トモミの悩み

 

「万川集海」を読んでいると、「凡(およ)そくノ一は、一つは其の心姦拙にして智も口も浅き者なれば~」とずいぶんひどいことを書かれていますが、男女の雇用機会均等という概念のない当時では、くノ一とはあくまで男の忍者の補助といった役割だったようです。

とはいえ、くノ一教室で学ぶ女の子たちに、そのような役柄が受け入れられるとはとうてい思えないわけで、それゆえ現実に対して葛藤をおぼえてしまうのは、かわいそうですが仕方のないことなのかもしれません。

 

 

「はあ~~~~~~あ、なんでこんなことになっちゃったんだろーなあ…」
 頭の後ろで腕を組んだきり丸がぶつくさ言いながらのろのろと足を進める。
「なにトロトロ歩いてるのよ! さっさと歩きなさいよ!」
 先を歩いていたトモミが尖った声を上げる。
「だってさあ、なんでおれとトモミちゃんでオトリなんてやんなきゃいけねーんだか」
「仕方ないでしょ。学園長先生のご指示なんだから」
 大川に呼び出された二人は、さる武家の姉弟が密書を届ける役の囮を命じられていた。
「きり丸! もっとしゃんと歩きなさいよ! 私たち、お武家の子の役なのよ。そんなダラダラした歩き方しないの!」
「だってさぁ~」
「だってじゃないの!」
 自分の役割をまったく理解していない相手につい口調もきつくなる。
「あのさ、トモミちゃん、なにそんなにイラついてんのさ」
 ふいに見上げられて、一瞬表情が固まる。
「別にイラついてなんかないわよ」
 すかさず返したトモミだったが、自分の苛立ちはとっくに認識していた。それは数日前からずっと自分の中に巣くっているものだった。

 

 

 

 数日前の夜だった。トイレに立ったトモミが長屋に戻ろうとしたとき、廊下でふらつく人物に足を止める。
 -北石先生?
 壁に手を突きながらよろめき歩いていた人物が、ふいにしゃがみ込む。
「北石先生、どうしたのですか?」
 慌てて駆け寄ったトモミだったが、猛烈なアルコール臭に思わず助け起こす手が止まる。
「ああ…ユキちゃん、おひさしぶりぃ」
 トロンとした眼で振り向いた照代が酒臭い息を吐く。
「トモミです。それより、どうしたんですか?」
 街に行けば、路地裏で泥酔して寝込む男を見かけることも珍しくなかったが、学園の中でここまで酔いつぶれる人物を見ることは初めてだった。
「ごめんごめん…トモミちゃん、おひさしぶりぃ」
 ろれつの回らない口調で照代は言い直した。「山本シナ先生に会いに来たんだけどさあ、お留守だったから学園長先生とお部屋で話してたらお酒すすめられちゃってさあ…」
「はあ」
「今日は山本シナ先生のお部屋で休みなさいって学園長先生に言われたんだけどさあ…どこだっけ?」
「ご案内します…立てますか?」
 そういうことかと納得したトモミが、しゃがみ込んだままの照代に手を貸して立ち上がらせようとする。
「ごめぇん…ありがと」
 ふらつく身体を苦労して支えながらシナの部屋にたどりつく。そこに照代を放置するわけにもいかず、仕方なく布団を敷く。
「お布団敷きましたから、お休みになってください」
 部屋の壁にもたれて座り込んで何やらぶつぶつ呟いていた照代に声をかける。
「あ、すごぉい! お布団だぁ! トモミちゃんありがとねぇ!」
 よろよろと立ち上がった照代が、何を思ったか抱きついてくる。
「え、あ、あの…」 
 押し倒されそうになったトモミが必死で床に手をついて身体を支えながら、のしかかってくる照代を押し戻す。「とにかくお布団に…」
「あっはは…びっくりした?」
 どすん、と布団に腰を下ろした照代がへらへら笑う。「でもさ、トモミちゃんみたいないい子がこのままくノ一になるなんて、ホントもったいないなぁ」
「はい?」
 酔いにまかせて何を言うのかとトモミは眼をむく。いくら泥酔しているとはいえ聞き捨てならない台詞だった。
「だってさあ、くノ一が何をやるか分かってる?」
 いつの間にか照代が据わった眼でトモミを見上げていた。
「え、なにって…」
 山本シナからは忍術の知識や忍具の使い方、体術などを日々の授業で教わっていた。それは忍たまと同じ内容だと思っていた。
「くノ一なんてさあ、ホントつまんないっていうかさあ…もうやってられないっての」
 口調に険が増す。「任務に出てもいっつも男の忍者の補佐ばっかでさあ、お給料だっていっつも男より安いしさあ…こないだなんて私より年下で実力だって私より下のくせに、男だからって大事なところは自分でやるからお前は見張りでもしてろなんて言いやがってさあ…それで敵に見つかって逃げてきたら、うまくいかなかったのは私のせいだなんて報告したのよぉ…ホント腹立つわぁ…依頼主もそいつの言い分ばっか聞いて、私の言うことなんて聞いてくんないしぃ…所詮くノ一の立場なんて、男の忍者の下でしかないんだから…ああバカバカし…」
 だんだん途切れがちに台詞をこぼしていた照代が、やがて布団に身を倒して寝息をたて始める。
「…」
 黙ったままトモミは照代の身体に布団を掛けて、そっと部屋を出ようとした。と、寝言のようにつぶやかれた台詞に一瞬背が固まった。
 涙で濁ったような声で照代は言った。
「…くノ一なんか、なるんじゃなかった…」

