Vox

 

伊作が少し病んでいます。六年生ともなると、演習でシビアな現実を突きつけられることもあって、それを自分の中でけりをつけないといけない場面もあると思うのです。ただ、それは孤独な闘いではなくて、仲間や先生たちの声に背を押されて、それで乗り越えていくものだと思うのです。六年生といってもまだ15歳なのですから。

最後のシーンは、24期62話で頭ズキューンとやられて、何か書かないと頭がずっとおかしいままになってしまいそうなので吐き出させていただきました。ハイ、個人的な動機です。スイマセンw

 


 春の終わりの雨の夜だった。新野はひとり、医務室で文に眼を通していた。 
 -季節外れの瘧(熱病)が起こっているようですな…。
 文は友人の医者から届いたものだった。例年よりも瘧の時期が長引いているとの旨が記されていた。そして、症状も劇症化していると。
 -こういう時に限ってあちこちで戦が起こっている…。
 軽く眼を閉じた新野は小さくため息をつく。夕食のとき、教師たちと交わした話が脳裏によみがえっていた。
 -また西国で戦が始まっているようで…。
 -はい。利吉の報告では…。
 -それでは、こちらへ飛び火する可能性も…。
 

 

 -病や飢饉や、そういったときに限って戦が起こる。いや、社会不安が戦を起こすものなのか…。
 返事をしたためるために墨をすりながら考える。
 -詮無い話だ。いずれにしても、戦は人が起こす。そして、戦に苦しめられるのも人だ。そしてその一人が…。
 廊下を伝う足音に気付いた新野が顔を伏せたまま小さく微笑む。
「失礼します」
 張りのある若い声とともに医務室の襖が押し開かれた。
「お疲れさまでした。伊作君」
 顔を上げた新野が微笑みかける。
「はい。医務室の方は大丈夫でしたでしょうか」
 すばやく室内を一瞥して座る伊作は、任務で情報収集に出かけた僧形のまま、手にした笠も、墨染の衣の裾もぐっしょりと濡れている。責任感の強い青年は、委員長をつとめる保健委員会の様子が気になったのだろう。報告を終えるや直接医務室を訪れたのだ。
「特に大きな病人もけが人もありませんでしたよ」
「それはよかったです」
「君も疲れているでしょう。今日は部屋に戻って休みなさい」
 疲れの刻まれた表情に眼をやる。
「はい。でも…」
「でも?」
「ちょっとご報告しておきたいことがあります」
「報告?」
「実は」
 言いさして伊作はためらうように新野を見つめる。安心させるように新野が黙ってにっこりする。
「…へんな瘧の流行が広がっていると聞きました。ただ、症状を聞くと、痘瘡ではないかと思われるのです」
「なるほど。痘瘡ですか…戦も起こっていることだし、蔓延するリスクが高まっているということですな」
「そうなんです」
 伊作の表情に苦悩が刻まれる。「もし本当に痘瘡だったらたいへんなことです。戦などやっている場合ではないはずです。それなのに…」
「そうですな」
 和らいだ表情のまま新野は続ける。「だが、忍としての君にはその理由も分かるはずですよ」
「…」
 伊作が顔を上げた。その眼は大きく見開かれている。分かってますね、と言うように新野が微笑みかける。しばし雨の音だけが室内に響いた。
「…はい」
 長い沈黙の後に、伊作がようやく声を漏らす。いままさに、それを報告してきたばかりなのだ。だから、流行り病のような社会不安に乗じて兵を動かす大名たちの心理も分析できる。そしてそのこと自体が伊作を苦しめるのだ。

 

 

「…どうだった」
「戦はまず間違いないね」
 雨宿りに辻堂の軒下に腰を下ろした笠を目深にかぶった青年が呟くと、奥からひそやかな返答があった。
「…すでに西の方では戦が始まっている。戦の孤児たちを連れていたお坊さんに話を聞いたよ。現地は戦と流行り病でひどい状況らしい」
「流行り病?」
 笠を目深にかぶった青年-文次郎が太い眉を上げる。
「そう。瘧(熱病)ということだけど、症状を聞く限り痘瘡の可能性が高い」
「そっか…畜生、とんでもねえときに戦なんかやりがやって…」
 吐き捨てるように言った文次郎が顔を伏せる。辻堂の段の下にできた水たまりにしきりに雨が打ち付ける。「で、お前はどうする、伊作」
「僕は…」
 辻堂のなかで壁にもたれて座る僧形の伊作がいた。「明日になったらもう少し探りを入れてみるよ。文次郎は?」
「俺はこれから城下を探ってくる。戦の準備をしてるなら兵が動いているはずだからな」
「わかった。気をつけて…」
「伊作」
 唐突に文次郎が遮る。
「…行くなよ」
「えっ?」
「俺たちは任務中だ」
「…わかってる」
「ならいい」
 立ち上がった文次郎が水たまりも構わず踏みながら歩き去る。すでに雨はやみ、夜空を低い雲が幾筋も流れていたが、笠を目深にかぶったまま。

