水軍の居場所

 

21期の「水練のコーチ」のお話では、舳丸がいいところを見せてくれました。

思えば兵庫水軍のメンバーは元気でにぎやかなキャラが多いので、舳丸のような寡黙な、或いはちょっと斜に構えたキャラは珍しくみえるのかもしれません。

というわけで、舳丸がまた忍者っぽい仕事に巻き込まれてしまうお話です。決して多弁ではない舳丸の、内心に秘めたまっすぐな思いを描こうと…努力しましたw

 

 

 

「珍しいな、忍術学園から三人組以外のお客さんが来るとはな」
 手短に来客を伝えると逃げるように立ち去る網問だった。その背を見送りながら第三共栄丸が呟く。
「あの三人組でないとすれば、先生かな…?」
 茶のひとつも用意しろと言っておけばよかったと思ったとき、「ごめんくださいませ」と声がして戸口に影が近づいた。
「おう、入ってください」
 忍術学園に女の先生なんていたっけ、と頭の片隅でぼんやり考えながら戸口に眼をやる。影の主がぬっと姿を現した。

 

 

「あらあ、どうしましょ。気を失ってしまったわ」
 失神して床の上に伸びている第三共栄丸の傍らにしゃがみ込みながら伝子が当惑顔で頬に手を当てる。
「だからあれだけ女装はおやめくださいと言ったでしょう山田せ…いや、伝子さん」
 傍らでうんざり顔の半助が言う。
「まあでも仕方ないわね」
 半助が手桶に汲んできた水に手拭いを浸しながら、満更でもなさそうに伝子は続ける。「水軍みたいに男ばかりの集団の中にいたら、美しい女性に免疫がなくなっても仕方ないわ。まして突然現れたら驚いてしまうのも当然ね…ホントにカワイイわ」
「は、はあ…まあ、そういうことに」
 女装した時の山田先生は牽強付会なまでにポジティブだ…と思いながら半助はため息をつく。
「う、う~ん」
 意識が戻ったらしい、第三共栄丸が瞼を固く閉じながら首を左右に動かす。
「あら、気がついたようだわね」
「あ、山田先生、それはやめた方が…」
 身を乗り出して第三共栄丸の顔をのぞき込もうとする伝子を半助が慌てて止めようとするが遅かった。
「ぎゃぁぁぁぁぁあっ!!!」
 ゆっくりと開いた眼に飛び込んできた伝子のアップに恐怖の叫び声をあげると再び失神する第三共栄丸だった。

 

 