 

 

 

 -つまり、くノ一になったとしても、男の忍者と一緒に活躍することはないってこと?
 思ってもみなかった話に、自室に戻りながらもトモミの惑乱はおさまることがなかった。
 -年下の男の忍者にアゴで使われるってこと…?
 そんなことはシナの授業では習っていなかった。たしかに男の忍者の向こうを張って活躍するとも聞いていなかったが、くノ一の役目がその程度とも聞いていなかった。だが、照代が語った限りなくホンネに近い話によれば、現実とはそういうものらしかった。
 -そんなものになるために、私はここで修業してるってこと…?
 疑問がふつふつと湧き上がる。
 -それがいやなら、学園をやめるしかないってこと…?

 

 

 

 その疑問は、数日が経っても消えることはなかった。つねに頭の中でぐるぐると回り続け、学園にい続ける自分への疑問をまき散らしていた。
 誰にも相談できなかった。一番の仲良しのユキとおシゲにさえも。いや、一番の仲良しだからこそ、そのような疑問を口にすべきではないと思った。二人が自分と同じ疑問にとりつかれて苦しむところなど、見たくなかった。だから、苛立ちを押し殺して何事もなかったように振る舞っていた。
 だが、いま、頭の後ろで腕を組みながらちんたら歩くきり丸が無性に腹立たしかった。
 -いずれ、きり丸みたいな年下で実力もないようなのが、男だってだけで私にあれこれ指示するようになるってこと? それを聞かなきゃいけなくなるってこと?
 考えただけで虫唾が走る思いがする。それがつい態度に出てしまう。
「あのさ、トモミちゃんさ」
 ついに腹に据えかねたように足を止めたきり丸が向き直る。「さっきからツンケンしてるけど、オレがなにかしたか? なんにもしてねえのにあたりちらされるの、すっげぇメーワクなんだけど」
「私がツンケンしてる?」
 腰に手を当てて向かい合ったトモミが声を上げる。「なんであんたなんかに私がツンケンしなきゃいけないのよ。自意識過剰もたいがいにしたほうがいいわね」
「そーゆーのをツンケンしてるってゆーんだろうが」
 きり丸が顔をそむける。
「とにかく!」
 お説教をするように人差し指を向けながらトモミは続ける。「いま、私たちは学園長先生からのご指示で動いてんだから! …あ、ちょうどいいわ」
 ふと道の先に眼をやったトモミが言う。
「なにがちょうどいいのさ」
 つられてきり丸も眼を向ける。
「ほら、あそこに大きな野犬がいるでしょ。あれを追っ払って」
「えぇ~? なんでそんなことするのさ」
「武家の子なら、か弱い女子を守るのが当然でしょ。ほら、さっさと行きなさいよ」
 ぐいと背を押されたきり丸がいやそうにけだるく足を運ぶ。ふだんなら野犬くらい自分で追っ払ってるくせに、と思いながら。
「やい、そこの野犬!」
 それでも自分たちの存在に気づいてうなり声を上げる野犬に向かって声を張り上げつつ、左腕で背後のトモミをかばって見せる。「トモミちゃ…じゃなかった、姉上に手出ししたらしょうちしないからな!」
 -犬にそんなこと言ってもしょうがないんじゃない…?
 思いはしたがさすがに口には出さず、トモミはいかにもおびえたようにきり丸の背にそっと身を寄せる。犬は相変わらずうなり声をあげて立ちはだかったままである。
「そこをどけ! どかないと…」
 さらに声を張り上げながら、きり丸は懐に入れた右手をそろそろと出す。息詰まる数秒が過ぎて、やがて右手が完全に懐から出た。
 ぺし、と音がした。
「いってぇ」
 気勢をそがれたきり丸が振り返る。後頭部をトモミにはたかれたのだ。「なにすんのさ」
「なにするつもりだったのか聞きたいのはこっちなんだけど」
 腰に手を当てたトモミがねめつける。
「だから苦無を…あれ」
 言いながら握った右手を見下ろしたきり丸がしまったという表情になる。その手には何もなかった。
「いやその、エア苦無っていうか…いってぇ」
 もう一発頭にお見舞いされてきり丸は大仰に頭を抱える。
「なにがエア苦無よ…てやっ!」
 手にした竹の杖で犬をあっさり追い払うと、ため息をついて懐から小刀を出す。
「だいたいね、お武家の子どもが苦無なんて持ち歩くわけないでしょ。ちょっとは考えなさいよ。こんなことだろうと思って持ってきたわ…ほら、これ貸してあげるからちゃんと私を守…」
「あげるぅ!? もらう!」
 たちまちゼニ目になったきり丸が躍り上がる。
「だからそうじゃなくて…」
 慌てて小刀に飛びつこうとするきり丸の頭を押さえる。
 -こんなのにも、いつか追い越されるってこと?
 ふいに心の底がみしりと軋んだ。


