某pixiv企画に今年も便乗して書いたお話です。

企画の性質上、子利吉と若土井を盛大に盛っています。そして、氷ノ山の山中で忍の世界しか知らずに育っていた子利吉に世間への扉を開いたのが若土井だったらいいなという願望のみでできあがったお話です。

 

 

「どうだい、少しは稼ぎになったかな?」
「はいぃぃ! もうコゼニがガッポガッポ…! ガッポガッポ!」
 傍らを歩くきり丸は先ほどからゼニ眼がとまらない。利吉は苦笑して凝った肩をほぐすようにぐるぐると回す。
「ところで乱太郎はどうした? 一緒に来るんじゃなかったのか?」
「ああ、乱太郎はあしたから保健委員会の泊りがけの薬草採りがあるから学園にもどるそうです」
「そうか。けっこう忙しいんだな」

 


 きっかけは、きり丸が乱太郎を連れて似顔絵屋のバイトをやっていたところに、仕事を終えた利吉が通りかかったことだった。利吉の姿を目ざとく認めたきり丸はすかさず腕を掴んで連れてくるや大声で叫んだのだ。
「さあいらっしゃい! 今なら特別サービス! イケメンといっしょに似顔絵かいちゃうよっ!!!」

 


「あんなにお客さんが来るとは思わなかった…ちょっと疲れたな」
 ぼやきながら両掌で頬をぱしぱしと叩く。散々客の女性たちといろいろなポーズを作らされた上に、バイトの間じゅう浮かべていた作り笑いがまだ違和感とともに顔に貼りついていた。
「だったらウチによってってくださいよ! イナゴのからいりと雑炊くらいしかないですけど」
「相変わらずきり丸は節約メニューだな」
 相槌を打ちながら、
 -ウチか…。
 と声にならない程度に呟く。
「どうかしたんすか?」
 きり丸が気になったように見上げる。
「いや…きり丸がウチというのを聞くと、家族みたいだなと思ったからさ」
「そっか…そういやオレと土井先生、家族じゃないですもんね」
 忘れ物を思い出したようにきり丸は言う。
「だが、学校ではないんだから家族でもいいんじゃないか?」
「そうっすか? 家族だとしても、父ちゃんっていうには若いし、兄ちゃんっていうとなれなれしいし…」
 軽く眉を寄せてきり丸は考え込む。「…やっぱ先生、ていうしかないかな。先生、なんでもしってるし、なんでもできるし…」
「確かに土井先生の兵法や火器の知識はすごいからな」
「それだけじゃないんっすよ!」
 きり丸の口調に力がこもる。
「どうすごいんだ?」
「そりゃもちろん!」
 鼻息荒くきり丸は続ける。「赤ちゃんのあやしかたはうまいし、ぬいものもうまいし、造花つくるのもすごいし、せんたくだって…」
 利吉が脱力する。
「…そんなに土井先生はきり丸のバイトを手伝っているのか?」
「もちろんですっ!」
 きり丸がふたたびゼニ眼になる。「あんな才能があるのに先生なんてやらせておくのはもったいないですから、ぼくがドンドンつかってみせますっ!」
「…土井先生が聞いたら泣くぞ…」
 


「ただいまー」
 戸口に駆け込むきり丸の声に「おう、遅かったな」と言いながら半助が土間に下りる。と、戸口に現れたもう一つの影に気づいて足を止めた。
「利吉君…どうしたんだい? きり丸と一緒だったのかい?」
「ええ、まあ…」
「はい! バイト手伝ってもらったんス」
 同時に口を開く2人に眉をひそめた半助が腕を組む。
「こら、どうせまた忙しい利吉君をムリに手伝わせたんだろう? それに乱太郎はどうした? 一緒じゃなかったのか?」
「乱太郎は、保健委員会の用事で学園にもどったんす」
「ふむ、そうか」
 鼻を鳴らした半助が続ける。「まあ、ここで立ち話もなんだ。利吉君も、今日は泊まっていくんだろう?」
「え、いや、私は…」
「なに言ってんすか利吉さん。今日はもう仕事おわってヒマだって言ってたじゃないすか」
「ヒマは余計だ!」
「いてっ」 

 