「…で、山田先生と土井先生がどうして…その、あんなカッコで?」
 ようやく意識を取り戻した第三共栄丸がこめかみを押さえながら訊く。
「決まっているだろう」
 女装を解いた伝蔵が鼻を鳴らす。「男二人が連れで歩いているより夫婦者のほうが怪しまれないに決まっているからだ…途中でベニテングタケ城が関所を作っていたからな」
「関所?」
 第三共栄丸が眉を上げる。関所があるならなおさら、よくあんな女装で押し通って来たものだと思う。思わず半助に同情の眼を向ける。苦笑いする半助の頬がいささかこけているように見えた。
「だが、その関所が私たちがここに来た理由でもあるのです」
 表情を引き締めた半助が口を開く。「実はベニテングタケ城がヤケアトツムタケ城と組んで兵庫水軍を狙っているという情報がありました」
「またか…」
 腕を組んだ第三共栄丸がため息をつく。「で、ベニテングタケ城が関所を作るのとはどんな関係があるんだ?」
「関所は海へ軍勢や忍を近づけないためだ」
 眉を寄せながら伝蔵が説明する。「すでにベニテングタケとヤケアトツムタケが怪しい動きをしていることはいくつかの城もつかんでいる。だからよその城の勢力が介入したり、そのために忍を放って情報を集めるのを阻止しようとしているのだろう」
「よく山田先生と土井先生は突破できたな」
 思わず感心したように声を上げる第三共栄丸だった。
「そりゃもちろん…」
 いつの間にが現れていた伝子が、飛びのこうとする半助の腕をむんずと捉えるとぐっと引き寄せる。
「こうやって夫婦者を装えば、いくらベニテングタケといえども疑いようがありませんわ」
「いや、だからそれは…」
 怪しむ番兵たちに「夫と二人で浜遊びに行くことのどこが悪いのよ!」と食って掛かりながら顔を突き出す伝子だった。その勢いに圧されたように番兵たちも後ずさり、最後は半助を引きずりながら意気揚々と関所を押し通る伝子だった。
「兵庫水軍にお願いに来たのは、そのベニテングタケのことだ」
 ふたたび伝蔵に戻ると重々しい声で続ける。「ベニテングタケは水練の講師を募集している。目下、ベニテングタケに水軍はない。配下の兵たちを泳げるようにして、ヤケアトツムタケと合同の水軍を結成するためだろう。そこで、兵庫水軍一の水練の者、舳丸に協力してもらうことはできないだろうか」
「舳丸を?」
 思わず声を上げる第三共栄丸だった。
「そうなんです」
 半助が引き取る。「舳丸さんは水軍一の水練の者ですし、以前、水練のコーチのスカウトに応じたふりをして忍者隊を調べてきたこともありますよね。その冷静さと観察力を必要としているのです」
「だが、舳丸は海のことしか知らない男だ。前はたまたまうまくいったかもしれないが、そうそう忍者の仕事をできるとは思えないが」
「もちろん舳丸さん一人で潜らせるつもりはありません」
 半助の口調が熱を帯びる。「私たちもサポートします」
「う~む、忍術学園がサポートしてくれるなら…」
 口をへの字にした第三共栄丸が腕を組んで考え込む。「あとは舳丸が引き受けるかだが…」

 

 

「私が…ベニテングタケに?」
 弾かれたような表情になる舳丸だった。
「まあ、そういうことだ」
 腕を組んだ第三共栄丸が難しい顔で言う。「だが、それはあくまで舳丸が決めることだと言っておいた。だから、舳丸がいやだと思うなら断ってもいい」
「そんなの決まってるじゃないですか!」
 重が勢い込んで言う。「舳兄ィは水軍の者であって忍者じゃないんだ。そんな忍者の真似事みたいなことでホンモノの忍者の中に入っていくなんておかしいですよ!」
「俺もそう思います」
 東南風も同調する。
「俺も」
「俺も同じです」
 航と網問も頷く。
「お前たちはどうだ?」
 ハイティーンたちの意見は反対で統一されたようである。本人の意思に任せると言いつつも第三共栄丸の視線は二十代組に向けられる。
「それは…俺たちが口を出していい問題では…」
「舳丸が決めたことを尊重するしか…」
 鬼蜘蛛丸も由良四郎も歯切れは悪い。
「で、どうするんだ?」
 義丸が声をかける。
「その…私は…」
 戸惑ったように声を詰まらせた舳丸だったが、すぐにくっと顔を上げて切れ長の眼で第三共栄丸を見据えながら口を開いた。「私でよければ、行ってきます」

 

 

「大丈夫でしょうか」
 学園への道を歩きながら気がかりそうに半助が訊く。
「舳丸君をひとりでベニテングタケに送り込んでも、ということかね?」
 にこりともせず伝蔵が応える。「それなら心配いらない。連絡要員には利吉を充てるからな」
「利吉君ですか」
 安心したように半助の口調が和らぐ。「それならいいのですが」
 だが、その口調はすぐ懸念を帯びる。「しかし、ヤケアトツムタケも同時に動くでしょう。それはどうしましょう」
「なに、連中は海には詳しいが迷信深い。それを利用するまでだ」
「まさか、あれですか?」
 トモカズキやウミニョウボウに変装する気では、と思い至った半助が嫌そうに確認する。あの不気味さはお祓い必須モノだったと思いながら。
「なにを言う」
 平然と歩きながら伝蔵がついと顎を上げる。「ヤケアトツムタケなど、私がわざわざ出向くまでもないわ」

