浄夜

 

公式の設定によると、団蔵と清八の歳の差は11歳。ということは、団蔵が生まれたとき、清八は11歳の男の子だったわけです。茶屋的設定では、清八は加藤村で生まれ育っていて、いずれは自分たちの親方になる立場の男の子の誕生には強い思いを持っていたに違いないと思うのです。

そして10年が経ち、団蔵に対して決意を新たにした夜は、清八にとっては、きっと浄められた夜なのだろうという妄想の暴走が止められないのです。

なお、タイトルはシェーンベルクの「浄夜」から引きましたが、原典となったデーメルの詩に濃密に描かれている男女の裏切りや赦しのドロドロな世界を清八と団蔵の間に持ち込むことは、私にはとてもできませんでした…。

 

 

 夏の星座が夜空いっぱいに広がっている夜だった。清八は、村はずれの丘の上に座っていた。眼下には、夜になってもいつもより慌ただしい加藤村が、頭上には無数の星が瞬いていた。
 -きっと、今夜だ。
 膝を抱えた腕に力がこもる。村のリーダーである飛蔵の家がいままさに迎えようとしている出産で、夜になっても村は騒然とした空気に包まれていた。飛蔵の家の前には、村人たちが集まって、そこここで集団になって立ち話をしていた。女たちは、先ほどから水を汲んだり湯を沸かしたりと駆け回っている。そんな騒ぎを、清八は丘の上からじっと見つめていた。
 -ぜったい、男の子に決まっている! …そして、俺たちのリーダーになるんだ!
 なぜか、それは清八の中では確信だった。同じ年頃の仲間たちから、男か女かなんて生まれてみなきゃわからないだろ、と言われた時も、清八は憤然として言いつのったものだった。男の子に決まってる! と。
「じゃ、もし女だったらどうすんだよ」
 清八の返事に迷いはなかった。
「若旦那に決まってる! もしそうじゃなかったら、裸で逆立ちして村中歩いてやるさ!」

 ふと、寄り集まっていた村人たちが話をしていないことに気付く。みなが飛蔵の家の戸口を見つめている。もうすぐ生まれるんだ。そう思った。やがて、誰かが戸口に出てきて何かを告げる。どっとどよめきがあがる。張りつめていた空気が一気に解けて、声高な話し声が上がる。と、その中からひときわ野太い声が響き渡る。
「清八ィ! 清八はどこだぁ!」
 弾かれたように立ち上がった清八は、一気に丘を駆け下りる。

「清八のやつ、どこにいったんだ?」
 男の子の誕生を人一倍待ちわびていた清八に、生まれたばかりの息子を見せてやろうと思った飛蔵は、頭をぽりぽり掻きながらあたりを見回した。家の周りには、集まってきた村人たちの姿はあるが、清八はいない…と、その人並をかき分けるように飛び出してきた小さい影がある。清八だった。肩で息をしながら、飛蔵を見上げる。
「親方…」
「おお、いたか…」
 にっこりした飛蔵は、大きな手を清八の頭に乗せた。
「…男の子だ」
 見せてやろう、と飛蔵は清八を促して家に入る。

 

 

「清八!」
 川で馬の身体を洗ってやっていた清八は、橋の上から響く弾んだ声に顔を上げた。わざわざ見るまでもなく、その声が誰なのかは分かっていたが。
「おかえりなさい、若旦那」
 学園の休みで団蔵が村に帰ってくると聞いていた清八は、馬を洗うことにかこつけて、村の手前の川で待っていたのだ。
「ただいまっ」
 団蔵は土手を駆け下りて清八の側にやってきた。
「今日は、もう仕事はおわり?」
 期待に眼を輝かせながら、団蔵は訊く。時間があれば、たいてい、清八と馬を走らせたり、いろいろな話をすることができた。
「はい、もう終わりです。急な仕事が入ってこなければ」
「そう! じゃ、早く村にかえろうよ!」
 清八の手を引かんばかりに団蔵は急かす。
「そう慌てないでくださいよ。まだ異界妖号の身体を拭いてやらないといけないんですから」
「じゃ、おれもてつだう!」
 腕をまくった団蔵は、川にじゃぶじゃぶと足を踏み入れると、手にした藁で馬の身体を一緒に拭い始めた。

