Quo Vadis?

QUOカードでも手帳や映画やゲームの名前でもありません(笑)

もともとは、使徒ペテロがローマを去ろうとしたとき、アッピア街道上でキリストの幻に出会い、「主よ、何処(イズコ)へ行きたもう(Quo Vadis, Domine?)」と問いかけた言葉によるらしいです。ちなみにラテン語です。

進路に悩む伊作に、留三郎がやきもきする、といったお話です。

なお、室町時代末期~戦国時代の越前は、朝倉氏のもとで医学、薬学が発展したということなので、そのままお話に取り入れさせていただきました。

 

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「…」
 じりじりと間合いを詰める。まだ、離れすぎている。相手の懐に飛び込んで、攻撃を繰り出さなければならない。
「たあっ!」
 一気に間合いを詰めようと足が地を蹴った瞬間、相手の回し蹴りが空を切る。
「!」
 回し蹴りをよけた次の瞬間、突きが脇をかすめた。右腕である。左腕が構えに入っているのを、一瞬のうちに見て取る。
 -次に左が来る。
 相手の左手の突きが伸びてくる前に、両手でその拳を受けて、下へと押しやる。パワーを強引に押し下げられた体が、前にのめる。

 


「よし、いいだろう」
 留三郎は、バランスを崩した伊作の肩を軽く押し戻してやりながら笑った。
「また、やられたな」
 伊作が汗を拭いながら照れ笑いを浮かべる。
「組手もずいぶん上達してるさ…だが」
「え?」
「相手に予測されるような動きは避けるべきだ。右の突きの次に左の構えに入っているのが見え見えだった。俺なら左の構えを見せておいて、蹴りか足払いをかけるな」
「文次郎にはあれで勝てたんだが…留三郎には効かなかったな。今度はその手でやってみるよ」
 伊作は確認するように突きから投げへの動きを繰り返す。
「伊作、もっと上半身を低く。間合いを詰めたときには、膝や肱の攻撃があることを忘れるな」
「ああ、分かった」
「そろそろ朝飯だ。顔洗って食堂行こうぜ」
「そうだな」

 


 一月ほど前から、朝の自主トレで、伊作の組手の練習に留三郎が付き合うことが多くなっていた。
 -もともと、伊作には、素質があるんだ。
 もりもりと食べる伊作を見ながら、留三郎は考える。
 -不運委員長とか、忍に向かないとか言うヤツはいるが、決してそうとは思えないのだが…。
 組手の上達ぶりを見ても、忍器の扱いを見ても、身体能力が他の六年生に引けを取るとは思えなかった。だがそれは、友人としての視点である。

 


 冷徹な観察者としての留三郎の視点では、伊作ほど忍に向いていない者はいないといってよい。
 成績を見ても、伊作はけっして良くはない、というか、悪いほうの部類に入っている。学年でトップクラスの成績を修めているのは本草(薬学)と火器くらいであって、それ以外の兵法や忍術、実技などは、むしろ下位に属していた。
 だが、それ以上に問題なのは、伊作のメンタルである。それはおそらく、不運以前の問題である。

 


 -だが、そうなのか?
 それでも、留三郎は考える。客観的に見て伊作の成績がよくないのは事実だが、それは忍の観点からの評価である。医術や本草は、腕の立つ医者として評判の校医の新野が寄せる信頼からして、間違いなく一級である。明や南蛮の医学書も読めるようだし、火器の最新知識も、外国書を通じて得ているようである。
 -つまり、伊作は忍者のタマゴとしてではなく、医者のタマゴとして評価されるべきなのだ。
 医術に通じているということは、忍としても有利な面がある。その知識を生かし、相手の懐深く潜入できるぶん、諜報にしても工作にしても、あるいは暗殺にしても、よりやりやすい立場になりうるのだ。それは、自分たちが城なり砦に潜入する前にまず敵の眼を盗み、あるいは戦わなければならないのに対し、正門から招じ入れられ、奥深くの座敷におさまることが約束されているようなものである。
 -つまりそれは、忍として有利な条件を持っているということではないのか?
 それも、自分たちよりも、はるかに。
 結局、伊作は忍に向いているのかいないのか、よく分からないまま留三郎は考えこむ。 
「なんか食べるの遅いようだけど。どこか体調でも悪いのか?」
 気がつくと、伊作が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「い、いや、別に」
 しどろもどろに答えると、留三郎は猛然と朝食をかきこみ始めた。

 


