木馬の騎士

 

少女というものは白馬の騎士に憧れるものですが、おシゲちゃんにとっては、ちょっと頼りない騎士だけど、しんべヱこそが意中の人。でも、時代はそんな恋心もおいそれとは許してくれません。おシゲちゃんが騎士と出逢える日は来るのでしょうか。

 

タイトルはシューマンの「子供の情景」第9曲 "Ritter vom Steckenpferd"

 

 

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「やはり、そろそろおシゲの婿についても考えなければならないようじゃの…」
 先ほどから、腕を組んでなにやら考えこんでいる大川がひとりごちる。
「ヘム?」
 ヘムヘムが訝しげな眼で見つめる。
「いや、こっちの話じゃ…」
 苦笑いして手を振りながら、なおも大川は考える。
 -こればかりは、やはり政治の話にならざるを得ないの…。

 


 ことは学園の存立に関わる話である。実力派揃いの教員たちや兵庫水軍とのつながり、堺の豪商や紀州の鉄砲隊などが連なる生徒たちの保護者を通じた広範なネットワークは、そこらの土豪を上回るものだった。それだけに、忍術学園は周辺の城からは、ひとつの警戒すべき勢力として認識されていた。また、学園としても周辺の城が兵庫水軍や惣村にちょっかいを出すたびに加勢していた経緯もあった。
 これまで、あえてどこの城とも同盟関係を結んでいなかったのは、卒業生たちの就職先を確保する目的もあった。せっかく一人前の忍に育て上げた忍たまたちを、つつがなく各地の城や忍者隊に就職させるためには、一方の同盟関係にのめりこむことは避けなければならなかった。だからこそ、就職先を広範に確保できたのであり、それは、学園の情報網確保の面からも効果的だった。
 こうして、いずれの勢力にも肩入れせず、ドクタケを除いては敵対関係にもならずに独立の立場を貫いてきた。それは、これまではメリットであったが、最近はそればかりともいえなくなってきていた。
 規模の大きい忍者隊では、忍を独自に養成するようになっていた。一方で、優秀な卒業生とはいえ、まだ実戦経験の浅い若者を育成するより、即戦力としてプロ忍者を雇ってしまう傾向も強くなっていた。戦がますます頻発するようになった世では、どの城や忍者隊でも、若者を育成していくだけの余力がなくなりつつあったのだ。 
 -今後も、安定して卒業生たちの就職先を確保するためには…。
 大川は、考え込む。
 -関係の深い城に、継続的に卒業生を送り込めるルートを確保したほうがよいのかもしれぬ…。
 あるいは、就職先の城のニーズに合わせた育成をしていかなければならないだろう。
 -そのためにも、より深い関係を結んでおく必要があるだろう。

 それも、大川が唐突に思いついたことではなかった。同じことを考えたらしいいくつかの城から、内々に、縁組の打診が寄せられていた。
 -おシゲには、まだ早い…。
 当初は大川もそう考えた。しかし、4,5歳の子どもでも、必要があれば縁組させてしまうような政治の世界から見れば、おシゲが年齢的に決して早すぎるわけではないことも、大川は知っている。
 -忍術学園をとりまく環境の変化を考えれば、検討せざるを得ない…。
 だが、もうひとつ考えなければならない要素があった。おシゲがボーイフレンドとして認識している相手である。
 -しんべヱという手もないではない…。
 なにより、堺の豪商の息子と関係を深めれば、それもまた学園には有益といえた。福冨屋の経済力や武具の調達能力を通じて諸大名を牽制することも、充分ありうる手法といえた。
 -おそらく、おシゲがもっとも望むのは、このまましんべヱと添い遂げさせることだろう。
 そこにリスクがあるとすれば、福冨屋は所詮商人であり、土地に対する支配力も武力も持っているわけではないということである。就職先の確保という面からすれば、福冨屋のネットワークを活用できるという利点はあるのだろうが。
 さてどうするか。周辺の城が学園に手を出しにくい状況を作るとともに、今後も卒業生を安定的に送り込む先を確保するためには、どこと結ぶのが上策か。こればかりは、決断するのは自身しかいない。だからこそ、大川はいくつもの要素を組み合わせてシミュレートする必要があるのだ。
「…どうするかのう」
 ものの裏に同盟関係にある城、敵対関係にある城やその城主、嫡子を無意識に書き散らしながら、頬杖をついて考え込む。そのさまを、ヘムヘムはじっと見ていた。見ているうちに、思い当たる節があった。そっと庵を出て、おシゲのいるくノ一教室に向かう。

