Saudade

 

郷愁、憧憬、切なさ、思い出…サウダージという言葉には、愛おしい過去たちに込めた思いがたくさん詰まっているようです。

まだ十代の少年たちであっても、忍たま上級生ともなればそれなりにサウダージはあるものであって、それはきっと下級生たちに寄せる思いにつながっているんだろうな、と思いながら書きました。

 

 

「あーあ、まいったなぁ」
 教室を掃除中の藤内が、窓枠を拭きながらため息をつく。
「どうしたのさ」
 同じく掃除当番の数馬が黒板を拭きながら訊く。
「テスト勉強がぜんぜんはかどらなくてさ」
 窓枠に手を置いた藤内が顔を上げる。晴れた空の下に、遠くの山々まで見渡せる。
「珍しいね。いつも熱心に予習している藤内がそんなこと言うなんて」
 黒板を拭き終わった数馬が、黒板拭きを手に窓際にやって来ると、ぱんぱんとはたき始めた。
「げほ、げほっ…やめてくれよ、人が窓際にいるのに」
 2人のいる窓は教室の端と端だったが、チョークの粉が飛んでしまったようである。
「ごめんごめん。吸いこんじゃった?」
 照れたような笑いを浮かべて数馬が謝る。
「まあ、そんなに吸い込んだわけじゃないけど」
「で、どうしてテスト勉強がはかどらないの?」
「それがよく分からないんだ」
 小さく頭を振りながら藤内は困惑したように答える。「ただ、なんか他のことが気になっちゃって、どうしても勉強に身が入らないんだ」
「ああ、それなら僕もよくあるよ」
 数馬が朗らかな笑顔で頷く。
「なんか、勉強しなきゃいけない時に限っていろいろ気が散っちゃうんだよね。読みかけだった草紙がどうしても読みたくなっちゃうとか、部屋を掃除したくてたまらなくなるとか」
「そうなんだ! 数馬も同じだったんだ!」
 不意に藤内が大声になったので数馬は少し驚いた。
「本当はいけないことなんだろうけどね。それで、草紙を読み終わったり掃除が終わってからモーレツに後悔するんだよね。ああ、この時間勉強できていればって」
「あ、それも俺と同じだ!」
「みんな同じなんだね」
 困ったように微笑みながら続ける。「で、藤内はどんなことに気が散っちゃうの?」
「それがさ」
 窓枠に頬杖をついて藤内が言う。「次の授業の予習とか、次の次の授業の予習とか」
 数馬が脱力する。
「よ、予習と勉強は違うの?」
「ぜんぜん」
 きっぱりと藤内が答える。「だって、テスト勉強は前に勉強したことだろ? でも、予習はこれから勉強することだから、ぜんぜん違うじゃないか」
「…まあ、そんなもんかも知れないけど」
 反論する気力も失せた数馬は曖昧に頷く。と、窓の外に向けた視線が後輩たちの姿を捉えた。
「あ、一年生たちだ」
「ああ、一年は組の3人組だね」
 いま、2人の見下ろした校庭を乱太郎、きり丸、しんべヱが欠伸をしながらのんびり歩いている。
「見るからに退屈そうだね」
 苦笑いしながら数馬が腕を組む。
「…だな」
 両掌を窓枠に置いたまま藤内が呟く。「あんなことしてるヒマがあるなら予習でもすればいいのに」
「まあ、そうならないところがあの3人らしいところだよね」
「まったく困った連中だ」
「でもさ、思うんだけど」
 数馬が言う。「一年の時はあれでもいいんじゃないかな。三年生になれば、もうあんなことはできないんだし」
「…」
 もの言いたげに数馬の横顔を見つめていた藤内が、ふたたび窓の外に眼を戻す。
「どうかした?」
 外に眼を向けたまま数馬が訊く。
「いや…ただ、そういう考え方もあるのかって思ったから」
「まあ、ね。今となってはなつかしいかな、なんて思ったりもするんだ」
「なつかしい、か」
 木陰で昼寝している3人組に眼をやりながら藤内は呟く。「それは、俺もおもってた」
「藤内も?」
 うれしそうに数馬が振り返る。
「うん。今はいろいろ勉強しなきゃいけないことも多いし、委員会の仕事も難しくなっているけど、一年のころはもっとヒマだったし、あんなふうに昼寝してることもあったなって」
「そうだよね。それに、あのころは先輩たちに守られていたなって気がしない?」
「ああ…そういえばね」
 藤内も頷く。「あのころは一番下っ端ってやだなっておもってたけど、今から考えれば先輩たちは俺たちのこと守ってくれてたな。そんなこと、ぜんぜん気がついてなかったけど」
「僕も」
 寂しそうに微笑みながら数馬はふたたび外に眼をやる。「忍術学園ってどんなところだろうって知るのに精いっぱいで、周りのことなんかなんにも見てなかった。やっと少しは周りが見えるようになって、先輩たちに守られていたんだって分かったころには、僕たちが守らないといけない立場になっていたんだね」
「あのさ、数馬」
「なに?」
 ためらいがちにかけられた声に数馬が顔を向ける。だが、藤内はふいに俯いて言うのだった。
「いや、ごめん。なんでもない」
「…そう」
 -ごめん、やっぱり言えなかった…。
 不思議そうに首をかしげる数馬から顔をそらして唇をかむ。
 -俺たちは、こうやっていつまでも『いま』がどんなに恵まれてたか後から気がつくようなことばっか繰り返して、これからもそうかもなんて思って少し焦ったりして、それもテスト勉強に手がつかないわけだったりするかもなんて…。

