鬼の霍乱

これもまた、はと様の作品からインスパイア、というか啓示を受けた留三郎と平太のお話です。

最後のシーンを書きたいばかりに演繹的に、というか拡散的にストーリーが展開してしまって読みにくい点があるかと思いますが、いつものことです。(←開き直った)

ちなみに、鬼の霍乱とは、手元の新小辞林(←庄辞林と変換されたw)によると「ふだんごく丈夫な人が病気にかかるたとえ」という意味で、決して留三郎が鬼だったりするわけではありませんのでご安心をw

 

 

「留三郎が風邪とは、鬼の霍乱だな」
「だいたい気合が足らんのだ。忍たまの風上にも置けん」
「いけいけどんど~んで早く治せよ」
 医務室では六年生たちががやがやと話している。
「うるせぇ! お前ら見舞いじゃないならとっとと出ていきやがれ」
 息巻いて起き上がろうとする留三郎だったが、半ば身を起こしたところで激しく咳き込みながらぐったりと倒れ込む。
「…畜生、力が入んねぇ」
 悔しそうに顔をそむける。
「ふむ。だいぶ具合が悪そうだな」
 仙蔵が顎に手を当てる。
「だから風邪をひいて熱があるって言ってるじゃないか」
 ほら、ちゃんと上向いて、と顔をそむける留三郎に天井を向かせた伊作が、その額に冷やした手拭いを乗せる。
「まあいい。演習の報告書は私たちで提出しておくから心配するな」
「すまないな、仙蔵」
 いつもなら仙蔵の親切めいた台詞は警戒心を掻きたてずにはいられないのだが、今日のところは素直に受け取ることにして留三郎は弱々しく笑いかける。
(用具委員の後輩たちには、直接必要な指示を出しておくと吉野先生が仰っていた)
「それを聞いて安心した…長次」
「なんなら体育委員会とまとめて私が面倒見てもいいぞ! 留三郎!」
 小平太が胸をたたく。
「ちょっとまて…! お前のムチャクチャな鍛錬にあいつらがついていけると思ってるのか!」
 思わずがばと起き上がった留三郎だったが、すぐに咳き込んでしまう。
「ほらほら、ムリしちゃダメだって」
 留三郎の身体を布団に押し込んで額に手拭いを乗せなおすと、伊作は肩をすくめた。
「小平太も、あんまり留三郎をからかっちゃだめだよ」
「なに、冗談だ」
 小平太が澄ました顔で腕を組む。
「言っていい冗談とよくない冗談が…!」
「だから寝てろって」
 こんどは起き上がる前に留三郎の肩を布団に押し付ける伊作だった。
「ふむ…後輩のこととなると見境がつかなくなるお前が伊作に押さえつけられるというからには、よほど具合が悪いのだろうな」
 感心したように頷く文次郎に、肩を抑えつけられたままの留三郎が起き上がろうともがきながら口角泡を飛ばす。
「うるせぇっ! そんなことで感心するなっ! この風邪治ったらぜったいお前にうつしてやるからなっ! 覚悟しやがれっ!」
「ぷっ」
「はははは!」
 留三郎の言葉に、全員が噴き出す。
「な、なんだよ」
 きょとんとした留三郎が眼を見開く。
「留三郎…治った風邪は、うつしようがないだろ…」
 笑い出すのを必死でこらえながら、伊作が苦しそうに答える。
「く…!」
 耳まで真っ赤になった留三郎は横を向いて布団を引き被る。
「こらこら、医務室では静粛に」
 襖をあけて入ってきた新野に、ゲラゲラ笑っていた文次郎たちもようやく静かになる。
「食満君は安静が必要な患者なのです。お見舞いが済んだならはやく退出するように。あと、部屋を出たらすぐに手洗いうがいをすること。いいですね」
「はい」
「失礼します」
「じゃぁな。静かに寝てろよ」
 口々に言うと、六年生たちは医務室を後にした。そして、部屋に残された新野と伊作が不安げな視線を交わす。
 -これからなのでしょうか。
 -そうですね。今夜がヤマでしょう。

 