 


「…ふぅ」
 放課後、教室を掃除しながら、おシゲは知らず知らずのうちにため息をついていた。
「ねえ、どうしたの、おシゲちゃん」
「なにか困ってることがあるなら、相談に乗るわよ」
 見かねたユキとトモミが声をかける。いつもは自分たちに負けず劣らず元気なおシゲがため息をついているなど、いままで見たことのない姿だった。
「はい…でも」
 おシゲは口ごもる。相談したい、いや、とりあえず誰かに聞いてもらうだけでもよかった。だが、何かがその気持ちを押しとどめていた。
 -でも、これはわたしのことで、ユキちゃんやトモミちゃんを巻き込んじゃいけないことだし…。
 だが、そう思えば思うほど、おシゲの思考は隘路にはまりこむ。
 -学園のためなら、おじい様のお考えにしたがうべきかもしれない、けど…。

 


「ねえ、大丈夫? おシゲちゃん」
 おシゲの顔を覗き込みながら、トモミが言う。
「え…? は、はい。だいじょうぶでしゅ」
 取り繕うように笑ってみせるおシゲだったが、ユキの疑わしげな視線が注がれる。
「そう? とてもだいじょうぶには見えないけど」
「そうよ。私たちでよかったら、話してくれない?」
「私たちに黙ってるなんて、水臭いわよ?」
 ユキとトモミに交互に言い募られて、おシゲは観念した。
「はい…実は」
「実は?」
「ヘムヘムから聞いたんでしゅけど…」
「なに?」
「おじい様が、わたしをどこかの城と結婚させようと考えられてるらしいんでしゅ」
「学園長先生が?」
「おシゲちゃんを結婚させる?」
 冷静沈着を誇るユキとトモミだったが、おシゲの言葉には驚きを隠せなかった。思わず声が上がる。
「ユキちゃんもトモミちゃんも、声が大きいでしゅ」
 おシゲが慌てて両手を振りながら注意する。
「ご、ごめん」
 掌で口をふさぎながら、2人が周囲を見渡す。さいわい、誰にも聞かれてはいないようである。
「でも、どうして…」
「そうよ、だって、まだ11歳でしょ?」
 声を潜めながら、ユキとトモミが問いかける。
「学園を悪い城から守るためだそうでしゅ」
 おシゲはうつむく。その背に、トモミがそっと手を添える。
「悪い城が学園に手を出さないように、味方の城と関係を深めるため、ということね」
「それって、つまり政略結婚じゃない」
 ユキが目を見開く。
「政略結婚なら、身分さえ釣り合えばなんでもありよ」
 おシゲの背中を優しくさすりながら、トモミは冷徹な事実をさらっと口にする。
「…そうなんでしゅ」
 おシゲはうつむいたまま続ける。
「当面は婚儀は行わないけど、許婚ということで、同盟関係の結べる、歳の釣り合うお婿様を探されているようでしゅ」
 ヘムヘムから聞いた話をおシゲは淡々と語った。
「で、おシゲちゃんはどう思っているの?」
「はい…」
 自分があえて答えなくても、ユキもトモミも、答えは分かっているだろう。「私は…しんべヱ様と…」
「そうよね」
 ユキが腕を組む。
「おシゲちゃんはしんべヱが大好きだものね」
 トモミも釣られて腕を組む。
「で、このことは、もうしんべヱに話したの?」
「と、とんでもないことでしゅ」
 ユキに突っ込まれ、動揺したおシゲがあたふたと周りを見渡す。
「大丈夫よ。だれも聞いてないわ」
「でも…」
「どっちにしても、おシゲちゃんにその気がないのなら、行動あるのみよ!」
「行動って?」
 力強く言い切るユキを、おシゲとトモミが不安げに見つめる。
「決まってるでしょ。学園長先生が決めてしまわれる前に、既成事実を作っちゃうのよ」
「ユキちゃん、まさか…」
 トモミが口に手をやる。
「そのまさかよ」
 ユキがいたずらっぽく笑う。
「…しんべヱの許婚になっちゃえばいいのよ」
「そんなことできるのかしら」
 トモミが首を傾げる。
「しんべヱから福冨屋さんを通じて、学園長先生に婚約の手紙を出させればいいのよ。簡単でしょ?」
「うまくいくでしょうか…」
 おシゲが不安そうにつぶやく。
「それに、そもそもしんべヱに、そんな高等なマネができるかしら」
 トモミが頬に片手を添えながらつぶやいたとき、3人の頭には、鼻水をたらしたしまりのないしんべヱの姿が浮かんでいるのだった。
「しんべヱには、おシゲちゃんと将来結婚したいって福冨屋さんに強く言わせればいいのよ。それに、こんなところで3人してうだうだ話していても、ちっとも解決にはならないわ」
「それもそうね」
 トモミも同意したようである。
「とにかく、しんべヱを呼びましょう。おシゲちゃん、私たちがついてるから、心配しないで。とにかくやるだけやりましょ」
「…はい」
 ユキとトモミに交互に声を掛けられて、おシゲもようやく少し笑顔を見せた。
「では、しんべヱ様を呼んできましゅ」
 忍たま長屋に向かって駆けていくおシゲの背を眺めながら、両手を腰に当てたトモミがぼそっとつぶやく。
「…問題は、しんべヱには、あの2人がもれなくついてくるってことなのよね」