「それは災難だったね」
「まったくです」
 まだ顔の周りに女たちの白粉や鬢につけた油の臭いが漂っているように思えて、利吉は小さく眉を寄せると手にした杯を干す。雑炊とイナゴの乾煎りの夕食を済ませて、半助と利吉は囲炉裏に向かいながら酒を酌み交わしていた。すでにきり丸は傍らの布団で寝入っている。
 -まあ、そのおかげでこうやって土井先生のそばにいることができるんだけどね…。
「どうかしたかい?」
 杯を手にしたまま半助が利吉の顔を覗き込む。
「いえ」
 短く応えた利吉は「そういえばきり丸から聞きましたが、土井先生はいろいろなバイトをこなすことができるとか」
「なんだ、きり丸のやつ、そんなことまで利吉君に話したのかい?」
 大仰に肩をすくめながら半助が杯を干す。
「ええ。でも、初めて会った土井先生も何でもご存じで、私にはまぶしかったのですよ」
 杯に映る灯を見つめながらぽつりと利吉は呟く。
「え? またずいぶん前のことを思い出したものだね」
 照れたように頭をがしがしと掻く。その横顔をそっと利吉がうかがう。
「はい」
 -あんな鮮やかな思い出は、私にはひとつしかなかったのですよ…。
 


 それは野遊山をぶち壊しにした若い忍が担ぎ込まれてからしばらくしてからのことだった。
 起き上がれるようになっていた若い忍だったが、まだ体調が戻っていないのと、家の周辺に敵が現れ始めたこともあって家から出ないよう言いつけられていた。その頃には、利吉もようやく素直な関心を示せるようになり、そしてその名で呼びかけることもできるようになっていた。
「半助さん、なにをしているのですか?」
 ある日、文机に向かって考え込みつつ何やら書いていた半助に声をかけたことがあった。
「ああ、これかい? これは、利吉君に教えてあげようと思ってね」
「なにをですか?」
 首をかしげた利吉の頭を、苦笑した半助が腕を伸ばして撫でる。「利吉君、言ってたろ? 商人っていうのは、モノを右から左に動かすだけで大儲けしている連中だって」
「…はい」
 そういえばそんなことを言ったこともあったと思い出す利吉だった。なぜそのような話になったかは憶えていない。そもそも商人とはどのような人々かを見たことすらほとんどなかったのだ。山奥に住む利吉が街に出ることは滅多になかったし、そこで商売を展開している商人が何をしているかは知る由もなかった。だから、勝手なイメージが植え付けられていてもやむを得なかったかもしれない。
「たしかに飢饉のときに売り惜しみをしたりして、一揆のときにはまっさきに狙われたりするから、商人に悪いイメージを持つのも仕方ないかもしれない。でも、商人には大事な機能があるんだ。それを教えてあげようと思ったんだが…」
 困ったような笑顔でがしがしと頭を掻く半助だった。「それをうまく人に説明しようとするとどうすればいいか分からなくてね…私は商家の出ではないし…」
 でも頑張って分かりやすく教えてあげるよ、と言いながら再び書きつけを始める半助の姿に、違和感と親近感の混ざったようなこれまで感じたことのないものをおぼえる利吉だった。
 -この人は、なんでそんなことを教えてくれようとするのだろう…。
 体調が本復するまで安静を指示されていたから単にヒマだったのかもしれない。それでも、あんなに考え込みながら決して詳しいわけでもない分野のことを教えようと悪戦苦闘する半助に、単なる親切を越えた思いを感じて、身体の中からじんわりと温かいものがにじむように思う利吉だった。
「書こうとするから難しいんだと思います」
 文机に向かう広い背中につかつかと近寄りながら利吉は言う。「それより、お話を聞かせてください。どんな時に商人には大事な機能があると思ったのか、忍者の仕事にどう役立つのか」
 言いながらくるりと半助に背を向けた利吉は、そのまま座ってそっと半助の背中に寄りかかった。背中に触れた小さな身体の感覚に振り返った半助が驚いたような表情を見せる。
 -そうか。
 背に感じる小さな温もりに、ふとこの少年が抱えている孤独に思いを馳せる半助だった。忍の両親から忍としての知識や技能はふんだんに与えられるだろう。聡い少年だから、きっとすぐに一流の忍としての実力をマスターするだろう。だが、それ以外の世界に関する知識に飢えていた。いや、飢えていたというよりそのような存在すら知らなかったのだろう。いま、この少年はそれまで知らなかった世界に眼を向け始めている。そして、或いは自分の孤独を認識し始めたのかも知れない。背の小さな温もりは、唐突に認識されたぽっかりと空いた孤独の穴を必死で埋めようとする努力なのかも知れない…。
「わかった」
 小さく頷くと半助は朗らかに語り始める。「忍者も商人も、情報を大事にすることは同じなんだ。そして、忍者と商人の違いは、物流を担っているかどうかだ。その話をしようか…」

