非時香菓

 

非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)の話は、古事記、日本書紀に記されています。垂仁天皇が田道間守(たじまもり)に命じて常世の国に取りに行かせた不老不死の霊薬が非時香菓でしたが、田道間守が持ち帰ったときにはすでに天皇は崩御していたということです。

そして、古事記によると、非時香菓とはタチバナのこと。

 

 

「…それで、先輩のお加減はどうなのでしょうか」
 思いつめた表情で三木ヱ門が訊く。
「まだあまりよくないんだ」
 小さく顔を横に振りながら伊作が応える。「熱が高い状態が続いている…でも」
 不安に押しつぶされそうな三木ヱ門の顔色に、安心させるように付け加える。「文次郎の体力なら持ちこたえると思うから、そんなに心配することはないよ。しばらくは絶対安静だけどね」
「…はい」
 つまりは面会できないと理解した三木ヱ門が悄然と俯く。
「後輩たちも心配していると思うから、僕の話を伝えてきてくれないかな。それから、仙蔵に文次郎の夜着の替えを持ってきてくれるよう伝えてほしいんだけど」
「…はい」
 医務室の前の廊下で話していた三木ヱ門が、俯いたまま歩み去る。小さくため息をついた伊作がその後ろ姿を見送ると、ふたたび覆面をして医務室に戻る。そしてその様を書類を抱えたまま少し離れたところから見つめていた仙蔵の姿があった。

 