「ったく留三郎! 用具委員はいったいどんな教育してるんだっ!」
 放課後の教室に乗り込んできたのは、い組の立花仙蔵である。顔は煤で真っ黒なうえに、学園一のストレートヘアと称される髪が爆発している。
「いったい何があったんだ、仙蔵」
「どうにもこうにも…」
 仙蔵は拳を握り締める。
「…用具委員の一年生の山村喜三太と福冨しんべヱが、またも私の任務を邪魔してだな…」
 -またか。
 その場にいた者たち全員が、納得した。クールで優等生な仙蔵がここまで荒れる原因は、あの二人以外に考えられなかったから。
「悪いが仙蔵、委員会活動においては生活指導は業務外だ」
 机に片肘をついたまま、留三郎は涼しい顔で言う。
「だがな! モノには限度ってものがあるんだ! あの二人には耳にタコができるほど何度も何度も何度も何度も言わないと分からんのだっ!」
「あの二人に、俺が何を言えっていうんだ」
「決まっているだろうがっ! 福冨しんべヱは即刻鼻炎を治せ! 山村喜三太は即刻ナメクジを捨てろ! 二人まとめて学園から一歩も外に出るな! 伊作!」
 一気にまくし立てると、仙蔵は伊作に向き直って指を突き出す。
「新野先生と相談して、福冨しんべヱの鼻水とよだれを止める薬を処方しろ! あれのせいで私は…!」
 あとは興奮のあまり言葉にならないらしい。両手の拳を震わせたり振り回したりしながら地団太踏んでいた仙蔵は、やがて足音荒く教室を出て行った。
「おい、今日の仙蔵は、いつにも増して荒れてたな」
「いったい、どうしたと言うんだ」

 


「用具委員会では、あの二人はどうなんだ?」
 伊作が訊く。
「別に…それほどトラブルメイカーな訳ではないが」
「それなら、やっぱり、仙蔵と相性がいいだけなんだな」
「そうかもしれないな」
 ははは…と声を出して笑う。笑い顔は、一年生の頃と本当に変わらない。だが、その笑顔はすぐに現実に戻って、つと席を立つのだ。
「どうした」
「いや…新野先生に聞きたいことを思い出してね」
「そうか」
 せかせかと医務室に向かう後姿に、いつから違和感を覚えるようになったのだろうか。なにかに焦らされているような急ぎ足に。
 -なにに焦っているんだ。
 思えば、組手の練習に付き合ってほしいと切り出したときの伊作の表情にも、なにかに苛立っているような険があった。
 -なぜ、俺に言わない。
 同じクラスで、忍たま長屋でも同室ということもあって、伊作とはいろいろな話をした。気が強く、他人に弱みを見せることは忍として致命傷だと信じていた自分だったが、伊作にだけは、弱音や不安を口にすることができた。それは、伊作がどんなことがあっても口外しないことを信じていたからでもあったし、伊作も同じくらい心を開いていたからだった。
 それなのに、ここ数週間というもの、伊作の態度はおかしい。表情や口調は注意深く変わらないように装っているから、同学年の者でも伊作の態度の変化に気付くものはいないようだが、留三郎には、端々に見せる変化が却ってただならぬものであるように感じられた。だが、その原因も、想像がついていた。
 -伊作は、何かを隠している。俺に心配をかけさせないために。
 何を、なぜ。それが分からないのだ。

 

 
「そろそろ、返事を聞かなければなりません」
 夜の医務室に、まだ灯りがついている。部屋には、校医の新野と伊作が対座している。
「…」
 伊作は押し黙っている。腿の上に置いた拳が汗を握っている。
「牟礼先生は、たいへん君の実力を見込んでいらっしゃる。だが、無理にとは言わないとも仰っている。あくまで善法寺君の意思を尊重すると」
 牟礼道順は、新野が高名な医師である七瀬仁斎のもとで修行していたころの同門の仲間だった。いまは越前で、城主の典医を勤めている。数ヶ月前、学園を訪れた道順は、伊作の医術や本草、火薬の知識にすっかり感心し、本草学の一つの中心地である越前に来て、自分の門下でより本草の知識を深めるよう誘いをかけてきたのだった。
「私も、君の意思を尊重したいと思っている。だが、返事を遅らせるのはよくない。君は六年生だ。この先のことも含めて、決断するいい機会だと思うのです」
 新野は静かに語りかける。隙間風が入ってくるのか、灯火が揺れる。伊作と新野の顔に映る灯影も揺れる。
「だから、一月ほど、返事を待っていたのです。しかし、これ以上遅らせることは、先方にも失礼に当たる…」
 新野は言葉を切る。伊作に返事の用意ができていないことは、その表情を見れば明らかだった。伊作の顔には、焦燥の翳が深く刻まれている。
 越前に行けば、忍になるための道は、ほぼ絶たれる。道順は忍とは関係のない医師である。その門下に入れば、研究と診療に明け暮れる生活が待っている。一人前の忍になるための最終段階にいる伊作にとっては、最後の最後でルートを強引に枉げられるようなものである。それは、この六年間の忍としての修行を捨てることを意味していた。
 だが、新野には、それが悪いこととも思えなかった。
 -いずれ、戦の世が終われば、忍の需要もなくなる。今ならまだ医術や本草の基礎知識を生かして、医者として生きるための方向転換ができる。決断が遅くなればなるほど、それは難しくなるのだ。
「あと3日、待ちます。それまでに、牟礼先生への返事を私に持ってくるように。いいですね」
 新野は知らない。伊作が返事を逡巡するには、もう一つの理由があるのだ。

