Zeitgeist~俺たちの生きる時代~


室町末期に生きた人々の心情とはどのようなものだったのか、ずっと考えていましたが、ふと気になったのが閑吟集の「一期は夢ぞただ狂へ」でした。人生など夢幻でしかない、ただ面白おかしく遊び暮らせばいい、という強烈に刹那的な唄ですが、それはあるいは現世の秩序が崩壊し、来世に望みを託すしかない世人たちの心の声と裏表なのかも知れません。自分たちが生きているのはどういう時代なのかを語る六年生たちの台詞は、そのまま私の思考と妄想の経路でもあります。
とりわけ室町末期から戦国時代へとなだれこむ時代は、それまでの社会が崩れ去り、外から新しいものが流れ込み、確固としたものの何ひとつない現世のすべてが夢幻に見えたのではないかと想像しています。そして、その一方で新しい流れを掴み、新しい秩序を打ちたてようとする意思が数多く生まれ育ちつつある、そんな混沌としたZeitgeist~時代精神~のなかで生きる忍たまたちを描いてみました。



 ≪この小屋だ。≫
 ≪よし、包囲するぞ。≫
 それは、静かな山間に佇む小屋だった。ただ、炭焼きや猟師の住まいとは違い、数寄者の庵か山荘のような瀟洒な雰囲気を漂わせた小屋である。このような山間にはいささか不似合いな感覚を見るものにおぼえさせた。
 ≪襖は閉じているが、人の気配はあるな。≫
 ≪ということは、やはりあの中に監禁されているということで間違いないな。≫
 気配を消して小屋を包囲しているのは六年生たちである。
 ≪さて、誰が最初に突入する?≫
 焙烙火矢をいじりながら仙蔵がにやりとする。
 ≪俺が…。≫
 言いかけた留三郎に割り込む影があった。
 ≪私に行かせろ!≫
 ≪小平太! てめぇ…!≫
 ≪よかろう。≫
 歯ぎしりする留三郎をスルーして仙蔵が頷く。
 ≪なにがよかろうだ! 勝手に決めやがって! 俺がどれだけ伊作のことを…!≫ 
 ≪よしわかった。留三郎は俺と外側の防備につくからな。≫
 なおも言いつのろうとする留三郎の襟首を掴んで引きずりながら文次郎がぶすっと言う。
 ≪文次郎! てめぇ、人の言うことを聞きやがれ!≫
 抵抗する留三郎をよそに、それぞれが配置につく。苦無を構えて小屋の扉から数間離れたところに陣取った小平太が期待に眼を輝かせながら矢羽音を飛ばす。
 ≪じゃ、行くぜ!≫ 


 

「ったく、どういうことだよ」
 袋槍の穂先を肩に担いだ文次郎が眉を上げる。
「それはこっちが訊きたいよ…いてて」
 頭にできた大きなこぶを押さえながら伊作が言う。小屋に突入してきた小平太に真っ先に弾き飛ばされて、天井に頭をぶつけたのだ。
「新野先生が敵方にさらわれ、この小屋に監禁されているという情報が入ったのだ。そして、伊作は行方不明になっているとな」
 仙蔵が長い髪をはらりと払いながらそっけなく言う。
「どこの誰がそんなデマを流したんだい? 僕は新野先生のお供で一緒に行動していたし、この小屋は新野先生の医者仲間の神谷晋慧先生の研究室兼別荘で、このあたりで採れる薬草の研究に二、三日借りただけだ。それに、このことは学園長先生のご許可をいただいているんだよ?」
「あいにく、学園長先生は金楽寺にお出かけになっている。この話の出元がどこだか知らないが、我々はちょうど演習の準備中に聞いたので急きょ出動したというわけだ」
 何事もなかったように淡々と仙蔵が説明する。「ともあれ、先生がご無事でなによりだった」
「留三郎など、『伊作がついていながらどういうことだ』とずいぶん心配していたからな! なっ、留三郎!」
 ばん、と留三郎の肩を叩きながら小平太が笑う。
「ってえな! ほかの連中ならともかく、伊作は不運だからもしかしたらって思っただけだよ」
 痛そうに肩をさすりながら留三郎が口をとがらせる。
「ははは…いやいや、ご心配をおかけしましたが、善法寺君と違って、私はそれほど不運体質ではありませんからな、ご心配には及ばないのですよ」
 にこやかに答える新野に、小平太が留三郎の耳元でささやく。
「…新野先生って、けっこうシビアな言い方されるんだな…」
「…だな」
 肩をすくめながら、留三郎が応える。



