暗夜行路

 仙蔵と伊作、接点の少なそうな二人の会話です。

 六年生の彼らには、それぞれの進路も切実な問題で、模索を続けている時期なのでしょう。

 優秀でクールな仙蔵にも、それなりの迷いがあって、伊作もまた迷いを抱えながらも、仙蔵の悩みを受け止められる、そんな優しさをもった子なんだと思います。

 ちなみに医務室では、伊作は無敵なんだろうと思われます。

 

 

   1  

 

 -相手は3人か…。
 風が強い。時に相手の気配を消すほどの風が、木の葉を巻上げ、木々を揺さぶる。ここは草深い丘の上。動けば無防備な姿をさらすことになる。丘を下ったところには森が広がる。森に駆け込めば、ひとまず逃げることができる。
 月が明るく照っている。が、上空には大きな雲が間断なく通り過ぎ、月を遮る。いま、ひときわ大きな雲が、月影をすっぽりと覆い隠していく。
 -今だ。
 伊作は草叢から飛び出すと、一気に森へと駆け抜ける。
「いたぞ!」
 声と同時に忍鉤が空を切って飛んできた。とっさに苦無で払う。ついでに足元に仕掛けられた縄を切り、さらに走る。誰かが追走してくる。もはや風の音も耳に入ってこない。あと少しで森に逃げ込める。しかし、その前に、追走してくる相手を振り切らなければ。
 月が再び顔を出す。抜き身になった忍刀が光を放つ。
「そこまでだっ」
 相手は一気に斬りかかってくる。伊作は素早く刀を抜いて、辛うじて相手の刀を受けた。閃光が走る。そのまま刀を押し戻し、振り下ろす。相手の刀は完全に振り払った。そして、なにか鈍い感触を刃先に感じた。
 -いまの感触は…。
 だからといって立ち止まってはいられない。そのまま森に駆け込み、木々の枝や下草を縫って走り抜ける。

 


「やるな、伊作」
 夜間演習を終えた六年生たちは、学園に戻っていた。月夜という悪条件ながら敵をかわし、逃げる訓練をなんとか無事に終えたところだった。
 六年生ともなると、演習とはいえ実戦さながらの危険が伴う。忍器も刀も本物を使うから、ほんの小さな気の緩みが怪我につながる。
「忍鉤を投げたのは留三郎だったのか」
「ああ。うまく足を捕えるつもりだったが、かわされたな。ついでに用心縄も切られるとは」
「あれは偶然さ。それより…」
 伊作は先ほどから気になっていたことを口にした。
「私を追走してきた奴と刀を交わしたとき、勢いで切りつけてしまったのだが、大丈夫かな」
「ああ、それは仙蔵だ。腿をかすったとか言ってたぞ」
 のんびりと答えたのは小平太だ。
「それは大変だ。仙蔵はどこにいるんだ」
「さあ…な。医務室で勝手に包帯でも使っているんじゃないか」
「冗談じゃないぞ。金創(刀傷)はかすっただけでも危険なんだ。うっかり傷口から毒でも入ったら…」
 伊作は立ち上がると、医務室へと駆け出した。
「おい、伊作。先生の講評はどうするんだ」
 背後からの小平太の声に、声を張り上げて答える。
「聞いといてくれ、頼む」

 


 果たして、医務室には仙蔵がいた。左の腿に包帯を巻いている。側に脱ぎ捨てられた制服の袴には、裂け目が入り、血が滲んでいる。
「仙蔵、大丈夫か」
「ああ…伊作か。大丈夫だ。包帯、借りたからな」
「ちゃんと消毒したのか」
「水で洗ってある。ちょっとかすっただけだ」
「大丈夫なもんか。金創はかすっただけでも危険なんだぞ。傷を見せろ」
「たいしたことはない…お前が忍刀に鳥兜でも塗ってなければな」
 端正な顔を傾けて、仙蔵は笑う。
「塗ってはいないが…金創はかすっただけでも思ったより深くなることは仙蔵も分かっているだろう」
 一旦巻いた包帯を解きながら、伊作は言う。
「金創から毒が入ると、あっという間に全身に回る。傷は…よし、きれいにしてあるな」
 三寸ほどの傷は、出血も止まっているようだ。
「金創には、まず消毒が必要だ。消毒薬を塗るからな」
「その薬は?」
「当帰や紫根で作った薬だ。外傷全般に効く」
 伊作が薬を塗っている間、しみるのか仙蔵は眉を寄せて歯を食いしばっていた。が、伊作が丁寧に包帯を巻くと、ほっとしたような表情になっていた。
「厄介になったな、伊作」
「こっちこそ、済まなかったな。刀を振り払うだけのつもりだったが、勢い余って振り下ろしてしまった」
「いや、あれは私の判断ミスだ。油断した」
「おおかた、私があれほど振り下ろしてくるとは思ってなかったんだろう」
「いや…まあ、そうだ…すまない」
 仙蔵は苦笑して、頭を垂れた。伊作も思わず吹き出す。
「やっぱりそうか…道理で、一瞬、仙蔵の動きが鈍ったように思えたはずだ」

 


