穴の中で
なんだかとても自己犠牲的な伊作を書きたくなって、構想から3日で書き上げてしまいました。
ゆえに場面のつながりが悪かったりするところがあったりしますが、説明的な場面はバッサリ落として萌えの鮮度を優先してしまったお話です。
六年生と二年生ってあんまりない組み合わせだと思うのですが、どうでしょう?
-ここ…は?
暗がりの中で左近はゆるゆると意識を取り戻した。ひやりと湿った土のにおいがした。
-穴に、落ちたのか?
だが、それにしては、体全体は不思議に暖かかった。そう、まるで誰かに抱きすくめられているみたいに。
-ということは!
はっとして眼を大きく見開いた左近が辺りを見回そうとする。
「やあ、左近。気がついたかい」
すぐ近くから、穏やかな声が聞こえる。
「い…伊作先輩?」
「そうだ。ケガはないかい?」
暖かい感触は、伊作の身体に乗っかっているからだということがようやく理解できてきた。それにしても、自分の身体は、顎を伊作の胸に乗せていて、体全体は鯱のように反り返って足が最も高い位置にある。伊作も、自分を受け止めるように肩を穴の底につけたまま、身体は穴の壁にもたれている。
「先輩…ここは?」
「どうやら、僕たちは熊を捕獲するための罠にかかってしまったようだね。この深さはいかにも熊がよじ登れないような作りになっている」
「でも…どうして先輩が…」
-自分の身体より下に?
ようやく左近の意識が、穴に落ちる瞬間まで巻き戻される。左近たち保健委員会のメンバーは、薬草採りに山に入っていたのだった。
「乱太郎たちは…?」
一緒にいた乱太郎たちの不在にようやく気付く。
「乱太郎たちは、学園に助けを呼びに帰したよ。この穴はずいぶん深いからね。僕たちだけで脱出するのは難しい」
伊作の答えで、左近は状況をようやく把握する。いや、ひとつ根本的な状況についてまだ理解していなかった。
-先に立って歩いていた僕が、熊用の罠に落ち込んだ時、伊作先輩は明らかに後ろを歩いていたはずだ。それなのに、どうすればこの態勢になるというのだろう。
「左近が穴に落ちてしまったからね。とっさに僕も飛び込んで、左近の身体をガードしようとしたんだ。うまく左近の身体はガードできたけど…」
左近の疑問を察したように伊作は続ける、。
-ということは、先輩は僕を守ろうとして、穴に飛び込んで、僕の身体の下敷きになったってこと?
六年生であれば、そのくらいの瞬発力はあるし、やろうと思ってできないことはないだろう。だけど、穴の中に何があるかも分からないのにどうして…それに、どうして伊作の声はこんなに苦しげなのだろう…。
「ケガはないかい、左近」
伊作はもう一度訊いた。
「はい。だいじょうぶです」
「それはよかった…」
安堵したような声に歯ぎしりが混じっていることに気付いた左近は、声をかける。
「伊作先輩は、だいじょうぶですか…?」
「ああ、大丈夫…と言いたいところだけどね…」
いまや苦しげな声を隠しきれずに伊作は答える。
「実は、肩を脱臼してしまったようなんだ…」
「脱臼!?」
-いったいどうして!?
