朧月

 

循環的なお話を書きたくて六年生たちに登場していただきました。

物陰からぼんやりと朧月を眺めるとき、それぞれ個性的な六年生たちもそれなりの物思いにふけるんだろうなというお話です。

 

 

「小平太、お前こんなところで何してるんだ?」
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む小平太の姿に、通りかかった留三郎がぎょっとしたように声をかける。
「おお、留三郎」
 振り向いた小平太が二カッとする。「ちょっと月を見ていてな」
「月!?」
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。
「だったらもっとよく見える場所がいくらでもあるだろう」
 そもそも物思いにふけって月を眺めるという行動から最も遠そうな男がなぜ、という疑問はあったが、まずはもっとも手近なところから訊く留三郎だった。
「なはは。ここでいいのだ」
 背後に腕をついて足を投げ出した小平太だったが、視線は月に向けられたままである。
「で、こんなところで物思いか? お前らしくもねえな」
 傍らに腰を下ろしながら、留三郎は小平太の横顔に眼をやる。
「物思いがどういうもんか私には分からんが」
 小平太が口を開く。「こういうのが物思いというなら、きっとそうなんだろう」
「細かいことは気にしないのがお前だが、細かくないことなら考えるんだろ?」
「…この前、長次が読んでいた本の話をしてくれた」
 唐突に小平太が語り始めた。「この世には、人の眼には見えないが、存在しているものがあるという。むしろ眼に見えないものの方が多いんだという」
「はあ?」
 面食らった留三郎が頭をがしがしと掻く。「なんのこったかぜんぜん分かんねえよ」
「遠すぎたり、小さすぎたり、暗かったりで見えないものはたくさんある。風みたいに明るくても近くにあっても見えないものもある。だから、見たものだけを信じるというのは良くないそうだ」
「…はあ」
 相変わらずよくわからない話だったが、留三郎にはこのような話になった理由は何となくわかった気がした。小平太なりの(割合まっとうな)合理主義で「眼に見えたものしか信じない」と言い切ったのを長次が諫めたといったところだろう。
「だから、眼に見えないものがいくつあるのか考えていた」
 -マジかよ。
 それは数えうるものなのだろうか。途方もない計数だが、小平太ならやりかねないとも考えてしまう。
「あのな、小平太」
 気を取り直した留三郎が口調を強める。「長次が言いたいのはそういうことじゃないと思うぞ」
「そうなのか?」
 小平太が眼をぱちくりする。
「そりゃ確かに、眼に見えないものはいくらでもあるだろうさ。だが、いったん眼に見えるかどうかっていうフィルターを捨てろよ。見えるかどうかより、信じられるかどうかっていうフィルターで見た方が早いんじゃねえか?」
 ふとした思いつきだったが、意外といいポイントを衝いているように思えた。果たして小平太の表情がみるみる変わる。
「そっか! その手があったな! さっすが留三郎だな!」
 勢いよく立ち上がった小平太が、留三郎の手を握ってぶんぶん振り回す。
「お、おい…分かったから…!」
 後輩だったらとっくに身体ごと振り回されているところだと思いながら留三郎が足を踏ん張って声を上げる。「もういいって」
「分かった」
 唐突に小平太が動きを止めて手を離した。「あ~スッキリした! なんかこれから裏裏山までダッシュしたくなってきたから行ってくるな!」
 そのまま駆け出すかと思った小平太だったが、ふと足を止める。「そういえば留三郎」
「なんだよ」
 腰に手を当てた留三郎が振り返る。
「長次が言ってたが、眼に見えないものの中でも、忍がいちばん信じちゃいかんのは人の心なんだそうだ。じゃぁな!」
 くるりと背を向けると、今度こそ小平太はダッシュして行ってしまった。
 -なんだよ。せわしないヤツだな…。
 苦笑してその背を見送っていた留三郎が、ふと最後の台詞に引っ掛かりを感じて考え込む。
 -そっか…忍は人の心を信じるな、か…。

 

 