 


「おシゲちゃんが結婚したいって言ってくれた~♪」
 忍たま長屋に戻りながら、しんべヱは上機嫌である。
「きり丸、どう思う?」
 スキップしているしんべヱの後を歩きながら、乱太郎は傍らのきり丸に訊ねた。
「そりゃまあ、いいんじゃねえの? しんべヱもおシゲちゃんも好き同士なんだし」
 くノ一3人組に呼び出された乱太郎たちは、至極あっさりと、おシゲがしんべヱとの結婚を望んでいること、そのためにも、福冨屋から大川に、許婚を乞う手紙を出して欲しいと言われたのだ。
「でもさ、そんなのもっと大きくなってから決めることなんじゃないかと思うんだ。私たち、まだ10歳なんだし」
 乱太郎は、納得できない様子である。
「だからこそじゃねえのか?」
 きり丸の答えに、乱太郎が首をひねる。
「どういうこと?」
「いまから決めとかねえと、学園長先生が思いつきでおシゲちゃんの結婚相手を見つけてきちまうかも知れねえんだぜ?」
「でも、やっぱり、先生に相談した方がいいんじゃない?」
 乱太郎が不安そうに言いかけたのを、きり丸が遮る。
「そりゃだめだよ、ぜったい」
「どうしてさ」
「考えてもみろよ。先生たちは、忍術学園にやとわれていて、そのトップが学園長先生なんだぜ。やといぬしの身内のことに口つっこむようなこと、できるわけねえにきまってるだろ」
「そりゃそうだけどさあ…」
 10歳とは思えない大人の機微を突いたきり丸の言葉だったが、乱太郎はまだ納得できないふうに続ける。
「つまりはそれって、学園と福冨屋さんの話なんでしょ。大人のきめることに私たち忍たまがでしゃばるのって、やっぱまずいとおもうんだけど」
「気にすんな気にすんな。そもそもこれって、くノ一の連中が言い出したことだろ? なにかヤバイことになったら、くノ一の連中の責任になるだけなんだしさ」
「それで、しんべヱはどうおもうの?」
 乱太郎が、しんべヱの顔を覗きこむ。
「もっちろん、結婚したい!」
 満面の笑みでしんべヱが言い切る。
「まあ、しんべヱがそうしたいっていうなら、私はいいとおもうけど…」
「わかって言ってるのかよ、しんべヱ」
 きり丸が、頭の後ろで腕を組む。ふと、物思いにとらわれているようなおシゲの表情を思い出す。
「うん! だから、おシゲちゃんと結婚したいってパパに手紙を書く!」
 浮かれているしんべヱの背に眼をやりながら、きり丸はぼそっと呟く。
「でもさぁ、なんかアイツら、おれたちにかくしていることがあるんじゃねーかって気もすんだよなぁ…」
「かくしてるって?」
 乱太郎が、訝しげに振り向く。
「ん…よくわかんねーけどさ、なんとなくそんな気がするんだよな」