「肩から穴の底に落ちてしまってね…穴の底の近くに出っ張っていた岩にぶつけてしまったんだ」
いかにも左近が口に出して訊いたように伊作は続ける。
「そんな…こんな穴の中で、しかもこんな状態で脱臼だなんて…」
思わず絶句する。伊作の声に力がこもった。
「左近、頼みがある」
「は…はい」
その先に何を頼まれるかほぼ予想はついていたが、左近はそれでも答えをためらう。果たして伊作は続ける。
「僕の脱臼を、整復してくれないかな」
「え…ええぇぇぇっ!?」
予想していたとはいえ、思わず動転した声を上げてしまう。脱臼の整復など、実際にやるのは初めてだったし、しかもこんな狭くて真っ暗な穴の中でいったいどうすればいいというのだ。
「そんなに驚くことはないだろ? 左近には脱臼の整復の方法はこーちゃんを使って教えたはずだよ。覚えていてくれるだろ?」
確かに、以前、骨格標本のこーちゃんを使って肩や顎関節の脱臼、突き指の治し方など、細かい症状別に教わっていた。だが、それとこれは別である。こんな悪条件の中で、しかも素人の自分がうっかり手を下して悪化させてしまったらどうするのだ。
「でも…僕は今まで脱臼の整復なんてやったことがないし、もしうっかり間違えたら、取り返しのつかないことに…」
あわあわと抗弁する左近を、伊作の苦しげに熱を帯びた口調が遮る。
「頼む。左近しかいないんだ。脱臼したままの状態で長時間放置することはとても危険だって教えたろ? それに、とても痛いんだ…頼む」
初めて耳にする、懇願するような口調だった。
-そうだ。脱臼するとものすごく痛いって伊作先輩は教えてくれた。僕をかばって脱臼したのに、それを治したくないなんて、そんなひどいことを僕は言おうとしている…。
いつも優しくて、そして患者を前にしたときにはとてつもない勁(つよ)さを見せて治療に打ち込む伊作が、あるいはこの脱臼のせいで二度と治療することができなくなるかもしれない。それも、自分の責任で。
-そんなことは、ぜったいにしない…!
薄暗がりの中で、きっと眼を見開く左近の姿があった。
「わかりました」
低い声で答えると、左近は狭い穴の中でもぞもぞと身体を動かして伊作に向かい合うようにしゃがみこんだ。
「失礼します」
伊作の制服の上着と襦袢を脱がす。六年生の中では細いとはいえ、自分よりはるかに骨太な体躯が露わになると、ためらいなく指を辿らせ、脱臼した部分を探る。
「…ありがとう」
苦しげに伊作は息を漏らす。
「右肩の肩関節を前方脱臼している。僕の右肩の角に触ってごらん。腫れてて分かりにくいかもしれないけど、肩甲骨の肩峰が出っ張っているのがわかるはずだよ…うぐっ!」
言われた通り伊作の右肩に触れてみる。それだけで激痛が走ったのだろう。伊作は思わずうめき声を漏らす。あわてて指を離したが、肩の角が不自然に突出していることは感じ取った。
「上腕骨と肩甲骨関節窩(けんこうこつかんせつか)がどうつながっていたか、覚えているね?」
「…はい」
必死でこーちゃんの肩の部分の構造を思い出しながら、左近はためらいがちに答える。
「肩甲骨の構造を思い出すんだ。関節窩と肩甲切痕(けんこうせっこん)の間に烏口突起(うこうとっき)が前の方に突き出している。僕の上腕骨頭は、いま、烏口突起の下あたりにあるはずだ。これを烏口下脱臼っていう…」
歯を食いしばりながら伊作は説明する。
「…これを元に戻す。上腕骨頭と肩甲骨の肩峰をしっかり持ってぐっと戻す…ほんの一寸もないから、絶対にためらわないで一気にやるんだ…いいね!」
「…はい」
返事はしたが、なお左近の両手はためらうように伊作の右肩の辺りを漂っている。触れただけであんなに痛がっているのに、自分がこれからやろうとしていることは、その何十倍か、あるいは何百倍の痛みがあるに違いない。すでに伊作の身体はじっとりとした脂汗に濡れている。そんな痛みがあるのに、しかも失敗する可能性が高い自分の未経験な手に、伊作はすべてを委ねようとしている…。
「左近! たのむ…!」
ひときわ強い声に思わず視線を上げる。俯いていた伊作がゆるゆると顔を上げる。薄暗がりの中で、それでも左近は確かに見た。いつものように優しく微笑む伊作を。
次の瞬間、衝き動かされるように左近は眼の前にある伊作の肩甲骨の辺りを右手でつかみ、左手で上腕部をつかむと、ぐっと『もとあるべきところへ』押し込んだ。伊作の声も表情も届かなかった。手には、こーちゃんで試した関節窩の臼蓋(きゅうがい)と上腕骨頭の整復の感覚がよみがえっていた。骨頭を覆う腱がしっかりと臼蓋にあたる感覚さえおぼえた。
-戻った!