 

 

「土井先生、いかがですか、もう一杯」
「ありがとう、利吉君」
 手にした瓢箪の酒を半助と自分の杯に満たすと、利吉はちびりと杯を口にする。
「憶えていますか、昔、先生は私に商人のお話をしてくださいました」
「ああ、そんなこともあったっけなあ…」
 懐かしそうに半助が声を上げる。「どうやったら君にうまく教えられるか、ずいぶん無い知恵絞ったもんだったなあ…もっとも利吉君はちょっと話すだけですぐ理解してしまったけどね」
「いえ。先生のお話がとても分かりやすかったからです」
 ちろちろと燃える囲炉裏の火に眼をやりながら利吉は応える。「あのお話を伺ったとき、私はいかに自分が何も知らなかったか思い知りました。ああいうところで育ったものですから、私には世間が何かまったく分かっていなかったのです」
「人は育った環境の影響を受けるものだからね」
 頷いた半助が杯を傾ける。「でも、山田先生や奥様からもいろいろなことを教えていただけたんだから、素晴らしいことじゃないか。私はむしろ、利吉君がうらやましいと思ったくらいだよ」
 それも今だから言えることだが、と思いながら半助は苦笑する。自分の過去の断層の向こうにある黒々とした闇には存在しえない満ち足りた世界に見えたから。
「そうですね」
 ぽつりと利吉が応える。氷ノ山の山奥の家とその周囲しか知らない自分にとって、両親は世界に向けて開いた唯一の窓だった。だから、両親の口から語られる『世間』を、自分は一生懸命耳をそばだてて聞いたものだった。それでも、どうしても現実味をもって感じられないのがもどかしかった。だが、突然現れた青年が語る『世間』は、みずみずしい現実として全身に染みわたるように感じられた。両親から聞いた『知識』が『現実』になった瞬間の眩暈をおぼえるようなあの高揚感は、間違いなく12歳にして初めておぼえた感覚だった。そして…。

 


「利吉君、よほど疲れたのだろうな」
 いつしか利吉は胡坐をかいたまま眠り込んでいた。手にしていた杯がことりと床に落ちて転がる。
「まったくきり丸のやつ、いったいどんなバイトを手伝わせたというんだ…」
 ぼやきながら布団を敷き、眠ったままの利吉の身体を抱き上げてそっと布団に寝かせる。
 -利吉君、憶えているかい…?
 精悍ながらもどことなくあどけなさを漂わせた安心しきったような寝顔に眼をやりながら半助は声に出さずに語りかける。
 -君は、剣術も手裏剣打ちも、あの歳にしてすでにほぼ一人前だった…だけど、その意味を知らずにいたね。
 