 


「しんべヱ様が、福冨屋さんに手紙を書いたそうでしゅ」 
 報告するおシゲの表情は、今ひとつ冴えない。
「よかったじゃない。これで第一関門クリアね」
「でも、おシゲちゃん、なんか元気ないわね」
 ユキとトモミも、おシゲの表情に気付いたようだ。
「な、なんでもないでしゅ」
 あわてておシゲが手を振って打ち消す。
「そうお?」
 疑わしげにユキが顔を覗き込む。
「あ、そうでした! 私、山本シナ先生に呼ばれていたのでした!」
 ぽんと手を打ったおシゲがばたばたと駆け出す。
「おシゲちゃん…」
 頬に手を当てたトモミが心配そうに見送る。
「どうしたのかしら」
 ユキが片手を腰に当ててため息をつく。
「きっと、心配しているのよ」
「なにを?」
「学園長先生のお考えを強引に断ってしまっていいのかってこと」
 考え深げにトモミが呟く。
 

 

 -本当に、これでよかったんでしょうか…。
 一人になろうと校庭を歩いているうちに水練池のほとりに出てしまった。池に浮かんだアヒルさんボートが水面に静かに影を映している。池のほとりに佇んだおシゲは、ずっと心に引っかかっていたことを整理しようとしていた。
 -おじい様のお考えを無視して来てしまったけど…。
 今さらながら、大川の意図を敢えて無視してきたことに、懸念を感じる。
 -おじい様は、学園を守るために、周りのお城との同盟を考えられていたのかもしれない。それなのに、私は、自分のことしか考えていない…。
 本当に学び舎たる学園を守るためなら、自分もそのためにやるべきことがあるのではないか。たとえば、同盟関係のために自分が政略結婚の道具になることも…。
 -私はしんべヱ様がだいすき。だから、ずっとおそばにいたい。でも、私は学園もだいすき。

 


 -ふむ、この情勢では、琉球に振り向ける船の数は減らすべきかも知れぬ…。
 長崎の商人から届いた手紙を読みながら、福冨屋はひとりごちる。
 南蛮へ向かう琉球船がこれだけ少ないということは、商品が入っていないということではないか…。
 海上交易に、いま、大きな転機が訪れていた。日本と明、南蛮を結ぶ結節点にあった琉球は、これまで中継貿易の拠点となっていて、多くの琉球船が交易に動いていた。だが、明の私貿易船や南蛮船が直接博多や長崎、薩摩などに着くようになってから、琉球船の存在感は急速に薄れていた。
 先日の茶会で、琉球交易に強い会合衆の玉川屋が言っていた言葉を思い出す。
 -琉球は、右から左へと物を動かして成り立っているような国だから、ということだったが…。
 今のところは、明との公貿易の窓口としての機能はまだ残っているから、琉球との交易から全面的に手を引くという選択肢は考えにくかったが。
 -そういえば、カステーラさんが、もうすぐ堺に戻るはずだ。その折にでも、南蛮の現状を聞いてみるとしようか。
 そこまで考えが至ったとき、手代が座敷の襖の向こうから声をかけた。
「大旦那様。若旦那様から文が届いております」
「ほう?」
 しんべヱからの手紙は久しぶりである。だが、読み終わった福冨屋は困惑顔で眼をぱちくりする。
 -久しぶりに寄越した手紙に、なにを書いているかと思ったら…。
 内容は、福冨屋の予想とはひどく外れたものだった。
 -いつものように、菓子でも送れということだろうと思ったら、大川殿の孫娘御と結婚したいとは…結婚なんぞという前にやることは山ほどあるだろうに、いったい何があったというのだ…。
 そもそも、結婚とはどういうものかを理解しているかどうかさえあやしいものなのに。
 -まったく突拍子もないことだ。忍者になりたいというから忍術学園に入れたというに、勉強もろくにせずに嫁探しをしていたということなのか?
 この前の休暇のときに持ってきた成績表の惨憺たるありさまを見たばかりの福冨屋としては、しんべヱには、ものごとの優先順位というものを、一度しっかりと説かなければならないように思われた。
 -だが、待てよ…。
 ふむ、と小さく唸って腕を組む。いままでしんべヱの結婚など考えたこともなかったが、しんべヱの歳であれば許婚ということもあながち荒唐無稽なこととはいい切れなかった。
 -いままでは思いつきもしなかったことだが、少しは考えに入れておかなければならないことかも知れぬ。
 考えれば考えるほど、いろいろな可能性がありそうで、福冨屋はひとり考え込む。

