伊作奔る
新野先生からバトンをつないだ伊作が、新野先生の救出のために動き始めます。このお話では、伊作は不運ではありません。伊作だって、やる時にはやるんです(←という願望ですw
)
なお、文中に登場する硫火水(硫酸)、強水(硝酸)などは、室町末期~戦国時代に南蛮人たちによって日本にも持ち込まれていたようですが、その後の状況については調べがつきませんでした。ヨーロッパでは産業革命の一翼を担ったこれら化学物質の発明ですが、日本ではどのような道を辿ったのか、時間があったら調べてみたいところです。
Return to 命のリレー
伊作は、自室の布団に寝かされていた。数馬の無事も確認してほっとした瞬間、意識を失ったのだ。おそらく半助が寝かせてくれたのだろう。いま、自分の体は、布団の中にある。
-どれくらい、眠っていたのだろう。
目覚めた伊作は、しばらく天井板を見つめていた。起き上がろうとしたが、体が縛り付けられたように動かない。
留三郎を呼ぼうと思った。が、衝立の向こうに気配が感じられない。学園に侵入した敵の探索に当たっているのだろうか。
-もう少し、身体を休めなければならないということか。
起き上がるのをあきらめて再び布団に身をゆだねたとき、伊作は懐に違和感をおぼえた。
-そうだ。新野先生のお手紙があったのだ…。
そしてその内容に思考が至ったとき、伊作は今度こそがばと身を起こした。
-そうだ! 寝ている場合などではない。新野先生は、敵に身を投じてしまわれたのだ!
新野からの手紙には、敵が侵入したときに備えた防備に加え、敵が攻め入ってきたときの防御や、用意すべき毒薬、火薬などについて詳細に記されてあった。また、自分がどの城に狙われているか、自分が果てた後に伊作に継いでもらいたいことが記されていた。
-先生には、まだ果ててもらっては困る!
新野はまだ果てていない、新たな任務について手紙に書かれてあった。
-だからこそ、奪還しなければならないのだ。
しかし、自分の今の身体では、学園の外に出ることすら困難だった。
-作戦本部になっている教室に行こう。仙蔵がいるはずだし、他の生徒たちもいるだろう。
全身の筋肉に力が入らない。身体が鉛のように重く感じる。それでも伊作は何とか立ち上がり、柱や壁につかまりながら何とか廊下にいざり出た。
-早く、伝えなければ…。
廊下がひどく長く感じる。
-もう、学園を防衛する段階ではない。新野先生を、奪還する段階なのだ…。
まだ忍たま長屋から出てもいないのに、伊作はぜいぜいと肩で息をして、座り込んでしまった。
-こんなときに、どうして…。
「あちらで物音がしませんでしたか」
「敵か?」
廊下の向こうから話し声が聞こえた。
-ここにいる。早く来てくれ。
伊作は力の入らない腕でやたらと廊下を叩いた。この物音に気付いてくれることを願いながら。
「妙な物音だな。敵か?」
「わかりません。近づいてみましょう」
忍たま長屋の巡回をしていたのは、留三郎と雷蔵だった。
-ここから先は、六年の長屋ではないか。伊作が危ないな。
得意武器の鉄双節棍を取り出しながら留三郎が考えたとき、雷蔵が足を止めた。
-この先の角にいます。
-よし。一気に捕えるぞ。
目配せをすると、二人は同時に角を回りこんだ。
「「曲者!」」
だが、そこにいたのは、壁にもたれてへたり込んでいる伊作だった。
「伊作!」
「伊作先輩!」
二人は伊作に駆け寄った。
「どうしたんだ、寝てないとだめだろう」
「今すぐ…作戦会議を、開いてくれないか」
「作戦会議?」
「そうだ…」
伊作の眼にただならぬものを感じた留三郎は、雷蔵を振り返った。
「雷蔵、すぐに六年生を俺たちの部屋に集めてくれないか」
「はい」
雷蔵が走り去ると、留三郎は、伊作を担ぐように部屋に戻った。
「お前は寝ていろ。そのままで作戦会議に参加するんだ。いいな」
「留三郎…これ」
伊作は懐から新野の手紙を取り出した。
「…読んで、いいのか」
軽くうなずいた伊作を布団に寝かせると、留三郎は手紙を開いた。
「…」
手紙は、急いで書かれたらしい。ところどころ、字が滑ったり乱れたりしている。
正直なところ、手紙の前半の薬品名が羅列された文章は、留三郎には理解不能だった。忍として必要最低限の薬品や火薬の調合は知っていたが、それを上回る内容だった。しかし、後半の文章に、留三郎は衝撃をおぼえた。
≪…私は、私の知ることを敵に提供するつもりはありません。私は、忍術学園という政治的にも学究的にも自由なこの環境で得た知識を、殺人という手段でこの世に還元するつもりはありません。この乱世に甘いと思われるかもしれませんが、こうした世だからこそ、私は、人の命のかけがえのなさを大事にしたいと思っているのです。善法寺君、できれば、私の思いを、君にも引き継いでもらいたい。私が君に伝えたかったことは、手段ではなく、心なのです。
私を狙っているのは、ツキヨタケ城です。私はまもなく、学園を出ます。すぐに、私は、敵方に捕まることでしょう。自分の身を守りきるほどの訓練も受けていない以上、仕方のないことです。私は、最初、敵に捕まる前に自ら果てるつもりでいました。しかし、越前や京で聞いた話を分析した結果、考えを変えました。