確実に戻った感覚があった。だが、はっとして振り返った左近の眼に入ったのは、伊作の頤が持ち上がり、次いで頭をのけぞらせたままぐったりと崩折れるさまだった。ふわりと髷が宙を舞う。スローモーションのように、それはひどくゆっくりとした動きだった。
-伊作先輩!
伊作の意識はすぐに戻った。冷え切っていた身体が、またかっかと火照り、汗をふき出していた。
「まだ治療は終わってないよ…分かっているね」
痛みがぶり返してきたのだろう。肩で息をしながら伊作は指摘する。
「…はい」
脱臼の治療後は、固定が必要だと教わっていた。どのように固定すべきかも教わっていた、はずだった。だが、その記憶はすっかり消し飛んで、なすすべもなく左近は座り込んでいた。
「僕の頭巾を使うんだ。左わきから通して、右肩を覆うように、それから右腕に向かって固定する。しっかりと固定することが大事なんだ」
「はい」
指示された通りに脱臼した右肩を固定すると、自分の頭巾を解いて三角巾代わりに右腕を吊る。必死で処置を終えると、左近は大きな息をついて背後の壁にもたれた。
「よくやってくれたね」
気が付くと、伊作の左手が、自分の頭をなでていた。その表情は相変わらず薄暗がりの中で認められなかったが、きっと優しい笑顔になっているに違いないと感じた。
「左近は本当に頑張ったね。こんな悪条件の中でも、左近は逃げずにやるべきことをやることができた。きちんと教えたことをやることができた…」
低く穏やかな声で語りかけながら、左近の頭をなで続ける。
「僕は、左近を誇らしく思うよ。きっと、新野先生もそう思われるはずだ。医療者として、もう左近はどこに出しても恥ずかしくないくらい正しい心構えができている。それは、とてもすごいことなんだよ…」
ふいに涙がこみ上げてきた。
「…」
何も言わずにいざり寄ると、左近はそっと顔を伊作の身体に押し付けた。肩が細かく震えている。
-おや?
左近の頭をなでる手を止めた伊作は、軽く眉を上げる。そして、その手をそっと左近の肩に添えて抱き寄せた。
-本当に左近はよく頑張ったね。僕は、それがとてもうれしいんだ…。
「伊作。お前というヤツはな…」
「ごめん」
「俺はまだ何も言ってないぞ」
「そうだけど…とりあえずごめん」
穴の中で左近を抱き寄せながらうずくまっていた伊作を救出し、医務室に担ぎ込んで治療を済ませて部屋に連れ帰った留三郎は、延べた布団に伊作の身体を横たえると、その傍らにどっかと座り込んだ。
「なにが『とりあえず』だよ…」
思わずため息をつく。
「だいたいな。眼の前で左近が穴に落ちたからって、お前がダイブして左近の身体を抱えてその下敷きになろうなんて、どんなアクロバットなんだよ」
「もうそんなことまで聞いてるのかい?」
「当たり前だ。ったく、お前の無謀ぶりは限度ってものがないのかよ。穴の中に杭でも打たれてたらどうすんだ」
ようやく伊作が無事に目の前にいることが実感できた留三郎は、安堵のあまりがみがみと言ってしまう。
「ごめん。でも、もし穴の中に杭が打ってあったら、僕がガードしてやらなかったら左近が大怪我するところだったろ?」
「お前はいいのかよ!」
ばん! と留三郎の掌が床板を叩く。
「ああ。後輩を守るためだったら、僕は串刺しになったってかまわない」
顔をそむけながら、それでも伊作は言い切る。
「お前な! そんな自己犠牲で意気がってんじゃねぇよ! お前に何かあったら…!」
俺はどうすんだよ、と言いかけて、留三郎は慌てて口をつぐむ。
「だって…僕には、そのくらいしかできないから」
そうなのだ。不運大魔王とまでいわれるほど不運にとりつかれている不甲斐ない自分が、後輩を守るために何かできるとしたら、自分の身を投げ出すしかないのだから。
「お前ってヤツはな…もっと自分を大事にしろよ!」
思わず声を荒げる。
「だいたいな、自分がそんなことしかできないとか、寝ぼけたこと言うんじゃねえよ! 俺の親友がそんな脳足りんだなんて、俺は絶対認めないからな!」