 


「若旦那は、また少し大きくなられましたね」
 連れ立って村に向かいながら、清八は声をかける。
「そうかな」
 照れくさそうにそっぽを向く団蔵が、また新しい表情を見せるようになった、と清八は思う。ちょっと前の団蔵なら、「ほんとう!?」と満面の笑みを浮かべて見上げているところだったが。
「そうですよ」
 相槌を打ちながら、ふと考える。
 -こうやって、若旦那はどんどん知らないところへ行ってしまうのだろうか…。
「どうかした?」
 気が付くと、団蔵が顔を覗き込んでいた。
「い、いや別に…なんでもないです」
「へんな清八」
 頭の後ろで腕を組みながら、団蔵は先に立って歩き出す。
「そういえば…」
 馬の口を取りながら歩いていた清八の遠慮がちな声に、歩きながら首だけ振り返っていぶかしげな視線を向ける。
「そういえば、なに?」

 村中のものから託された役目を思って、清八は小さくため息をつく。

 -こんなこと、若旦那に相談してもいいもんなんだろうか…?

 団蔵を待っていたのは、自分になついている少年に一目でも早く会いたかったからだけではなかった。村中が解決を団蔵に託そうとしている問題があるのだ。そして、そのことを本人に伝える役目を託されている。だから、清八はもう一度小さく息をつくと、意を決して声を上げる。
「…昨日から、親方の様子がちょっと変で…」
「父ちゃんが?」
 足を止めた団蔵が、清八に向き直る。
「はい…。なにか考え込んでいなさるようで。でも、私たちにはなにもおっしゃらないんです。若旦那、聞いてみていただけますか?」
「そうなんだ…」
 自分に、そんな難しいマネができるだろうか、と団蔵は一瞬考える。だが、すぐに生来の楽天的な考えが頭を支配する。
 -ま、家に帰ってから考えればいいさ!

 

 

「ただいまっ!」
 村に帰ると、ひときわ大きい声を張り上げる。馬の世話をしていた若衆たちが迎えてくれる。
「おかえりなさい、若旦那」
「清八もいっしょだったのか」
 ああ、帰ってきたな、と団蔵は思う。馬たちや飼葉のにおい、馬の世話をしたり、運ぶ荷物の仕分けをしている若衆たちの姿、どれもがなじんだふるさとの風景である。
「父ちゃんは?」
 声をかける団蔵に、若衆の一人が顔を上げて答える。
「若旦那がお帰りになるというので、お待ちかねですよ」
「わかった!」
 母屋に向かって、団蔵は駆け出す。

 

 

「う…む」
 母屋の座敷では、団蔵の父親、飛蔵が腕を組んで考え事をしていた。
 -いったいどうすればいいんだ…。
 腕を組みなおして、また低くうなり声を上げる。
 ここでこうして考え事をしていて解決する問題ではないことは分かっていた。誰かの手助けを必要とすることだった。だが、誰に求められるというのか…思考はそこで行き詰まり、飛蔵はまた深くため息をつき、うなり声を上げて考えこむ。
 座敷の襖を開ける前に、団蔵はちいさく息をついた。
 -清八たちが心配するくらいなんだから、よっぽどなんだろう。でも、おれにそれを聞き出すなんてできるのかな。
 だから、襖に手をかける前に、少しだけ迷ったのだ。だが、次の瞬間、襖を勢いよく開けて声を上げる。
「父ちゃん! ただいま!」
「おう、元気でやってたようだな」
 出迎えた声はいつもと変わらない声色で、団蔵はひとまず安心した。
「うん! 村のみんなも、かわりないようだね」
「う…ま、まあな」
 父親の声にはじめて動揺がはしった。団蔵が思わず首をかしげる。
「どうしたの? 父ちゃん」
「い、いや、なんでもない」
 両掌を振りながら、飛蔵は慌てて苦笑いを浮かべる。それから精一杯威厳を取り戻した顔になって、厳かに宣告する。
「学校の勉強はきちんとやっていたんだろうな…通知表を見せなさい」