 


 伊作はとぼとぼと医務室から忍たま長屋に向かっていた。だが、まっすぐ戻るには考えることが多すぎた。部屋に戻れば、留三郎が待っているだろう。自分の態度がここしばらくおかしいことは、とっくに気付いているはずである。
 なぜ、留三郎に相談しないのだろう。いつもなら、とっくに話しているはずである。そのくらい、伊作は留三郎に心を開いていたし、留三郎も、他の生徒には決して口にしないような本音をみせるほど、伊作には心を許していた。
 だが、ことは自分が学園を去るかどうか、今後、どのような道を歩んでいくかという話である。そのような話を聞かされても、留三郎にはどうすることもできない。ただ話を聞いてもらえば済む次元のことではないのである。そんな思いが、伊作を閉じ籠んでいた。
 -これは、私が自分で決めなければならない話なのだ。留三郎を巻き込んではいけない。
 だが、そう考えることで、伊作はますます身動きが取れなくなる自分を感じる。
 -あと3日。
 新野に区切られた期限である。それまでに、決断しなければならない。忍の道か、医者の道か。
 いつか迫られる決断とは分かっていた。それでも、当面は医術に通じた忍としてやっていけると思っていた。だが、思いがけずその期限はやってきた。
 道順の門下に入るということは、忍術学園で学んだ過去を捨て、本草と医術を極める道を進むことを意味している。そこに、忍という選択肢はない。
 そのことが決して悪い話でないことも分かっていた。忍とは、結局は権力者の走狗である。自分の意に反して命を奪うこともあるだろう。忍か医者か、自分にどちらが向いているかは、他人に言われるまでもなく分かっている。だがそれでも、忍の道を捨てきれない自分がいた。それは、この六年間、忍としての知識を詰め込み、厳しい訓練に耐え、脱落せずに忍への道にかじりついてきた自負でもあった。
 -あれは…。
 庭に面した廊下で、伊作はひゅるひゅると風を切る音に足を止めた。
 庭先には、留三郎がいた。鉄双節棍を回しながら、刀を受けたり、敵に向かっていく型を繰り返している。
 -留三郎…。
 月明かりが、青白く横顔を照らしている。切れ長の眼が、いつもより更に鋭さを増してまっすぐ前を睨んでいる。そこに、伊作には見えない敵がいるように。
 いたたまれない思いがして、伊作はそっと歩み去る。留三郎が闘っているのは、きっと敵ではない。留三郎の内部に巣食うなにかである。そう感じた。
 それと闘うことは、きっと留三郎自身をも傷つけているに違いない。だが、自分には何もできない。あれほど医術や本草を学んでいながら、結局、いちばん身近にいる友人の助けにすらなることができない、その無力感に耐え切れないのだ。

 


 留三郎は、廊下に佇んで自分を見ている伊作に気付いていた。それでも、気付かないふりをして鉄双節棍の訓練を続けた。
 伊作の顔色はひどく悪かった。月明かりの下とはいえ、生気を失ったようなその顔には、風がそよいだ瞬間にふっと消えてしまいそうにさえ感じさせた。
 駆け寄りたかった。何があったんだ、言えよ、と肩を揺すりたかった。だが、そうしたところで、伊作の返事は見えていた。きっと気弱に微笑んで、何でもないよ、と言うのだ。
 -俺が聞きたいのは、そんな台詞じゃない。
 だから、伊作が自分から切り出すまでは、なにがあっても我慢するつもりだった。
 鉄双節棍を手にしている間は、どんな小さな雑念も入り込むことは許されない。それは、ほんの一瞬でも気を緩めると、そのまま自身を襲う危険さをはらんでいる武器なのだ。闘うこととは、畢竟、敵ではなく、自分自身と闘うことと信じている留三郎に、向いた武器と言えた。いつもなら、小一時間も鉄双節棍の練習をすると、肉体も精神も限界まで疲れ果てていた。しかし、無心を貫いた心は、むしろ軽くなっているのだった。
 だが、今日はいくら練習しても、心にかかるもやは消えなかった。部屋に戻る前に、留三郎は井戸端で何杯か水を浴びないと、自分を落ち着かせることができなかった。

 

 

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