分かれば対応はずいぶん楽になる。仙蔵はくいと顎をあげると涼し気に言い放つ。
「ドクアジロガサが何を狙おうが、忍術学園が相手になるからな」
「なに、忍術学園だと…?」
 市之介の口調に明らかに動揺がはしる。だが、すぐにその表情は皮肉交じりにゆがむ。「丁度いいぜ。いつも我々の任務を邪魔する忍術学園にはちょっとばかりお仕置きが必要だと思ってたところだからな」
「ほう、やれるものなら…」
 相手が市之介ひとりなら何とでもしてやろうと余裕で言いかけた仙蔵だったが、その台詞が思わぬ事態に蒸発する。その眼は驚愕でみるみる見開かれる。
「え? …なんだよ」
 仙蔵のあまりの動揺に思わず振り返った市之介の視界に飛び込んできたのは、「いたいた~、弥右衛門く~ん!」「ぼくたちもあそびにきちゃった!」と満面の笑みで叫びながら駆けてくるしんべヱと喜三太。
「お、おい待てお前たち! こっちに来るんじゃない!」
 仙蔵が動転した声を張り上げるが二人には届かない。
「立花せんぱ~い、ぼくたちもまぜてくださ~い…うわっ!」
「ぼく、あたらしいナメクジさんつれてきたんで~すっ…うわっ!」
 足元の流木に同時に二人がつまづく。転びながら鼻水を飛ばすしんべヱとナメ壺を放る喜三太が同時に声を上げる。そして宙を舞うナメ壺から放り出されたナメクジたちが市之介の顔面にぴたぴたと貼りつく。
「う、うぎゃぁぁぁっ!」
 唐突に襲来したぬめりとした感触に市之介がパニックになって振り払おうとする。
 -今だ!
 唖然と天敵二人の動きを眼にしていた仙蔵がはっと我に返る。とっさに背後にしがみつく弥右衛門を抱え上げて全力で走り出す。 
「くそっ! 待てっ!」
 顔にへばりついたナメクジを払い落とした市之介が追いかけようとする。が、たちまち足を取られて顔面から砂浜に倒れ込む。
「うげぇぇっ!」
 全身にまとわりつく砂交じりの粘液に悲鳴を上げながらのたうち回る。それはしんべヱが飛ばした大量の鼻水だった。
「なんだなんだなんだこれはぁっ!」
 顔にへばりついて離れない粘液を必死に引きはがそうとしながら市之介は叫ぶ。と、粘液とともに番頭の仮面がはがれる。
「う、うぎゃぁぁぁっ! 見るな、見るなぁっ!」
 そこには砂浜に転んだままのしんべヱと喜三太しかいなかったが、仮面を顔に戻そうと粘液を振り払いながら大仰に叫び続ける。

 

 

「あれ? せんぱいは?」
「弥右衛門くんも…どこいっちゃったんだろ」
 身を起こしたしんべヱと喜三太が砂を払いながら立ち上がって辺りをきょろきょろと見廻す。
「おかしいな…」
 しんべヱが言いかけた瞬間「うわぁぁぁ!」と叫ぶ喜三太だった。
「番頭さあん! うごいちゃだめ! じっとしてて!」
 ナメ壺を拾い上げた喜三太がなおものたうち回る市之介めがけて突進する。「ぼくのナメクジさんたちがつぶれちゃう!」
「俺はいいのかよっ!」
 ナメクジを拾い集める喜三太に市之介が叫ぶ。

 

 

「な、なにがあった?」
 一場の騒ぎを呆然と眺める文次郎だった。ドクアジロガサ忍者たちと戦い始めようとしたとき、妙に馴れ馴れしい素振りの男が仙蔵たちに近づいていった。それに違和感をおぼえたらしい仙蔵が戦闘態勢に入ったと同時にしんべヱと喜三太が現れて男が何やらパニック状態に陥り、仙蔵が弥右衛門を連れて走り去り、ドクアジロガサ忍者たちも姿を消し…いま、文次郎はひとり物陰に佇んで浜辺を見ていた。
「ま、いいか」
 ドクアジロガサ忍者がいなくなればここにいる理由はない。あとは仙蔵が無事に弥右衛門を連れて坂井屋に戻るのを見届けるだけである。
「くっそ…ドクアジロガサ忍者と戦いそこねちまった」
 浜辺の騒ぎをよそにぶつくさ言いながら坂井屋に向かって走り去る文次郎だった。

 

 

 

 

「よお、お疲れ」
「世話をかけたな」
 坂井屋の自室に戻った仙蔵のもとへ、天井裏から現れた文次郎だった。書見台に向かって本を読んでいた仙蔵がゆるりと顔を向ける。
「弥右衛門はどうした」
 気がかりそうに文次郎が訊く。
「疲れたのか眠っている」
 少し疲れた声で仙蔵が応える。「せっかく身辺のことなど忘れて遊ぶ日にしたかったのだがな」
「お前の責任じゃねえさ」
 なだめるように文次郎は言う。「それより、ドクアジロガサが動いてるってのが気になるな」
「ああ」
 仙蔵は何かを振り払うように頭を二、三度振る。「私は安全が確認されるまで弥右衛門についていなければならない。すまないが、学園に戻ってこのことを先生方に報告してもらえないか」
「だな」
 文次郎は頷く。「背後に別の動きがあるかもしれないからな」
「頼む」
「任せろ」
 低い声ながらも力強く言った文次郎がふいにニヤリとする。「それにしても、お前の天敵も役に立つこともあるもんだな」
「役に立つ?」
 露骨に険のある表情になる仙蔵である。
「そうだろうが」
 面白そうに文次郎は続ける。「あの二人が登場したから、うまいこと番頭に化けたヤツを追い払えたんだろ?」
「それは…そうだが」
 嫌そうに仙蔵は頷く。
「ま、そういうこともあるってことだ」
 おもむろに文次郎が立ち上がる。「だから、そう毛嫌いするもんでもねえだろ」
 言い残して天井裏へと姿を消す。
「…」
 部屋に残された仙蔵は黙然と書見台に眼を戻す。
 -バカ文次が…。
 声に出さずに呟く。
 -そんなこといちいち言われなくてとも…。

 

 

 

<FIN>

 

 

Page Top  ↑