Dream after Dream

夏目漱石の作品の中でいちばん好きなのは、「坊ちゃん」でも「我輩は猫である」でもなく、「夢十夜」だったりします。フロイト的に分析するとどうのというお話もあるようですが、ただ純粋にあの幻想的な世界の描写が好きなのです。

というわけで、「夢十夜」のストラクチャーを拝借してお話を書いてみました。前提として、善法寺家はこんなお家という設定があったりしますのでご参考に。

 

 

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第一夜


 小さな身体が物陰にうずくまっていた。背がこまかく震えている。
 -ああ、泣いているんだ。
 そう思った。すぐに解った。それは、ほかならぬ自分だったから。


 -いさくは、ふうん。
 -いさくは、ふうん。
 -ふうんは、うつるから。
 -ふうんは、うつるから。

 

 -あっち行け。

 

 暗がりの中に、小さな体が震えていた。膝を抱えてうずくまって。
 そういえば、暗がりに恐怖を感じた記憶がないことに伊作は気づく。それは、むしろ逃げこむ場だったから。
 -ほかに、行く場所もなかったからな…。
 伊作が育った広大な邸には、数多くの使用人たちもまたひしめいていたが、いつしか誰も気づかないような暗がりを見つけて身を潜めることに長けていたことを思い出す。そして、そんな暗がりでなんども問いかけたものだった。

 

 -ぼくは、ふうんなの?
 -ふうんは、うつるの?
 -ぼくは、いちゃいけないの?


 守ってくれる者は誰もいなかった。
 両親は、はるかな高みにいた。
 乳母は、事務的に接するだけだった。
 そして、兄弟や乳兄弟からは、拒まれていた。
 小さな手で抱きついていい、しがみついていい相手は、どこにもいなかった。
 つまるところ、多くの人に囲まれていて、伊作はひとりだった。そういうものだと思っていた。
 いつしか、物陰で泣くこともなくなっていた。うつろな眼で、何を言われても愛想笑いを浮かべて、そして自分を拒む言葉を投げつけられたときには、解らない振りをすることをおぼえていた。

 


第二夜

 

「忍者…と?」
 描いた眉が上がる。
「それはどういう?」
 口元を扇が隠す。
「私は、忍者になりたいのです」


 両親に相対するのは何ヶ月ぶりだろう、と思いながら、伊作は両親の前に座っていた。その手には、どこかで手に入れた、忍術学園の生徒募集のチラシ。
「だがしかし、忍者などというものを、この善法寺家から出すということは…」
 当惑したような父親の口調が何を意味しているか、10歳に届かない伊作にもとうに解っていた。
 -私など、いてもいなくても同じだと思ってらっしゃったのではないのですか?
「忍者というものは、そもそもどこかの大名の手先となって動くもの…」
 -今さら、私が家格にあわない道を目指すことに反対されるのですか?
「雑兵と変わらないシロモノなのでは…?」
 -だったら、私をどうしたいと思ってらっしゃるのですか!?


 その頃には解っていた。広大な邸のどこにも、自分の居場所などないことを。そして今後も見出せる見込みなどないことを。
 だから、抜け出したかった。自分の足で立って、歩みたかった。この邸にこれ以上とどまっていても、退嬰的な人生しか残されていないことは明らかだったから。
 たしかに、邸にとどまっていれば、この家の者にふさわしい肩書きと役割を与えられることは間違いなかった。しかしそれは、誰にも必要とされない、名目だけの立場と役割であることも明らかだった。そんな「仕方なく」あてがわれた役目を果たすだけの砂を食むような日々が続くのだ。おそらく一生。
 手っ取り早く邸を出るなら、雑兵にでもなってしまうのが早かったかもしれない。だが、学びたいという気持ちも強かった。自分で家を追ん出る立場の自分が、門閥に囲まれた学問の場に入り込むことは、ほぼ不可能に思えた。もう少し時間をかけることができれば、稚児として叡山にでも入ることができたかもしれない。だが、伊作には待つことができなかった。そもそも叡山に入るにも、家としてのサポートが不可欠だった。そんなサポートを期待できるのかさえ疑問だった。