「どうしよう…霧がでてきたよ」
「そう…だね」
 山道を学園長の使いに出ていた喜三太、しんべヱ、平太が歩いていた。金楽寺の和尚に手紙を届けてきた帰りだった。
「そういえば、乱太郎ときり丸は今日はなんのバイトだったの?」
 不安を取り紛らわすように平太が訊く。
「それがさ、大きいお屋敷のハウスクリーニングをうけおってきちゃって、一人じゃ手が足りないからって」
 喜三太が説明する。
「しんべヱはいかなかったの?」
 いつもなら3人いっしょなのに…と思いながら平太が首を傾げた。
「それがさ…ね」
 喜三太がおかしそうに言いかける。
「いいよ。べつに、言っても」
 しんべヱは珍しくむすっとした顔である。
「え? なになに?」
「じつはね…そのお屋敷が、これから結婚式をやるってんで、それでハウスクリーニングをたのんだらしいんだ」
「それが、どうしたの?」
「だってさ…かんがえてもみなよ。結婚式といえば祝言のためにごちそうをつくるじゃない…そんなところにしんべヱがいったらどうなるか…」
 こらえきれないように喜三太が腹を抱えて笑い出す。
「あ、それはそうかもね…ぷぷ」
 平太も控えめに笑い声をあげる。
「いいよいいよ2人とも。どうせきり丸に言われたよ。しんべヱがきたら祝言のごちそうを食べつくしてバイト代もらえなくなるって」
 しんべヱがさらにむくれる。
「そんなにおこらないでよ。しんべヱ」
「そうだよ。広いお屋敷をそうじするより、ぼくたちと金楽寺にいったほうがぜったいおなかすかないって」
 平太と喜三太が口々になだめる。
「まあ、そうかもしれなけど」
「ね。ほら、はやく学園にかえろ。おばちゃんの夕食がまってるよ」
「うん!」
 ようやく機嫌を直したしんべヱが大きくうなずいたとき、喜三太がはたと足を止めた。
「どうしたの、喜三太」
「しっ! しずかに!」
 立てた人差し指を口に当てながら、片方の手で平太たちを制する。
「え、なに? どうしたの?」
 しんべヱが不安そうに辺りを見回す。
「なんか、いま、がさっていわなかった?」
 警戒するように喜三太が声を潜めて言う。
「え…そう?」
「鳥とかなにかじゃないの?」
「そうじゃなくて…ほら」
 喜三太が指差した先には、峠を覆う木立からひときわ高くそそり立つ一本杉の姿があった。霧にけぶってシルエットだけがぼんやりと浮かんでいる。
「峠の一本杉が、どうかしたの?」
「ぼく、聞いたことがあるんだ。峠の一本杉には天狗がいるんだって」
 仔細らしく喜三太が声をさらに低める。
「「て、てんぐぅ!?」」
「声がおおきいって」
 思わず動転した声を上げる2人を、喜三太があわててたしなめる。
「で、でも、そんなこと聞いちゃったら、あの一本杉の下なんてこわくてとおれないよ…」
 震え声でしんべヱが喜三太の袖をつかむ。
「ぼ、ぼくだって…」
「喜三太がいいだしたんじゃない」
「だって、おもいだしちゃったんだもん…」
 ごそごそと低い声で言い交しながらも、その場に座り込んでしまう3人だった。
「どうしよう…霧がだんだんこくなってきたみたい…」
「このままじゃ、かえれなくなっちゃうかも…」
「いやだよそんなぁ」 
「こんなところにじっとしていてもしょうがないよ。とにかく、あそこを通りすぎちゃえばいいんだから、とにかくいこう」
 思いがけずしっかりした口調の平太に、喜三太としんべヱが顔を見合わせる。
「ねぇ、平太。だいじょうぶかなぁ」
「ぼく、もうちびっちゃいそう」
「ぼくだってちびっちゃいそうだけど…」
 気丈に平太は続ける。
「でも、このままかえれないよりはいいと思うんだ。しんべヱたちは、こんなところで夜になっちゃうなんてがまんできる?」
「「できない」」
 喜三太としんべヱが大きく頷く。
「じゃ、とにかく天狗にきづかれないように、そーっといこう。こうやって、ぬきあし、さしあし、しのびあし…って」
 喜三太が先頭に立つ。
「う、うん…わかった」
 しんべヱが続く。
「じゃ、いくよ…ぬきあし…」
「「さしあし…」」
「「しのびあし…」」
 足音を立てないように峠道をそろそろと進む3人の影が、さらに濃さを増した霧に包まれる。
「もうそろそろ一本杉の下かな」
「たぶんそう」
「じゃ、もうすこしいけばあんしんだね…」
 平太が言いかけたとき、突然、一本杉の枝に止まっていた鳥がばたばたと大きな羽音を立てて飛び立った。木の葉に露のようにたまっていた水滴がいっせいに3人に降り注ぐ。
「ぎょえ~!!」
「で、でたぁぁぁ!」
「天狗! 天狗!」
 羽音と頭上から降り注いだ冷たい滴にパニック状態になった3人が一斉に峠の坂道を走り出す。
「にげろにげろ~!」
「天狗こわいよ~おわっ!」
 すぐ後ろを走る平太の声に煽られるように走っていたしんべヱが、不意に足をもつれさせた。
「どしたの、しんべ…」
 走りながら振り返った喜三太の眼に、すでに身体ごとバウンドしながら坂道を転げ落ちるしんべヱの身体が迫る。
「うわぁぁぁっ!」
「なに、なに、どうしたの!?」
 眼の前にいたはずのしんべヱの姿が唐突に霧の中に消えたところに喜三太の声が響く。しんべヱと喜三太の身体がもつれあったまま峠道を転がり落ちていくにつれて、2人の声もあっという間に霧の向こうに消えてしまった。 
「ねぇ、しんべヱ、喜三太、おいてかないでよ…」
 おろおろと霧の中に取り残された平太が声を上げる。目印にしていたしんべヱの姿が消えて急に足元がおぼつかなくなる。両腕を前に突き出しながら、探るように歩くが、その足元はすでに峠道を外れていた。
 -どうしよう、道からそれちゃったみたい…。
 がさがさと下草に足を突っ込んでしまう。葉にたまった露が足を濡らす。
 -もどらなきゃ。
 そう思った瞬間、濡れた草に足を取られた。
「おわっ!」
 思いがけず、足を滑らせた先に急な傾斜があった。
「わわわわーーーっ!」
 平太の身体が斜面を滑り落ちていく。