 


「そういえばさ、この前、保健委員会で泊りがけで薬草採りに行ったんだ」
 窓の外に顔を向けながら数馬が口を開く。
「ああ、そんなことがあったね」
 不運な保健委員会がそんなことをして無事で帰ってこれるのかと思ったことを思い出す。
「実は僕、みんなとはぐれて迷っちゃってさぁ…」
 ははは…と頭を掻いてみせる数馬に、思わず藤内が脱力する。
「あっそ…やっぱ迷っちゃったんだ…」
「そしたら、五年生の先輩たちに会ったんだ」
「五年の?」
「うん。先輩たちは演習中だったんだけど、もうすぐ夜になるからって一緒にいてくださったんだ」
「よかったね」
「うん…」
 そのまま口をつぐむと、数馬は窓の外に眼を向けた。
 -やっぱり、藤内には言えない…あの日、先輩たちが人を殺してきたあとだったなんて…。
 制服の忍装束についた返り血や、腕や身体に負った傷だけでも容易ならない任務をこなしてきたことは想像できたが、決定的だったのは彼らの表情に刻まれた暗い翳だった。
 -先輩たちがあんなにつらそうな、悲しそうな顔をするのは、『あれ』以外に考えられない。
 そう思いながら、全員の傷の手当てをしたのだった。手を動かしている間だけは、彼らが何をしてきたのか、いま何を感じているのかといった余計なことを考えなくて済んだから。

 


 手当てが済んで忍者食を口に放り込んだだけの夕食を終えると、疲れていたらしい数馬はうとうとし始めた。
「数馬、疲れてんだろ? 俺たちが起きてるから、お前は寝ろ」
 八左ヱ門が声をかける。
「でも…」
 傷を負った先輩たちを置いて眠れるだろうか、と数馬は考える。
「数馬のおかげで助かったよ。俺たちだけではここまできちんとした手当てはできなかっただろうからね」
 兵助が数馬の頭を軽くなでながら微笑む。「でも、疲れたときはきちんと寝ないと身体に悪いことは、保健委員なら分かるだろ?」
「でも、先輩たちだって…」
「気にすんなって」
 身を乗り出した八左ヱ門がにやりとする。「俺たちは頑丈にできてるからな。ちょっとくらい寝なくたってちょろいもんだぜ」
「そういうこと」
 勘右衛門も顔を突き出してにやりとする。「夜中に敵が来たって、お前が寝てる間に片づけてやるさ。だからゆっくり寝ろ。いいな」
「…はい」
 これ以上起きていると言い張れない雰囲気をおぼえた数馬は、薬草を入れた籠の側に身を横たえると背を丸める。
「ようやく寝たな」
 そんな姿に眼をやりながら兵助がぽつりと言う。「一人ではぐれて道に迷って疲れているはずなのに、あんなに俺たちのことを気遣うなんてな」
「さすが保健委員だね」
 苦笑しながら雷蔵が頷く。「いざとなると自分のことなんか忘れたみたいに患者を手当てする。伊作先輩そっくりだ」
「それにしても、数馬がいてくれて助かったな」
 手当てに夢中になっていた数馬が取り落した包帯を拾い上げながら兵助が言う。「ここまで厄介なことになるとは思わなかった」
 五年生たちはある戦の陣中に旗印を取りに潜り込んでいた。だが、突然戦況が動いて潜り込んでいた陣が総崩れになってしまった。敵味方が入り乱れる混乱のなかから脱出するために、彼らはめいめい立ちはだかる者を斬り払い倒しながら活路を見出してきた。そして、その中で程度の差はあれ傷を負った。
「…だな」
 八左ヱ門がこくりと頷く。
「それにしても、こんな物騒なところで保健委員会の薬草採りからはぐれるとはつくづく運のないヤツだな」
 三郎がおどけた調子で言うが、今の空気から浮いていることは自身でも明らかだった。
「そうだね。ついでにこんな僕たちに会っちゃうなんてね」
 雷蔵が付き合い程度に応える。
「こんな俺たちか…たしかに見られたもんじゃねえな」
 まだ痛むらしい肩の傷をさすりながら勘右衛門が言う。
「大丈夫? 数馬は勘右衛門の傷がいちばん深いって言ってたけど」
 雷蔵が気遣わしげに訊く。
「なに、大したことねえよ。ちょっとばかり活躍しちゃっただけさ」
 強がる勘右衛門だったが、傷が痛むらしく時折顔をしかめる。
「俺たちが何してきたか、数馬は察していたようだね」
 兵助が呟く。
「かもな。保健委員としてはどうなんだろうな。人を斬ってきた連中の手当てをするのって」
「保健委員だって忍たまだ。どうこう思ってたら忍たま失格だろ」
 八左ヱ門の言葉に勘右衛門が反応する。
「まあ、そうかもな」
 八左ヱ門も反論しない。
「それに、いつかは通る道さ」
 三郎が乾いた口調で言う。
 -いつか通る道、か…。
 皆が黙り込んで三郎の言葉の意味を噛みしめた。
 -俺たちは、もう戻れないところに来ちゃったってことか…。
 