 

 

「今回、僕は僧形で情報収集に出ました」
 伊作が床に視線を落とす。いつもは薬売りの姿で出かけることが多い伊作だったが、今回は変装の訓練も兼ねていたので、何に変装するかはくじ引きで決められた。
「…いつもなら薬売りなので、僕に話しかけてくる人はみな病気やケガで困っている人ばかりです。僕が渡した薬で皆が喜んでくれます。でも、僧はちがいました」
 語り続ける伊作の表情にふたたび苦悶が宿る。「僕に話しかけてくる人はみな、家族や知り合いを亡くしたり、一人ではどうしようもない悩みや苦しみを抱えた人たちでした。それに対して僕は、何もできなかった…」
「善法寺君」
 改まった声で新野が言う。伊作がためらうように顔を上げる。
「…たしかに君には不慣れなことだったかもしれない。だが、忘れましたか? 医道は心です。真の医者とは、患者の傷や病を治すだけでなく、患者の心を癒さなければならないのです。傷や病で深くいたんだ心を癒してこそ、患者が真に治癒したといえるのです。その役割は僧も同じではないのですか?」
「新野先生…」
 眼を大きく見開いた伊作が新野を見つめる。「しかし、僕には…」
「心配することはありません」
 安心させるように新野の口調が柔らかくなる。「私もまだまだ、眼の前の治療にあたるのが精一杯です。患者の心を癒すことまではとても気が回りません…それでも、医者の道を進むのならば、そのことは常に心に置かねばなりません。いいですね」
「はい」
 頷いた伊作は床に手をついた。「ありがとうございました」

 


 -留三郎、まだ戻ってなかったんだ…。
 部屋は真っ暗だった。手にしていた燭台の灯を燈台にうつすと、伊作は濡れた僧衣を衝立にかける。寝間着に着替えると文机の前に座って報告書を書き始める。
 -そういえば文次郎、あのとき…。
 雨の辻堂で情報交換を終えたあと、釘を刺されたことを思い出す。
 -あのとき、文次郎が言ってくれなかったら、僕は痘瘡の流行地帯に向かいかねなかった。まだ演習の途中だったのに。そうしたら僕は間違いなく落第していたし、卒業試験も受けられなくなっていたところだった。それに、新野先生に思い出させていただいてなかったら、僕は医者としての最低限の心構えすら忘れているところだった…。
 筆を手にしたままいつしか伊作は考え込んでいた。
 -いつもギリギリのところでなんとか持ちこたえてきた…いつも進んでいる道から滑り落ちそうになって、いつも誰かの声で救われてきた…そんなことがいつまでも許されるはずもないのに…。
 昏い眼で燈台の灯がぼんやりと隈をつくる壁を見つめる。

 

 

「あ~あ…ったくひでえ雨だな」
 がらりと襖を開けて留三郎が入って来た。全身びしょ濡れで前髪からしずくが滴っている。
「やあ、おかえり留三郎」
 振り返った伊作が声をかける。「そんなにびしょ濡れになってどうしたんだい?」
「ちょっと蓑も笠もやっちまってな」
「やっちまった?」
「ああ。ちっちゃいガキがびしょ濡れで泣いてたんだ。親もどこ行ったかわかんないみたいだし、とりあえずこれ着ろってさ」
 言いながらぐっしょり濡れた服を脱いで縁側で絞ると、衝立の空いたところに掛ける。
「そうなんだ…留三郎は優しいね」
 いかにも留三郎らしい、と思いながら伊作は言う。気が強くて好戦的だが、自分より小さく弱い者に対する保護本能もまた強いのだ。
「…まあな」
 照れたように顔を赤らめた留三郎が寝間着の上に手拭いを引っ掛ける。「ちょっと風呂行ってくる」
「ああ、そうした方がいいよ」

 