 


「「せんぱ~い!」」
 夕刻近い学園の用具倉庫の前で縄梯子の修理をしていた作兵衛の前に現れたのは、全身泥だらけ、すり傷だらけの喜三太としんべヱだった。
「おう、学園長のお手紙はぶじに届けてきたか…って、どうした、お前たち!?」
 作兵衛のけたたましい声に、倉庫の中から留三郎が現れた。
「どうした、作兵衛…って、喜三太、しんべヱ! どうしたんだ!」
 一目で異変を見て取った留三郎が駆け寄る。
「何があったんだ、こんなカッコで…」
 ふぇ~ん、と作兵衛の身体に顔を押し付けて泣いていた喜三太としんべヱが切れ切れに説明する。
「とうげで…てんぐが…」
「いきなりばたばたばたって…それに、つめたい水がふってきて…」
「お、おい、おまえたち…天狗がどうとかなに訳わかんねぇことを…」
 当惑しながら作兵衛が言いかけた時、留三郎がようやく一人の不在に気付く。
「おい…平太はどうした」
「え…!」
 作兵衛と、それまで泣いていた喜三太としんべヱが弾かれたように辺りを見回す。
「そういえば…」
「峠の一本杉のところでいなくなって…」
 口々に言いかける2人の言葉を最後まで聞かずに、留三郎は手近に巻いてあった縄を肩にかけると、「作兵衛、こいつらを医務室に連れてってやれ」と短く命じて駆け出した。
「あ、あの先輩、どちらに…」
 作兵衛の声に、振り返ることなく声を張り上げる。
「峠の一本杉だっ!」

 