「あとは、大黄黄連瀉心湯だ。金創は、いまは閉じていてもすぐに開いてしまうから、熱邪を去って出血を抑えなければならない」
「まだ薬があるのか」
「これは飲み薬さ」
 沸かした湯に大黄などを入れながら、伊作は答える。
「大黄と黄連を熱湯で抽出するんだ」
「そんなに薬は要らないよ。いざ戦場となれば、薬なんか手に入らないんだから」
「何を言うんだ。戦場は戦場、学園は学園だ。ここにいる限り、必要な手当ては必ずする。まして、六年生のエースの仙蔵がうっかり私の刀がもとで毒が回ったとなれば、取り返しがつかないからな」
「いや…それより、部屋に戻りたいのだが」
「まだ動いてはだめだよ」
「いや…その」
 手当てが一段落すると、仙蔵は、急に下帯をさらしたままの姿が恥ずかしくなった。
「言っただろ。金創は開きやすい。下手に動いてまた出血したらどうする」
「もう大丈夫なんだろ。その、消毒薬も塗ったことだし」
「あれは、あくまで傷口を消毒するだけだ。これから処方する大黄黄連瀉心湯は、消炎や抗菌、血液凝固を助ける。それで、傷口を開きにくくするまでは、ここで安静にしていてもらうよ」
「だけど…」
「下帯さらすのが恥ずかしいのか?」
 伊作は、包帯を片付けながらあっさりと言った。
「まあ、そうなんだが」
「いまさら何を恥ずかしがるんだ…私たちは一年のときから一緒だろう。仙蔵の裸など、見飽きるほど見ているぞ」
「まあ、そうかも知れないが」
「気にするな。治療のためなら、男だろうが女だろうが裸を見たってどうとも思わない。それが保健委員というものだ」
「さすがは保健委員長だな」
「それが仕事だからな」
「仕事、…か」
「どうした?」
 仙蔵は、次の言葉を探した。伊作が口にした仕事、という言葉に(おそらく必要以上に)何かの意味を探してしまう自分がいた。
「…もう少しで、卒業試験だな」
「卒業試験?」
「ああ。今日の演習も、卒業試験に向けたものだっただろう」
「そうだったな」
 沸騰した湯からの抽出の度合いを見ながら、伊作が答える。

 


「伊作、お前はどうするんだ」
「どうするって?」
「だから、卒業したらさ」
「卒業したら…か」
 煎じ器に団扇で風を送りながら、伊作はつぶやく。
「仙蔵なら、フリーでやるにしても、どこかの城や忍集団に入るにしても、引く手あまたなんだろうな」
「いや…それはどうだか分からないが」
 -それに比べて自分は…。
 伊作は考える。六年間、忍術学園に在籍して、それなりに技術は身につけていたつもりだった。しかし、自分が忍に向いていないと言われていることは知っていたし、自分でも分かっていた。
 -私が忍に向いていないとすれば、技術ではなく、精神面の問題だ。それでも、私は…。
「私は、忍になるよ。他にどうしろというんだ」
 こうとしか、言いようがないではないか。自分でさえ、信じていない台詞ではあったが。
「本当に、そう思っているのか?」
 まっすぐ自分を見つめてくる仙蔵の視線にたじろぎながら、伊作はしどろもどろに続ける。
「忍にもいろいろあるだろう? 私は仙蔵のようなカッコいい忍にはなれないだろうが、私なりの忍になるつもりさ」
「そうか」
「仙蔵には、私は、忍には向かないと見えるんだろうな」
「いや…私には分からない。だが、伊作には、他の可能性もあるのかな、とは思うが」
「他の、か…」
「そうだ…」
 伊作を除く六年生の間では、しばしば交わされる話だった。伊作は、忍にもっとも向かない性格である。そして伊作には、校医の新野から絶大な信頼を寄せられるほどの医術と本草(薬学)の知識がある。
 -お前には、自分の得意とするものを生かしていく道があるのではないか?
 それをストレートに口にしてしまうのは、さすがに憚られた。だが仙蔵には、伊作に現実を直視させる必要があるようにも感じられた。
「伊作、お前は医術というものを持っているのだから、それを生かせると、私は思う。どんな閉鎖的な集団でも、医術を持つものは歓迎されるからな。その意味で、お前には、相手の懐の一番深いところに飛び込めるものを持っているのではないかな。諜報だろうが暗殺だろうが、一番やりやすい立場にな」
「私に、そのようなことができると本気で思っているのか。仙蔵」
 醒めた声で伊作が答える。
 -仙蔵は、あえて、暗殺という単語を口にしている。
 そう思った。伊作が本能的に抵抗感をおぼえる言葉を。
 -そうすることで、仙蔵は、私が本当は何に向いているかを気づかせるつもりなのだろう。それでも、私は…。
「私たち六年は、もう忍としての基本はマスターしている。あとは、得意とするものを伸ばす段階なのではないかな」
 静かに語る仙蔵の口調に籠もる懊悩に、伊作は気づかない。
 -得意とするもの…伸ばす…。
 それが自分にとっては、医術と本草なのだろう。それは、忍と両立できるものなのだろうか…。
 びょう、と風が吹き込んで、燭台の灯を吹き消しそうになった。
「風が強いな」
 伊作は立ち上がると、窓の戸板を閉じた。きちんと閉めていないのか、遠くからばたばたと戸板の鳴る音がする。

 

 

Page Top       Next →