 

「…」
 実は数馬は眠っていなかった。五年生たちが負った傷の、表情に刻まれた翳の意味を考えているうちに頭がすっかり冴えて眠れなかった。五年生たちに背を向けて身を横たえて、いろいろな考えが頭を巡るままにぼそぼそと聞こえる話し声に耳を傾けていた。そして数馬の耳は捉えた。八左ヱ門が口にした「人を斬ってきた」という言葉を。
 -そうか。やっぱり先輩たちは人を殺してきたあとだったんだ。
 それも、決して望まず、必要ともされていない殺しを。
 -僕の前では明るく笑っていたけど、きっと怖かったし悲しかったにちがいないんだ…いつもあんなにやさしい先輩たちが、人を殺して楽しいなんて思うはずないし…。
 傷の痛みと心の痛みを必死で堪えている彼らがいたましかった。自分にはまだ到底堪えられないような痛みの中に身を置いている彼らは、たった二年の違いであっても永遠に追いつけない遠い背中に思えた。

 


「そういや、孫兵のヤツ、ちゃんと委員会活動やってるかな…」
 頭の後ろで腕を組んでごろりと仰向けになりながら八左ヱ門がぼやくように言う。
「また、毒ヘビとか毒虫とか逃がしちゃって探し回ってるとかな」
 勘右衛門がからかう。
「そうなんだよな」
 八左ヱ門はため息をつく。「アイツ、毒ヘビや毒虫のこととなると夢中になっちまうんだよな。ちょっとは一年たちの面倒を見てくれると助かるんだけどな」
「一年生たちは八左ヱ門に懐いてるから、任しとけばいいって思ってるんじゃないの?」
「というか、甘やかしすぎなんじゃないか?」
 兵助に続いて三郎が辛辣なことを言う。
「そう言ってくれるなって…俺だってちょっとは厳しく接しようとは思ってるんだぜ?」
 肩をすくめる八左ヱ門だったが、すかさず三郎が突っ込む。
「そう思ってるだけでもかなりな進歩だな」
「そう言う三郎だって一年にずいぶん甘いんじゃねえか?」
「てか、三郎の甘いはずいぶん特殊に思うんだけど」
 精一杯の反撃を試みる八左ヱ門に雷蔵が同調する。
「なにが特殊なもんか。私の庄左ヱ門と彦四郎にフツーに接してるだけなのに」
「そもそも『私の』とか言ってる時点で特殊すぎるんだよ」
「私の庄左ヱ門と彦四郎なんだからしょうがないじゃないか」
 勘右衛門も加勢するが、三郎は涼しい顔で堪えない。
「ま、程度の差はあるんだろうけど、低学年がかわいいのは確かだよな」
 後ろに腕に突いて夜空を見上げながら兵助が言う。
「まあね。前はそれほどでもなかったのに、どうしてだろうね」
 吐息と共に雷蔵が言ったとき、ふたたび皆が黙り込んだ。
「…俺たちが失くしちまったものをまだ持ってるからじゃねえのか」
 しばしの沈黙ののちに口を開いた八左ヱ門だった。
 -失くしたもの…か。
 低学年だった自分たちと現在との断層に八左ヱ門以外の皆も改めて気づく。一人前の忍になるための修行を重ねること、昨日できなかったことができるようになること、学園で学ぶとは、そうやって前に進み続ける日々の積み重ねだった。そして、その過程で刻まれた経験が、自分たちを過去から切り離す断層となっていることにも気づいていた。初めて心理戦で敵を撹乱したこと、初めてこの手を血で染めたこと…。
「僕たちはもう二度と戻れないところにいるんだね」
 抱えた膝に顎を埋めながら雷蔵が呟く。
「たしかに、あの頃に戻ることはありえないからね」
 きっちりと包帯を巻かれた脛に眼を落とした兵助が頷く。
「ずっとあっちに留まっていることだってできるだろうさ」
 ふたたび乾いた口調で三郎が言う。「学園を出ていく覚悟ならね」
「それが『いつかは通る道』ってことか…で、こんなもんいじったりするようになるわけだ」
 おもむろに懐から出した万力鎖の錘にこびりついた血をこすり落とす勘右衛門の口調には、皮肉と苦渋がにじんでいる。
「いずれこっち側に来なきゃいけなくなるんだね。忍たまでいる限り」
 膝に顎を埋めたまま雷蔵は視線をさ迷わせる。
「いずれ俺たちみたいになる。んでもっていまの俺たちみたいなことを考えなきゃならない日が来る。だから、俺たちは後輩たちがかわいくてしょうがないのかもな」
「というか、愛おしい、ていうのかもね」
 寝そべったままの八左ヱ門に雷蔵が寂しげに笑いかける。
「おっ、それそれ! さすが図書委員!」
「ていうか、さすが私の雷蔵!」
 仰向けになっていた八左ヱ門が身を起こすと、雷蔵の右肩に腕を載せる。左からは三郎が肩に寄りかかってくる。
「あはは…2人とも重いってば…やめてよ」
 くすぐったそうに身をよじる雷蔵の朗らかな笑い声と共に皆がどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。