「平太! 平太っ! どこにいる!」
 峠の一本杉に近づくと、留三郎は声を張り上げて後輩の名を呼んだ。
 霧はだいぶ晴れていたが、すでに日は暮れかかり、峠道の足元は暗くなっていた。
「平太! どこにいる! 返事をしろ!」
 自分の声がこだまとなって谷間に響いていく。しばし足を止めた留三郎は、耳を澄ませてみる。だが、返事はなかった。
 -くそっ! 平太のやつ、どこに行っちまったんだ!
 濃霧の中でしんべヱも喜三太もその姿を見失ったという。「一本杉の天狗」などというものは信じていなかったが、あるいは神隠しのように山の中でふいに子どもが姿を消してしまうということはあるかもしれない…考えるだけで胃がひきつるような痛みをおぼえた。
 -たのむ! 平太! 返事をしてくれ…!
 このまま夜になってしまえば、捜索は打ち切らざるを得ない。それどころか、うっそうとした木立に覆われた峠道でうっかり動けば、留三郎自身が遭難する可能性すらあった。
 -畜生! 足元が暗すぎる…。
 そう思ったとき、不意に足元の草の上に泥の跡が点々と残っていることに気付いた。
 -ひょっとしてこれは…!
 その先では、草がなぎ倒されている。そしてその先には、急な斜面があった。
 -…!
 もはや疑いがなかった。平太は霧にまかれて道を逸れ、足を滑らせてこの斜面を落ちて行ったに違いない。
 次の瞬間、肩にかけていた縄を手近にあった大木に巻きつけた留三郎は、縄を伝って斜面を下り始めていた。

 


 寒かった。ただひたすら、寒かった。
 -せんぱい…。
 耳元で、激しい水音が轟く。
 平太は谷底の渓流の中州に座り込んでいた。斜面を滑り落ちた平太は、崖から突き出した木の枝に弾かれて、奇跡的に無傷で渓流の中州の砂の上に投げ出されていた。
 -さむい…。
 渓流の跳ね上げる水しぶきと、全身にまとわりつくような霧の粒子で、着物はぐっしょりと濡れていた。渓流の上を渡る風がひときわ冷たく感じた。
 -たすけて…ください。
 膝を抱えて、背中を丸めて、平太は動くことができずにいた。日が暮れてきて、谷底は薄暗がりのなかにあった。このまま夜をここで過ごすのだろうか。もし雨が降って渓流の水かさが増したら、自分はどうなるのだろう。そもそも、自分がここにいることを誰も気づかなかったら…。
 -せんぱい…たすけて、ください…!
 腹の底からひやりとする感覚を覚えて、平太はいやいやと首を振って膝に顔をうずめる。そのとき。
「平太!」
 はっとして顔を上げる。耳を澄ませる。耳に届いたように思われた声は、待ち望んでいたあの先輩の声のように思われた。だが、ごうごうと耳を聾するように渓流の音が谷間に響いて、その声が現実かどうか、平太には判断ができなかった。あるいは、待ち望むあまりに耳がとらえた幻聴なのかもしれなかった。だが。
「平太! おい、大丈夫か!」
 たしかに、聞こえた。あんなに待ち望んでいた声が。
「食満せんぱい!」
 声のした方を振り返る。対岸の崖を、縄につかまりながら下りてくる留三郎の姿があった。
「いま行くからな! そこで待ってろ!」
 ようやく対岸に着地した留三郎は、縄を自分の身体に巻きつけると、刺すように冷たい渓流に足を踏み入れた。
 流れは急で、深かった。胸まで水につかると、痺れるように急速に感覚が失われていくように感じられた。流れに足を取られそうになりながらも辛うじて流れを渡りきった留三郎は、浅瀬に這い上がってきた。
「よお、大丈夫か」
 びしょ濡れで眼の前に立った留三郎は、青ざめた唇のまま微笑みかけながらゆるゆると腕を伸ばして、大きな掌で平太を捉えた。こわばって、膝を抱えた態勢のまま動けずにいた小さな身体に、大きな身体が覆いかぶさった。
「怖かったか? もう大丈夫だぞ。俺が学園まで連れてってやるからな」
 平太の身体は、留三郎の両腕に抱きすくめられていた。
 留三郎の身体は、ひどく冷たかった。あの冷たい川の水に胸までつかってしまったからだ、と平太は考えた。それも、自分を助けるために。
「よし、向こう岸に渡るぞ」
 気が付くと、留三郎は自分の前にかがみこんでいた。
「どう、やってですか」
 こわばった唇が、ようやく言葉を発する。
「肩車で行くしかないだろ。お前がこんな冷たい流れに入ったら、一発で風邪ひくからな…ほら、早く肩に乗れ」
 顔を上げた留三郎が命じる。
「は…はい」
 留三郎に抱きすくめられて解凍したように、今度は身体が動いた。平太は、留三郎の肩に乗る。
「よし、今から渡るからな。お前は綱をしっかり握っているんだ。俺が足を滑らせても、縄につかまってさえいれば向こう岸に行けるからな」
 立ち上がった留三郎は、腰に巻きつけた縄をもう一度確かめながら言う。
「はい」
 留三郎の両掌が平太の足首をしっかりとつかむ。ふたたび流れに足を踏み入れる前に、渦巻く渓流を睨み据えた留三郎は気合を入れるように雄たけびを上げる。
「行くぞこん畜生ォッ!!!」