 


「お前か、水練の講師募集に応募してきた者というのは」
 ベニテングタケの忍組頭が声をかける。
「はい」
 短く答えた舳丸がまっすぐ相手の眼を見つめる。
「応募してくるからには相応の水練なのだろうが…何をやっているのだ? 漁師か?」
「いえ、兵庫水軍のメンバーでした」
 さらりと答える声に、忍組頭と周りに控える忍たちの間にほんの一瞬、動揺がはしる。
 -兵庫水軍だと?
 -まさか我らの動きを探りに来たわけでは?
 -いやいや、それならこうも堂々と来るはずは…。
「兵庫水軍の者が、なぜ我らのもとへ来た?」
 動揺を抑えようとするように忍組頭はひときわ声を上げて問う。
「水練の者というものは海戦で功を上げることを最大の喜びとします」
 凛とした声で舳丸が答える。
「ほう?」
「しかし、現在の兵庫水軍では水練の者が活躍できるのは年に1回か2回あるかどうかという鯨獲りくらいなものです。そのような立場にこれ以上甘んじることができなかったので応募した次第です」
「ふむ」
 忍組頭は頷く。「だが、お前が教えるのは水練を知らぬ者たちぞ。その低いレベルの者たちに、水練の者としての誇りを持つお前が果たして教えうるものか」
「仰るように水練の者とは誇り高いものです」
 舳丸は応える。「だからこそ、自分が教えたものが一人前の水練にならないことには耐えられません。一度弟子としたからには徹底的に教え込みます」
「なるほど」
 舳丸の答えは忍組頭を満足させたようだ。大きく頷くと重々しく宣言する。「この者を我らの水練の講師として採用する」

 

 

「泳ぎの基本はあおりです。あおりとは、足を前後に開いては閉じるを繰り返して水を後ろに蹴って進むことです。あおりをしたとき、前に来る足を先足、後に来る足を受足といいます」
 さっそくベニテングタケ忍者たちに泳ぎを教える舳丸だった。
「体は横に、首をひねって顔を水面に出します。それではあおりを始めてください」
 指示とともに、水に入った忍者たちがいっせいに泳ぎを始める。
「うまくいっているようだな」
 その様子を忍組頭が見ていた。
「は」
 小頭が応える。「今日もヤケアトツムタケからは戦力の応援を求める書状が来ております」
「しつこいことだ」
 忍組頭がため息をつく。「こちらは一から泳ぎを教えるところから始めなければならないことは伝えてあるのに、何をそんなに焦っておるのだ」
「それを答えるよう言っているのですが、先方は早くしろとの一点張りでして」
「何を考えておるのだ、ヤケアトツムタケは」
「…」
 背後に控えている忍は利吉である。舳丸を援護するよう伝蔵から依頼を受けて潜り込んでいた。
 -なるほど、ベニテングタケとヤケアトツムタケが組んでいることは事実のようだ。
 だが、何を企んでいるのかはまだ分からない。
 -あとで舳丸さんにコンタクトを取って、もう少し水練の稽古を引き延ばしてもらおう。背景を探るのに時間を稼がなければ。
 そう考えながら忍組頭たちの会話に耳を澄ませる。

 

 

