脱出

 

 土井先生は謎の勢力に救出されます。その正体は…また別のお話にじっくり書いておりますのでお楽しみにw

 

 

    はじまりの場所へ   REGO~はじまりの場所へ~

    捕囚         REGO~捕囚~

    奈落         REGO~奈落~

    Intermezzo

    脱出         REGO~脱出~

    たどりつく場所    REGO~たどりつく場所~

 

 

「御家老様は消せと簡単に仰るが…」
 自分たちの間への廊下を歩きながら、二郎左衛門がぼやく。
「忍を消すなど簡単なこと。弾正にやらせればよいではないですか」
 少し後ろに従う兵衛が、あっさりと言ってのける。
「兵衛。物事はそれほど簡単ではないのだぞ」
「そうでしょうか」
「まったく…考えてもみよ。城の牢に入れた者を、どういう形であれ外に出すには、それなりに理由というものが必要なのだ」
「あの乳母子は、果てたではありませぬか」
「果てた者を外に運び出すのにどれだけの注意が要るか、分からぬのか。目立たないように外に運び出すだけでも細心の注意が必要なのだ。それに、死体を片付けたり血を掃除したりする牢番どもがどんな噂話を広めるか、分かったものではないのだぞ」
「口止めすればよい話でしょう。それが彼らの仕事なのです」
「それなら、なぜ城中が土井半助、いや、勢至丸のことを知っているのだ」
「は? そんなことが…?」
「そうなのだ」
 二郎左衛門は苦々しげに吐き捨てた。
「先ほどの会議のあと、御祐筆の寺島宗安殿と勘定奉行付の飯田源兵衛から、そろって同じことを聞かれた。福原の漆間の嫡子が捕まっているとは事実か、とな。こんなことでは城外に知れるのも時間の問題だ。いや、もう漏れているかも知れぬ。それに…」
「それに?」
「時期が悪すぎる。城中には穴太衆や普請役の者どもがひしめいている。それも牢の近くでだ。人目が多すぎる。それも外の」
「それならば、いい方法があるではありませんか」
「ほう?」
「牢の辺りの工事も近々着手します。城外のしかるべき場所に留め置くということで外に出してしまえばこちらのもの。あとは弾正にいかようにもやらせればよろしいではありませんか」
「工事を理由に、外に出す…か」
 二郎左衛門は、立ち止まって、その可能性をあれこれ考えた。
「なるほど…兵衛、いけるかも知れぬ」
 立ち止まって顎鬚をひとなでする。展望が開けた気がした。
「その手でいこう。弾正への指示、抜かりないようにな」
「はっ」
 -あとは、福富屋との手打ちか…。

 


 牢の中で、半助は横たわっていた。城内の普請のせいだろうか。牢のすぐそばまで多くの人足が入っているらしい足音が、冷たい床から伝わってきた。
 いつもの半助ならば、このチャンスを逃さないはずはなかった。外部の人間が多くいるということは、それだけ警備が手薄になる瞬間が増えるということでもあった。しかし、いまの半助には、そのようなことを考える気力さえ残っていなかった。自分は存在することが許されず、しかし果てることも許されない…ただ絶望だけがぽっかりと胸に空洞をあけていた。
「土井…半助殿ですかな」
 その足音のひとつが、いつの間にか牢の中に入ってきていることに、半助は不覚にも気づかなかった。
「?」
 穴太衆の身なりをした男が、そこにいた。男は半助に近づくと、口から布切れを引き出し、次いで取り出した苦無で縄を切った。
「なぜ…私を…」
 乾いた喉から、辛うじて絞り出した声に、男は答えなかった。
「ご一緒に来ていただきます」
「断る…私は、ここで果てるのだ」
「それは、私が困ります。お断りになるというなら、それでもご同行願うだけのこと」 
 次の瞬間、鳩尾に拳が打ち込まれ、半助は意識を失った。

 