「留三郎。そんなところで何をしている」
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む留三郎の姿に、通りかかった仙蔵がいぶかしげに眉を寄せる。
「ああ」
 振り返った留三郎がぼんやりと応える。「ちょっと月を見ててな」
「月を?」
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。
「留三郎に似合わず風流なことだが、もう少しマシな場所で見ようとは思わんのか」
「うっせ」
 実のところ、月などどうでもよかった。小平太の台詞がまだ心に引っかかっていた。
「では、物思いにふけっていたということか。それもまたお前らしくないな」
「いちいち絡んでくるなよ」
 ぶつくさ言いながらも留三郎が場所を空ける。
「で、何を考えていたんだ? 伊作のことか?」
 言いながら仙蔵は傍らに腰を下ろす。
「ちげーよ」
 ぶすっと留三郎は応える。そして、そんなにいつも自分は伊作のことばかり考えているように思われているのだろうかと考えた。
「そうか」
 夜空を見上げながら仙蔵は言う。「それならば、よほど難しいことなのだろうな」
 -はあ?
 自分の考えることはそうも両極端なのかと突っ込みたくなったが、ぐっと呑み込んだ留三郎がふと思いついて訊く。「なあ、仙蔵」
「なんだ」
「お前は、眼に見えるものしか信じないか? それとも、見えないものでも信じるか?」
「ふむ…」
 唐突な留三郎の問いに驚きながらも、その意味を考えながら仙蔵は顎に手を当てる。「見えないものというのが魂とか霊とかいうなら、答えはノーだ。だが、この世に実在するもので、ただ眼の届かないところにあるゆえに見えないというのであれば、イエスだろうな」
「そっか」
 留三郎が膝を抱える。「じゃ、人の心なんてのも、信じないんだな」
「あらゆるものの中でもっとも信じられないものだな」
 はらりと長い髷を払った仙蔵が断言する。「自分の心ですらいつも覚束なく揺れ動いているというのに、他人の心を当てにするなど自殺行為に等しいな」
「…そっか」
 それが一般的な考えなのだろうと思う。だが、自分は少なくとも伊作に対しては完全に信じている。それは、互いに何を考えているかをほぼ分かり合えるゆえの信頼感だった。
「で、人の心が信じうるかを考えていたということか?」
 淡白な声に我に返る留三郎だった。
「ああ。信じなきゃやってられねえ時もあれば、信じれば命取りのこともある。めんどくせえなってな」
「そういうものなのだろうな」
 仙蔵も否定しない。
「あ~あ。ちょっと考え疲れたな」
 立ち上がった留三郎が大きく伸びをする。「ちょっと頭スッキリさせてくる」
「自主練か」
「ああ。じゃあな」

 


(そんなところで何をしている。)
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む仙蔵の姿に、通りかかった長次がいぶかしげに足を止める
「ああ」
 振り返った仙蔵がぼんやりと応える。「ちょっと月を見ててな」
(月を?)
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。
「おかしいか?」
 膝を抱えたまま仙蔵が視線を向ける。
(珍しいと思った。)
 正直に応えながら長次ものそりと傍らに腰を下ろす。
「さっきまでそこに留三郎がいた」
(そうか。)
「人の心は信じられるかを語っていた」 
(そうか。)
 小平太に同じことを話したことを思い出して頷く長次だった。(留三郎は何と言っていた。)
「信じてはいけないときも、信じないといけないときもあると言っていたな」
 仙蔵の眼はいつの間にか朧月に戻っていた。「面倒くさいとな」
(そうか。)
 ぽつりと呟いた長次が仙蔵の横顔に眼を向ける。(仙蔵はどう思う。)
「信じた時が寿命の終わるときだろうな」
 いかにも仙蔵らしい乾いた口調で言う。「それが忍というものだ」
(そうか。)
「さぞつまらん人生だろうと思うのだろうな」
 自嘲的に仙蔵が呟く。「誰にも心を許すことのない人生に何の意味があると思うのだろう?」
 結局のところ忍として生きていく以上、避けようのない選択だったが、情に厚いところのある長次には難しいだろうと思う仙蔵だった。
(留三郎ならどう思うだろうな。)
 長次の問いは予想を外れたものだった。
「留三郎か…なおさら難しいだろうな」
 好戦的でありながら人のいいところのある留三郎は、おそらくそれが身の破滅につながると分かっていても人を信じることを止められないだろう。それがあの男のいいところであり、忍としては致命的な瑕疵でもあるのだ。 
(悔やむよりも身を滅ぼす方を選ぶということか。)
 呻くように絞り出される声にいたたまれなくなった仙蔵が立ち上がる。
「人の心は今さら変えられるようなものではない。それが留三郎の運命なら、それまでのことだ」
 言い捨てた仙蔵が足早に立ち去る。

 