「ふう…」
 自室にあてがわれた部屋に戻った舳丸はおおきくため息をついた。
 -これでいいのか…。
 ベニテングタケ忍者たちへの泳法の指導は思ったより順調に進んでいた。水軍での基本的な泳法はほぼマスターしていたから、もうすぐ兵庫水軍に帰れると思った矢先、忍組頭に言われたのだ。
「舳丸、お前の指導は実に素晴らしい。ほぼ泳げなかったわが忍者隊がいまや水軍と遜色ないまでに泳げるようになった。ついては、ぜひわがベニテングタケ水軍の責任者になってもらいたい」
「水軍の責任者って、そんな大それた…」
 慌てて断ろうとした舳丸だったが、忍組頭は引き下がらない。
「このことはすでに殿にもご承認いただいた話だ。つまりベニテングタケ城としての意思決定なのだ」
「そんなことを急に言われても…」
 言いかけた舳丸だったが、多いかぶせるように小頭が真新しい制服を差し出す。
「舳丸殿には水軍統帥にご就任いただきます。これが統帥の制服です。そのようなボロではなく、ぜひ制服にお召し替えを…」
 そして着替えさせられた真新しい制服は、およそ水軍とは縁遠い武張った狩衣だった。何をするにも邪魔なだぶつく袖と裾に手足を絡めとられたように感じながら、舳丸は落ち着かない思いで部屋に座っていた。
 -利吉さんには指導を引き延ばすよう言われていたが…。
 水練のコーチになってからほどなく接触してきた利吉からは、ヤケアトツムタケとの作戦を探るために時間が必要なので指導を引き延ばしてほしいと言われていた。だが、ベニテングタケ忍者の水練の上達は思いのほか早く、利吉からの連絡もないままに『水軍』の統帥にさせられてしまっていた。
 -俺は、どうすればいいのだろう…。
 水軍の統帥などといわれても、何をすればいいのか分からない。そもそもベニテングタケに潜り込んだのは、その作戦を探るためだった。そのためには、水軍の責任者として関与するのが手っ取り早いことは分かっていたが、一介の水軍のメンバーにすぎない身としては、あまりに重いミッションだった。
 -重たち、どうしてるのだろうか…。
 ふと、後輩たちや仲間たちの顔が脳裏に浮かぶ。いつも自分と張り合い、隙あらば水練の者の座を奪おうと挑み続ける生意気な後輩ではあるが、一方で兄弟のように懐いてくる重。そういえばこの話が出たとき、真っ先に反対した重は、こうなることをあらかじめ予期していたのだろうか。
 -だが、忍術学園や利吉さんに協力を求められている。
 義理堅い舳丸にとって、世話になっている学園やその関係者の利吉からの依頼を無碍にすることも難しかった。
 -じゃ、どうすれば…!
 しばらく水に身体をつけていないことを思い出す。岸の上から指導するばかりなので、海に飛び込む感覚も久しくなっていた。統帥などという立場に祭り上げられては、なおさら遠くなるばかりだろう。
 -俺、いつまでこんなことしてないといけないのだろう…。

 