 ずん、と鈍い振動が城内に轟いた。みしみしと柱が軋む。遠くで、奥勤めの女中たちの悲鳴が響く。
「!」
「地震か」
 二郎左衛門と兵衛が同時によろめく。前回の地震もそうだった。大きな縦揺れがあったあと、横揺れが襲ってきたのだ。床や壁に手をついて横揺れに備えて身構える…が、なにも起こらない。次いで、「石が崩れたぞ!」という叫び声が聞こえてきた。
「なに!?」
「石が、崩れた?」
 一瞬、顔を見合わせた二郎左衛門と兵衛は、次の瞬間、地下牢に向けて駆け出していた。立ちすくんだり座り込んだりしている人々を押しのけ、本丸の地下へ続く階段が見えてきたところへ次の衝撃がやってきて、二人は突き飛ばされたように廊下に身体を投げ出された。いっそう大きい悲鳴が方々から上がる。だが、二人の耳は同時に、もっと不吉な音を捉えていた。がらがらと崩れる音。そして硝煙のにおい。
 -石垣が崩れ始めている?
 城内は混乱の極みに達していた。もはや、一人の囚人にかかずらっていられる状況ではない。二郎左衛門は、決断せざるを得なかった。
「兵衛、私は事態を収拾しなければならない。土井のことは任せた。何としても敵に渡してはならぬ。それから…」
 その間にも二郎左衛門の指示を求めて群れ集う部下たちに手早く指示を出す合間に、声を落として続ける。
「もし身柄の確保が難しければ、殺しても構わぬ」
 それからきびすを返すと、大またに歩きながら考える。
 -牢の辺りを爆破されたとすると、ニの曲輪は危険だ。三の曲輪なら…。
 その間にも、二郎左衛門の周りの人だかりはますます膨らんでゆく。
「殿と奥方には、三の曲輪にお移りいただくのだ。火が上がっているかどうかと石垣の崩壊状況を至急調査して私に報告せよ。城門全てを閉鎖せよ。城内にいる人間は外に出すな。それから…」
 大声で指示を出しながら、勘解由のもとに向かう。ひとまず善後策を協議しなければならない。

 


 兵衛は地下牢に向かった。しかし、地下牢への階段は途中で崩壊し、崩れた石や土砂で埋まっていた。牢番や警護の兵たちが通路を確保しようとしていたが、作業は捗っていないようだった。内部がどうなっているのか、うかがい知ることはできない。
 -土井を救助するための爆破として、どこから抜け出すつもりだ…。
 不意に兵衛は、もっとも大きな可能性について失念していたことに気付いた。
 -石垣の亀裂…!
 穴太衆として忍がもぐりこんでいたのであれば、石垣や土台に入った亀裂を少しばかり拡張して通路を確保するくらいは朝飯前である。おまけに、黒松の城は、一部が空掘だった。この混乱に乗じて番兵の目を盗んで脱出することなど、簡単ではないか。
 -弾正だ。弾正を呼んで街道と港を封鎖しなければ…!

 


 その頃、黒松の城下では、だしぬけに城から上がった二発の轟音と煙に、動揺が広がっていた。多くの町人たちが街路に出たり、屋根に上がったりして城の様子をうかがおうとしていた。また、商人たちは戦の可能性を予感して、蔵の商品や財産を荷車や小舟に積んで街から退避させ始めていた。
 そして、荷を満載して沖に漕ぎ出すたくさんの小舟に混じり、長櫃にむしろをかけた小舟が、沖に停泊している商船に向けて舳先を向けていた。

 