「まあ、いきさつはともかく、せっかく来ていただいたのです。もう日が暮れるから、皆さんも今日はここにお泊りになるとよい。肴は干魚くらいしかありませんが、酒はたくさんあります。ここには風呂もありますから、ゆっくり湯につかるとよいでしょう」
「すげぇ、風呂があるのですか?」
 小平太が眼を輝かせて身を乗り出す。こんな山中で風呂が使えるとは誰も期待していなかった。
「ええ。神谷先生は衛生論者ですから、別荘にも風呂をしつらえたのでしょう」
「だが、このような防備のないところでのんびり風呂に入るなど…」
 袋槍の穂を手にしたまま文次郎が眉をひそめる。瀟洒な山荘のたたずまいにふさわしく、周囲には生垣や透垣しかない。防備はないに等しかった。
「なぁに、気にするな。先生が風呂に入られてる間は俺たちが周りを警戒していればいいだけのことだ」
 伊作の頭のこぶを手当てしていた留三郎が顔を向けてにやりとする。
「おい、俺が風呂に入ってるときはどうすんだよ!」
 文次郎が食ってかかる。
「学園一ギンギンに忍者してるんだろう? 敵襲があれば素っ裸でもなんとかしてこその忍者だろう」
 仙蔵がさらりと言う。
(文次郎のことは措いといて、はやく夕食と風呂の支度をするぞ)
「そうだな…先生、支度は我々がしますのでお休みになっていてください。おい伊作、お前も手伝え」
 長次の声に頷いた留三郎が立ち上がる。
「わ、わかったよ…米と味噌の場所に案内するから、夕食を手伝ってくれる人は来てくれないか」
 促されて慌てて立ち上がった伊作が、納戸を指す。
「よし! 長次と私は薪を集めてくる! 仙蔵は水を汲んでおいてくれ!」
 外へ駆けだす小平太に長次と仙蔵が続く。
「じゃ、夕食は俺たちだな」
 留三郎が伊作とともに納戸へと向かう。
「…そうだ、文次郎がどれだけギンギンに忍者してるか試そうぜ。アイツが風呂入ってる時に襲ってだな…」
「やめなよ。君たちが暴れて風呂場を壊したりしたら、取り返しがつかないんだから」
「ははは…お前も文次郎より風呂場の心配をするとはな」
 納戸に向かった留三郎と伊作の声が届く室内に、新野と文次郎が残された。
「…あの、俺、いや私も何かしないと…ですね」
 袋槍の穂を懐にしまいながら、文次郎が取り繕うように笑う。
「そうですな。では、この部屋の掃除を手伝っていただきましょうか」
 泰然とした台詞にふと周りを見渡して、文次郎はしまったという表情になる。5人が土足で踏み込んだために、室内は泥だらけで、引っくり返った文机の周りに書物や採集した薬草が散乱していた。
「は、はい! 失礼しました! いますぐギンギンにキレイにしますっ!」