 


「なんだこれは…兵法も、算術も、歴史も地理も…どれも赤点じゃないか。実技の方はまあ頑張ったようだが…」
 通知表を開いた飛蔵は、呆れたように声を上げる。団蔵がぽりぽりと頭を掻く。
「まあ、それが…は組の平均的なところで…」
 クラスの仲間たちと通知表を見せっこしたから間違いない。庄左ヱ門を除けば、クラス全員が似たようなものだった。
「ん? 山田先生の所見があるな…『基礎体力はあるが、忍器を使いこなす技術力を伸ばす必要がある』土井先生の所見はこれだな…『集中力はあるが、それを学科の勉強に活かしきれていない』…なんだか、学園に行く前とあんまり変わってないんじゃないか?」
「それはさ、まだ忍たま一年生なんだし、これからうまくなるってことだよ。みんなそうなんだから」
 父親の半ば予想された反応に、用意していた言い訳で応えながら、団蔵は小さく舌を出した。
「ふむ、忍たまとはそういうものなのか…まあ、仕方ないな」
 ひとりごちて頷く父親に、団蔵はそっと安堵する。息子を忍者の学校に入れておきながら、忍者とはどういうものかを全く知らないのが飛蔵らしいといえば飛蔵らしいところである。せいぜい読み書き算盤をおぼえて、馬借稼業が勤まる程度の身体能力がつけば十分といった程度の認識なのだ。だからこそ、庄左ヱ門やい組のように、優秀な一年生もいるということは、絶対に知られてはならないのだ。

 


「それで父ちゃん、なんか心配事があるみたいだけど、どうしたの? 清八たちが心配してたよ?」
 結局のところ、直球勝負で訊いてしまう団蔵だった。
 -そうか。清八たちから聞いてたんだな。
 飛蔵も納得する。だから、素直に息子に訊くことにする。
「なあ、団蔵。忍者ってのは、情報を探るのも仕事なんだってな」
「うん、そうだよ。でも、どうして?」
 不審そうに首をかしげる団蔵を見て、飛蔵はどう続けたものかと思案する。
「実はな…この前、馬借組合の会合のときに聞いたのだが…」
 言葉を切った飛蔵は、困惑したようにため息をついた。
「どんな話だったの?」
 膝を進めてその顔を覗き込みながら、団蔵が首をかしげる。
「…馬借組合の組合長がドクタケ城に呼び出されて言われたそうだ。今後、ドクタケ領を通る馬借はドクタケ城の鑑札を持っていない限り関銭を取るとな」
「へ!?」
 聞いたこともない単語の連続に、団蔵の眼が点になる。
「つまりだな…」
 頭を掻きながら、どう説明したものかと飛蔵も言葉に詰まる。我が息子ながら理解力に不安のある相手には、どう説明すればいいのだろうか…。
「ドクタケ城の許可がない馬借からは、銭を取るということだ」
「ふーん」
 無表情な声は、いかにもその意味が分かっていないようである。
「ま、お前にはまだ難しい話だったな」
 やはり、この問題は自分で解決法を探らねば、と小さくため息をつく。と、次の瞬間、「そうだ!」と一声叫んで団蔵が立ち上がったので飛蔵はびくりとした。
「な、なんだよ、いきなり」
「そういう話なら、とりあえず庄左ヱ門に相談すれば…」
 自分がここで無い知恵を絞っても埒が明かないと、早々に見切りをつけた団蔵だった。
「庄左ヱ門ならとっても優秀だから…」
 言いかけて、あわあわと団蔵は口を濁す。
「優秀?」
「い、いやいや、そうじゃなくて…とっても優秀な情報が集まるってこと」
 自分でも言い回しがおかしいと気付いていたが、果たして眉を寄せた飛蔵に指摘される。
「団蔵、優秀な情報なんて言葉があるか。それを言うなら役に立つ情報だろう」
「そうそう! おれもそう言おうとおもってたんだ!」
 調子よく膝をたたきながら取り繕うような笑顔を見せる息子を、胡散臭そうな眼で飛蔵が見やる。
「まあいい…それで、なんで役に立つ情報が集まるというんだ」
 幸い、いちばん気付いてほしくなかった点についてはスルーされたようである。
 -よかった。庄ちゃんみたいな優秀な忍たまがいるなんてばれたら、おれ、ぜったい父ちゃんにどやされるとこだったよ…。
 だからこそ、口が裂けても庄左ヱ門の成績について口にしてはいけないのだ。 
「そりゃ、庄ちゃんの家は、京の近くの炭屋さんだからね。ほら、うちもよく配送につかってもらうだろ?」
「ああ、洛北の黒木屋さんか!」
 はたと膝を叩く飛蔵だった。
「そうそう!」
 なにを今はじめて知ったようなことを言うのだろう、と内心突っ込みながら、団蔵は営業スマイルで頷く。飛蔵自身だって黒木屋には集荷に行ったことがあるはずなのだ。当然、庄左ヱ門の家族と話をすることだってあったはずである。 
「よし。それなら明日にでもさっそく黒木屋さんに向かってくれ。清八をつけよう」
 あくまで気付かない様子の飛蔵に余計なことを思い出される前に、団蔵はスマイルを浮かべたままはきはきと答える。
「わかった!」