 城下で半助を収容するための小屋の改修を検分していた弾正は、城からの轟音を聞くやすぐに駆け出していた。何が起こったかは明らかだった。
 -くそ、下島の連中がやはり穴太衆に紛れ込んでいたか…。
 その危険性は何度も指摘したはずだった。だが、普請奉行の強硬な主張によって、穴太衆が普請から外されることはなかった。
 -言わないことではない。
 だが、今はそれより先に考えるべきことがあった。
 -連中が土井を逃がすとすると、どうするか。
 不意に、弾正の目に、荷を満載した荷車を引いた商人たちが、通りを押し合いへし合している光景が映った。
 -街道だ。港も危ない。手の者を使って封鎖しなければ。
 それも、頭の固い関所の役人を通じていては遅い。勝手に検問所を作ってしまうしかない。すぐに部下を呼んで指示を出す。次いで、港の様子を見に行かせる。やがて戻ってきた部下からの報告は、予想を上回るものだった。
「港から沖合いまで、小舟で埋め尽くされています。漁船や伝馬船も残らずチャーターされています。その勢いに押されて、沖合いに停まっていた船が更に沖に押し出されて、ひとまず淡路へ退避する船もいるようです。昨日着いた、室津の船は、淡路どころか、そのまま大坂へと向かったようです」
「…」
 弾正は黙って聞いていた。最後の室津の船のくだりが気にかかった。 
「その室津の船、なにか積み込んでいなかったか。目撃者を至急探すのだ」
「は」
 -気のせいかもしれない。
 だが、忍の性が、アラートを発していた。なにか、不自然である。

 


 弾正の懸念が現実となった。
「室津の船に、長櫃が積み込まれていたのだな。確かだな」
「はっ。筵で覆われていましたが、あれはたしかに長櫃だったということです」
「そうか」
 弾正は顎鬚をに手をやりながら数秒考えてから、部下に向き直った。
「あるいは室津船はおとりかも知れぬ。引き続き街道筋の検問は続けるのだ。室津船は、早急に船を出して行き先を確認せよ。私は兵衛殿に報告してくる」
「はっ」

 


 弾正からの報告を受けた兵衛は、難しい判断を迫られていた。城内はいまだに混乱が続いていた。城主一家は安全な三の曲輪に移したとはいえ、二郎左衛門はまだまだ多くの業務に追われて、接触する時間が作れなかった。一方で弾正からは、街道筋に臨時検問所を設置したことの事後報告と、不審な室津船の追撃許可を求められていた。
 -臨時検問所の件は、後追いで書状の一通も出しておけば済むことだ。だが、室津船の追撃は、私の権限を越える。
 二郎左衛門ならどうするだろうか。室津船が最終的にどこに向かったかを確認するまでは判断を控えるだろうか。

 


「ふむ」
 ようやく二郎左衛門の時間を確保して報告する。
「室津船は石山に向かうということか」
「はい」
 -ややこしいことになったな。
 大阪湾に面した石山本願寺は、一向宗徒の拠点の一つとして重要な場所だった。本願寺領は、ひとつのアジールとして、所領で一揆を主導した一向宗徒の逃げ場所になっていた。一向宗は経済力とそれに伴う軍事力もあったから、手出しをするには厄介な相手と言えた。
 -少なくとも、忍が本願寺に逃げ込まれてしまうと、取り戻すのは難しい。
 ではどうするか。 
 -直接の攻撃はリスクが高い。だが、海上の検問、いや、封鎖なら…。
 播磨への不審船を臨検すると言う名目ならば、石山の目の前の海で海上行動をおこなっても理由が立つ。それに、海上封鎖をすれば、石山への物資搬入ルートの半分を奪うことになる。それで本願寺を交渉の場へ引きずり出すことができるだろう。
 -京方へのアピールにもなる。
 大阪湾を海上封鎖すれば、自動的に淀川河口をふさぐことになる。淀川や木津川を通じた京、奈良への物流を止めることにもなる。
 -よし、この手で御家老様に報告しよう。
 小姓を呼んだ二郎左衛門は、さっそく勘解由との打ち合わせのセッティングを指示する。

 


