暁闇

国語の授業で梁塵秘抄について習ったとき、茶屋が付属して覚えたタームは「後白河法皇」と「あそびをせんとやうまれけむ…」の二つだけでした。テストをしのぐにはこの程度で十分だった気がするのですが、今になって読んで見ると、数多くの法文歌の中に、なかなか沁みるものを見つけて、ちょっと山田先生に仮託して書いてみました。

今はまだ、読んでいいなと思う程度ですが、もう少し歳を重ねた頃に読み直したとき、きっと仏の救いを歌に託した人々の切なる思いが、きっともっと心に響くようになっているのだろうな、まだ今の自分はそこまで達していないんだな…と感じました。

 

1 ≫ 

 

 

 

 ふと目覚めた。
 -まだ、夜明けまでは遠い…。
 身じろぎもせず、うっすらと開いた眼で天井を見る。そのまま、静かに耳を澄ます。暁にはまだ遠く、夜明けと共に鳴き始める鳥たちの声もしない。耳に入ってくるのは、風に揺れる梢の音と、隣に眠る半助の健やかな寝息だけである。

 このような時間に目覚めることは、忍としては珍しいことではない。敵襲にもっとも用心しなければならないのが、夜明け前のこのような時間である。だから、敵襲が予想されるようなときは、すでに起きて備えているべき時間であり、そうでなくても、直ちに気配を察して起きられるよう、長年の習慣で身体に叩き込まれていた。現に、伝蔵も半助も、いつ何があってもいいように、布団の下に刀を忍ばせておくことを忘れたことはなかった。

 だが、伝蔵が目覚めたのは、何らかの気配を察知したからではなかった。ただ、不意に、目覚めてしまったのだ。
 -あか月静かに寝覚めして、思へば涙ぞ抑(おさ)へ敢(あ)へぬ…
 ふと、心に浮かんだ歌だった。
 -これは、梁塵秘抄の法文歌だったな…続きは…。
 眼を閉じて、続きをつむぎだそうとする。
 -そうだ…儚く此の世を過しては、何時かは浄土へ参るべき、だった…。
 むなしくこの世を過していて、いったい何時になったら浄土へ往生することができようか…そもそも、私は、浄土へ迎えられる資格など、あるのだろうか…。
 -十悪五逆の人なれど、一度(ひとたび)御名(みな)を称(とな)ふれば、来迎(らいごう)引接(いんじょう)疑はず…という歌もあったな…。
 だが、自分は戦忍として、十悪五逆ではすまないほどの謀略や工作に手を染めてきたのではないか。その結果、あるいは血が流され、あるいは村々も田畑もことごとく荒廃したのだ。それなのに、自分は今もなおのうのうと生き延びて、往生さえ望んでいる。 
 -つまり、これは老いなのだ。
 老境へと、一歩足を踏み入れたことによる心弱さが、このような埒のないことを考えさせるのだろう、と伝蔵は考えを整理する。
 思えば、忍として何かの気配に目覚めるときというのは、つねに緊張感と隣りあわせだった。気がつくと、掌にじっとりと汗をかいていたことも珍しくない。しかし、このように、ふっと途切れた意識がつながるような目覚めは、ついぞ経験したことのないものだった。
 -もう少し、眠るとしよう。夜明けまで、まだあるから…。
 これ以上起きていては、半助に気配を気取られてしまう、と思った。

 

 

 ピッと短く笛を鳴らすと、生徒たちは一斉に身を伏せる。もう一度笛を鳴らすと、今度は素早く身を起こして、一斉に駆け出した。
「よし。そこまで」
 声をかけると、生徒たちが伝蔵の周りに集まってきた。
「では、時間まで校庭をランニングだ。体育委員、先導しなさい」
「はいっ」
 笛を鳴らす。金吾を先頭に、隊列を組んだ生徒たちが走り始める。遠くに眼をやると、二年生たちが鉤縄を使って壁を登る訓練をしているのが眼に入った。
 -みな、伸び盛りの子どもたちだ…。
 率先して掛け声を上げる金吾も、隊列に遅れ気味になりながらも必死でついていくしんべヱも、みな、それぞれ今このときを懸命に走っている。明日には、もっときっと大きく、強くなることを信じて。
 思えば、人生の下りの階に足をかけてしまったことを自覚した日から、この生徒たちのひたむきさがどうしようもなく愛しく感じられるのだった。
「ほら、ヘムヘムが櫓に登り始めたぞ。もう少しだから、あと一周、がんばって走るんだ」
「「はい!」」
 だいぶダレてきた生徒たちの背がしゃんとする。

 