 


「なあ、清八。若旦那はどうなると思う?」
 若衆たちは夕食の時間を迎えていた。汁をひとくちすすった喜六が、思い出したように口を開いた。
「どうなるって?」
 隣で飯をかき込んでいた清八が箸を止める。
「いやさ、親方は若旦那を忍者の学校とやらに入れなさってるが、それって、若旦那は将来、馬借じゃなく忍者になるってことなんじゃないかと思ってさ」
「だとしたら、どうなのさ」
「考えてもみろ、清八」
 汁の椀を持ったまま、喜六は身を乗り出す。
「…若旦那が親方のあとを継がなかったら、誰が親方になるっていうんだ」
「若旦那が私たちの親方にならないなんてことがあるのか?」
 清八が眼を見開く。
「だから、親方は清八に後を継ぐよう話をなさったんだろ?」
「その話はことわった」
「だけどよ…」
「清八、仕事だ」
 喜六が言いかけたところに、源兵衛が入ってきた。
「どちらですか」
 碗をおいて立ち上がりかけた清八を、源兵衛が制した。
「そう急ぐことはない。出立は明日だ。京の黒木屋さんに行ってほしいということだ。若旦那もご一緒だ」
「若旦那が…?」
 戸惑ったように口ごもる清八に、源兵衛が首をかしげる。
「どうかしたか?」
「い、いや…別に」
 我に返った清八は、慌てて手にした碗の飯をかきこんだ。

 


「…そしたらさ、神崎先輩が『こっちだ!』って言ってちがうほうにはしって行っちゃったから、田村先輩があわてておっかけてさ…なー、おかしいだろ」
 その時のことを思い出したのか、団蔵は歩きながら腹を抱えて笑う。
「そうですか」
 翌日、団蔵と清八は、黒木屋に向かっていた。先を歩く団蔵の少し後ろを、清八は馬の口を取りながら続いていた。
「あ、ごめん…清八は会計委員の先輩たちのことは、あんまりしらないんだっけ」
 清八の反応が鈍いことに気付いた団蔵が、振り返る。
「あ、いえ、その…」
 唐突に自分と向き直った団蔵に、清八は思わず口ごもる。
「どうかした?」
 団蔵が顔を覗き込もうとする。
「い、いや、別に…」
 決して団蔵の話を聞き流していたわけではなかった。だが、心に引っかかるものがあって、うまく相槌を打つことができなかったのだ。それをうまく口で説明できず、清八はただ眼を見開いて団蔵を見つめることしかできなかった。
「へんな清八」
 頭の後ろで腕を組みながらくるりと背中を向けると、団蔵はまた歩き出した。ほっとしながら清八が続く。