「舳丸さん」
 天井から聞こえた声に思わず「誰だ!」と叫んで立ち上がる。
「私です」
 天井板が外れて顔をのぞかせたのは利吉だった。
「利吉さん…」
 ほっとしたように肩の力を抜く舳丸だった。いつの間にか戦闘用の組手の体勢を取っていた。
「驚かせてすいません」
 しゅたっと床に降り立った利吉が胡坐をかく。釣られるように座り込む舳丸だった。
「それで、何かわかりましたか」
 一番聞きたかったことだった。ベニテングタケがなにを企んでいるかを探るために、自分は慣れないコーチをさせられた挙句に統帥などという立場になってしまったのだ。
「いろいろと」
 低い声で言うと利吉は身体を少し舳丸に近づけた。真新しい狩衣が気にならないこともなかったが、まずは報告が先である。「ヤケアトツムタケが兵庫水軍の海を狙っています。ただし、今回は自分たちは背後で糸を引く作戦に出たようです。兵庫水軍を襲うのはベニテングタケということになっています」
 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃だった。
「…どうかしましたか?」
 真っ青になって震え始めた舳丸の顔を利吉が怪訝そうに見やる。
「っ…」
 口を開こうとするが、舌がもつれて言葉にならない。
「舳丸さん、どうしましたか?」
 肩をゆすられてようやく泳いでいた視点が焦点を結んだ。
「利吉さん…」
「なんですか?」
「俺…私は、水軍の統帥になってしまったのです…」
 ショックで全身から力が抜けていた。まだ言葉も半開きの口からぼそぼそと押し出されるきりだった。
 -ベニテングタケ水軍の統帥!?
 危うく声を上げそうになって利吉は慌てて言葉を呑み込む。そしてその意味をすばやく探る。
 -忠誠心を試すつもりか?
 舳丸が兵庫水軍の出ということは知られている。その舳丸にあえて出身の兵庫水軍を攻撃させる。作戦がうまくいけばそのまま統帥の地位に据えるだろうし、作戦を拒否すれば消すつもりだろう。水軍きっての水練の者でも、陸上でしかもたった一人では忍軍の敵ではない。
 -だが、これはチャンスでもある…。
 作戦に従事させるふりをしてベニテングタケ水軍が壊滅するような行動を取らせることも、統帥なら可能である。そしてその可能性をいろいろと考える。
「いいですか、舳丸さん」
 肩に置いた手にいつの間にか力がこもっていた。「舳丸さんが水軍の統帥になったというのは、逆にこちらに好都合なことなんです」
「どういう…ことですか」
「つまり」
 切れ長の眼がいまやすがるように利吉に向けられている。利吉は舳丸を落ち着かせるように声をいっそう低めてゆっくりと話しかける。「舳丸さんが水軍の統帥なら、水軍はあなたの指示に従わなければならないわけです。であれば、舳丸さんが兵庫水軍と示し合わせて一網打尽にできるような動きを指示することもできるはずです」
「でも…どうやって…」
 舳丸の口調はまだ半信半疑である。
「それは私が調整します。舳丸さんと兵庫水軍の間で連絡を取って」
 力強く利吉が頷く。「だから、舳丸さんは、なるべく早く兵庫水軍攻撃についてベニテングタケ城がどんな作戦を考えているのか探ってください。お願いします」
「…はい」
「では、失礼します」
 短く言うと利吉の姿は再び天井裏へと消えた。利吉が座っていたあたりの板の間を呆然と見やりながら舳丸は考える。
 -作戦を探ると言われても…どうすれば…?

 

 

「統帥」
 呼びかけられても、それが自分に向けたものとは気付かずに返事が遅れた。
「あ、ああ…」
 いつの間にか、眼の前に若い忍がいた。
「こちらの書類にご決裁を」
「けっさい…?」
 何やらびっしりと書き込まれた書類と聞きなれない単語に思わず口ごもる舳丸だった。
「これは何だ」
「何だと言われましても…」
 意外な反応に困ったように視線を泳がせていた忍が戸惑いがちに説明を試みる。「これは水軍船の建造のために雇った船大工たちへの支払いの書類ですが…」
「この書類に何をすればいいのだ」
「こちらにご署名を」
「なぜそんなことをしなければならないのだ」
「それは…」
 珍奇なものを見るように忍は眼を見開く。「統帥のお名前をもって発せられる書類だからです。統帥のご署名をいただかないと、この書類で支払いができません」
「…そうか」
 とにかく自分が署名をしないと誰かに迷惑がかかるらしいということだけはかろうじて理解した舳丸が筆を執る。
「ありがとうございます」
 忍が立ち去る。ふうとため息をついた舳丸が肩をぐるぐる回す。そもそも水軍では筆を手にすることすらほとんどなかった。まして何やら難しげなことがびっしり書き込まれた書類など眼にしたこともなかったし、それに自分が署名をすることで有効な命令になるという感覚がまったく理解できなかった。
 -なんだこのわからない感覚は…!
 自分のあずかり知らないところで勝手に何かが進行していくように思えて、むず痒くなるような苛立ちを感じる。しかも自分の全く知らないところでことが進行しているならともかく、中途半端に関与させられているだけに苛立ちはますます募る。結局、あの訳の分からないことが書き込まれた書類は何だったのだ?
「統帥、ご決裁をお願いします」
 気がつくと、眼の前に別の忍が控えていた。
「けっさい、とかいうやつならさっきしたぞ」
「おそれながら別件です」
 鹿爪らしく応えながら忍は書類を広げる。「こちらは、次期の予算配分計画書です。お奉行方や侍大将、水軍統帥、ご家老様のご協議のうえで殿のご決裁をいただくものです」
「…そうなのか」
 ますますややこしいらしい書類にあれこれ訊く気も失せた舳丸がしぶしぶ署名する。
「ありがとうございました」
 書類を持った忍が下がると同時に小姓が現れた。
「統帥殿、会議のご刻限でございます」
「会議?」
「はい」
 急いでいるらしい小姓は早口に続ける。「ヤケアトツムタケとの共同作戦にあたって兵糧の調達計画を定めるための会議です。お出ましを」
 嫌とは言わせぬ勢いの小姓に慌てて腰を浮かせる。
「あ、ああ…」