激した口調の留三郎に気圧されながらも、おずおずと伊作は訊く。
「それって、どういう…」
「んなことも分かんないのかよ! お前は医術以外のことはホントに抜けているのかよ!」
「え…?」
「お前が結構な自己犠牲でくたばるのは勝手だ。だがな、そうしたら、お前の治療で助かったかもしれないケガ人や病人はどうなるんだよ! お前がくたばったり一生使い物にならない身体になったせいで治療を受けられなくなる連中のことをちょっとでも考えたことがあるのかよ!」
その中には自分自身も含まれているかもしれない、と思いながら留三郎は言いつのる。
「…」
もはや返すこともなく眼を見開くばかりの伊作だった。
「お前には新野先生から受け継いだ医術があるんだよ! それは世の中に役立てて、それから次のヤツに伝えていかなきゃいけないもんなんだろ? お前は義務を負っている、そんなことも分かってなかったのかよ!」
「…ごめん。留三郎…」
自分が全く考えてもいなかったことに気付かされた伊作は、打ちひしがれていた。
-そうだ。僕は、自分のことしか考えていなかった…自分がどんな義務を負っているか、まったく考えたことがなかった。なんという自分勝手な人間だったのだろう…。
「それにな」
思いつめた表情で青ざめる伊作に、いささか言い過ぎたと思った留三郎は声を落とす。
「…そうじゃなくてもあんな狭くて深い穴の中で、おまけに脱臼を後輩に整復させるなんて無茶にもほどがあるだろう。よく平気でいられたな」
「そんなことはないさ」
はっきりとした口調に、留三郎は眉を上げる。
「僕たちは保健委員だよ…脱臼の整復くらい、基本中の基本さ。まあ、一年生たちにはまだ早いから教えてないけど」
「まあ、今回は左近がうまく整復できたからよかったが…」
伊作の自信に満ちた口調にためらうものを感じた留三郎だったが、取り繕うように続ける。
「これから三週間は固定しなきゃいけないんだぞ…その間、鍛錬もできなくてどうするんだよ」
「…そうだね」
伊作も否定しない。それはつまり、忍への道がいっそう遠ざかるということだった。
「だけど、今日はうれしいことが二つもあったから、それはそれでよしとするよ」
言いながら、伊作の表情に笑顔が戻る。
「いいことが?」
思わず訊きなおす。こんな目に遭って、何がいいことだったというのだろうか。
「だって、左近が、医療者としてどこに出しても恥ずかしくないくらい優しい気持ちと病気やケガに立ち向かう勇気を持っていることがわかったし、それに留三郎が助けに来てくれたしね」
「俺が?」
「ああ。きっと来てくれると信じてたんだ」
伊作の視線が、まっすぐ留三郎に注がれている。
「…」
自分はたまたま学園にいて、パニック状態で駆け込んできた乱太郎たちに最初に声をかけたから駆けつけることができたのだ。もし鍛錬で裏山にでも行っていたら、到底そのようなことはできなかった。それなのに、なぜ伊作はそんなに確信的な口調で言えるのだろう。自分が来るのを信じていた、と。
「留三郎はいつも、僕を助けてくれたろ? だから、信じて待っていたんだ」
「だが…もし俺がいなかったら…」
「それでも、来てくれるって信じているさ」
「…そうか」
それ以上問いを重ねることがひどく野暮ったく感じられて、留三郎はちいさく頷いた。
-伊作は俺を信じて待っていた。俺はそれに応えられた。それだけで、きっと十分なんだ…。
「まあいい。とりあえず今日はこれ以上動かず安静にしていろ。夕食をもらってきてやるから、ちょっと待ってろ。わかったな」
照れ隠しのように早口で言いながら留三郎は立ち上がる。
「左近たちがいたら、見舞いに来るよう言っとくからな」
襖を閉じる手を止めて短く言う。
-ありがとう。
閉じられた襖に眼をやりながら、伊作は小さく微笑む。
-やっぱり、今日はとってもいい日だったよ…。
<FIN>