 


「ふーん」
 顎に手を当てた庄左ヱ門が、低く鼻を鳴らす。
「どういうことだと思う?」
 自分でも意外だったが、団蔵は飛蔵から聞いた話を驚くほどはっきりと記憶していた。だから団蔵は、あとは庄左ヱ門の判断を待つだけという気持ちになっていた。
「たしかに怪しいね」
 考え深げに言うその背中には、庄二郎が眠っている。
「どんなふうにあやしいの?」
 団蔵が身を乗り出す。
「ぼくの考えでは、ドクタケのねらいは二つあると思う」
 庄左ヱ門は淡々と続ける。
「…ひとつは、関所を作って、ドクタケの許可を取っていない馬借から通行料を取ること。もうひとつは」
「もうひとつは?」
 部屋の隅に控えて大柄な体を縮めていた清八も、いつの間にか身を乗り出して声を上げていた。
「…ドクタケは、馬借が何を運んでいるかを探ろうとしているんだと思う」
「さぐるって、なにを?」
「それは分からない。でも、きっとドクタケにとってつごうが悪いものなんだと思う」
 背中の庄二郎を片手であやしながら言い切る庄左ヱ門に、清八は驚嘆と違和感を感じる。
「清八。なにか心あたり、ある?」
 団蔵が振り返る。
「そう言われましても…」
 頭をぽりぽりと掻きながら、清八が視線を泳がせる。
「…お城のえらい人たちが何を狙ってるかは、見当もつきませんし…」
「どうする? 庄左ヱ門」
 仕方ない、と肩をすくめた団蔵が庄左ヱ門に視線を戻す。
「あ! そういえば」
 ふいに庄左ヱ門が声を上げる。背中の庄二郎が眼を覚ましてぐずり始める。あわててあやしながら庄左ヱ門は続ける。
「うちの父ちゃんと母ちゃんが言ってた。最近ドクタケが、炭の買い入れを増やしていて、それから領内からの米の運び出しを禁止するようになったって」
「どういうこと?」
 団蔵は首をかしげるが、経験豊富な清八には、思いつくことがあったようである。
「ひょっとして、それは戦の準備ということでしょうか」
「ぼくも、そう思います」
 庄左ヱ門が頷く。

 

 

 その日は遅くなったので、団蔵たちは黒木屋に泊まることになった。夕食を済ませると、清八は庭先につないだ馬の世話に外に出た。秣と水を与え、藁で丹念に身体をこすってやる。やがて馬は安心したように脚を折って座り込んだ。その傍らでごろりと仰向けになった清八は、満天の星空を見上げる。
 -そういえば、あの夜も、こんな星空だったな…。
 記憶が、団蔵が生まれた夜へと還っていく。
 見せてやろう、と飛蔵に促されて産室に足を踏み入れる。部屋には大勢の村の女たちがいて、出産を終えたばかりでぐったりしている飛蔵の妻の汗を拭ったり、髪を梳いたりしていた。そして、その傍らには、身体を清められて産着に包まれた赤ん坊がいた。眼を見開いて、小さな手をぱたぱたと動かしている。
「わか…だんな?」
 手をついて顔を近づけながら、そっと呼びかける。だぁ、と赤ん坊が答えたような気がした。
「…」
 ゆっくりと指を近づけてみる。夜露に濡れた草のにおいが残るその指に、赤ん坊は明らかに興味を示したようだった。ぱたぱたさせていた手を近づけて、その指先をつかむ。
「わかだんな!」
 ふいにうれしさがこみあげてきて、思わず声を上げる。こらこら、赤ん坊が驚くだろう、という周囲の声も耳に届かなかった。
「おれは…俺は、清八っていいます!」
 自分の声にこたえるように、赤ん坊が笑ったように思えた。一気に沸騰した感情が体内を駆け巡る。
「おれ、わかだんなのために、かならず一人前の馬借になります! だから、だから…」
 熱いものが脳天に至って、つんとした感覚に包まれる。ふいに熱を帯びた涙が両眼からあふれ出た。制御できない激情に駆られて詰まっていた言葉をようやく吐き出す。
「…どうか、どうかよろしくお願いします!」