 


 -そうだったんだ。先輩たちにも僕たちみたいな時があったんだ。それでも、忍たまでいる限り、『向こう』に行かなきゃいけなかったんだ…。
 笑い声に背を向けて横になったまま数馬は唇をかむ。なぜか涙が止まらなくなっていた。それがいつか自分たちにも訪れることへの悲しみなのか、痛みをこらえながら自分たちを慈しむ先輩たちの想いに打たれたのか判然としないまま。

 

 

「どうしたのさ、数馬」
「うん?」
 気がつくと、藤内が不思議そうに顔を覗き込んでいた。
「なんかぼーっとしてるし」
「ああ、ちょっとね」
 苦笑いを浮かべながらぽりぽりと頭を掻く。
「先輩たちと、何かあったの?」
 気遣わしげに藤内が訊く。
「ううん、ぜんぜん」
 朗らかに数馬は首を振る。「先輩たちも演習で疲れていたようだったのに、僕のためにずっと起きていてくださったんだ」
「そうなんだ」
 納得したように藤内が頷く。「やっぱ先輩たちってすごいね。ずっと起きてるなんて、俺にはムリだ」
「僕もだよ」
 数馬は顔を外に向ける。「先輩たちみたいになるなんて絶対ムリだと思うけど、でもならなきゃいけないんだよね。忍たまでいる限り」
「そっか」
 藤内も遠くの山に眼をやる。「それが忍たまってものなのかもね」
「だからさ」
 数馬の視線が校庭に落とされる。木陰で鼾をかいて眠りこける乱太郎、きり丸、しんべヱの姿がそこにある。
「…今はああやってのんびり寝てんのもいいんじゃないかって思うんだ」
「そうかなあ」
 木陰の3人を見下ろした藤内の口調はあまり納得していないようである。「忍たまだったらもう少し緊張感のある生活をした方がいいと思うんだけど」
「まあ、そうかもしれないけど」
 否定せずに数馬は続ける。
「…でも、あいつらだっていずれあんなふうに昼寝していたことを懐かしいって思い出すんじゃないかと思うんだ。それもまたいい思い出になるなら、好きなようにさせてやりたいなって思うんだ」
「ホントに数馬は下級生に甘いよな」
 呆れたように藤内は言う。
「しょうがないよ」
 数馬は寂しげに小さく微笑む。
「…先輩たちだって同じように思っているんだから」
 どういうこと? と問いたげに藤内が見つめるが、数馬の視線は遠くの山に向けられたままである。その前髪をそよと風が揺らす。

 

 

<FIN>

 

 

Page Top ↑