君のいない世界は

 

みんな大好き土井先生&きり丸ですが、いつかは離れていく日がやってくるでしょう。その事実を受け止めることができるか、小さな不安を抱いた土井先生のお話です。

 

 

「おお、半助、帰ってきたか」

「こんにちは、大家さん」

 学園が休暇に入って久しぶりに帰宅した半助を待ち構えていたのは大家だった。

「きり丸はどうしたのかね」

「はい。直接バイト先に行ってひと仕事してくると」

 家に荷物ぐらい置いていけばいいものを、と苦笑しながら付け加える半助だった。

「そうか。ふむ…まあ、ちょうどいいか」

 何ごとか考えを巡らせるように、顎鬚に手をやった大家がぶつぶつ呟く。

「きり丸がどうかしましたか」

 風を通すために戸や窓を開け放した半助がたすき掛けをしながら訊く。

「ところで半助ときり丸は、本当のところ、どういう関係なのかね」

「えっ?」

 唐突な問いに絶句する。

「え、いやだなあ、大家さん。前にもお話したじゃないですか。私ときり丸はアカの他人ですって」

 背筋に冷たい汗が伝うのを感じながらも、作り笑いを浮かべて言う。

「だとすれば、なんで半助ときり丸は一緒に住んでいるのかね。きり丸は半助のことを先生と呼んでいるが、教師と生徒が一緒に住むというのもよく分からんしな」

 じろりと疑わしげな眼でねめつける大家にいよいよ切羽詰まる半助だった。

 -うわあ、あの疑いの眼つきになるとややこしいんだよなあ…。

「ええまあ…訳あって預かることになりまして」

「訳とは?」

「それはその…生徒の個人情報に関することなので…ほら、昨今コンプライアンスがうるさいじゃないですか…ははは」

 なんとかひねり出した言い訳だったが、大家はあっさり納得したようである。

「なるほど、そういうことであれば、あまり根掘り葉掘り聞くわけにもいかないな」

 -よかったあ…よし! 今度からきり丸との関係を聞かれた時はこの手を使おう!

 どっと疲れをおぼえながらも、心中ガッツポーズをする半助である。

「ところで半助」

 掃除を始めようとそそくさと家に入りかけたところに声をかけられて、動きが止まる。

「はい?」

 -まだなにかあんのか…?

 おずおずと振り返る。

「このあいだ、きり丸が帰ってきたときがあっただろう」

「え…いつでしたか」

「もう忘れたのか。町内のどぶ掃除に半助が遅れてきたときがあったろう。例によって怪しげな連中がウロウロして、お前さんが追っ払うのどうのといっていなくなるもんだから、どぶ掃除はほとんどきり丸がやっていたじゃないか」

「あ、ああ…そうでした」

 あれはドクササコ忍者が勝手に家をアジトにしようとしたときで、さらにオニタケ忍者の二人が例によって大荷物を持って上がり込もうとして大騒ぎになったときだった。大家や近所のおばちゃんたちに彼らの素性がバレないよう追い払うのにどれだけ苦労したか、思い出すだけで胃がキリキリするのを感じる。

「実はあのとき、わしの友人が来ておってな」

 半助が胃痛をこらえているあいだも、かまわず大家が話を続ける。「きり丸の働きを見てえらく気に入ったようでな。友人は隣町で米問屋をやっておるのだが、ぜひスカウトしたいと言っておった…きり丸から聞いてなかったのか」

「いえ…まったく」

 聞いていなかった。そして、その理由を考える。

 -きり丸のことだから、言われたことすら忘れたのかもしれない。あるいはあえて言わずにいたのかも…。

「って、半助、聞いてるのか?」

 大家の声に思考が途切れた。

「は、はい!」

「これが連絡先だ」

 大家が懐から出した紙片を手渡す。「そこそこ手広く商売をやっておるが、きり丸のような目端が利いて計算の速い人材をぜひ雇いたいと言っておった。半助からきり丸の保護者に話してやってくれんか」

 言い終えると、手を後ろに組んで悠々と歩き去る。紙片を手にした半助が残された。

 -きり丸の保護者、か…。

 

 

 

 余計な腹を探られないために、近所の人たちには最低限のことしか話していなかった。きり丸のことも、自分のことも。きり丸が自分のことを「先生」と呼んでいることから、教師と生徒の関係だと捉えることも不思議ではない。であるならばきり丸に保護者がいると考えることも。

 だが、「保護者」という言葉が寸鉄のように半助の心に刺さっていた。

 -余計なことを考えているバヤイではない。掃除を始めないと…。

 小さく頭を振ると、半助は手帚を動かし始めた。

 

 

 