「なるほど、そういうことか」
 勘解由が頷く。
 -海上封鎖か…。
 家老として、実施に伴う広範な政治的効果をすばやく計算する。
 -本願寺には、わが領内、それも福原で一揆を起こした連中が多く逃げ込んでいる。連中の引き渡しを要求するいい材料になるだろう。そして京方にも、われら黒松の実力を見せつけるよい機会となるだろう。さいわい西国の中内殿は塩飽水軍とのいざこざで手が離せないから、背後を衝かれるリスクもない…よし、これで行ける。
「ぜひ、我らと関係の深い水軍を動員しての海上封鎖の御裁可を」
「あい分かった。だが、海上封鎖の名目は、石山に逃げ込んだ福山一揆の者どもの引き渡しということにいたせ」
「は…?」
 困惑したように眉を上げた二郎左衛門だったが、すぐに心得て平伏する。
「かしこまりましてございます」
 -なるほど、室津船が狙いとは表ざたにはできないからな…。
 黒松領内で一揆を起こした福原の一味が本願寺領の石山の町に逃げ込んでいることは、前々からの懸案だった。その引き渡しを求めた海上封鎖なら、周辺の大名や諸勢力からもさほど意外には取られない

だろう。
「殿には私から報告しておく。今すぐにかかれ」
「は」
「それから二郎左衛門」
「は」
「勘定奉行が、城の普請費用の再積算を出してきたのだがな…」
 懐から書付を取り出しながら勘解由が続ける。内密の話と察した二郎左衛門が膝を寄せながら、振り返って兵衛に命じる。
「は…兵衛、それでは、いまの話の通りに采配せよ」
「かしこまりました」
「それで、どのような積算でございましたか」
 話を続ける勘解由たちに一礼すると、兵衛はさっと席を立った。

 


 黒松が海上封鎖を実施したということは、それが本願寺をターゲットにしたことが明白であるために、なおさらセンセーショナルに広がった。

 

 

「土井殿、起きられよ」
 長櫃の蓋が開き、ぼんやりとした光が差し込んできた。それさえも十分に眩しくて、半助は瞼を手で覆った。
「ここは、どこなのだ」
 かさついた声で、半助は見えない相手に訊ねる。
「船の中だ。すでに黒松の城下からは離れている。あなたは安全だ」
「あなた方は誰だ。なぜ私を助けた」
「それが任務だからだ」
 声は、全ての問いに答える意思はないようだった。
「どこに、向かっているのだ」
 少しずつ、光に目が慣れてきた。そろそろと瞼を開けると、狭い船室の壁に、ぼんやりとした燭台の灯がゆらゆらと影を揺らめかせていた。船は、風を受けて進んでいるようである。
「あなたには、石山で降りていただいた後、堺に向かっていただく。石山から先は、下島の方々がお送りするだろう」
 -石山…本願寺か。
 なるほど、いいアイデアだと、半助は思った。いくら黒松でも、本願寺にはうかつに手を出せない。本願寺から堺までは一日の距離だ。

 


「室津船は、石山の手前で停船しておるとのこと」
 黒松城では、家老の新井勘解由に政所執事の芝二郎左衛門と執事代の後藤兵衛が報告していた。
「海上封鎖は抜かりないであろうな」
 勘解由が確認する。
「は。小舟一艘出る隙間もありませぬ」
 自信たっぷりに言い切る二郎左衛門の傍らで平伏しながら、兵衛は内心そっとため息をついた。
 -いいのか、そんなことを言い切ってしまっても。
 実際には、広い大坂湾を封鎖するのは至難の業である。主要航路沿いに船を集中せざるを得ないから、どうしても手薄な個所が出てくる。ましてベテランの船乗りであれば、月明かりや星明りでも船を動