 

 

「でさあ、なんでお武家さまの子どもが密書なんてとどけなくちゃいけなくて、しかもオトリまでいるのさ」
 再び歩き出したきり丸が、やはり気になるらしくぼそっと呟く。
「私もよく分からないけど…依頼人はお城のえらい人に仕えるお武家らしいわ。オトリまでたてるってことは、きっと同盟とかなにかの大事な情報なんじゃないかしら」
「へ~え」
 いかにも気のない返事をするきり丸だった。それきりしばし会話も途絶えて歩く二人だった。

 


 

「よお、そこの坊ちゃん嬢ちゃん」
 ふいに眼の前に立ちふさがった男たちに二人は立ち止まった。すでに胡乱な気配を感じていたトモミだったが、前に出るわけにもいかず、きり丸は声を掛けられて初めて男たちに気づくありさまだった。
「な、なんだおまえたちは!」
 自分の役回りを思い出したきり丸が、トモミを背後にかばうように足を踏み出す。だが男たちは無視してぐいと手を出す。
「お前たちが密書を持っていることは分かっている。とっとと出しな」
「そんなのしるか!」
 なおも声を上げるきり丸の背後で、トモミはふと男たちの言葉に台詞めいたものを感じていた。
 -私たちが何を持っているか本当に知ってるなら、密書なんて言うかしら。分かってるならどこの城あての文とかいうはずよね…。.
 だが、自分たちを狙ってくるということは、ある程度の事情は分かっているということでもある。ひょっとして背後に別の人物がいるのでは、と考えが及ぶ。
 -もしかして、あえて捕まってみたら、背後にいるのが誰かも分かるかも…。
 とてつもないリスクを伴うアイデアだったが、敵を引き付けるのがオトリであれば、自分たちに関わらせておくことが最大の任務である。
 -だけど、あっさり捕まっても怪しまれるかもしれないし…。
 さすがにどう振る舞えば自然かまではアイデアが浮かばない。その間に、きり丸は自分の役割に目覚めたらしく、懐の小刀を握ったまま男たちをにらみ上げる。と、その表情が弾かれたように動いた。
「コゼニ☆」
 銭目になったきり丸の視野からは、男たちもトモミも消し飛んだらしい。猛然と土煙をたててあらぬ方向へと駆け出す。
「待ちなさいっ、きり丸!」
 トモミの反応は早かった。誰かが落としたらしい小銭の音を聞きつけたきり丸の行動はワンパターンである。まずは小銭をゲットしたところで速やかに役割を思い出させる必要があった。
「お、おい! 待ちやがれ!」
 出遅れた男たちが気づいたときには、二人の姿は彼方に遠ざかっていた。

 

 

 

「コゼニちゃんゲ~~~ット!」
 小銭を拾い上げたきり丸がガッツポーズで雄叫びを上げる。
「なにやってんのよきり丸…」
 ようやく追いついたトモミが息を切らせながら言いかけて、はっと顔を上げる。そこには数人の侍が立ちはだかっていた。
「ほう、若君はよくせき小銭がお好きと見える」 
 侍の一人が揶揄するように口を開く。ようやく胡乱な状況に気づいたきり丸の顔から銭目が消える。
「な、なんだお前たち!」
 慌ててトモミをかばおうとするがもう遅い。
「捕らえよ」
 冷たい声とともにあっという間に二人は縛りあげられ、袋に投げ込まれて連れ去られる。