 -下りの階に足をかけてから10年…。
 休み時間のグラウンドに生徒たちの声がこだまする。忘れ物を取りに教室にやってきた伝蔵は、グラウンドから響く賑やかな声に、窓を開ける。
 -早いものだ…。
 グラウンドにいるのは、一年は組の生徒たちである。いま、サッカーボールをキープしているのは団蔵である。ディフェンスの兵太夫と虎若が駆け寄る。と、団蔵のパスを受けた三治郎が、ディフェンスラインを突破する。ひときわ大きい歓声があがって三治郎がシュートしたが、ボールはゴールをわずかに外して飛んでいく。がっかりしたような声やかけ声が上がる。 
 -思えば、学園に単身赴任したのは、利吉がは組の忍たまたちより小さい頃だった。
 自分が戦忍から足を洗って忍術学園の教師になったのは、歳よりしっかりしているとはいえ、まだ8歳だった利吉のためにも、身を安全圏に置くためだった。少なくとも、戦で命を落とすリスクは大幅に減少すると考えたからだった。
 -だが、それだけだろうか。
 城勤めや草と違い、戦忍は、体力、知力の総動員が常に求められる仕事である。相手が敵か見方か、その口から漏れる情報が真か偽かをつねに見極めながら情報収集し、あるいは敵陣奥深くに潜入して破壊工作や暗殺に手を下し、不断の極限状態の中で行動するのが戦忍だった。いくつもの修羅場を潜り抜けて戦忍としての実力には自信があったし、それなりのポジションを占めてもいたが、一方で限界も見えていたのが、当時の自分だった。
 -つまり、身を引いたのだ。戦忍の世界から。
 それは、忍としての絶頂期に、自ら幕を引いたということだった。そして、それこそが、いままで登りづめだった人生の階段の、下りの階に足をかけた瞬間だった。
 -ずいぶん大きな段差だったことだ。
 忍としての仕事もあるにはあったが、忍術学園での教師生活は、戦忍とは比べものにならないほど穏やかな生活だった。それと共に、忍としての感性が日々摩滅していくような危機感もあったが、それすら日々の間に薄れていった。
 それでも、利吉が修行中だった間は、休みのたびに帰宅して、忍としての訓練を徹底的に施すことで、自分が戦忍として持つものを伝えていくという張りがあった。それも、利吉が一人前の忍として独立するまでのことだった。学園で責任ある立場になるにつれて、学園での仕事が増えてきたことにかまけて、いつの間にか氷の山への足も遠のいていた。利吉が学園に立ち寄るたびに口うるさく帰宅しろと言っても、妻が出張セットの中に過激なプレゼントを仕込んで送りつけてきても、それは変わらなかった。

 


 自慢の一人息子である利吉は、いまは売れっ子のフリー忍者として仕事の口が引きもきらないようである。
 -だが、分かっているのか。忍とは、決して光を浴びてはいけないものなのだ。
 賢い利吉には分かっているだろう。だからこそ、忙しいと言いこそすれ、自慢がましいことは口にしない。任務のことはたとえ親子といえども言わないのがルールとはいえ、大きな城が顧客がついたということが風の噂に聞こえてくることもある。だが、ときどき伝蔵は不安になる。
 -利吉よ。お前は、仕事に自分を追い込んで、あえてその先にあるものから眼をそらしているのではないのか。
 今は若さと名声に輝いていても、その命は鴻毛の如く軽く、場合によっては誰にも看取られることなく死んでいく、それが忍である。
 しかし、そのような道に利吉を導いたのは、自分である。
 自分は、たまたま生き延びたに過ぎない。戦忍だった頃潜り抜けたいくつもの危機を思えば、いまこうして命を永らえているのは、奇跡に近いと伝蔵は考える。
 -だが、利吉は、そう考えているだろうか。
 利吉にしても、忍という修羅の世界で生きている男である。死を意識するような経験も、まったくなかったということはないだろう。それでも伝蔵には、利吉が、いま生きながらえている幸運に狎れているのではないかと危惧する気持ちがある。
 -そんなことを改めて説けば、いやな顔をされるのが落ちなのだろうが…。
 それでも、一度は言っておかなければならないことなのかもしれなかった。
 -私はなにを考えているんだ。
 軽く頭を振る。どうも今日はおかしい。自分の越し方を振り返ってみたり、息子に余計な懸念を抱いたり、いったいどうしたというのだ…。
 空っぽの教室に佇んで外を眺める伝蔵に、廊下を通りかかる生徒たちが訝しげな視線を送る。グラウンドを眺めるその表情は、放心状態に近い。
 どのくらい教室に佇んでいたのだろうか。ふと我に返った伝蔵は、次の出張までに用意しなければならない資料があることを思い出す。
 -こんなことをしている場合ではない。資料を作らなければ。
 足早に教室をあとにして、教師長屋の自室に向かう。
 