「山の中でこんないい思いをするとはな」
「まったくだ」
 風呂をつかったあと、新野たちは車座になって夕食を囲んでいた。
「それにしても、さすが六年生ですな。夕食や風呂の支度から掃除まであっというまにこなすとは」
 杯を手にした新野が表情をほころばせる。
「当然のことです」
 すまし顔で仙蔵が言う。
「掃除をやったのは俺一人だったけどな!」
 飯をかきこんでいた文次郎が声を荒げる。
「ああ、ご苦労さん」
 汁の椀を一気に飲み干した小平太が気のない返事をする。
「小平太! お前な…!」
 歯ぎしりした文次郎が食ってかかろうとしたとき、
「それにしても、先生はどうしてこんな山の中で研究をされていたのですか」
 新野の手にした杯に酒を注ぎながら仙蔵が訊く。
「そうだ。私も気になっていたのですが」
 干魚をかじっていた留三郎が顔を上げた。全員が疑問に思っていたことだった。校医という立場もあり、新野は医者仲間と情報交換のため出張したり、近くの村で患者が出れば往診に出向くことはあったが、学園から離れたこのような山の中にある医者仲間の別荘で何をしていたというのだろうか。
「…そうですな」
 杯の中の液体にしばし眼を落としていた新野は、おもむろに杯を干すとゆるりと自分を囲む生徒たちを見渡した。
「…少しばかり秘すべき研究のため、といったところですかな」
「秘すべき!?」
 さらりと放たれた新野の言葉に、仙蔵たちの眼が光る。
「そうです。ここである城の典医と会っていました。あまり表に出すべきでない情報を交換するためにね」
「先生」
 食べ終えた食器を片づけながら伊作が声をかける。伏せておくべきことなら思わせぶりに話しすぎだし、話してしまっても構わないと思った。秘密は必ず守る仲間だったから。
「これは失礼。実は、人体の解剖図について話していたのです」
 伊作の意を受けて、新野があっさりと話す。
「解剖図?」
 その意味を図りかねて文次郎が首をかしげる。
「そうです。私たちの身体は五臓六腑からできている、とされている。それは唐から伝わった医学理論によるものです。だが、実は違うのではないかということが南蛮からの知見により言われるようになった」
「といいますと?」
「人体が本当に五臓六腑からなっているか、実際に確認した者は少なくとも私の知る限り誰もいません。それは、私も含めて人体を実際に腑分けした者がいないからです」
「腑分け?」
「実際に、人体がどうなっているかを見てみることだよ。皮膚を割いてね」
 土間で皿を洗っていた伊作が無機質な声で説明する。
「先生は、実際にその腑分けをされたということですか」
 仙蔵の声はいささかこわばっている。
「いえ。ただ、南蛮の医術書によれば、我々の知る五臓六腑とはずいぶん違うらしい。そのことを、ここで確認したのです。私たちが会った医者は、秘密に処刑者の腑分けをしたというので」
「それでどうだったんですか」
 干魚をもぐもぐしながら小平太が訊く。小平太にとっては、新野たちが語る腑分けの話と自分の身体の構造については結びついていないようである。
「残念ながら、私たちが今まで学んでいた五臓六腑説は、どうやら根本的に見直さなければならないようです。私も、これまでの医学理論を学びなおさなければならないようですな」
「そんなものなのですか…」
 当惑したように留三郎が呟く。
「世の中は激しく変わっています。昨日まで正しいと思っていたことが今日には覆されている、そのような世に私たちは生きています。君たち若い人にとっては、可能性とリスクに満ちた将来と言ったところなんでしょうな。さて」
 新野は言葉を切ると、杯を干した。
「私はそろそろ休むとしましょう。あとは君たちで好きに過すといい。まだ酒もありますからな…では失礼しますよ」
「おやすみなさい」
「失礼します、新野先生」



「あとはお好きに、と言われてもな…どうする?」
 部屋に残された六年生たちは顔を見合わせる。やがて視線が伊作に集まる。
「先生はお休みになる前にお独りで本を読んだり手紙を書かれたりすることが多い…ここで喋っていてはきっとお邪魔になる」
「それなら、縁側に出るとしようか。この建物から完全に離れてしまうのも新野先生を危険にさらしてしまう」
 留三郎が頷くと、みな杯や酒の入った瓢箪を手にして立ちあがった。



「先生はああおっしゃったが、将来なんてもんはどうなんだ、伊作」
 どっかと縁側に腰を下ろした小平太が、曖昧なことを訊く。
「僕にもよくは分からない」
 仙蔵や留三郎の杯を満たしてやりながら伊作は答える。「でも、きっと先生には僕たちが見えないものが見えているんだと思う」
「そうだとしても、不確かな将来ではあろうな」
 柱に寄りかかった仙蔵が杯を傾ける。
(不確か…か。)
 俯いた長次は杯の中をじっと覗き込んでいる。
「はかなく空しい世だ…だから、世人は彼岸に望みを寄せるのだろう」
 仙蔵の視線は夜空をさまよっているようにうつろである。
「神だの仏だのというもんなんぞハナから信じてないくせによく言うぜ」
 ぐびりと杯を空けた文次郎が突っ込む。 
「確かに、私はそんな非科学的な存在など信じていない」
 仙蔵はぽつりと答える。「だが、現世が夢幻みたいなものだということまで否定しようとは思わない」
「夢幻だと?」
 文次郎が眼をむく。「俺たちはここにいる。こうやって息もしてるし、食って飲んで話もしている。明日になったら消えちまう幻みたいなもんであってたまるか」
「幽霊か何かと同じように解釈しているようだが…まあいい。一から説明するのも面倒だ」
 ちらりと文次郎を見やった仙蔵が、ものうげに干した杯を傍らに置く。
「んだと?」
 文次郎が眼をむく。
「まあとにかくさ」
 とりなすように伊作が割って入る。「将来どんな忍になるかってことのほうが大事なんじゃない? 僕たちは忍たまなんだし」