 


「それは…どういうことなんですか」
 ドスの利いた声に、福冨屋は一瞬、肝を冷やした。
「いや、その、だからな…しんべヱにもそろそろ娶わせる相手というものを考えてもいいのではないかと思ってな…」
「しんべヱはまだ10歳です! それより先に考えるべきことがあるでしょう!」
 福冨屋が奥座敷で対峙しているのは、奥方である。
「しかしだ。忍術学園のもつネットワークを考えると、あながち悪い話とばかりもいえないと思うのだがね…」
「なにを仰っているのですか!!!」
 いかにも、上得意に唐物でも売りつけているような夫君の口調に、奥方の怒りは一気に臨界点に達する。
「いい話か悪い話かなど、この際関係ありません! しんべヱにいま一番必要なのは勉強です! そうでなくてもこの間の成績表はいったい何なんですか! あんな成績表をつけて平気で寄越すなんて、忍術学園というところは本当にきちんと勉強を教えているんですか!」
 奥方としては、しんべヱの進学に関してはつねづね意見していた。それをむしかえす絶好の機会だった。
「そもそも、私はしんべヱが忍術学園に入ることには反対でした。しんべヱは、福冨屋の跡継ぎとして、商売について学ばなければならないというのに、忍者などというものを学んでどうするというのですか!」
 福冨屋の家刀自(いえとじ)としての奥方の立場とすれば、跡継ぎであるべきしんべヱが家業とはまるで関係のない忍術を学ぶ学校に入れること自体が、考えられないことだった。そうでなくても夫は、しんべヱには甘すぎるのだ…。
「たびたび申し上げておりますが、この福冨屋を継ぐしんべヱには、もっとほかに学ぶべきものがあります! だいたい、忍術学園では漢籍の素読くらい、やっているんでしょうね?」
「いや、それはどうだか分からないが…任せて預けた以上、教育内容に踏み込むのもどうかと思ってな」
 おどおどと福冨屋が言うが、奥方は容赦しない。
「そんなことを言っている場合ではないでしょう! しんべヱには、福冨屋の主人として恥ずかしくないだけの知識と教養を身につけさせなければなりません! 漢籍の素読もやっているか怪しいような学校に、これ以上しんべヱを置いておくことは、私は賛成しかねます!」
「まあ、お前がそういう気持ちも分かる。だがな…」
 実のところ、しんべヱを忍術学園に入れたのは、学問を期待してのことではなかった。甘えん坊のしんべヱに、少し家から離れて自立心を持たせる必要を感じたからである。そして、忍術学園の教師や生徒たちを見るにつけ、入学を許したことは間違いではないと思っていた。
 たしかに、家を継ぐ者として必要な教育を施そうとするならば、家に置いておいて、必要な教師陣をつけ、また商売の現場を経験させることが早道だった。だが、それがベストとは、福冨屋には思えない。
 -世の中は広い。まだ心が柔らかいうちに、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があることを教えてやることも、必要ではないのか。
 学園には、多くの社会階層の生徒が学んでいる。しんべヱの同級生を見ても、武士に商人、農民に馬借と、出身階層も多彩であるし、戦災孤児もいるという。これほど多様な人生に触れることは、実家に置いて勉強させ、堺の商人として生きていくなかでは、まずありえない経験である。
 -しんべヱには、商人の世界に閉じこもらない、広い視野を持って欲しいのだ。
 堺の大商人たちの多くは、自分も含めて、商売に関しては京、大坂、東国、九州、琉球、明、南蛮に広がる、各地の商人や権力者たちへのネットワークを持っている。しかしその実、付き合う階層は限られており、商売以外の場面では趣味に耽溺していて、必ずしも広い視野を持っているとは限らなかった。
 -堺にいれば、世界を知ることができる。あらゆるものが手に入る。だがしんべヱ、もう気付いているかもしれないが、世の中のほとんどの人は、そのようなモノや情報にアクセスできない環境に生きている。そのような人々がどのようにものを考え、行動するかは、これからの世に商人として生きる上でも必要なことなのだ。
 それが分かれば、あえて成績は二の次でもいい、と福冨屋は考える。
「聞いていらっしゃるのですか!」
 ばん、と畳を叩く音に、福冨屋は我に返った。奥方はいまや、額に青筋を浮かべている。
 -これはまずい。今日のところはここまでにしておこう。でないと…。
 しんべヱを娶わせる話は、ひとまず棚上げされた。