 

 教師長屋に向かう渡り廊下に、伝蔵は佇んでいた。用事を思い出して教師長屋に向かっていたはずなのに、気がつくと足が止まっていた。なぜこんなところで立ち止まっているのだろうか、という思いが軽くよぎる。それは、あるいは、相変わらずグラウンドから響いているは組の生徒たちの声に耳を引かれたからかもしれない。
 教師生活10年のあいだには、さまざまな学年の、さまざまな生徒たちとの出会いがあった。自分が担当した生徒たちの誰一人として印象に残っていない者はいない。だが、いま担当している一年は組の生徒たちほど印象に残る子どもたちはいなかった。個性の強さといい、成績の悪さといい、チームワークの強さといい、年齢に似合わぬ実戦慣れといい。
 -だが、その感覚はホンモノなのか?
 たしかに、一年は組の生徒たちと日々接するなかでは、頭を抱えるような思いも、新鮮な驚きを感じることも多かった。だが、それは、もしかしたら学園の教師となって初めて受け持った生徒たちにも感じたものかもしれなかった。日々の記憶は新しく、過去の記憶は徐々に摩滅していくからこそ、印象が強く感じるだけなのかもしれない。忍として、常に自分を客観的に捉える訓練を重ねてきた伝蔵には、自分の感覚に対する懐疑がある。
 -あるいは、歳を重ねて、心が硬くなりつつあるのかもしれない。
 心が硬くなるほどに、新しいもの、異質なものへの許容度は狭まる。印象が強いということも、自分の心の許容度が狭まったがゆえに感じる異質さなのかもしれない。

 -つまり、それだけ歳を取ってしまったということか。
 それは事実だった。特に現役の戦忍を退いて学園の教師となってからは、時間はますます早く過ぎ行くように感じ、その後半は倍速で進んだようにさえ感じられる10年だった。ふいに、いつか聞いた台詞が頭をよぎった。
「山田先生、人生はふたつの曲線みたいなものですよ」
 あれは何のときだっただろうか…そうだ。きり丸の学費の件で、事務のおばちゃんに相談に行ったときのことだった。用件が済んで、おばちゃんが淹れてくれたお茶を飲みながら話をしていたときに、そんな話題になったのだった。
 そのとき事務のおばちゃんが画いたのは、放物線と、円の右下部分を切り取ったような急曲線だった。
「なんですかな、これは」
 二つの曲線をまじまじと見ながら問うた自分に、事務のおばちゃんは淡々と説明したのだった。
「この急曲線は、時間感覚。放物線は…そうね、いうなれば人生感覚といったとこでしょうかね」
「人生感覚?」
「そう。誰でも感じるけど、認めたがらない感覚ね。よく言うでしょう? 人生の頂点を迎えたあとは、ただ下るだけだって」
「ほう」
「で、学園にいるのはこの部分の人だけ」
 そう言うと、おばちゃんは放物線の頂点と底辺の中間あたりに丸を画いた。丸の中には、上りの線と下りの線が囲われている。それぞれの線を指しながら説明する。
「忍たまたちはこっち、私たち教職員はこっちね」
「…なるほど」

 ようやく伝蔵にも合点がいった。伝蔵的に解釈すれば、この放物線は、忍としての実力を示すものなのだろう。いかにも生徒たちは急成長を遂げている最中にふさわしい力強い上り線なのだろうし、忍としての一線を退いた教職員たちは、下り線がふさわしい。
「して、この急曲線は?」
「横軸が年齢、縦軸が時間感覚といえば分かりますか」
「ああ、なるほど」
 伝蔵は腕を組んで頷く。
「たしかに、年をとると、時間の経過が早く感じますからな」
「そういうことです」
 にっこりして軽く頷くと、おばちゃんは湯飲みを手にとって茶をすすった。
「そういえば」
 ふと放物線に眼を戻しながら、伝蔵は思いついた疑問を口にした。
「学園長先生は、この放物線の、どこら当たりになるのでしょうかな」
「ああ、学園長先生は特別」
 おばちゃんは軽く肩をすくめる。
「あの方は、おそらくお隠れになるまでトップギアのままでしょうよ。私たちが同じようにしようとしたって、とうてい及ぶ相手ではありません」
「たしかに、そうですな」
 どちらからともなく、軽い笑い声を上げる。乾いた笑い声だった。

 