「どのような忍になる以前に、忍として就職できるのかどうかからはじまるからな…」
 留三郎が肩をすくめてぼやく。
「就職できたとしても、その城なり忍者隊がいつまでももつ保証もない…こんな壊れてしまった世の中では、組織や秩序の賞味期限など、一夜の夢のようなものだ」
 仙蔵が視線を向ける先は茫洋としてわからない。
「俺はそうは思わねえな」
 文次郎がぶっきらぼうに言う。「壊れちまったのなら、新しいものを作るまでだ」
「作る?」
 仙蔵が不審げに眼を細める。
「ああ。だからこそ大名たちは新しい国をつくるために戦に明け暮れてるんだろう」
「それは単に自分の国を広げるだけではないのか」
「いや、違う」
 仙蔵が指摘するが、文次郎は強い口調で首を振る。
「たしかにドクタケあたりは仙蔵の言う通りかもしれない。だが、天下を取って新しい秩序を作ろうとするために戦っている連中だっているはずだ」
「僕もそう思うよ」
 意外な声に皆が振り返る。声を上げたのはほかでもない伊作だったから。
「今の世の中は、新しいものがどんどん流れ込んでいる。さっき先生が仰っていただろう? 昨日まで正しいと思っていたことが、今日は間違いだったと分かるような時代なんだ。火縄だって、僕たちのひとつ前の世までは存在していなかったのに、今では弓矢に並ぶ武器になっている。そんな新しいものを味方にした新しい世の中ができていく途中なんじゃないかなって思うんだけど」
「それって、どんな世の中なんだ、伊作」
 留三郎が訊く。
「それは僕にも分からない。どんなものかも、いつできるのかも。でも、仙蔵の言う壊れてしまった世の中は、壊れる前はやっぱり誰かが作ったんだろうから、新しい世の中もそのうちできるんじゃないかな」
「俺はそいつに一番乗りしてやる」
 文次郎が言い切る。「いや、それだけじゃない。そいつがどういうものか、この眼でとっくりと見てやる」
「それまでに死ななければな」
 仙蔵がからかう。「お前のようにすぐ頭に血が上るような奴は、新しい世の中より先に敵の陣に突進してまっさきに散りかねないからな」
「んだと! 俺がそんな末端の足軽みたいな死に方をするとでもいうのかよ!」
 文次郎が声を荒げる。
「ふ~ん、文次郎は足軽でもいいのか」
 小平太が話を聞いていたのかいなかったのか分からないような言い方をする。
「んなこと誰が言った! 俺はな…!」
(落ち着け、文次郎)
 いきり立った文次郎が立ちあがりかけたが、長次がもそりと注意する。文次郎がしぶしぶ座りなおす。
「それなら長次はどうするつもりなんだよ!」
(私が望むことは、生きる場所を見つける。それだけだ。)
 長次の放つ妙に深遠な一言に、皆が顔を見合わせる。
「その当ては、あるのか?」
(分からない。なければないで、この身に着けた技で生き延びるだけだ。) 
 仙蔵の問いに表情を動かさずに答える長次だった。
「なんだか長次は達観してるよな」
 頭の後ろで腕を組みながら小平太が言う。
「そういう小平太はどうなんだ」
「私か? 私なら、イケイケドンドンで暴れまくれるところならどこでもいいぞ!」
「そう何でもイケイケドンドンで片づけるの、いつまでやれると思ってんだ?」
 少し酔ったらしい。文次郎がうんざりしたような声を上げる。
「ん? いつまでだってやるつもりだが?」
 きょとんとした表情になる小平太に、もはや誰も突っ込めない。
「だけど、どっかの城か忍者隊に入るつもりはあるんでしょ?」
 気を取り直した伊作が訊く。
「そうだな…」
 いつもなら内容はともかく即答するところだったが、珍しく考え込む。小平太なりに考えるところはある問いらしい。
「ま、できればあんま細かいことを言わない城に就職したいな。んでもっていずれは独立するつもりだ」
「独立?」
「ああ。やっぱ私は城勤めを長く続けられるようには思えんからな。自分の好きなように仕事できるフリーのほうが性に合ってると思うんだ」
「ほう」
「ふ~ん」
 皆が感心したように声を漏らす。思えば、何も考えてないように見えて実は知識もあるしそれなりに考えもあるのが小平太だった。
「で、伊作はどうなんだよ」
「えっ!? 僕?」
 杯を傾けたところに唐突に小平太に話を振られて、咳き込んだ伊作だった。
「おい、大丈夫か」
 留三郎に背をさする。
「あ、ああ…ありがとう」
 苦笑しながら伊作は杯を置くと、考え込むように言う。
「…でも、僕の場合はまず不運をなんとかしないとってところから始まるから」
「んなことねえだろ」
 間髪入れず留三郎がぼそっと突っ込む。「少なくとも俺は、お前が治療している時に不運だったところなんか見たことないぜ」
「そういやそうだな。演習中はしょっちゅう穴に落ちたり落石に巻き込まれたりしてるけどな」
 長次が満たした杯をぐっと干した小平太が言う。
「まあそうかもしれないけど…」
 頭を掻いた伊作が視線をさ迷わせる。「でも、本当に分からないんだ。もちろん忍になるつもりだけど、自分でなりたいと思うことと、雇ってくれる方がどう思うかは別だろう?」
「まあそうだが…」
「んなわけねえだろ」
 曖昧に頷きかけた留三郎を文次郎が遮る。
「どういうことだよ」
「考えてもみろ」
 杯を手にしたままぎろりと文次郎の眼が伊作を睨み据える。「この世の中じゃ、動いたもん勝ち、声のデカいもん勝ちだ。医者か忍者かおろおろ迷ってるたら、置いてけぼり食って誰かの餌食になるのが落ちだ。六年にもなって自分で決めて自分で動けないようなヤツは、何にもなれずにくすぶって終わるだけだろ」
「なに言ってやがる文次郎!」
 たまらず留三郎が食ってかかる。「お前、言っていいことと悪いことが…!」
「いいんだ留三郎」
 寂しげに微笑みながら伊作が声をかける。「文次郎の言うとおりだ。僕は、みんながとっくに決めていることをまだ決められていない。本当は迷っていることなんか、許されないのにね…」