かしてしまうことは十分可能である。さて、封鎖している側の黒松勢や水軍に、その動きを阻止することなどできるのだろうか。
 -我らの狙いは、あの不審な室津船だ。あの船の動きさえ封じ込められれば十分ではないか。
 兵衛の思いをよそに、勘解由と二郎左衛門の話は続いている。
「このたびの海上封鎖は、わが黒松の威力を見せ付けるまたとない好機。これで京方も、わが黒松をあだやおろそかには思わなくなるであろう」
「まさにその通りでございます」
 調子よく合わせている二郎左衛門に、兵衛はまたもため息を押し殺した。
 -こんなことをしている間にとっととあの室津船を臨検してしまわないと、また取り逃がしてしまうというのに…。
「…ところで、例の室津船ですが」
 勘解由がだいぶ上機嫌になったところを見計らって、ようやく二郎左衛門が目下の課題に触れる。
「室津船…? おお、例の忍が逃げ込んだという船か」
 鷹揚に扇子を使っていた勘解由の声も改まる。
「はい。いつまでも石山の手前で留め置いておくわけにも参りません。臨検して例の忍を見つけ出さねば」
「だが、あの船は、本願寺がチャーターしているのであろう」
 勘解由が眉をひそめる。
「は」
「とすれば、我らが臨検すれば、本願寺をいたく刺激することにはなるまいか。まして、火器などが積まれていたときには、我らもそのまま通すわけにはいかなくなる」
 それもありうることだった。本願寺と通じている西国の中内氏が、軍勢を差し向ける前にチャーター船で武具を融通することは、ない方がおかしかった。
「ということは、臨検は今しばし見送ったほうがよいと…?」
 当惑声で二郎左衛門が確認する。
「時期が悪いことは確かだ」
「しかし、このまま留め置いているうちに、例の忍が脱出してしまうこともありうるのでは…」
「小舟一艘抜け出る隙もないのではなかったか」
 勘解由に鋭く指摘されて、二郎左衛門は言葉を失う。
「とにかく、今回の一件に本願寺が絡んでいることは事実。まずは書状を送りつけて、反応を見ることとする。よいな」

「「は」」
 二郎左衛門と兵衛が平伏する。 

 


 -船が動いていない。
 しばらく前から、明らかに船は碇を降ろして動いていない。港に着いた気配もない。港の近くで足止めを食っているようである。
 -これは、何かある。
 半助はそっと船室を抜け出すと。水夫たちの集まっている区画に身を潜めた。
「ったく、石山を目の前にして足止めとはな」
「早く陸に上がりたいもんだぜ」
 水夫たちが愚痴っているところに、上役らしい男の声が加わる。
「それどころではないぞ。黒松殿の臨検が終わらないと、われらは碇を上げることさえ許されないのだ」
 -そうか。黒松がこの船の接岸を止めているのだ。
 狙いは当然、自分だろう。なぜこの船に乗り込んだのが分かったのかは後の問題として、とりあえずはこの船から脱出する必要がある。自分をこの船に連れ込んだ人が、仮に自分の味方だったとしても、黒松が実力行使して船を止めているところに臨検を拒否しとおすことができるかどうかは疑問だった。
 船に残っていれば、いずれ黒松の臨検で見つかることは明らかだった。半助はそっと陸までの距離を目測すると、当座の自分の居場所であるらしい長櫃のある船室に戻った。
 -さて、どうするか。
 自分を助けた者(おそらく、忍であろう)が、どこまで自分を助ける気があるか、半助には今ひとつ掴めなかった。また、間違いなくこの船の乗組員のほとんどは、厄介な積荷が半助であることを知らなかった。
 -では、抜け出すしかない。
 船から岸までは、ざっと半里くらいに見えた。何か浮くものにつかまりながらであれば、泳ぎきることはできるだろう。
 -現金なものだな。
 そこまで考えて、ふと半助は、自分に苦笑する。つい先ほどまで、生きる希望をなくしていたと思っていたのに、ひとたび牢から出されるや、逃げ延びることばかりを考えている。
 -あの者は、私をなぜ助けたのだ。
 それが分からない以上、いつまでも身を委ねることは危険だった。たとえ、黒松の城を爆破してまで自分を救出しようとしたとしても。いや、だからこそ、危険なのかもしれなかった。そこまでして自分を救出しようとする動機が、どこの誰にあるというのだ。いまや、なにもかもを喪ったひとりの男に過ぎない自分に…。