 

 


「ってて…ここ、どこだ?」
「痛いわね! レディーにはもっとていねいに接しなさいよ!」
 袋から出された二人の身体が、土間の上に投げ出される。
「まったく手こずらせてくれたものだ」
 男の声に二人がはっとして顔を上げる。
 それはどこかの屋敷の中のようだった。後ろ手に縛られたままもぞもぞと身体を起こした二人の前に、先ほどの侍が腕を組んで床几に腰を下ろしていた。背後には数人の侍や足軽たちが控えている。
「だが、子どもは子どもらしく大人の言うことはきちんと聞くものだ。さて、言ってもらおうか。この密書をどこに届けるつもりだったのかな?」
 トモミが隠し持っていた密書にはあえて宛先が書かれていなかった。秘密に同盟交渉を始めようということをほのめかした内容だったから、読んだ者はすぐさま宛先を探ろうとするはずだった。
「知らねえよ、そんなの」
 胡坐をかいたきり丸がぷいと横を向く。
「ほう、威勢のいい若君であることだ」
 侍が顎鬚をひと撫でする。「だが、素直じゃない子どもはお尻ペンペンだ」
「そんなのただのおどしだろっ!」
 トモミが止めようとしたが、きり丸は気づかない。精一杯トモミをかばおうと顔を突き出して強がる。
「やれやれ、聞き分けのない若君もいたものだ。だが、言うことを聞かないと…」
 言いかけた侍だったが、急ぎ足で現れた若侍がなにやら耳元でささやくと表情が変わった。
「よいか。このガキどもを逃がすな」
 言い捨てると若侍に続いて足早に立ち去る。続いて背後に控えていた足軽たちが二人を柱に縛りつけると後を追っていった。
「…行っちゃったね」
 ホッとしたと同時に肩の力が抜けてへたり込むきり丸だった。「おれ、マジでお尻ペンペンされるところだったな」
「むしろ、なんで行っちゃったかのほうが問題だと思わないわけ?」
 到底理解できないだろうと思いながらも訊いてしまう。「ていうかきり丸、そもそも私たちは何の役目をしていると思ってんの?」
「へ?」
 意図をつかみかねたきり丸が間抜けな声で見返す。
「なに忘れてるのよ。私たちはオトリなのよ?」
「だからなんだってのさ」
 ふてくされたようにきり丸が言う。「つかまっちまったら意味ねーじゃん」
「ちょっとは考えなさいよ」
 声を荒げそうになるのを辛うじて抑える。「私の見たところ、あのお侍が今回の件の黒幕だと思うの。あとのチンピラはただ雇われてるだけってとこね」
「だからどーなのさ」
 考えろと言われてもさっぱり理解できないきり丸だった。
「あのお侍が私たちに関わってる間は、本物は無事ってことでしょ? つまり、私たちはあのお侍たちを引き付けとかなきゃいけないってこと! 問題は、なんできり丸のお尻をペンペンしないで行っちゃったかってことなんだけど…」
「やっぱおれ、ペンペンされるとこだったのかよ…」
 きり丸が情けない声を上げる。「おれ、そんなイタイのヤダよ~しかもタダで…」
「それで時間を稼げなかったのがつくづく残念ね」
 冷たく言い捨てる。「男の子なんだからそんくらいガマンしなさいよ」
「でもさあ…」
 きり丸が言いかけたところに、「おや、こんなところに子どもたちが…かわいそうにねえ」といつの間にか現れた下働き姿の老女が言う。だが、それは二人にもすぐに分かる人物だった。
「「山本シナ先生!」」

 

 