ツキヨタケ城には、私が同門で学んだ葛西斉之進というきわめて優秀な医者がいます。君も、名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。その葛西斉之進が、南蛮から硫火水(硫酸)を大量に取り寄せているらしいという情報が、耳に入ってきました。いくつかのルートの情報から、私はそのことは、ほぼ事実とみています。硫火水はそれだけでもきわめて危険な薬ですが、ツキヨタケが私を狙うからには、硫火水から新たな化合物を生成して、より危険な物質を作り上げようとしていることは間違いありません。私は、それを阻止しなければならない。そのために、相手の懐に飛び込むことに決めました。
だから、私は、ツキヨタケの計画をつぶすまでは、果てるつもりはありません。私の破壊工作が露見した場合は、遅かれ早かれ消されるでしょうが、それまでは、生き延びるつもりです。科学が、これ以上人を殺め、傷つけることのないよう、私は断固として止めなければなりません。
善法寺君、君に託したバトンは、まだ重過ぎるかもしれません。だが、君なら走りきることができる。私はそう信じています。医とは心であることを体現している君に、最後に出会えたことは、天の配剤なのでしょう。君が有為な人材として活躍する日が一日も早いことを、願って止みません。≫
「これは…」
「先生は、敵の内部に入り込んで、その物質の開発計画を破壊するおつもりだ」
廊下を駆ける音が近づき、障子が開いて、仙蔵たちが飛び込んできた。
「急ぎの作戦会議とは、どういうことだ」
「新野先生に、何かあったのか」
手紙を持った留三郎が、伊作に訊ねる。
「皆に読んでもらって、いいか」
「ああ」
「これは、新野先生が、伊作にあてたお手紙だ。学園を出られる直前に書かれたらしい」
手紙を読み終わると、全員が腕を組んでため息をついた。重苦しい空気が包み込む。このような手紙を読んだ伊作がどれほど苦悩するか、はかり知れないものがあった。それに、いつも温和な新野が、このような強い思いを抱く人物だったことも、学園を守るために身を挺する覚悟であることも、ひどく意外に思われた。
「伊作、この硫火水とは、それほど危険な薬なのか」
仙蔵が口を開いた。
「ああ。私も、先生から話を伺ったことしかないが、鉄も溶かすようなきわめて危険な液体だ」
声にならないどよめきが広がる。
「…もちろん、人体にかければ、皮膚を溶かす。きわめて重い火傷のような症状になるそうだ。目に入れば失明するし、口に入れれば、喉をふさぐ。先生によれば、硫火水に塩を加えると、きわめて危険な毒ガスが発生する。これを海酸気(塩化水素ガス)という。これを吸った者は、たちまち死ぬ」
「そんなものを、ツキヨタケは開発しようとしているのか」
文次郎が青ざめた顔で口に手をやる。
「…俺たちはいつか、そんなものを持った敵と、闘わなければならないのか…」
どんな訓練された屈強な忍であっても、そのような武器を持つ相手には、簡単に殲滅させられる。そのさまを考えただけで、吐き気を催してきた。
(以前、南蛮の錬金術の本を新野先生が探されていた。きっと、硫火水や海酸気のことを、お調べになっていたのだろう)
長次は、図書室で思いつめたような表情でそうした書籍をめくっている新野を思い出していた。
「そうだ。南蛮の錬金術からは、あらたな薬が次々に発見されている。先生は、海酸気を固体化または液体化させられれば、強力な武器の材料になるのではないかと心配されていた」
「それで、われわれはどうする」
「決まっている。助け出すんだ。そんな計画止めるためだけで、先生に死なれてたまるか」
珍しく小平太が真剣な表情になる。だが、その提案がただ安直に出されたものか、具体的な作戦に基づいているものかは、その場にいる者には分かりかねた。
「だが小平太、相手は城だぞ」
「だが、ひとつだけ安心材料がある」
「どういうことだ、仙蔵」
「ツキヨタケが狙っているのは、先生の知識だ。先生も、計画を潰す直前まで、相手にそんな気配は悟らせないだろう…つまり、それまでは、先生の命は安全ということだ」
「相手も、先生に手出しできないということだな」
「だけど…」
伊作が呟く。
「どうした」
「先生は、計画を潰すまでは、われわれが行ったとしても、援助を拒まれるおつもりかも知れない」
「どうすれば、先生がご納得されるというんだ」
「…それを、いま考えている」
「これは、われわれだけでこうして話していても仕方がないな」
仙蔵が組んだ腕をほどくと、きっと目を開いた。
「先生方と相談だ」
教師たちが、伊作の部屋に集まってきた。
「俺たちは、本部に戻る。仙蔵、留三郎、頼んだぞ」
文次郎たちが、部屋を後にする。
「…ふむ」
手紙を一読した伝蔵は、鼻を鳴らした。
「危険だな」
「しかし、新野先生は、目的を達成するまでは、私たちが行っても、同行されないのではないかと思うのです」
伊作が、なんとか起き上がろうとしながら言う。
「伊作、今は寝ていろ」
留三郎が、伊作の肩をそっと押し戻す。
「そうだ。いまの私たちに必要なのは、伊作、お前の頭だ」
伝蔵が伊作のほうに向き直る。
「新野先生にいちばん近いお前が、どうすれば新野先生を説得できるか、考えてほしいのだ。それが決まれば、あとは私たちがやる」
「それでは…」
伊作がふたたび起き上がろうとする。
「私が手紙を書きます…それを先生にお渡ししてください」
仙蔵と留三郎に扶け起こされながら、伊作は文机に向かう。