命のリレー

つどい設定によると、新野先生のテーマソングは「命のリレー」なんだそうです。それを知った瞬間に、新野先生がバトンをつなぐ相手は伊作なんだろうな、と思いました。

現代に生きる私たちからは想像もつかないほど命が失われやすい時代だったからこそ、かけがえのない命の重さを、特に医療者である新野先生のような立場の人は強く感じていたと思うのです。そして、命を救う術を後進に伝えていかなければという使命感も強かったのだと思うのです。

 

1 ≫     

 

Go to 伊作奔る

 

 

 -もうすぐ学園だ。
 見慣れた山里の風景が広がる。このままいけば、夕方には学園に着けるだろう。
 春の訪れを告げるように、晴れ上がった高い空にヒバリがしきりに囀っている。穏やかな風が、遠くの花のにおいを運んでくる。
 -なんて穏やかな日なのだろう。
 しばし、足を緩めて空を見上げていた、薬売りに扮した男-忍術学園の校医、新野洋一は行李を背負いなおすと、再び足を速めた。
 -はやく、学園に戻らなければ。
 急ぐ理由があった。
 -そろそろ、潮時だから。

 


 長めの出張許可を学園長から得て、学園を出発したのは、まだ梅も咲いていない、時折雪の混じる寒い日だった。新野が向かったのは、当時の本草学(薬学)のひとつの中心地だった越前だった。越前の城下で典医を務めている牟礼道順とは、新野が師事した名の知れた医学者、七瀬仁斎の同門生だった。道順のもとで、新しい本草の知識を交換し、また研究をするために、新野は雪の北陸道を越えて越前に向かったのだった。道順からは、門下生たちに、南蛮の医薬事情を講義することも依頼されていた。堺に近く、福冨屋を通じて明や南蛮の薬や書物をダイレクトに手に入れられる学園は、越前よりも海外の情報が集積しやすかったのだ。
 明日は越前を出発するという夜、新野は、送別の宴席で道順と交わした思いがけない話に一瞬、言葉を失った。新野の杯に酒を注ごうとして上体を寄せてきた道順は、ぽそりとささやいたのだ。
「新野先生、あなた狙われてますよ」
「どういう…ことですか」
 新野はぎょっとしたが、さすがに大仰に振り向くようなことはしなかった。軽く眉を挙げ、さらに小さい声でささやく。
「しっ」
 道順は鋭い眼でまわりをちらりと見やると、酔った振りをしてさらに上体を傾けてきた。
「おっとっと…」
「おや、牟礼先生、大丈夫ですか」
 介抱するように道順の上体を支えた新野に、道順がさらにささやく。
「誰が聞いているか分からない。私の門下の者といえども全員が信用できるわけではない…新野先生、あなたの知識を狙うものが、動き出していますよ」
「どこの集団ですか」
「私にはよく分かりかねるが…どこかの忍者隊のようです」
 道順の言葉には、忍術学園にいるあなたには、どの忍者隊が不穏な動きをしているか程度の情報は入っているはずだ、というニュアンスが含まれている。
「忍者隊、ですか」
 新野はわずかに首をかしげた。本当に、心当たりがなかった。
「…背後にはツキヨタケ城がついているらしい」
「ツキヨタケ城ですと」
 近年、急激に勢力を拡大している城の名は、新野も耳にしたことがあった。
「お気をつけになったほうがいい。彼らは手段を選ばない」
「私は、私の知識をツキヨタケに提供する気はない」
「しかし、拉致されてしまえば…」
「私はこれでも忍です。必要とあらば、自分の身の処し方は、心得ていますよ」
 道順は自分の表情に動揺が走るのを隠し切れなかった。灯火に照らされた新野の顔は、昔と変わらない温和な笑顔である。
「しかしそれでは…」
「私の身が滅びても、七瀬先生のご意志は必ず伝わっていきます。道順殿ほどではないが、私にも、委ねることができる弟子がいるのですよ」
「…」
 昔からそうなのだ。この新野洋一という男は、その温和な笑顔の影に、峻烈な厳しさを隠し持っている。そして、その刃は、いつも自身に向けてあるのだ。
「あなたを失うことは、医学界の損失だ。どうですか。越前で私と共に働きませんか。ここならより厳重な警備であなたをお守りできる」
「道順殿」
 新野の声は、穏やかだが、はっきりとした意思を帯びていた。
「今の私には、忍術学園が居場所なのです。お心遣いはありがたいが」
「…戻られるのですな」
「はい。世話になりましたな」
「…」
 もはや道順に、かけられる言葉はなかった。
 -なぜ、いつ殺されてもいいようなことを、そう落ち着いて言えるのだ…。
 何事もなかったように杯を傾ける新野の横顔に、灯火が揺れる。

 


 新野は、帰路、京にも寄って、知り合いの医師たちと情報交換をしてから学園に向かっていた。京でも、数人の仲間から道順と同じような警告を受けた。その事実が、新野の心を重くしていた。
 -これはいよいよ、本物かもしれないな。
 仁斎の一番弟子として若いうちから名を知られていた新野には、当然ながら多くの城からの勧誘が寄せられていた。しかし、ひとりの医学者として、政治的にも学究的にも独立した環境を望んでいた新野は、全ての勧誘を断り、大川の誘いを受けて忍術学園に身を寄せたのだ。それでも、新野をあきらめきれない城の中には、忍集団を使って新野を無理にも手にしようとするところもあった。
 いままでも、同じように新野に手を出してきた城はあった。そして、ことごとく忍術学園の手によって撃退されていた。しかし、今回動いているツキヨタケ城ははるかに強力である。彼らが本気で忍術学園に手を掛けてきた場合、学園が危険にさらされることは容易に想像がついた。
 -学園には残りたい。あの自由な環境の中でもっと研究を重ねたい。しかし、今回はあまりに危険だ。
 新野の眼には、決意の光が宿っていた。
 -学園を、去ろう。
 しかし、その前に、やらねばならないことがある。