 -ということは、これから先の10年は、さらに急な下降線上の10年ということか。 
 おそらくそうなのだろう。上昇のカーブが、忍の実力を加えるにつれて緩くなっていったように、下降のカーブもはじめは徐々に、やがて急勾配を画いていくのだろう。そして、次の10年こそ、急勾配上をひたすら滑り落ちていく10年なのだろう。
 そもそも、学園での教師生活も10年となり、知命(50歳)まで間もない年齢に達してしまったいま、そのことははっきりと自覚していた。まだまだ若い者、特に息子の利吉に負けるとは思っていなかったが、それでもこれから先、衰えは自覚せずにいられなかった。
 それに対して、生徒たちの勢いはどうだろう。十代前半の少年たちは、眩暈をおぼえるほどの勢いで日々、成長を続けていた。自身の下降線と生徒たちの上昇線がどこで交わるのかはわからない。だが、それもそう遠い将来でないことは確かだった。いずれ利吉の上昇線と交わったあとには、かつて自分が教えた多くの生徒たち、そしていずれは、いま担当している一年は組の生徒たちとも。
 -そしてその頃の私の下降線は、いまより急になっているのだろう。
 そろそろ、氷ノ山に帰り、妻との時間を大切にしていく頃合いなのかもしれない。かつては戦忍として各地の戦場に潜行し、忍術学園に職を得てから10年、利吉が一人前になるにつれて、単身赴任にかまけてろくに顔を見せる機会もなかった。息子の利吉に言われなくても、妻がどんなに寂しがっているかは分かっているつもりだった。だが、帰らなかったのもまた、自分である。
 もし妻が許してくれるなら、かくも長い不在を償うべく2人の時間を重ねていくべきなのだろう。そのためには何をすべきか。それもまた、明らか過ぎるほど明らかだった。

 


「山田先生、どうされましたかな」
 唐突にかけられた声に、伝蔵は一瞬びくっとする。目の前には、学園長の大川が立っていた。
「え…い、いやぁ、少し考えごとをしていたものですから…」
 頭をかきながら苦笑いする伝蔵に、大川は訝しげに首をひねる。
「渡り廊下の真ん中でですか? 山田先生らしくもありませんな」
「いやぁ、面目ないことです」
 苦笑いを浮かべたまま通り過ぎようとした伝蔵だったが、大川の声に足が止まる。
「一年は組で、また何かありましたか」
「い、いえ、そんなことは」
 振り返りながら、慌てて掌を振る。
 -いや、むしろ、は組のことで考え込んでいたと誤解しておいていただいた方が、よいかも知れぬ…。
 まさか、いい歳をして、改めて自身の行く末を考え込んでいたとは言えるわけがない。それも、渡り廊下の真ん中で、である。
「では、どうされましたかな」
 大川の鋭い目線が、伝蔵を射る。内心の動揺を気取られないように、あいまいな苦笑いを浮かべたまま、伝蔵は歩き去る。

 


「同室でありながら、何も気付かないとはどういうことじゃ!」
 一方的に怒鳴り散らす大川の前で、半助は上背のある身体を縮めていた。
「はあ、その、面目ないこととは思いますが、本当に心当たりはないんです」
 それでも、言うべきことは言わなければならない。半助は精一杯の抗弁を試みていた。
「そんなわけはなかろう! あの山田先生が廊下のど真ん中で放心状態で突っ立ておったんじゃぞ! 何もないわけがなかろう!」
「いや、しかし…」
 半助には本当に心当たりのないことだった。教科の方面では惨憺たる成績のは組だったが、実技ではさほど問題があるとは思えなかったし、事実、伝蔵からそのような話は聞いたことがなかった。ということは、伝蔵が悩んでいるのは、一年は組のことではないのだろうか。では何か。
 同室で、何くれとなく話をする仲ではあったが、そういえば伝蔵の心の奥を聞くということはなかったことに、半助は気付く。あたかも、自分が、過去を必要以上には語らないのと同じように。
 -何ごとにつけても相談に乗ってくださる山田先生に、私は勝手に線を引いていた。同じことを、山田先生もされていたのかもしれない。そして、おろかにも私は、そのことにまったく気付いていなかったのだ…。
 要するに、自分は伝蔵に甘えきっていたのだ。その事実に、半助は慄然とする。かりにも一人前の忍として生きていた自分が、これほどまでに他人に依存していたとは。
 -私は、忍失格なのかもしれない…心弱いことが、忍の最大の欠格要件なのだから…。
 もちろん、伝蔵は、その心の弱さにつけ入るような人物ではない。しかし、だからこそ、依存してはならないのだ。いちど依存を覚えた心は、もはや自立できない。
「…」
 うなだれた半助に、大川の怒りもようやく収まってきたようだ。少し穏やかな声に戻る。
「とにかくじゃ。山田先生になにがあったのか、半助、お前の責任できちんと把握して、わしに報告するのじゃ。よいな」
「…はい」
 ようやく開放された半助は、とぼとぼと教師長屋に向かう。

 

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