 雑巾がけを終えると、囲炉裏に火を熾して鍋をかけ、夕食の粥の準備をする。いずれきり丸が帰って来るだろうし、その手には粥に入れる野草が握られているだろう。そして、二人で野草入りの粥を口にするだろう。隣のおばちゃんが「いい若い者と育ち盛りの子どもが食べるようなものじゃない」と呆れるような薄い粥を。

 -それでもいい。きり丸が満足するなら。

 ドケチのきり丸は、半助がうっかり粥に米を入れすぎるとてきめんに不機嫌になる。半助の家計から支出している米であっても、「ムダ遣い」には我慢がならないのだそうだ。そして、いつしか半助もきり丸の好みに合わせた粥を作るようになっていたし、それで腹も満足するようになっていた。

 -すっかり家族のようだな。

 黙然と囲炉裏に炭をつぎながら、さみしげに微笑む。

 本当のところは、きり丸には家族はいない。自分にもいない。この家にいる間の自分たちは、家族を演じる借り物の時間に生きている。

 

 

 

 

「ただいまーっす!」

 ぱたぱたと小さな足音が近づいてきて、小さな影が土間に躍り込んできた。

「おう、お帰り。遅かったな」

 すでに外は薄暗い。陽が落ちる前に戻ってきてよかったと思いながら声をかける。

「はい! ちょっといろいろ頼まれちゃって…でもおかげでコゼニがガッポガッポ…!」

 ゼニ眼になったきり丸が足を洗うと囲炉裏に近づいてくる。

「あ、先生かゆ作ってくれてたんですね。じゃあ、おれが摘んできた野草いれましょう!」

 包丁を使う手間も惜しいのか、さっと洗った野草をちぎりながら鍋に入れていく。

「今日はやけにバイトの時間が長かったな。何をやっていたんだ?」

 こんな時間まで、とぼやきながら半助が訊く。

「いやぁ、お家のかたづけのバイトだったんですけど、だんなさんもおかみさんもかたづけられないアンド捨てられない人だったんですごいことになってたんスよ。なんで、ここ一年使ってないものはぜんぶ捨てちゃいましょうってことでぜ~んぶ運び出したら家の中がスッキリしてだんなさんもおかみさんも大喜びでバイト代はずんでくれて、おまけに運び出したものはおりんばあさんのところに持ち込んでこれもゼニになったし…あひゃあひゃ」

 息もつかずに一気に説明すると、粥をかきこみ始める。

「バイトもいいが宿題もあるんだからな。この休みこそ計画的にやるんだぞ」

「は~い」

 明らかに聞き流す返事があった。

 -まったく…。

 小さくため息をついてふたたび粥をすする半助だった。

 

 

 

「う、うっ、う~ん…」

 うなされる声に眼がさめる。

 -きり丸…。

 隣の布団で眠るきり丸がうなされていた。かすかに差しこむ星明りのもとに、額の汗が光る。

 -また、悪い夢をみているんだな…。

 なんとなく察しはついていた。きり丸が必要以上にバイトを入れて忙しくするときは、たいてい学費の納入時期前か、このように夜うなされる時だった。おそらく身体を極限まで疲れさせて、うなされた記憶が残らないほど深く眠ろうとしているのだろう。

 -こんなに寝汗をかいて…。

 手拭いでそっと拭ってやる。と、むにゃむにゃ言っていたきり丸が「せんせ…」と言いながら腕を伸ばしてくる。

 -おや?

 うなされる時はいつも「とうちゃん、かあちゃん…」とうめくきり丸の思いがけないセリフに眉を上げる。起きているのかとも思ったが、そうではないようだ。

「どうした、きり丸。私はここにいるぞ」

 伸ばされた腕を捉えながら低く声をかける。

「せんせ…」

 きり丸の指先に力がこもる。そのままもぞもぞと半助の布団にもぐりこんできた。

「安心しなさい。私はここにいる」

 穏やかな低い声に導かれるように小さな手が夜着の袷をつかんで、はだけた胸元に顔をうずめる。

「せんせ…」

 胸元の声が涙で濁る。と、肌にぽたぽたと熱い雫が落ちてきた。

 -ガマンしなくていい。ここにいる間は甘えなさい。私でよければ…。

 頭と背を抱き寄せながら、声に出さずつぶやく。ふと見上げた格子窓の向こうに、月がぼんやりと輝いている。

 

 

 

 -落ち着いたか…。

 いつの間にかきり丸が静かになっていた。袷をつかんでいた手も離れて、身体を丸めてすこやかな寝息をたてている。

 -安心できたなら、それでいい。

 きり丸の頭の下からそっと腕を引き抜く。

 -いつまで、私はきり丸を支えてやることができるだろうか。

 同僚の伝蔵がよく言っていた。子どもはあっという間に成長すると。子どもを持たず、学園の教師になって日も浅い半助にはまだよく分からない感覚だったが、伝蔵が言うからには事実なのだろう。