「で、何やってんだ?」
 風呂から戻って来た留三郎が訊く。
「報告書を書いてるのさ。留三郎は書かなくていいの?」
「ああ。長次がまとめて書いてくれるっていうから、任せた」
「そう」
 そこで会話は途切れ、部屋の中は燈台の灯がたてるちりちりという音とそぼ降る雨音だけが響いた。
「ねえ、留三郎」
 報告書を書く手を止めた伊作が声をかける。
「なんだ」
 壁にもたれて本を読んでいた留三郎が顔を上げる。
「こういう雨の夜にみんなで怪談したこと、憶えてる?」
「ああ、そんなこともあったな」
 しとしとと雨の降る夜はお化けが出るんだと誰かが言い出して怪談大会を始めた一年生の夜だった。くっと伊作が小さく笑う。
「まさか留三郎があんなに怖がるとは思わなかったよ」
「うっせえな」
 顔を赤らめた留三郎がそっぽを向く。「てかお前がケロッとしすぎなんだよ」
「そういえばそうだったね」
 伊作も否定しない。ひととおり怪談を終えたあとは皆ひとりで厠にも行けないありさまだったが、伊作だけは何事もなかったように真っ暗な廊下をひとり歩いて行ったのだった。
 -それは、僕があのときすでにお化けより怖いものを知っていたから…。
 忍術学園に入学した10歳のとき、すでに人間という魔物の恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれていた伊作にとっては、お化けの話などファンタジーに過ぎなかった。
「だけど、今となってはなんであんなお化け話に怖気づいてたんだろうな」
 もっと怖いものなんていくらでもあるのによ、とぼやく留三郎だった。
「そうだね」
 今の伊作にとってもっとも恐ろしいものは、人が死に絡めとられていくことだった。それが戦であれ病であれ。

 

 

「ねえ、留三郎」
「なんだ」
「留三郎が蓑と笠をあげた子ども、今頃どうしてるかな」
「さあな。握り飯渡して、とりあえず雨宿りできるところに行けって言ってやったんだけどな」
 その時のことを思い出したように眉を寄せる。留三郎としてはその場でできることはすべてやったつもりだったが、それで年端も行かない子どもが命を長らえる助けになったかどうかは自信がなかった。あるいは遅かれ早かれ死ぬ運命にある子どもの苦しみを伸ばしただけなのかもしれない。
「そう…やっぱり留三郎は優しいね」
 違う、と思った。自分は優しくなどない。あの子どもをを放置すれば必ず感じるであろう良心の呵責を逃れたかっただけだ。自分は子どもを助けるつもりで、その行動はエゴに過ぎない。
「大したことじゃねえさ。伊作はどうだったんだよ」
 これ以上この話題が続くことに耐えられなかった留三郎が話題の転換を図る。
「うん。文次郎がすごい頑張ってくれたから、楽しちゃった」
 報告書に眼を落しながら伊作が言う。
「マジかよ。あの文次郎がか?」
 重い口調に気付かなかったように留三郎が軽口を叩く。「ヤツのことだ。どうせ鍛錬だのギンギンだのやってたんじゃねえのか?」
「そんなことないさ」
 伊作が苦笑する。「とってもよく情報を探ってきてくれたよ…それに、僕を止めてくれた」
「止めた?」
「西の方では痘瘡が流行り始めている。文次郎が止めてくれなかったら、僕は任務を忘れて治療に飛び込んでいたところだった。それに」
「…」
「文次郎だって分かってたし怒ってた。戦なんかやっていたら、恐ろしい流行り病がもっと広がってしまう。それで死んでしまうのは戦に巻き込まれる民や兵たちなのに、誰も戦を止めようとしない。任務のためなら良心なんて関係ないみたいなこと言ってても、ホントは優しくて正義感が強いんだなって思ったんだ。留三郎と同じだね」
「けっ」
 気を悪くした留三郎が肩をすくめる。「あのギンギンと俺が一緒だってのかよ」
「そう思うんだけど」
「一緒にすんなよ」
「似たところもあると思うんだけどな」
「ねえよ」
 話しながら伊作は違和感を感じていた。話の方向が意図と違う方向に向かっている。分かっているのに止められない。緊張の強いられる実習を終えてくつろいで話したいだけなのに、話はどんどん留三郎を不機嫌にさせる方向に行ってしまう…。
「ふう、なんか疲れてるみたいだ。僕はそろそろ休むよ」
 強引に話を打ち切った伊作は、書きかけの報告書を広げたまま筆洗で筆先をすすぐと、立ち上がって布団を敷き始める。
「そうだな。俺も寝るか」
 本をしまった留三郎も立ち上がる。
 -なんでだろう。今日はもっと留三郎と話していたいのに、このままだと留三郎と怒らせてしまいそうだ…僕は何をしたかったんだろう…?
 眠るのが恐ろしかった。布団の中にひとり身を横たえることは、この世のあらゆる繋がりから切り離されるような絶対的な孤独に至ってしまいそうだった。その孤独におびえていた。だからもっと起きて留三郎と話していたかった。少なくともそうしている間はひとりではないように思えたから。
 -お化けを怖がる子どもじゃないんだから…。
 なぜそれほどまでにひとりを恐れているのだろう。狭い部屋の、衝立ひとつ隔てたところに留三郎がいるというのに、なぜこんなに孤独が背後にひたひたと迫ってくるような恐れを感じるのだろう。「孤独」など、いもしないお化けと同じようなものなのに。 
「じゃあ、お休み」
「おう」
 それなのに、行動は意思に反して就寝へと追いやられていた。やむを得ず伊作は布団に横になる。どうしようもない孤独の海へひとり漕ぎ出す恐怖におびえながら。