「山本シナ先生は、どうしてあの屋敷に潜られてたんですか?」
 山本シナの手引きで屋敷を抜け出した二人が訊く。
「あなたたちをさらったのはトフンタケ城の家臣よ。それで、あなたたちがオトリになったのはキクラゲ城の家臣のお子さんだったの。それで分かるでしょ?」
 若いバージョンになった山本シナが小さく首をかしげて笑いかける。
「ほへ?」
 全く理解できないきり丸の傍らで少し考えていたトモミが口を開く。
「…キクラゲ城は、別の城と同盟を結ぼうとしていたということですか? それで、目立たないように子どもを使いにしたけど、トフンタケに気づかれる可能性があるからオトリを立てた、と」
「合格ね」
 満足そうに山本シナが頷く。
「キクラゲ城が同盟を結ぼうとしたのは、どこのお城なんですか?」
 トモミが訊く。
「それは私にも分かりません。ただ、子どもたちを狙っているのがトフンタケ城の家臣であることは目星がついていたので、学園長先生のご指示で私が下働きのお婆さんということで潜入してました」
 障りのない範囲で説明する山本シナだった。「でも、あなたたちの判断も良かったわよ」
「え…なにがですか?」
 弾かれたような表情で顔を見合わせるトモミときり丸だった。
「オトリというものは、敵の眼を引き付けなければなりません。そのためには、あえて敵の手に落ちるというのも大事な作戦です。逃げたはいいけど、探索する敵がうっかり本物を見つけてしまうということもありますからね」
「もしかしたら、あのお侍が急にいなくなったのも…?」
 取り調べに当たっていた侍が、突然姿を消したことを思い出したきり丸が訊く、
「あなたたちがひどい目に遭わされないようにね」
 あっさり応える山本シナだった。「ドクササコ城が動き出したと噂を流したから、今頃トフンタケはドクササコを迎え撃つための準備に追われてるでしょうね。まあこれでしばらくはトフンタケの動きも封じられるでしょう」
「はあ…」
 思わず声を漏らすトモミだった。つまりはベンチマークとするにはあまりに遠い背中なのだ。

 

 

 

「あらぁ、トモミちゃん元気ぃ?」
 山本シナに頼まれて学園長の庵に書類を運んでいたトモミは、妙に陽気な声に渡り廊下で足を止めた。
「北石先生」
 庭先には旅姿の照代が立っていた。
「な~にしてるのかな~?」
 つかつかやってきた照代が渡り廊下に腰を下ろす。
「山本シナ先生に頼まれて学園長先生に書類をお届けしてるところですが」
「そっかぁ、お手伝いね。えらいえらい」
 上機嫌にさえずる照代に、理由を訊けという圧を感じたトモミがうろたえながら口を開く。
「その…北石先生は、今日は、ご機嫌が…よろしいんですね」
「そおなのよぉ!」
 待ってましたとばかり声のトーンが上がる。「実はさ、さるお屋敷に奉公女として潜入して、ピンチの忍者を助けちゃったんだけどさ…誰だと思う?」
「さあ…分かりません」
 どうだと言わんばかりに身を乗り出されて無意識に一歩退くトモミだったが、照代はかまわず続ける。
「あの利吉さんよ! 山田利吉さん!」
「利吉さんを…助けたんですか?」
 にわかには信じられない思いだった。学園中の憧れのプロ忍者が、よりによってちょっと頼りないこのくノ一に助けられたというのだろうか。
「でしょ? 信じられないでしょ? 自分でも信じられないけど、でもやったの私!」
 興奮がよみがえったのかさらに口調がヒートアップする。気がつくとトモミも渡り廊下に座り込んで話に聞き入っていた。
「もともとは、私が先に忍び込んでその屋敷の情報を集めて、後から潜入する忍者に教えるってことで引き受けたんだけど、そん時はまさか利吉さんが来るなんて夢にも思ってなかったから、屋敷の中で顔を合わせたときはホントびっくりしちゃったわよ」
「それで、どうなったんですか?」
「それが、利吉さんとペアで来た忍者がヘマやらかしちゃって、屋敷の人たちにバレちゃったのよね。しかもそいつ、利吉さん置いて自分だけ逃げやがったのよ? 信じられる? そんでもって屋敷中の人が『忍者がいるぞ!』って探し始めたから、とりあえず私の部屋にかくまって、次の日の朝に生ごみ用のでっかい桶に隠して捨てに行くフリして屋敷の外に連れ出したってわけ! なんたって屋敷の人たちも奉公女がそんな大それたことするなんて思ってないから、ぜんぜん怪しまれなかったしね! あとで利吉さんに『君のおかげで、命拾いしたよ』なんて言われちゃってさ! いやあ、こーゆーのはくノ一しかできないことよね~ってつくづく思っちゃった! やっぱ男の忍者にできないことってあるからさ、そこはくノ一の出番なのよね~。トモミちゃんも頑張って一流のくノ一になってよね! 期待してるから☆」
 一方的にしゃべるだけしゃべると、「さ、山本シナ先生にご報告しなくっちゃ」と呟きながら立ち上がってウキウキとくノ一教室に向かっていく。その背を見送っていたトモミが小さくため息をつくと立ち上がる。
 -学園長先生に書類をお届けしなくっちゃ。
 そして、照代の晴れやかな表情を思い浮かべながら考える。
 -そんなこともあるなら、くノ一も悪くないかも…。

 

 

<FIN>

 

 

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