 -三木ヱ門たちが心配するといけないから少し割り引いて話しておいたけど…。
 医務室の障子を後ろ手で閉めた伊作は、眼の前の布団に横たわる大きな影の前に座る。
 横たわっている文次郎は、眠っているようだったが荒い息が続いていた。前髪が汗ばんだ額に貼りつき、浅黒い顔が今は熱で紅潮していた。
 -容態はかなり悪い…。
 前日、委員会活動中に突然倒れたと担ぎ込まれて以来、意識がもうろうとしたまま熱に浮かされている文次郎だった。校医の新野は通常の風邪ではないと判断し、瘧(おこり・熱病)を警戒して面会謝絶を言い渡していた。
「三木ヱ門は…帰ったか…」
 だから伊作は、切れ切れに口から洩れた台詞にひどく驚いた。
 -文次郎…こんなにひどい熱なのに意識があったんだ…。
「ああ。もし君が瘧だったらたいへんだからね」
「そっか…」
 うめいた文次郎がぎりと歯を食いしばる。「くっそ…なんでこの俺が熱なんかに…!」
「誰だってなりたくて病になるわけじゃないよ」
 静かに言いながら伊作は絞りなおした手拭いを文次郎の額に乗せる。「どんなに気をつけていたってなるときにはなる、それが病なんだから」
「だけど…俺は…!」
 なおも食いしばった歯の間から声を漏らしながら文次郎は起き上がろうとする。
「まだ寝てないとだめ。これから柴胡桂枝湯を処方するから」
 言いながら伊作はその肩を布団に押さえつける。
「く…!」
 なおも未練そうに起き上がろうと身体に力を入れようとしていた文次郎だったが、やがて諦めたのかふうとため息をついて布団に身を横たえた。
 -だから大人しくしてないと。
 はやく薬を調合しなければと薬研をつかいはじめたとき、文次郎が薄眼を開けてふたたび声を漏らした。
「伊作…聞いてくれるか」
「僕でよかったら、なんでも聞くよ」
 文次郎の口から改めてそのような台詞が飛び出したことに内心ひどく驚いた伊作だったが、苦労して口調を抑える。
「俺は…俺はな…」
 かすれた声に、のどが渇いているのだろうと思った伊作が水差しを手に取って文次郎の口に近づけようとする。だが、続いて漏れた台詞にその手が止まる。
「俺は…忍になりたくて学園に入ったわけじゃねえ…」
 -何を言っているんだい? 一年生の時からギンギンに忍者してた文次郎が、忍になりたくなかったって?
 それはあまりに意外な告白だった。
「…俺は…もっと学問をやりたかった…だが…」
 かすれ声になった文次郎が咳き込む。我に返った伊作が慌ててその口許に水差しを当てる。
「俺は、学問をやりたかった。学問で、名を残したかった…唐の国の何千年も昔の学問が今に残ってるような、そんな学問をやりたかった…」
 うわごとのように文次郎は続ける。その口調がにわかに苦しげになって息も荒くなっているのを認めて、伊作は額を拭ってやる。
「…なのに、俺には学問には向いてねえって言いやがった師匠のせいで、俺は学園に入ることになった…」
 感情が高ぶったせいか、胸が荒く上下する。
「意外だね」
 絞りなおした手拭いで首筋や胸元を拭いながら伊作は正直に言った。「文次郎は一年生の時から忍としてのし上がってやるって言ってたから、忍になるのが天命みたいなものだと思ってたんだけど」
「忍になるのが嫌だったわけじゃねえ…もっとやりたかったことがあっただけだ」
「そう」
 文次郎らしい、という思いが過ぎる。自分は、ただ眼の前に敷かれていた変わり映えもなく砂を食むような将来から飛び出したくて学園に入ったのに、同じころの文次郎はいくつもの選択肢を持つことができていたのだ。
 -それだけ主体的に生きる意思が強かったのだろうな。
「なあ伊作…天命ってなんだ?」
「天命?」
 おうむ返しに訊いてから、自分が何の気なしに口にした言葉だと思いだした伊作は慌てて付け加える。
「…その人が、人生で成し遂げることを運命づけられたもの…みたいな感じかな?」
「じゃ、俺の天命は、忍になるってことなのかよ」
 詰問するでもなく嘆くようでもなく、うわごとのように文次郎はうめく。
 -また熱が上がってきたようだ…はやく処方しないと。
 容体の変化を認めた伊作が、薬研をつかう腕に力を込める。
「なあ伊作…」
 荒い息にふたたび大きく胸を上下させながら文次郎は続ける。「天命なんてのは五十のオッサンにならなきゃ分かんねえもんだって思ってたが、そうじゃないんだな…」
「孔子みたいな偉い人だから五十で分かったんだと思うよ」
 考え考え言いながら砕いた薬種を煎じ器に入れる。「普通の人は、死ぬ前になってようやく自分の天命ってこうだったんだって気づけばいい方なんじゃないかな」
 -僕みたいに無自覚に生きてる人間は、きっとそれが何かすら気づかないだろうけど…。
 続きは口の中で呑み込みながら水を注ぎ、火を入れる。
「学園を出たからって忍になるとは限らないけど、でも文次郎なら上忍としてのし上がっていくんじゃないかな…前にそんなこと言ってなかったっけ? いずれ学園長になる、みたいな」
「つまり俺も…天命も知らずにくたばるような凡人の人生しかないってことなんだな…」
 伊作の言葉を聞いていたのかいなかったのか、諦念すら帯びた台詞に、煎じ器を扇ぐ手が一瞬止まる。いつもギンギンに前へ上へと突き進むことしか頭にないような男が、そのような人生の最後のような口調になるとは…。
「少し眠ったほうがいいかも知れないね、文次郎」
 ふたたび団扇をつかいはじめた伊作が声を落とす。「もうすぐ薬ができあがるから、それを飲んだらゆっくり眠るといい。そうすれば熱邪も落ちて楽になるから…」
 患者を落ち着かせようと低く穏やかな声で伊作は続ける。「たしかに僕たちには永遠は手に入らないかもしれないけど、文次郎ならきっとここに生きた証を残せるだろうから…だから今は病を治さないとね」
「…」
 文次郎が黙り込んで、しばし医務室の中には煎じ器から上がる湯気と伊作が団扇を使う音だけが小さく響いた。静けさの中でやがて煎じ器から湯呑に薬湯をあけると、ふたたび団扇で冷まし始める。
「さ、柴胡桂枝湯ができたよ」
 湯呑から上がる湯気が収まったのを見計らって団扇を置いた伊作が声をかける。応えるように薄眼を開けた文次郎が視線を向ける。
「まだ少し熱いかも知れないから気をつけて」
 重い上体を起こすと、片腕と肩でしっかり支える。あいた手を湯呑に添えてゆっくりと飲ませる。
「そう…慌てないで、ゆっくり飲むんだ」
 