 


「本願寺からの返書です」
 兵衛が差し出した文書を二郎左衛門が広げる。
「…」
 黙って眼を通した二郎左衛門は、文書を兵衛に手渡す。
「これは…」
「思った通りだ。知らぬ存ぜぬで通すつもりらしい」
 勘解由の指示で本願寺に送った文書は、表向き黒松領内で一揆を起こして本願寺領の石山に逃げ込んだ一揆勢の引き渡しを求めていた。ついでに、沖合に留め置かれている室津船の臨検を求めたものだったが、本願寺からはゼロ回答だった。これは予想された内容で、これからが交渉の本番である。
 


「『積み荷』は確実であろうな」
「はい」
 長櫃の中に戻った半助の耳に、船室に入ってきた人物の会話が入ってきた。質問を発した人物の声は初めて聞くものだったが、短く答える声は、聞き覚えがあった。
 -私を助けた男の声だ…。
 だが、聞こえた会話はそれだけだった。やがて足音が去り、船室から気配が消えた。
 それでも、宵まではじっとしていることに決めた半助は、長櫃の中に身を横たえたまま息を殺していた。
 ひどく息苦しかった。目の前に迫った長櫃の蓋が、暗闇の中でも圧迫感をもってそびえていた。酸欠になってしまいそうな気がして、思わず喘いでしまう。
 -いつまで、この中にいなければならないのだろうか。
 そもそも、真っ暗な船室の、長櫃のなかに隠れていては、時間など分かりようがなかった。今が昼なのか夜なのかさえ分からないのだ。先ほどの偵察で、午後になっていることは分かっていたが。
 -だが、あとどれだけこうしていればいいのか。
 それは、途方もなく長い時間のように思えた。それまで、自分は死体のように長櫃に身を横たえていなければならないというのだろうか。
 ふいに、船室に入る足音が聞こえて、半助は身を硬くした。近付いてきた足音が、長櫃の蓋に手を掛ける。
「食事だ」
 声の主は、先ほどとは違う人物のものだった。身を起こした半助の前に、雑炊の椀を手にした男がいた。覆面をしていて、その面立ちはまったく分からなかったが。
「早く食べろ。ほかの者に気づかれる」
 気がかりそうに背後をうかがいながら、男は手にした椀を突き出す。
 受け取った雑炊をかき込みながら、半助は相手をそっと観察する。この男も忍であることには間違いなさそうだったが、どこの忍かも、なぜ自分を助けたかも分からないことには変わりがなかった。
 相手がどのようなつもりであれ、今夜のうちにこの船から逃げるつもりだった。だから、あやしげな気配を悟られないよう、半助は無心に飯をかき込む。

 


 夜になった。半助は長櫃のある部屋をそっと抜け出した。
 船内の見回りが通り過ぎるのを待って、船室の入り口で気配を探る。
 船というものが、これほど忍びにくいものだということを、半助は改めて思い知った。船であるゆえに、当然ながら床下も天井裏もなく、人口密度が高いので、誰にどこで出くわすかも分からない。おまけに、甲板下の船室は窓もないため、昼も夜も真っ暗で、時間の感覚が掴めないのだ。
 -だが、いまが夜であることは間違いない。
 水夫たちの船室からは、宴会の騒ぎ声が聞こえてくる。すでに数日、陸を目前に足止めされていて、

水夫たちの苛立ちもピークに達しているらしい。今夜もケンカが勃発したらしく、上役の船員たちが仲裁に駆けつけている。
 -いまだ。
 甲板に出てみると、いつもは数人が見張りをしている甲板に人影がない。ケンカの仲裁に行ってしまったのだろうか。
 -よし!
 手近にあった大きめの桶を手にすると、半助はためらいなく船尾の艫綱を伝って、夜の海へとするすると下りていった。

 

 

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