 


「あっ、新野先生だ」
「新野先生、おかえりなさーい」
 夕刻、学園に戻り、医務室に顔を出した新野は、たちまち保健委員会の乱太郎や伏木蔵たちに囲まれていた。
「しばらく見ないうちに、少し大きくなったようだね、乱太郎たちも…ところで」
 乱太郎たちの頭を撫でながら、新野はふと当惑顔で医務室を見渡した。
「これはまた、何があったのですかな」
 医務室の中は、嵐が通過した後のような惨憺たるありさまだった。道具や書籍が乱雑に散らばり、文机や燭台がひっくり返り、障子は穴だらけで傾いている。
「長い道中、お疲れさまでした。新野先生」
 疲れた声で出迎えたのは、保健委員長の善法寺伊作である。
「善法寺君、いったいどうしたのかね」
「はい。実は、タソガレドキ忍組頭の雑渡さんが見えてまして、そこに六年い組の潮江文次郎が踏み込んできたのです」
「それで、潮江先輩が雑渡さんをつかまえようとして、雑渡さんが応戦して…」
 乱太郎が続ける。
「…このありさまです」
 最後は、柱に刺さった手裏剣を抜きながら、ため息交じりに伊作が引き取った。
「まあ、薬棚が倒されなかったのは、不幸中の幸いでしたな」
「いえ…やられました」
 新野がとりなすように言ったひとことは、左近があっさり否定した。
「というと?」
「そーなんです。とりあえず、薬の回収を最優先していまして、やっと元通りにしまい終わったところなんです」
 乱太郎がげんなりとした顔で説明する。
「それはそれは…」
「とりあえずここは、先生が明日には問題なくお使いいただけるように、私たちが責任を持って元通りにしておきます。先生はお疲れでしょうから、夕食を召し上がって、お休みになってください」
 伊作が疲れた笑顔で言う。
「しかし、これでは…」
「ここまで片付ければ、あと少しです。先生にはとんだところをお見せしてしまって…あとで文次郎にはきつく説教しておきます」
「そうですか…まあ、あまり無理をしないように。多少散らかっていても、診察には影響がないから、君たちもあまり根をつめすぎないように」
「はい、先生」
 -やれやれ、今日にも善法寺君にあれを引き継ごうと思っていたのだが…これは後日だな。
 新野は苦笑を浮かべながら、食堂に向かった。今日は煮物らしい。いい匂いが廊下を伝ってくる。

 


「善法寺君、あとで私の部屋に来てくれませんか」
 数日後、食堂で、夕食の膳を前にした伊作に、新野は声をかけた。
「先生のお部屋ですか…わかりました」
 不思議そうに首をかしげる伊作を尻目に、新野は手早く夕食を済ますと、急ぎ足で食堂を出て行った。
「医務室ならわかるけど、先生のお部屋って…?」
 伊作はひとりごちる。旅から戻ってからというもの、新野の様子がいつもと異なることが気になっていた。口調や表情は、いつもと同じように温和そのものである。しかし、挙措に落ち着きがなかったり、そうかと思うと、書類を書きかけたまま考え込み、筆先が乾いてしまうまで筆が止まってしまっていたりということは、いつもの新野にはありえないものだった。
 -なにか、心配されていることがあるのだろうか。
 それが何なのかは、伊作にも見当がつきかねた。そもそも新野は、他人には柔和で、どんなに固く閉ざされた心もいつの間にか開錠し、癒すことのできる天才なのに対し、自身を律することには厳しく、その心を誰にも晒すことはないのである。
 -先生は、ご自身に厳しすぎる。
 長年、保健委員として新野に接してきた伊作は、強くそう思うのだ。
 -先生はお強い。それも、ご自身をコントロールして余りあるほどのお強さだ。我々のような中途半端なものがまねしても絶対に破綻するだろうが、先生がそのようになることはないだろう。だけど、それは先生にとってお幸せなのだろうか。
 結局、新野の心に何が起こったのか見当もつかないまま、伊作は新野の部屋を訪れたのだった。

 


「失礼します」
「どうぞ」
 新野の部屋を訪れるのは、何度目だろうか。初めてではないはずだが…それでも、数少ない経験であることは確かだった。いままで新野の部屋を訪れたといっても、用件は何かを取って来るよう頼まれた程度のことだった。なにか改まった話をするときも、医務室で行うのが常だった。
「突然呼びつけて済まなかったね」
「いえ」
 新野の部屋は、書籍がそこら中に山をなしていて、お世辞にも整頓されているとはいえない。伊作自身も人のことは言えないが、おそらく伊作と同様、自分なりの秩序があって、何がどこにあるのかは把握しているに違いない。
「まずは、私の留守中、医務室の責任者を立派につとめてもらいました。そのことに礼をいいます」
「い、いいえ…」
 伊作は慌てて手を振る。
「保健委員長として、当然の役割を果たしただけです。顧問の先生が不在のときは、責任を持って医務室を預かることは、委員長の役割ですから」
「医務室の日誌は、全部確認させてもらいました。善法寺君の診察と投薬記録に、私から意見を挟む余地はありません。医術も本草も、腕を上げましたね」
「そう仰っていただくと、とてもありがたいです…」
 頭を掻いて照れた伊作だったが、ふと疑念が湧いた。
 -ここまで褒めるということは、何か思惑があるのか…?

 

 

1 ≫