 

「…夢を見てた」
 薬湯を飲み終えた文次郎が呟くように言う。
「夢?」
「ああ…」
「どんな夢だった?」
 ふたたびそっと身体を布団に横たえさせながら訊く。
「仙蔵がいた…アイツとは、一年の頃から学問で競っていた」
「2人とも成績がよかったからね」
 煎じ器を片づけながら伊作は頷く。
「俺たちはいつも競っていた…兵法も、算術も、地理や歴史も…」
 薬が効いたのか、文次郎の口調から苦しげな喘ぎが薄れていく。「一人で学ぶより2,3倍は早く学んだ…そうでないと到底アイツには追いつけなかった…」
 穏やかな表情になった文次郎が大きく息を吐いた。
「マジできつかった…だが、そのおかげでいろいろな世界が広がった…俺は学問の道には進めなかったが、ここで学問を深めることができた…」
「そう」
「五年のとき、アイツと天命の話をしたことがあった…」
 ふと思い出したように文次郎は続ける。「その時も、俺はこの人生で定められた運命ってなんだと聞いた。俺はそれが何か知りたかった。自分に与えられた『なすべきこと』が早いうちに分かれば、それに向けて策を打つこともできる。五十年もかかってたら手遅れだろうがってな」 
「そうだね」
 つと立ちあがった伊作は、薬種棚に向かって次に処方するための薬種を懐紙に取り始める。
「…だが、アイツはそうは思っていなかった。そもそも天命とはそういう意味じゃねえと言いやがった。性理学では天命とは宇宙の法則や人間のあり方を意味する、だから天命にかこつけて人生の意味だの運命だのを考えるのはナンセンスだとな…それをいかにもアイツらしくバッサリ斬り捨てるように言いやがった。俺がそんなことで悩んでいたのがいかにもバカみたいにな…ホントにムカつくヤツだ…!」
 ああそうだろうな、と伊作も思う。いかにも文次郎らしい性急な問いをあっさりといなす涼しい顔まで想像できた。言っていることは難しすぎてよく理解できなかったが。
「それで?」
「ヤツは朱子をよく読めばそんな下らんことでムダに悩むこともなかったのにとも言いやがった。思わず一発食らわせてやった。人が真剣に悩んでたのをバカにしやがってってな…逃げられたけどよ」
「…そう」
 薬種を包んだ懐紙を小さく折りたたみながら、伊作は俯く。自分にとっての知の根拠はこの薬種棚にすぎない。しかもそれは日々流れ込む新しい知識で容易に覆り、更新される知なのだ。だが、仙蔵や文次郎が拠って立つ知の根拠は、はるか遠い宇宙や世界の法則性というものなのかもしれないと思った。それは、自分にはとうていたどり着きそうもない強固で壮大な世界なのだろう。きっと。
「だが、俺が無性に腹が立ったのは、図星を衝かれたからなんだろうな」
「図星を?」
「アイツには学問では到底及ばねえ…アイツには俺が見えないものが見えている…だが、どうやらアイツには俺には何が見えてないかも見えているようだ…」
 ぎりと歯を食いしばりながら文次郎がうめく。「なんでなんだよ…どうしてそんなことが…!」
 -それは、仙蔵にとって文次郎がかけがえのない友人だからじゃないかな…。
 薬棚の前に立ち尽くしていた伊作が、声には出さずに言いながら文次郎の枕元に戻る。
「…だが、アイツがいたから、俺は学問がどういうものか少しは知ることができた。アイツがいなかったら、俺は学問ってものを未練たらしく追いかけるだけで何も知らないガキだったかも知れねえ…」
「そうだよ。君が学園に入って、仙蔵と友だちになったのも、そうなるべくしてなったのかも知れないよね」
「そうか…俺は仙蔵と…」
 薬が効いてきたのだろうか、急激に眠気に襲われたらしい。文次郎の口調があやふやになる。
「そう…きっと、文次郎が求めていたものをくれたんだよ…」
 小さく呟く。そして、手拭いを絞ると額に載せる。