「ん?」
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む長次の姿に、通りかかった文次郎がいぶかしげに眉を寄せる。
(ああ)
 振り返った長次がもそもそと説明する。(ちょっと月を見ていた。)
「月か?」
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。「長次にそんな趣味があったとは知らなかったぜ」
 軽口を叩きながら傍らに腰を下ろす。
(少し考えていた。)
 重苦しい口調も文次郎にとっては慣れたものだった。
「そっか。で、何を考え込んでたんだ?」
(忍とは…どれほど孤独なものだろうかと…。)
「孤独、な」
 朧月を見上げながら文次郎は肩をすくめる。「それが忍ってもんだろ。他人を当てにした瞬間が命取りってもんだろ?」
(…そうだな。)
 長次も否定しない。
(誰にも心を許さなければ、それだけ忍として長生きできるだろう。)
「何が言いたい」
(それが人として幸せなことなのだろうか…。)
「人として?」
 不意に話が哲学的な領域に入ってしまったようにおぼえて文次郎は軽く苛立つ。「だからなんだって言うんだよ」
(会計委員会の後輩たちがいずれ敵になったとしたら、戦えるかということだ。)
「当たり前だ」
 ぶすっと言い捨てた文次郎だったが、内心に残る躊躇にむしろ驚く文次郎だった。
 -どういうことだ? たとえ学園全員を敵にしても、それが任務なら倒すのが俺だろう…?
 それでは、三木ヱ門や左門、団蔵や佐吉に刃を向けられるだろうか…そのような場面を頭に描きかけて慌てて首を振って余計な考えを払い落そうとする。
 -俺に、本当にそんなことができるのか…?

 

 

「どうしたんだい? そんなところで」
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む文次郎の姿に、通りかかった伊作がいぶかしげに身を乗り出して訊く。
「ああ」
 振り返った文次郎がぼんやりと応える。「ちょっと月を見ててな」
「月を?」
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。
「珍しいね」
「何がだよ」
「だってさ」
 ぶっきらぼうな文次郎の反応にもにこやかに応える伊作だった。「『夜は忍者のゴールデンタイム!』って自主トレしてることが多いからね、文次郎は」
「悪かったな」
「ぜんぜん悪くなんてないさ」
 言いながら伊作は傍らに腰を下ろす。「ただ、何を考えていたのかなってね」
「何を?」
 太い眉をぐいと上げた文次郎がぶすっと言う。「別にいいだろ。伊作こそ、こんな時間にどうしたんだよ」
「ああ…僕は、ちょっと新野先生とお話をしててね」
「新野先生と?」
「うん…僕が戦場に潜り込んでは怪我人の治療をしてることは知ってるだろ?」
「ああ」
 それは単に寿命を縮める行為としか思えない文次郎だった。
「新野先生はとても心配されていた。そんなことをしていてはいつ殺されてもおかしくないと。でもそれは、先生としてはとても受け入れられないと。先生は僕に期待されているからだと…」
 自負のカケラもない口調で淡々と伊作は語る。「だから、そのようなことはやめるべきだと」
「俺もそう思うな。てか、フツーそんなことしねえだろ」
 文次郎も否定しない。
「それが普通の考え方なんだろうね」
 苦い微笑を浮かべながら伊作は俯く。「でも、どうしてもだめなんだ」
「なんでだよ」
「戦場に打ち棄てられた怪我人たちを見ると、僕はどうしても彼らが僕や学園の仲間たちだったらどう思うだろうって考えてしまうんだ…」
 俯いた伊作の口調に苦渋が加わる。「そこに倒れている傷病兵たちがもし文次郎だったら、留三郎だったら、それでも僕は見捨てられるかなってね」
「でも連中は俺たちじゃねえだろ」
 むしろ彼らと同一視されては迷惑だとばかりに文次郎が言い捨てる。
「その通りだね。文次郎は正しいよ」
 俯いたまま伊作は応える。「そう思いきることができたらとても楽になるんだけどね」
「無駄な同情は命取りだ。そう習ったはずだけどな」
 固い口調で文次郎が指摘する。
「そうだね…そのとおりだね」
 もはや泣きそうな表情で伊作は頷く。「それでも…彼らにも家族や仲間がいて、待っている人たちのもとに帰りたいと願っている…その手助けをすることはそんなに間違っていることなのかな」
「いやだからそれは…」
 そもそも議論の根底に認識の違いがある、と言いたかったところだが、それをうまく説明する言葉が見つからずに文次郎が語尾を鈍らせる。
「やっぱりだめなのかな」
 膝を抱えた伊作が上目遣いに見上げる。
「伊作がそう考えるのは伊作の自由だ」
 辛うじて結論じみたことを口にする文次郎だった。そして、自分が後輩たちに刃を向けられるかという問いと伊作が苦しむ問いは同じようなものなのかもしれないと思った。
「文次郎?」
 伊作が軽く首をかしげる。
「とにかくだ!」
 その視線に耐えられなくなった文次郎が立ち上がって腕を組む。「伊作が思い悩むのはお前の勝手だが、一般的な常識はそれとは別だ。そのことをよく考えることだな」
 言い捨てて速足で立ち去る文次郎だった。これ以上この問題に心が占められるのを振り切るように。
 