 


(いやあ、今日の奥方様はおっかないな…)
(それにしても、しんべヱ坊ちゃまにお嫁というのはすこし早すぎないか?)
(奥方様がお怒りになるのも、もっともだな…)
 主人夫婦がケンカ(というより福冨屋の防戦一方)を展開している座敷の外では、福冨屋に報告や相談、書状を届けるための手代や奉公人たちが控えていた。襖のそばで息を殺している彼らには、次第にヒートアップする中の声は筒抜けである。彼らは彼らで、中の展開に関する批評を、視線を交わしながら楽しんでいる。その傍らで、手持ち無沙汰を装いつつ、中の会話に耳を澄ませている奉公人の男がいた。

 


「ほう、堺の福冨屋が、息子の結婚相手を固めつつある…とな」
 ベニタケ城の一室で文に目を通した家老が、ひとりごちる。
 文をよこしたのは、福冨屋に奉公人として潜り込ませている忍からのものだった。各地の城の領主たちにとって、堺の福冨屋のような、大がかりに武器を取り扱う商人の動向は、大きな関心事の一つだった。どの城に、どれだけの武器を納入したかということは、その城がどの方面に戦を仕掛けるかを判断するための重要な情報だった。だから、各地の城は情報を探らせるために、奉公人として手の者を送り込もうとしていたし、ベニタケ城を含むいくつかの城はそれに成功していた。そして、福冨屋の後継者の縁組も、重要な情報にほかならなかった。
 -相手は忍術学園の学園長の孫娘か…忍術学園は、独立政策を変えるということか?
 それは厄介な事態といえた。忍術学園は周囲の城と同盟関係をもたず、兵庫水軍や佐武衆のような独立勢力との関係が深い。教師として多くの忍を雇用し、卒業生は各地の城へ就職している。つまり、各地の城の動向をもっとも把握しやすい立場といえた。おまけに、学園には福冨屋を通じて、最新式の火縄を含めた大量の武器が納入されている。
 -しかし、これはひとつのチャンスでもありうる。
 縁組話が動き出しているということは、相手を差し替えることも可能ということである。縁組というものは、正式に決まるまではより条件のよい相手を求めて検討に検討を重ねていくものだから。
 幸い、城主の庶子のひとりは、元服を目前にした13歳である。庶子であれば相手の家柄をそれほど気にする必要もないし、大川の孫娘を娶わせることができれば、あるいは厄介な存在ともいえる忍術学園を、縁戚という縄で縛り付けることができるかもしれない。
 -あるいはタソガレドキに対する牽制になるやもしれぬ…。
 すさまじい勢いで膨張政策をとっているタソガレドキに絶えず圧迫を受けている城のひとつがベニタケ城だった。すでにタソガレドキの戦のたびに参陣を求められ、関銭の徴収権を取り上げられ、半ば属国扱いといってもいい状態だった。いまのベニタケは完全にタソガレドキに呑み込まれないよう、だましだまし独立を保っているに過ぎない。
 しかし、もし忍術学園と姻戚関係を結んだら…いまだ忍者界に隠然とした影響力をもつ大川をあからさまに敵に回すようなことを仕掛けてくるだろうか。それに、タソガレドキはなぜか忍術学園に甘いと聞いたことがある…。
 -これは、殿のご意見を伺っておく必要があるな。
 そこまで考えた家老は、小姓を呼ぶ。
「殿に拝謁する。至急、用意するのだ」

 

 

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