 

 

 -くっ…!
 呆然と佇むしかない自分がもどかしかった。周りにはうめき声や助けを求める声がひしめいていた。
 一目で痘瘡の患者たちだとわかった。すぐに診察して投薬しなければならなかった。だが、自分の周りには何もなかった。診察用具も、薬研や煎じ器や、薬種さえも。それなのに、自分を囲む患者の声は増える一方である。
 -早く、なんとかしないと…。
 戦が痘瘡を広範囲にばらまいていることは明らかだった。治療が必要な患者は刻一刻と増えているのに、自分には何の手段もなく立ちすくむだけである。
 -やれることは何かあるはずだ。新野先生のお側で六年も学んできて、何もできないなんてことがあるはずがない…!
 だが、何もできなかった。圧倒的な無力さに苛まれるばかりだった。
 -どうして、どうしてだ…!
 ついに頭を抱えてしゃがみ込む。
 -ごめんなさい、何もできない僕でごめんなさい…。

 

 

「おい、おいどうした伊作」
 身体をゆすられる感覚にゆるゆると意識が戻って来た。誰かの声がする。とても近しくて、誰よりも頼りにしていた声。身体をゆする手は力強くて熱い。
「とめ…さぶろう?」
 うっすら眼を開くが、視界はまだ薄墨を流したようなモノクロームのままだった。と、次の瞬間、伊作はがばと身を起こした。
「たいへんだ! 痘瘡の患者がたくさんいるんだ! すぐに道具を取ってこないと、それに薬も…!」
「落ち着け、伊作」
 身を起こして医務室へ向かおうとする身体を留三郎がおしとどめる。
「でも…!」
「いいから!」
 強引に身体を布団に押し戻されながらも、まだ伊作は腕を振り回しながら起き上がろうとする。
「落ち着け。ここには患者なんかいない。夢だ。ぜんぶ、悪い夢なんだ」
「夢…?」
「そうだ。お前は悪い夢を見てただけなんだよ」
 片掌で肩を押さえつけ、空いた手で伊作の手を握りながら留三郎が落ち着かせるように低い声で語りかける。
「じゃあ、痘瘡の患者は…」
「そんなもん、ここにいるわけねえだろ。いたらとっくに新野先生が診察されてる」
「そう…よかった」
 ようやく伊作の身体から力が抜ける。
「お前ずいぶんうなされてたぞ。そんなに痘瘡のことが心配だったのか?」
 肩を押さえつけていた掌をどけながら、留三郎の手は伊作の手を握ったままである。
「うん…」
 力なく笑った伊作が視線をそらせる。「痘瘡はおそろしい病気だ…でも、いまの僕たちの医療では治すことはできない。せいぜい熱を下げる薬を与えて、あとは患者の体力がもつことを期待するしかできないんだ…」
「だからってお前が思いつめる必要はないだろ。お前だけが直さなきゃいけない義務があるわけじゃないんだろ?」
「でも…」
「なんなら俺が手伝ってやる。患者連れてくるとか薬すりつぶすとかなら俺でもできるからな」
「留三郎…」
 低く、だが力強い留三郎の声に、ようやく伊作の心の中にわだかまっていたものが溶け出していくように感じられた。不意に、自分の手が熱い手に包まれていることに気付く。
「手、あったかいね」
 言われて留三郎が手に眼をやる。
「おう。あったかいだろ」
「留三郎がいてよかった」
「俺ならここにいる。なんならずっとこうしててやる。だからゆっくり寝ろ。いいな」
「うん…そうするよ…」
 手に熱い感触をおぼえながら眼を閉じる。
 -留三郎が側にいてくれる。手を握っててくれる…。
 その安堵は、今起きている現実に何の役にも立っていないことは分かっていた。それでも今は、その安堵に身をゆだねようと伊作は思った。それが許されている今は、多くの声に、熱い手に守られていよう。それが、いつか孤独に立ち向かうときの力になる。そう思った。   

 

 

<FIN>

 

 

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