 


「いくら平太を助けるためとはいえ、あんなにびしょ濡れになって帰って来るなんて…」
 枕元の桶に手拭いを浸した伊作は、固く絞りながら呟く。
「まあ、平太君が風邪をひかずに済んだのは、不幸中の幸いでした」
 新野が薬の準備をしながら言う。
「…食満君が助けに行くまでの間、渓流の中州でびしょ濡れになって座り込んでいたとか…一歩間違えれば、平太君が風邪をこじらせていてもおかしくはなかった」
「それはそうですが…」
 枕元でうつむいたまま、伊作はぎりと歯を噛みしめる。 
 途中で眠り込んでしまった平太を背負った留三郎が帰ってきたのは、すっかり暗くなってからだった。濡れた着物から滴をたらしたまままっすぐ医務室にやってきた留三郎は、「平太を、頼む」と言ったきり倒れ込んでしまったのだ。
 -君は、いつも私が自分のことを考えないって言うけど、君だってずいぶん後輩のことばかりで自分はなおざりなんだね。
 時折激しく咳き込む友人を覆面越しに見下ろしながら、小さくため息をつく。
 -それに、自分の体力を過信してはいけないんだよ…何度も注意したじゃないか…。
 暗い表情で汗を拭ってやりながら、医療者としての伊作の眼は容体の変調を捉えつつあった。

 


「おい、お前たち!」
 たまらずに作兵衛が声を上げる。
「…はい?」
 腑抜けのようにぼんやりした視線で平太が振り返る。しんべヱと喜三太はあらぬ方に視線が泳いでいて振り返りすらしない。
「もっと集中してやれよ!」
 翌日の放課後、用具倉庫の前では、委員長のいない委員会が開かれていた。
「でも、なにをやるんですか?」
 平太の問いに、作兵衛がうっと言葉に詰まる。今日はまだ顧問の吉野から作業内容の指示がなかった。
「と、とりあえずだな…何か壊れている用品の修繕をだな…」
「何を修繕するんですか?」
 とっさに口にした逃げ口上をあっさり平太に封じられて、作兵衛はまたも言葉に詰まる。
「そ、それはだな…って、何が修繕を必要としてるかくらい、お前たち分からないのかよ!」
「「いっぱいありすぎて、どれから修繕していいかわかりませ~ん!」」
 しんべヱと喜三太が声をそろえる。作兵衛は思わず脱力する。
「お前らな…そんなとこだけ元気よく言い切るんじゃねぇ!」
「…やっぱり、食満先輩がいないと…」
「お前らなぁっ!」
 平太が言いかけたのを作兵衛が遮る。 
「食満先輩がいないのは今に始まったことじゃねぇだろ! 六年生の演習でいなかったことなんか、何度もあるじゃねぇか! それに…」
 拳を握って身を乗り出す。
「なんですか?」
「先輩がいなくても俺たちだけできちんと委員会活動ができることを、先輩に見せてやりたいと思わねぇのか?」
「でも、食満先輩がいないとどうにも…」
「心配で落ち着かないっていうか…」
 喜三太としんべヱが口々に訴える。その勢いにのまれたのか、不意に作兵衛が肩を落とした。俯きながら、力なく言う。
「そんなこと言うなって…そんなこと言われたら、俺だって心配なんだよ…」

 

 