 しゅっと風を切って放たれた手裏剣は、正確に的にした木の幹に刻んだ星(的)に命中した。
「すごいね、利吉君」
 見守っていた半助が感嘆する。まだ細い少年の腕のどこにそんな力があるのだろうか。固い樹皮に深々と刺さった手裏剣を引き抜きながら半助は思わずにはいられない。
「いえ。このくらいはできて当然です」
 自慢も何もなく淡々とした台詞に、改めてこの少年が育っている環境が、あまりに高い水準にあることに驚かざるを得ない半助だった。
「いや、たいしたものだよ。さ、少し休もうか」
 肩に手を回して縁側へと促す半助を、「もう休むのですか?」と利吉がいぶかしげな視線で見上げる。
「君はまだまだ成長期だ。あまり同じ筋肉を使いすぎると却ってよくない」
 微笑ながら半助は解説する。「いざ忍としてデビューした時に、肝心の腕が使えなくなったらたいへんだろ?」
「それはそうですが…」
 なお不服そうに利吉は言う。「でも、もっと鍛錬しないと父上のようにはなれないし…」
「たしかに君のお父上は偉大な忍だ」
 半助は大きく頷く。「それなら、利吉君も手裏剣をどういう時に使うかは分かっているだろう?」
 実のところ、忍が手裏剣を使う機会はそうあるわけではない。敵と対峙した時や、追いかけてくる敵を足止めする時のような、やむを得ない場合にしか使わない。つまり兵法で言う下策である。当然、利吉もそのくらいのことは知っていると思っていた。
「手裏剣をつかう時…ですか?」
 意外そうに眼を見開く利吉に、却ってたじろぐ半助だった。
「どういう時に使うのか、知らないのかい?」
「それは…」
 言いかけた利吉だったが、すぐに言葉に詰まって口ごもる。そういえば、まずは理屈抜きで手裏剣打ちをおぼえるということしか知らずに打ちこんできた。
「なあ、利吉君」
「はい」
 縁側に腰を下ろした半助の傍らにちょこんと座った利吉が見上げる。
「手裏剣打ちはもちろん忍にとって大切な技術だ。いざという時、身を守る役に立つからね。だけど」
 言葉を切った半助を、息を詰めて利吉が見つめる。
「…敵と対決しなければならないような場面になってしまうことは、忍としては失敗なんだよ」
 穏やかな口調で語られる台詞のあまりに冷厳な現実に、却って利吉は戦慄をおぼえる。
「敵に見つかることなく作戦をやりとげる、それが本当にできる忍なんだ」
 優しい視線で利吉を見つめながら半助は語る。「だから、むしろ手裏剣など一度も使ったことのない忍こそ、本当にできる忍なんだ」
「…知りませんでした」
 ショッキングな事実に打ちひしがれた利吉が呟く。「僕のやってきたことは、忍者の本質ではなかったんですね」
「もちろん剣術も手裏剣打ちも大事な技術さ」
 慌てて半助が続ける。「いざという時、身を守れなかったら、任務を遂行できるわけがない。そのためにも剣術や手裏剣打ちは大事な技だ。それをおろそかにすることはできない」
「でも、それを使わないのが上策ということですよね」
 半ば抗議するように利吉の口調がきつくなる。それまでの修行が否定されたような理不尽さに耐えられなかった。
「そんなことはない」
 力強い視線で利吉を見つめながら半助は言う。「利吉君は間違いなく一流の忍になれる。だけど、そのためには忍が何のためにあるのかをもっと考える必要がある…いや、君は何のために忍になるのか考える必要があると思うんだ」
「それはどういう…」
 利吉が訊きかけたとき、
「もう手裏剣打ちの練習は終わりですか?」
 利吉の母が縁側に出てきた。
「はい。利吉君はすごいですね。腕や手首の使い方がうまいから無理なく命中させられる。たいしたものですよ」
「まあ、山田がよく教え込んでいましたから」
 満更でもないように利吉の母が応える。「さ、私は夕食の準備にかかりますから利吉はお風呂に水を汲んで沸かしておきなさい」
「では、私は薪割りを手伝いますよ」
 言いながら半助が立ちあがる。
「でも、まだ安静にしていないといけませんわ」
「なに、少しくらい身体を動かさないと体力は戻りません。ムリしない程度にやりますからご心配なく」
 爽やかな笑顔で言うと、半助は挽いた丸太が積んである台所の裏へと向かう。
「さ、利吉も早くなさい」
 思いつめた顔で地面を見つめていた利吉に声をかけると、母もつと立ちあがって台所へと向かった。
「…はい」


 