 

「伊作、そんなとこでなにやってんだ?」
 倉庫と倉庫に挟まれた狭いスペースにぼんやりと膝を抱えて座り込む伊作の姿に、通りかかった小平太がいぶかしげに身を乗り出して訊く。
「ああ」
 振り返った伊作がぼんやりと応える。「ちょっと月を見てたんだ」
「月?」
 言われて思わず空を仰ぐ。倉庫の屋根と屋根の間からおぼろな月が覗いていた。
「さっきまで、私がここで月を見てたぞ」
「そうなんだ」
 伊作がほっこりと笑顔を見せる。「さっきまでそこに文次郎がいたんだよ?」
「へえ…文次郎が月を見ながら物思いにふけってたってことか?」
 意外そうに小平太が眉を上げる。「ちょっと想像つかないな」
「そうかもね」
 伊作も否定しない。「文次郎なりにとても考えてるみたいだったよ。きっと思うところがあるんだろうね」
「伊作もそうなのか?」
 どっかと傍らに腰を下ろした小平太が訊く。
「うん。僕もちょっと考えてた。文次郎とは違うことだったけど」
「なに考えてたんだ?」
 それは何を信じられるかということなのだろうかと思いながら小平太が訊く。
「うん…僕が戦場に潜り込んでは怪我人の治療をすることを寿命を縮めることだと文次郎はいう。でも、僕は彼らを治療することは文次郎たちを治療することと同じことだって考えてる。考え方のベースが違うって言って文次郎は行っちゃったけど」
「へ~え」
 関心なさそうに小平太は言う。だが、続いて伊作が口にした台詞に思わず向き直る。
「そんなこと言われても小平太は分からないよね…誰がどう考えてるかなんて、誰にも見えないことなんだから」
「そうか?」
 細かいことは気にしない小平太なら「そうだな!」とあっさり首肯するだろうと思っていた伊作だったから、意外な応えにその横顔に視線を向ける。
「違うと思うの?」
「ああ。長次が言ってたが、世の中には見えないものの方が多くて、だから見えるものだけを信じてはいけないらしいぞ」
「そ…そうなんだ」
 小平太の口から放たれた思いがけず深い答えに伊作は曖昧に頷く。
「そういや留三郎にもそんな話をしたが、ピンときてなかったみたいだな」
「ああ…留三郎はまっすぐだからね」
 今度はあっさり頷く。「前提とか例外とか、そういうものが苦手なんだ、留三郎は」
「そっか。案外単純なヤツなんだな」
「…そうかもね」
 この場に留三郎がいたら間違いなく逆上して鉄双節錕を振りかざしていただろうなと思いながら伊作は小さく含み笑う。「でも、それが留三郎らしくていいなって思うよ」
「そっか」
 あっさりと言い捨てる小平太だった。「で、伊作はどうなんだ?」
「え、僕?」
 唐突に振られて伊作が口ごもる。「僕はまだまだ中途半端だよ。だから文次郎にも言われるんだ。一般常識からずれてるってね」
「へ~え」
 いかにも興味なさそうに言う小平太だったが、続く台詞に硬直する。「でも、それが伊作だろ?」
「…」
 応えかねて眼を見開いて小平太を見つめる伊作だった。
「伊作が医者になるか忍者になるかしらないが、どっちもありでもいいんじゃないかって私は思うぞ」
「そう…ありがとう」
 膝を抱えたまま伊作は朧月を見上げる。自分の目指す先はこの朧月のように曖昧だが、それもまた今なら許される、小平太が言いたいことはそういうことなのかもしれないと思いながら。

 

 

<FIN>

 

 

 

 

 

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