 泣いている声が聞こえる。あれは一年生たちだ。喜三太にしんべヱ、平太もいる。歯を食いしばって嗚咽をこらえているのは作兵衛だろうか。
 -おい、どうした。何を泣いているんだ。
 声をかけたが、誰一人振り向かない。近づこうとしたが、体が動かない。見えない縄に縛られたように手も足も動かせなかった。
 -なぜだ。なぜ動かせない! 俺はあいつらのところに行かなければならないのに…! 
 見えない縛めを解こうと懸命にもがいた。小平太ほどではないにしても、腕力には自信があったから、多少の縄なら引きちぎってみせるところだった。もっと丈夫な縄だったとしても、忍たまとして縄を切るための忍器はいくらでも隠し持っていた。たとえば、手甲にしのばせた小しころを使えば…。
 -…!
 なぜか、手首も、いや、指一本も動かすことができなかった。
 -なぜだ! おい、お前たち! 俺がここにいるのがわからないのか!?
 声を限りに叫んだつもりだった。だが、後輩たちが自分を呼ぶ泣き声が高まるばかりだった。
 -俺はここにいる! ここにいるのに、なぜ…!
 こらえきれなくなったのか、作兵衛が自分の名を泣きながら叫んでいる。
 -ここに…いるのに…。
 急速に無力感がじわじわと全身を侵食する感覚にとらわれて、留三郎は背筋がぞわりとした。
 -結局、俺は後輩ひとり助けてやることができない…この身体が動かせないばかりに!
 何より強くなるために、人一倍鍛錬に鍛錬を重ねてきた身体が動かせないだけで、これほどまでに無力になることが驚きだった。今の留三郎に残されているのは意志だけであり、行動を伴うことができない強い意志であって、つまるところ空転しているだけの意志だった。
 打ちひしがれた留三郎の思考が、徐々に硬直化していく。ああ、こうやって残された意志さえもが奪われていくのだと留三郎は感じた。
 そして、残されたわずかな意志を総動員して強く念じる。
 -だが、俺はあいつらを守る!!! 

 


「どうだ、留三郎の具合は」
 医務室の襖を開けて入ってきたのは文次郎だった。続いてのそりと長次が足を踏み入れる。
「2人とも覆面して」
 部屋の真ん中に置かれた衝立の向こうから顔をのぞかせた伊作が、短く命じる。
「どうした。ものものしいな」
 覆面をした2人が衝立を回り込む。そこに留三郎は寝かされていた。うっすらと開いた眼はうつろに天井に向けられている。荒い息を吐きながら時折咳き込む。
「お、おい…大丈夫なのかよ」
 入学以来、初めて見るような姿に、文次郎は動揺を隠せない。
「まだ、熱が下がらないんだ。汗もずいぶんかいているし、このままでは脱水症状になってしまう」
 疲労が深く刻まれた顔で伊作が答える。
(ただの風邪ではないようだな。)
「ああ。瘧(おこり・熱病)なのかもしれないし、肺炎の初期症状なのかもしれない。こんなに高熱が続くなんてね」
「なんとかできないのかよ」
 文次郎の声に苛立ちが混じる。いつもなら鮮やかに診断を下し、処方した薬ですぐに病も治るというのに、留三郎にとりついた病は一向に去る見込みがない。どうして、いつものように治せないのかよ…。
「ぅ…うぅ…」
 ふいに留三郎の唇から声が漏れる。
「お、おい。どうした」
 文次郎が慌てて耳を近づける。
「のどがすっかり乾いて、声が出ないんだ…でも、きっと用具の後輩たちを呼んでいるんだと思う」
 顔をそむけながら伊作が説明する。
「どういうことだよ」
「熱にうなされながら、ずっと作兵衛や平太たちのことを呼んでいたんだ。みんな大丈夫だよって思わず返事しちゃったよ…聞こえているはずなんか、ないのにね」
 やつれた顔に苦笑を浮かべて、伊作は肩をすくめる。

 

 

「頼む! 数馬! 医務室に入れてくれよ!」
 すがりつくように付きまとう作兵衛だったが、数馬は取り合わない。
「まだ食満先輩は熱があるんだ。だからダメ」
「そんなこと言うなって! ちょっとだけでいいんだ! 頼むって!」
「だから! 作兵衛にも風邪がうつっちゃうよ?」
「うつったってかまわねぇ! 俺にうつって治るもんなら、俺はかまわねぇんだ!」
「なにバカなこと言ってるのさ」
 肩をすくめた数馬が行き過ぎようとするが、その袖を作兵衛は捉えて離さない。
「はやく医務室に戻りたいんだけど」
「だからさ…」
「いい加減にして…」
「頼む!」
 不意に数馬の袖を放した作兵衛は、数馬の前で平伏する。
「この通りだ! 先輩にあわせてくれ! 頼む! 先輩が心配で、俺、いてもたっても…!」
 最後は涙声になってしゃくりあげる作兵衛に、数馬は当惑顔でしゃがみこむ。
「そんなことするなって…なあ、作兵衛。先輩が心配なのはわかったからさ…」
 まだしゃくりあげている作兵衛に手拭いを渡しながら、数馬は話しかける。
「食満先輩の容体がよくなって面会できるようになったらすぐに教えてやるから。それに、作兵衛がすごく心配して会いたがってるってことも新野先生に伝えておくから…だからさ、もう少しまってくれないか…」