 夜の廊下をひたひたと小さな足音が伝う。足音が止むと、ややあってためらうように声がかけられる。
「あの…起きていらっしゃいますか」
「ああ、起きているよ。入っておいで」
 寝入りかけてた半助だったが、すでに足音がこちらに向かっているのに気づいていた。その足音が利吉であることもすぐに分かった。だから布団の下に隠してある忍刀に伸ばしかけた手で布団を払うと、上体を起こして利吉を待った。
「失礼…します」
 そっと襖を開けて入ってきた利吉は、半助に向かい合って端座する。
「どうしたんだい?」
 夕食のときから、半助は利吉が思い詰めた表情で口数も少なくなっていることに気づいていた。食後、囲炉裏端で半助が読んでいる書にも関心を示さず、自分の部屋から持ってきた漢籍を低い声で素読していたが、眠くなったと言ってそそくさと部屋に引き上げてしまったのだ。
 -やはり、利吉君には少し難しい質問だったかな…。
 その理由が、昼間の手裏剣打ちの練習の時の問いだろうということは目星がついていた。半助としては、これから一人前の忍へと腕を上げていく中でゆっくり考えてくれればいいと思って投げかけた問いだったが、思いのほか利吉の中では重く受け止められてしまったようである。
「…」
 利吉は俯いたまま、ぐっと拳を握りしめている。
「私でよければ、話してくれないか」
 穏やかに半助は語りかける。
「…ダメなんです…」
 顔を伏せたまま、絞り出すようなうめき声が漏れた。
「…」
 黙ったまま半助は続きを促す。
「今まで、父上みたいな忍になりたいと思っていました。母上もくノ一だし、僕にはそれが当たり前でした。何のためになんて考えたこともなかったし…」
「そうか。それが当たり前だったんだな」
 頷いた半助が痛ましげに端座して俯く少年を見つめる。
「でも、半助さんに世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな仕組みがあることを教えてもらって、忍者はその中の一つでしかないってことも分かって、そうしたら…」
 握られた拳の上にぽたぽたと涙がこぼれた。今や少年は、肩を震わせて嗚咽をこらえていた。
「すまない、利吉君」
 半助も布団の上に端座する。「君に余計なことを考えさせてしまったね。まだ答えを出すには早すぎだったね…」
 歳よりしっかりして見えるが、まだ12歳の少年なのだ。しかも、これまでほとんど世間と接触のない忍の家で育っているのだ。まっすぐな一本道を歩んでいたのに、突然いくつもの輻輳した道を示されて混乱しないわけがなかった。まして利吉はとてもまじめな少年だったから。
「…だけど、優秀な忍になれる利吉君だからこそ考えてほしいとも思ったんだ。優秀な忍にはいろいろな城からオファーがくる。その時に、君が自分の心を失わずに行動できるようにね」
「自分の心…ですか?」
 眼に涙をためたまま利吉が顔を上げる。
「そうだ」
 力強く半助は言う。「忍にきれいな仕事はない。だからこそ、自分はどうしても忍としてやっていきたいという心がないと勤まらない。その覚悟がないと、いくら技術や知識があっても忍として生きていくことはできないんだ」
「そんなこと…今まで考えたこともなかったし、父上や母上からも…」
 そのような覚悟が必要とは聞いたことがなかった。両親は、そのくらいのことは当然で、あえて確認する必要などないと思っていたのかもしれない。実はそのようなことなど一度も考えたことはなかったのだが。自分の迂闊さを突き付けられたような気がしてうなだれる利吉だった。
「すごく大きい問題だ。だが、すぐに答えを出さなければならない問題でもない。ゆっくり考えればいいんだ。だけど」
 言葉を切った半助が、ぐっと顔を寄せて口調を強める。「これは君自身の問題だ。答えを出せるのは君だけなんだ。君の人生には、誰も口出しすることなどできないからね」
「僕の…人生…」
 固い声で利吉が呟く。それはあまりに大きくて漠としていて、果たして答えなど出せるものなのか見当もつかなかった。途方に暮れたように利吉が半助に眼を向ける。
「でも、一人で考えなければならないものでもないんだ…困ったら誰かに相談してもいい。ご両親でも、誰かほかの信頼できる人でも」
 言いながら、事実上両親しか相談相手になれないこの場所で育つことへの危うさをふとおぼえる半助だった。これから難しい年齢を迎え、親への反発心も生まれるだろう。そのとき、この少年の思いを受け止められる存在はあるのだろうか。
「誰か…他の人?」
 呟くように利吉が訊く。
「ああ」
「半助さん…でも?」
「私かい?」
 思いがけない台詞に思わず訊きかえした半助だったが、すぐに微笑んで大きく頷く。
「…ああ、もちろんさ。私でよければいくらでも」
 言いながら腕を伸ばして利吉の肩に手を置く。
「半助さんッ!」
 それがスイッチだったように利吉が半助の身体にしがみつく。一瞬、驚いたように眼を見開いた半助は、すぐに小さく頷くと、片腕を肩にまわして、もう一方の手で胸に顔をうずめた頭をそっと撫でる。
「僕、きちんと考えます…一流の忍者になるためにはどんな覚悟をしなきゃいけないか、一生懸命考えます…」
 広く固い胸に顔を押しつけて、むせび泣きながら利吉は言う。そして思うのだった。なんて暖かい身体なんだろう、と。

 

 

 -あの日と同じ暖かみですね、半助さん。
 実は布団に運ばれる途中で利吉はうっすらと眠りから覚めていた。そして、まるで子どものように抱き上げられた身体は、半助の温もりをしっかりと受け止めていた。やがてそっと下ろされた身体に布団がかけられる感覚とともに、ふたたび意識が眠りへと引き込まれていく。
 -あれから私はひとりでずっと考えてきたけど、ずっと心の中で半助さんに相談していたんですよ…。

 

 

 

 

<FIN>

 

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