 

 
「で、実際のところはどうなんだよ」
 皆が部屋に入ったあともなお縁側の柱に寄りかかって杯を傾けていた仙蔵が振り返る。
「なんだ。まだ起きていたのか」
 むすりとした顔で現れたのは文次郎である。
「夜は忍者のゴールデンタイムだ。グウスカ寝てる連中の気が知れねえ」
 ぶつくさ言いながら仙蔵の傍らにどっかと胡坐をかいて言う。「俺にも飲ませろ」
「ゴールデンタイムに酒など飲んでは仕事になるまい」
 言いながら酒を満たした杯を手渡す。
「うっせ」
 ぐっと杯を空けた文次郎がぶすっと言う。「で、どうなんだよ」
「まだ続いていたのか」
「始めたばっかだろ」
「まあいい」
 さらりと言うと仙蔵は自らの杯を満たして軽く口をつける。「さっき、新しいものを作ると言ったな」
「ああ」
 空いた杯に眼を落としていた文次郎がちらと眼を上げる。仙蔵は遠くの山並みのシルエットの上に広がる夜空に眼をやったままである。
「ならば私は壊そうと思う」
「は!?」
 思わず文次郎が声を上げる。「お前、人が作ったもの壊す気かよ!」
「大きな声を出すな」
 夜風が吹いて頬にかかった髪をさらりとかき上げる。「新野先生にご迷惑だろう」
「だがな…お前、趣味が悪いにも程があるぜ」
 慌てて声をひそめながらも文次郎が抗議する。「人が作ったものを壊すなどと…」
「誰が、お前が作ったものを壊すと言った」
 素知らぬ風で仙蔵は言う。「私は、この壊れかけた世を完璧に壊してやると言っているのだ」
「だが…」
「ではひとつ訊こう」
 杯を干した仙蔵が、ものうげに文次郎に眼をやる。「お前がどこかの領主だったとしよう。領内に新しい産業を起こそうとしたときに、商業が盛んで人が集まっている村を利用するか、新しい村を一から立ち上げるか、お前ならどうする」
「そんなの、いまある村を使うに決まってんだろう」
「それでは失敗するだろうな」
 あっさり言い捨てると瓢箪を手にして二つの杯を満たす。「古くからある村は昔からのしがらみや権利関係が入り組んでいるものだ。何か新しいことをやろうとすれば必ずハレーションが起きる。下手をすれば一揆になりかねない。そのくらいなら新しい村を立ち上げて、そちらに人も物もカネも集まるようにすればいい。時間も資源もかかるが、目的を達するには結局はそれが一番の早道だ」
「だから古いものは邪魔だということか」
「そう思わないか?」
「…まあな」
 平たい口調で語られる冷徹な思考にいささか気圧されながら、文次郎はぐっと杯を傾ける。
「…こういう世に生きているのは僥倖だと私も思う。或いは新たな世の生まれるところに立ち会えるのかも知れないからな。だが、新しいものを作るには、古いものは徹底的に取り除かなければならないと思わないか? 古いものが残っていればいるほど、その残滓が新しいものを蝕む。そのようなことがあってよいものと思うか?」
「どういう…意味だよ」
 語るほどに仙蔵の口調に昏い情念が帯びるのを感じた文次郎がたじろぐ。
「分からんのか? 相変わらずカンの悪い」
 さらりと悪態を吐きながら仙蔵は手酌で杯を満たすと、口元に運ぶ。
「うっせ」
 文次郎も手酌で杯を満たすとぐっと干す。
「『一期(いちご)は夢ぞ、ただ狂へ』だ。人生も世も夢幻ならば何にためらうことがある。だから私はこの世の秩序も規範も徹底的に壊してやると言っている。そしてきれいさっぱりなくなったところでお前に引き渡してやろう。新しいものを思う存分作れるようにな」