 だから、手っ取り早く家を出て、学ぶ場に入る必要があった。とりあえず学費さえ手当てできれば入ることができる忍術学園は、その点で伊作が選びうる唯一の道だった。カネで解決できる問題であれば、両親に異存はないだろう。両親のいうところの家格については別の問題もありそうだが。
 -それはきっと、父上と母上がお考えになることだ。
 なぜなら、もっとも伊作を穏当に厄介払いしたがっているのは両親だから。


 -どうしましょう、伊作のこと。
 -本人が行きたいといっておるのだ。本人に任せてもいいのやも知れぬ…。
 両親の部屋から退出した伊作は、長い廊下をひとり歩いていた。自分が去った後の部屋でどんな会話がされているかは容易に想像がついた。
 -そもそも、伊作が検校職をつつがなく勤められるとはとうてい思えぬ。
 -さりとて、どこぞの宮寺の住持にしたとしても、へんな不運をもってされては…。
 -不運はともかく、伊作はやさしすぎるし無防備すぎる。大山崎あたりの者どもにいいようにやられかねぬし、京方とも諸国の大名方ともうまくやっていかねばならぬ。
 -しかし、田中や塙、新家のかたがたにはどうご説明するやら…。
 まるで目の前で聞いているように、耳を塞ぎたい衝動に駆られながら伊作は手にしたチラシを握りしめる。
 -とにかく、ここではない、どこかへ!

 


第三夜

 

「俺は食満留三郎。よろしくな」
 そう言って、切れ長の鋭い眼をした少年は手を差し出した。
「ぼくは、善法寺伊作。よろしくね」
 その視線に気圧されながらも、伊作も手を差し出した。その手を、相手は強く握った。その力強さに、思わず伊作は小さく悲鳴をあげた。
「あ、痛かったか? ごめんな」
 俺、加減を知らないっていわれてるもんだから、と急に顔を赤らめた少年に、伊作はふと可笑しさがこみ上げてきた。
「な、なんだよ」
「ううん。なんか、うれしくて」
 言ってしまってから、自分でもその意味をはかりかねて伊作は戸惑ったように笑みを浮かべる。そして、それがいつのまにか自分の顔に刻み込まれた愛想笑いとなっていることに、かるく嫌悪感をおぼえた。
「うれしい?」
 怪訝そうな視線が自分を見つめる。その表情に、伊作は思わず吹き出してしまった。
「なにがおかしいのさ」
 気分を害したように、留三郎の声が尖る。だが、その声さえも可笑しくて、伊作は笑い声を上げた。それは、実に久しぶりに味わった、腹から笑う感覚だった。
「だから、なにがおかしいんだよ」
「ごめんごめん。でも、うれしかったんだ」
 片手で腹を抱えて、片手で眼を拭いながら伊作はようやく口を開いた。
「なにが、そんなにうれしいのさ」
「わからない。でも、うれしいんだ」
 なおも首をかしげる相手に、もう一度、伊作は言った。
 それは、忍術学園に入学した初めての日のことだった。 


 夜、寮の自室で布団に身を横たえて天井板を見上げているとき、隣に眠る留三郎の寝息を耳にするとき、伊作はたとえようもなく安らいだ気分になるのだった。
 忍術学園のカリキュラムは、伊作には確かに厳しかった。座学と実技を詰め込まれる日々は、ついていくだけで精一杯だった。それでも感じるこの解放感はなんだろうと伊作は考える。
 それは、あの冷えびえとした広い邸でさえなければどこでもよかったのかもしれないし、今ここというところに、おぼろげながら自分の居場所を見出しかけているということなのかも知れない。

 


第四夜

 

「ケマ…って、珍しい苗字だね」
 あるとき、そんなことを言ったことがあった。
「ああ、珍しいかもな」
 遠くを眺めながら、留三郎も頷いた。
 学園の近くの丘の上で、2人はぼんやりと座っていた。
「…だが、善法寺ってのも、あんまりない苗字だろ…お寺さんなのか?」
「うん。お寺さんでもあって、お宮さんでもあるんだ…うちは、八幡さまにお仕えする家なんだ」
 淡々と説明したつもりだった。だが、祠官としての広壮ではあったが寒々とした家の記憶が、伊作の声から力を奪っていた。
「そうか。そういや、八幡太郎義家とか、かっこいいよな」
 伊作の屈託に気づいた様子もなく、留三郎は言う。だが、いまの伊作にとっては、この鈍感さがありがたかった。
「…そうだね」