 きり丸も、いつかうなされることもなくなり、自分の手を離れて新しい世界を見つけていくのだろう。

 -それでいい。私には、それだけで十分だ。

 思えば現役の忍だった頃は、努めて余計な感情を切り捨ててきた。何かを得ることは、いつか失うことを意味する。子どもの頃に家族と家を失った経験は、大切なものを失う喪失感と恐怖を半助の心に深く刻み込んでいた。そして忍として生きるなかで、半助もまた多くを失い、多くを奪ってきた。その繰り返しを断ち切るために抜け忍となった。

 -だから、これ以上求めてはいけないのだ…。

 今また、一年は組の生徒たちを、きり丸を、自分は大切なものとして抱え込んでいる。命に代えても守ろうと思っている。

 だからこそ、どこかで線を引かなければならないことも分かっていた。少し歳を重ねて、そうすることができるようになっているような気がした。

 

 

 

 -あれ…?

 ふと、いつもと違う感覚に目覚める。

 眠るときは、いつものように自分の布団にいたはずだった。それなのに、いま、眼の前にあってあたたかく熱を発しているのは、どうやら半助のわき腹のようだった。

 -なんで先生がこんなとこに…じゃなくて、おれ、また先生の布団にいるってこと?

 どうもそのようだった。そして、その理由を考えてみた。

 -こわい夢だったな…。

 いつもとは違う夢でもあった。うなされて、起きた後もしばらく動悸がおさまらないような恐ろしい夢はたいてい、家族と家を喪った戦の夢だった。だが、今回は…。

 -土井先生が…。

 そこで記憶が途切れる。怖い夢だったという感覚だけを残して、暗闇にぽつんと佇んでいるような寄る辺なさをおぼえて、知らないうちに眼の前の身体に顔を埋めていた。

 -おかしいよな。土井先生はここにいるのに、おれ、ひとりぼっちになったみたいだった…。

 そう、紅蓮の炎と阿鼻叫喚にまみれた恐怖ではなく、静まり返った、冷え冷えとした孤独の恐ろしさだった。この感覚は。

 -だけど、いまはちがう…。

 いま、顔を埋めている大きく温かい身体が、守ってくれている。

 -もう、ひとりなんかじゃない…。

 そのはずなのに、どこか背筋に寒気が貼り付いているようで小さく身を震わせると、さらに身体を寄せる。

 

 

 

 -…。

 きり丸の動きに気づいていた。目覚めてもぞもぞ動き始めたときは、いつもそっと自分の布団へと戻っていくはずだった。だが、今回は違った。

 -きり丸、どうした?

 夜着をつかんで、しがみつくように小さな身体を寄せてくる動きは、これまでにないものだった。

 そっと背中をなでてやろうかと思った。だが、それはきり丸が求めているものではないとも思った。

 -私はここにいる。だから、安心しなさい…。

 そう思うことにした。

 

 

 

「あ、大家さん、おはよーございまーすっ!」

 翌朝、散歩していた大家に調子よく声をかけるきり丸だった。

「ああ、おはよう。ところできり丸…」

「はい、なんすか」

 走り去ろうとしたきり丸が足を止めて振り返る。

「この間の話はどうだ。先方は返事を待っておるが」

「あの話?」

「忘れたのか? 隣町の米問屋がお前をスカウトしたいという話だ。半助にもお前の親御さんに話しておくよう言っておいたのだが」

「え…」

 親、という言葉に一瞬思考が泡立つ。自分も半助に伝え忘れていたが、半助からもそのような話は聞いていなかった。親に伝えてくれと言われて半助はどんな表情になったのだろうか…。

「聞いとるのか、きり丸」

 大家の声に、我に返る。

「あ、はい。おことわりします」

 あっさりした返答に、ぎょっとしたように眼を見開く大家だった。

「えっと…お前の将来にかかわる大事な話なんだぞ? よくよく親御さんとも話し合って…」

「とにかく、おことわりします。そう伝えといてください。じゃ、バイトがありますんで」

「どういうことだ。ホントに話し合って決めたのか…?」

 踵を返して走り去ったきり丸の後姿を眺めながら、呆然と呟く大家だった。 

 

 

 

「…」

 朝食の片づけをしながら、表のやり取りに耳を傾けていた半助だった。

 -そうか。それがきり丸の答えか…。

 黙然と洗い終えた椀を片付ける。

 -きっと、きり丸は私が考えているより強い。もうすでに、過去に折り合いをつけて前に進みつつある。今日はここに留まることを選んだが、いつかもっと先へと進んでいくだろう。

 そして、いずれ互いに一人に戻る日が来る。

 -それでもいい。こうしてともに過ごした時間は必ず残る。お前がいなくなった世界にも…。

 中庭に出て晴れ渡った空を見上げる。

「さて、洗濯するとしようか」 

 

 

<FIN>

 

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