  
 -やっと終わった…。
 訳の分からぬ会議に長時間列席を余儀なくされたあとに、部屋に戻ると立て続けに5件の決裁が待っていて、舳丸は疲れ切っていた。
 -経験したことのない疲れだ…。
 どんなに遠泳しても、速い潮を突っ切っても、深いところへ潜っても、感じたことのない疲れだった。身体を酷使した後に訪れる疲れは筋肉が突っ張るような、そして全身が重く気だるい疲れだったが、いまおぼえる疲れは脳内と身体の奥底に重りをつけられたような、これまで経験したことのない種類の疲れだった。
 二十数年生きてきたなかで、舳丸を取り囲むすべては海だった。櫓をこぎ、網を引き、穏やかに凪いだ海や、嵐に猛り狂う海に飛び込むことが日常だった。常に全身で海に立ち向かってきたし、そうするものだと思ってきた。
 それなのに、初めて入った城というところでは、指先をわずかばかり動かして筆をものしたり、長時間座ったまま顔を突き合わせて愚にもつかないことを言いあっている会議とかいうもので物事は動いていくらしかった。それは舳丸にはまったく理解できない世界だったし、永遠になじむことはないように思えた。
 -ここは俺のいるところではない!
 頭を抱えようとしたとき、指先に烏帽子の固い感触をおぼえて慌てて指をひっこめる。やたらと袖と裾の長い、ゆったりしていそうで実に窮屈な狩衣もまた、永遠になじめそうもないものの一つだった。
 無性に兵庫水軍の仲間たちが懐かしかった。ほんのしばらく留守にするだけで、またすぐ戻れるはずなのに、なぜか途方もなく遠い存在になってしまったような気がして、舳丸はひたすら寂しかった。

 


 -今日は波が高いな。
 格子窓から吹き込む甲高い風の音で、舳丸は海の様子を頭に描く。
 -だが、このくらいで訓練を休むとは、なんという腑抜けだ…。
 ベニテングタケの『水軍』と称する連中は、要はここ数日で舳丸の指導でようやく泳げるようになった忍者たちにすぎない。まだまだ海に慣れない彼らは、少し波が高ければ訓練を拒否し、組頭もそれを擁護するありさまだった。彼らはしきりに水軍がつかう武器のことを知りたがったが、それは船を自在に操れるようになってからの話だと言ってまだ指導はしていなかった。
「統帥、今日の訓練は中止でよろしいですな」
 忍組頭がやってくるなり言う。
「…」
 返事もいとわしくてむすりと黙ったままの舳丸を了解と解釈したらしい。忍組頭は「ではそのように申し伝えます」と言うとすぐに続けて口を開いた。
「ご家老様がお呼びですぞ」
「私に?」
 会議で顔を合わせたきりで話をしたこともない家老が何の用だろうか。思わせぶりに忍組頭が続ける。
「さよう。きっと、何か重要な任務のご用命なのでしょうな」
 重要な任務、と聞いてピンと来た。
 -そうか。私に兵庫水軍の攻撃を命じようというのか…。
 であれば、利吉が言うところの『作戦』を探るチャンスかもしれない。
「わかった」
 言いながら舳丸は立ち上がる。

 

 

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