 丈の高い草をなびかせながら、風が丘を駆け上ってくる。長い髷がさわさわと揺れる。
「どうして忍になろうと、思ったんだ?」
 留三郎の問いには、そのような家格の家に生まれていながらなぜ、というニュアンスが含まれている。
「…そうだね」
 その場を繕えるような手っ取り早い答えを探しあぐねて、伊作は口ごもる。
「留三郎は、どうして忍になろうと思ったの?」
 とりあえず質問で凌ぐことにした伊作だった。
「俺か? …俺は、そうだな」
 頭の後ろで腕を組んで、留三郎はごろりと背を倒した。
「…なんか、面白そうだから、かな」
「面白そう?」
「ああ。家の仕事は兄貴たちが継げばいいし、忍って、いろいろなことをやって、面白そうだなって思ったからかな」
 それに、闘い好きの俺の性格にも合ってるしな、と付け加えて留三郎は口の端を少しゆがめて笑った。
「そうなんだ…」
 遠くを見つめながら、伊作は呟く。家の仕事は…という留三郎の言葉に、家には居場所のない立場を嗅ぎ取って、伊作はこれまでになくこの同級生に親しい感情をおぼえた。
 -私と、おなじなんだ…。
「どうかしたか?」
 よっ、と身を起こしながら留三郎が訊く。
「ううん。別に」
 風に揺れる前髪を掻きあげながら伊作は答える。
「…じゃ、僕たちは、2人ともここにいてもいい人間なんだなって思ったからさ」
「ここにいてもいい?」
 髷や肩についた草を払い落としながら、留三郎は不審げに首をかしげる。
「そう。学園なら、僕たちはいてもいいんだなって」
「当たり前だろ」
「当たり前?」
「ああ。俺たちはそのために学園に入ったんだからな」
「そう…だよね」
 また一陣の風が吹き上げてきて、伊作は片掌で眼を覆った。それが風から眼を守るためなのか、留三郎の言葉が眩しすぎたからなのか判然としないままに。

 

 

第五夜

 

「それにしても、伊作は忍に向いているのか」
 文次郎が腕を組む。
「向いているとは到底言えんだろうな」
 あっさりと言い切るのは仙蔵である。
「…そもそも、忍になるには優しすぎる」


 -ああそうか。私は、忍には向かないのか。
 ひどく客観的に考える自分がいた。 
 伊作は、部屋の隅に佇んで、同学年たちの会話を聞いていた。すぐそこに立っているというのに、誰も伊作がいることに気づいていないようである。
(…伊作は、医者になるのではないのか)
「そうだよな。新野先生だって、伊作を認めておられるんだろ?」
 もそりとした長次に続けて、小平太も声を上げる。
「そうだな。そのほうが、よほど伊作には向いているかも知れん…そもそも、ヤツには人を殺めることなどできるのか」
 文次郎が頷く。
「どう思う、留三郎」
 それまで黙っていた留三郎に、仙蔵が話を向ける。
 -留三郎も、そう思っているんだろうな…私が忍に向かないって。
「俺は…」
 留三郎は口ごもる。
 -どうしたのさ、留三郎。君にも私が見えてないなら、思い切って本当のところを言ってくれないかな。
 伊作の思いが伝わったはずもないが、留三郎はためらうように口を開く。
「俺は、伊作は忍になるべきだと思う」
「?」
 いくつもの顔が、疑問符を留三郎に向ける。
「…たしかに、伊作は医者に向いているかもしれない。だが、俺には伊作がそれだけで終わるヤツとは、どうしても思えないんだ」
 -もういいよ、留三郎…。
 注意深く紡ぎだすような留三郎の言葉が、却って針のように刺さってくるようで、伊作は耳を塞ぎたくなる。
 -なんだって、留三郎はそんなに優しいんだい? 私がいないときさえも、なんだってそんなに私を気遣うんだい?
 それは、留三郎の優しさなのかもしれない。この好戦的で、ぶっきらぼうで、それでいながら奥底の優しさをときに臆面もなく披瀝する友人に、伊作はどう応えればいいのか分からずに戸惑う。それは、いままで自分の周りには絶えてなかったタイプの人間だったから。学園での6年間、もっとも近くにいながら、ついにどう接すればいいか理解できなかったタイプの人間だったから。 

 

 

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