 


 すっと襖をすべらせて仙蔵が現れた。
「悪いけど、覆面してくれるかな」
 文次郎の枕元で薬を調合していた伊作がぼそっと声をかける。
「わかった」
 短く答えた仙蔵は覆面をしたが、立ったまま文次郎を見下ろす。
「私の気配に全く気付いてないとは、よほど具合が悪いのだろうな」
「まだ熱があるからね…普通ならとっくに意識を失ってるところだ」
「まあそうだろうな。殺しても死ななそうな男だ…時に、着替えの夜着を持って来てやったが」
 言いながら手にしていた夜着を放る。
「ありがとう」
 夜着をキャッチした伊作が覆面の下から笑いかける。「どうしたんだい。そんなところに突っ立ってないで座ればいいじゃないか。せっかくお見舞いに来たんだから」
「見舞いに来たわけではない」
 腕を組んだ仙蔵がついと顔をそむける。「夜着を持ってこいと言われたから持ってきただけだ」
「でも、文次郎の話を聞いていたんだろう?」
「聞こえてきただけだ」
 背けた仙蔵の頬が赤くなる。「文次郎の分際で柄にもないことを…」
「でも、文次郎は、仙蔵のおかげだって言っていたよね…学問に取り組むことができたって」
「名を残したいなどと言っていたが、忍でそんなことを望むのはお門違いというものだ…熱で自分が何を言っているのかも分からないのだろう」
 突き放したようなことを言っているが、本当はうれしいんだ、と伊作は思った。
「でもそれは正直な気持ちなんじゃないかな」
 静かに伊作は応える。「名を残したいということは、自分が確かにここに存在した証を残したいって気持ちなんだと思う…文次郎は負けず嫌いだからね」
「まあ、負けず嫌いは認めよう」
 ふっと仙蔵がため息をつく。「だからといって、努力すれば報われるものでもないのだがな」
「でも、その負けず嫌いのおかげで文次郎は求めていたものの一端でも掴んだんだと思うよ」
 眠る文次郎の額の汗を拭いながら伊作は言う。
「所詮は自己満足だ」
 仙蔵の語気がきつくなる。六年間、もっとも身近にいてなんとなく感じていたことをいともあっさりと伊作に見通されたように感じて苛立ちを覚える。
「それでもいいんじゃないかな」
 ふたたび薬研に向かった伊作の表情は見えないが、口調は変わらない。「僕は思うんだけど」
「どうした」
 伊作にまた何か自分が気づいていなかったものを見通されるのかという苛立ちが募る。
「文次郎は、仙蔵と競い合ったことそのものがうれしかったんじゃないかな」
「なにを気色わるいことを言いだす」
 顔をそむていた仙蔵が軽く顎を上げたまま向き直ると、傲然と文次郎を見下ろす。「この老け顔が仮にそう思っていたとしても、それはヤツの勝手な考えだ…私は部屋に戻るからな」
 言い捨てると、ふわりと覆面を解きながら後ろ手で襖を閉めて立ち去る。
 -仙蔵も素直じゃないな…。
 閉められた襖にちらと眼をやった伊作は苦笑する。
 -きっと、文次郎が求めていたものは、仙蔵という存在そのもので、仙蔵だってとっくに分かっているんじゃないかい…?

 

 

<FIN>

 

 

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