 言葉を切った仙蔵がちらと流し目を送る。「どうだ。いい話だろう」
「とんだ物狂いだな」
 文次郎は低く呟く。「優等生のお前がそんなことを考えていたとはな」
「成績など、所詮学園の中でしか通用しないモノサシだ」
 乾いた口調で吐き捨てると、仙蔵はふたたび夜空に顔を向ける。「そんなものに何の意味がある」
「だったらなぜ成績を稼ぐ」
「そんなものでも有難がる者がいれば食い扶持になる」
「だが壊すんだろう」
「当然だ。その方がせいせいする」
「どこまで戯言を言うつもりだ」
「誰のせいだと思っている」
「こんな時代のせいとでも言うつもりか」
「なるほどな…時代のせいか。それもいいかも知れんな」
 夜空を見上げたまま仙蔵は杯を傾ける。長い髷をさらりと夜風が揺らす。
「なあ仙蔵」
 つられるように夜空を見上げながら文次郎がぼそりと呟く。
「なんだ」
「俺たちは今確かにここにいる。だが、後の世の連中にそんなことは分からない。それが、お前の言う夢幻っていうやつなのか…?」
「違うな」
 ためらうような問いを瞬時に否定する。「お前には分からんだろうが、なにも後の世の者たちの眼を借りずとも現世(うつしよ)に起きることはすべて夢幻だ。新野先生が仰っていただろう。古い知識は新しい知識に取って代わられ、かつての秩序はとっくに覆されている。昨日の自分さえ今日の自分から見れば赤の他人だ。そんな世が夢幻でなくてなんだという。もちろん…」
 傍らの瓢箪に視線を移して手に取ると、二つの杯を満たす。「私たちが今ここにいることもな」



「…お前ってやつはな、仙蔵」
 ぽつりと文次郎が沈黙を破る。「そんな虚無的な考えで何が面白いんだよ」
「おおいに面白いと思っているぞ」
 杯を傾けた仙蔵が静かに返す。「夢幻だからこそ、破壊することになんの躊躇もいらないのだ」
「六年間思ってきたけどよ」
 呆れたように文次郎は言う。「お前ってホントに悪趣味なヤツだな」
「六年間そうだったのなら…」
 まったく堪えていない口調で仙蔵がふたたび杯を傾ける。「これから変わる見込みはまずないということだろうな」
「ああそうだろうな」
 なげやりに返した口調がふいに変わる。「まあ、それでこその仙蔵だ」
「ほう、いきなり殊勝なことだ」
 仙蔵の声がいささか警戒するように低くなる。
「ああ、夢幻なお前の話にのってやってもいいかと思ってな」
「ほう?」
「言ってただろ? お前がきれいに壊しつくした世を俺に引き継ぐってな」
「そうだな」
「お前がそのつもりなら、俺はその上にまるっきり新しい世を作ってやろうと思う。お前が想像もできないようなすげえやつをな」
「それは楽しみなことだな」
 ふたたび夜空を向いた仙蔵の横顔を月が照らす。「それまで死なないように頑張ることだな」
「うっせ」
 二つの杯を満たした文次郎がにやりとする。「その言葉、そのままお前に返してやるぜ」
「まあ、互いに好きに狂うということだな」
 顔を向けた仙蔵が杯を小さく持ち上げる。「こういう時代に生まれたのだ。夢幻を愉しむのも悪くはない」



<FIN>




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