 


「伏木蔵」
「平太…もうぐあいはよくなったの?」
 医務室に続く廊下で作兵衛と数馬がやりあっている頃、医務室の前に平太がいた。
「うん。食満先輩のぐあいは?」
「まだよくないんだ」
 後ろ手に医務室の襖を閉めると、覆面を外した伏木蔵は声を潜めた。
「よくないって?」
「せきはだいぶおさまったけど、まだ熱が下がらないんだ。ぼくたち下級生も、先輩に近づいちゃダメだって新野先生や伊作先輩に言われてるんだ」
「そうなんだ」
「だから、お見舞いはまだダメだよ」
 平太の目的を見透かしたように伏木蔵は言う。
「そうなんだ。じゃ、またくるよ…ところでさ」
「なに?」
「小松田さんが伏木蔵のことさがしてたよ。手紙がどうだって」
「ほんとう!?」
 伏木蔵の目が輝く。
「雑渡さんたちかなぁ…ぼく、小松田さんのところに行くね!」
 事務室に向かって駆け出す伏木蔵を黙って見送った平太は、そっと医務室の襖をあける。
「…」
 がらんとした医務室は静まり返っていた。と、衝立の向こうからかすかな息遣いが聞こえた。
 -せんぱい…?
 忍び足で衝立を回り込む。果たして、そこに留三郎はいた。誰かが看病していたのだろうか。布団の傍らには水を張った桶が置かれている。
「…ぅぅ…」
 不意に留三郎が低いうめき声をあげたので、平太はびくっとした。
 -せんぱい…とっても苦しそう。
 熱があるのだろう。額やはだけた胸元に汗をかいているのが見えた。
 -ぼくのせいで、せんぱいがこんなことになっちゃった…。
 すり足でそっと近寄ると、額からずり落ちていた手拭いを手に取って桶の水に浸す。固く絞ってから、胸元や額の汗を拭う。もう一度水に浸して絞った手拭いを額に乗せると、心なしか留三郎の息遣いが穏やかになったように感じられた。
 -せんぱい…ごめんなさい!
 思わず平太は留三郎の身体にしがみついていた。
 -でも、ぼく、とってもこわかったんです! だから、せんぱいがきてくれてとってもうれしかったんです! それなのに、ぼくのせいでせんぱいがこんなに苦しそうで、ぼく、どうしていいか…」
 ひときわ腕に力を込めて留三郎の身体にかじりつく。
 -せんぱいのからだは、ごつごつしてちょっと汗くさいけど、とってもあたたかいや…!
 それが熱のせいかも気にならなかった。留三郎のそばにいるというだけで、深い安心感に包まれているのを感じた。それだけで十分だった。

 


「…すいません。なかなか作兵衛が放してくれなかったもんで…」
「作兵衛が心配するのも分かるけど、誰も留三郎についていなかったのはまずかったね…」
 話しながら医務室に入ってきた数馬と伊作だったが、不意に伊作が足を止めた。
 -しっ! 誰かいる。
 そっと衝立を回り込んだ伊作と数馬は、思わず表情を緩めた。
 -平太…いつのまに。
 -心配だったんだよ、きっと…それに、留三郎も。
 2人が眼にしたのは、留三郎の身体にしがみついたまま眠っている平太と、その背にそっと添えられた留三郎の手だった。
 -でも、先輩はまだ熱が…。
 -いや、少しくらいなら大丈夫だ。そっとしておいてやろう。
 数馬を制した伊作は穏やかに微笑む。
 -それにしても、留三郎らしいね。無意識でもしがみついてくる後輩を抱き止めるなんてね…。

 

<FIN>