 


 あの夜から10年が過ぎた。あのときの赤ん坊は、今は少年となって、家を出て学び舎に入った。あのときの自分は、いっぱしの男として、そして加藤村を支える馬借の一人として日々働いている。
 -それで、若旦那はいったいどうしたいんだろう…。
 ふと、前夜の喜六との話を思い出した清八は考える。いま、団蔵が馬借として自分たちのリーダーになるかと聞かれても、清八は10年前のように明快に言い切ることができない。それは、まだ小さいこの少年の意思の所在が那辺にあるのか、読み取れないからである。
 -そういえば、若旦那が学ばれている忍術学園には、いろんな先生や先輩方がいるっておっしゃってたな…。
 黒木屋に向かう道中で、団蔵が語っていたことに思いが至る。そういえば、休みで村に帰ってくるたびに、団蔵は学園の人間の話をしていた。そのときは、会ったこともない人物の話にあまり関心も持てずに半ば聞き流していたが。
 -だけど、いろいろな人がいると言っていた。今日お会いした庄左ヱ門さんや、前に会ったことのある乱太郎さん、きり丸さん、しんべヱさんとは、同級生とも言っていた。みんな、馬借とは違う世界にいる人たちだって言っていた…。
 つまりそれは、自分たちの知らない世界を知る機会がふんだんにある環境ということであろう。
 -だからこそ、若旦那もまだ決めかねておられるのかもしれない…。
 まだ10歳なのだ。いろいろな世界があることを日々感じながら生きているのだ。それは、自分にとって望みうる最高の将来とはなにかを、選びうる立場なのだ。
 -そうであるなら、若旦那が進みたい道に進まれるのを応援するのが私の役目なのではないだろうか…?
 そうなのだ。10年前のあの夜、自分の指先を生まれたばかりのやわらかい手で握った赤ん坊に対して誓ったのではなかったか。できることなら、何でもすると。
 その決意は今でも変わっていないと、清八は考える。そこへ近づく足音があった。
「清八」
 団蔵だった。
「若旦那…」
 よっこいしょ、と清八にならんで団蔵は腰を下ろす。
「どうしたんですか。こんな夜中に」
「うん。おれも眠れなくて」
 ごろりと横になった団蔵の頭が、清八の肩に重なる。少し腕を広げて団蔵の頭を腕で支える。
「ねえ、清八。おしえてほしいんだけど」
 もぞもぞと頭を動かして、清八の腕の中で安定させながら団蔵は訊く。
「なんですか」
「さっき、米を運び出すのを禁止するといくさの準備になるみたいなはなしをしてたけど、どういうこと?」
「ああ、そのことですか」
 清八は夜空を見上げながら続ける。
「いくさには、兵糧が必要です。特にいくさが長引きそうなときは、米はいくらあっても足りないことはないんです。だから、いくさの準備をしている城は、一粒たりとも米を外に出さなくなるんです。それに、炭は戦に必要なものです。火薬を作ったり、戦場での煮炊きにも使いますから」
「そうなんだぁ」
「だから、鉄や炭や硝石みたいな軍需物資の入りが多くなって、米や薪を外に出さなくなったら、まず間違いなくいくさの準備をしている証拠です。場合によっては、私たち馬借みたいな外部の人間をいっさい領内に入れなくなる。それも危険なしるしです」
「どうして?」
「きっと、敵の城の忍者が馬借のふりをして偵察に入ることがあるからなんでしょう。若旦那こそ、そういうことを勉強したりしないんですか?」
「したかもしれないけど…」
 七方出のことは習ったような記憶がおぼろげにあったが、そのなかに馬借は含まれてなかったように思える…。
「すごいや、清八」
 ため息とともに団蔵が言う。
「…いまのはなし、学園でしたら、みんなすっごくびっくりするんじゃないかな。きっと、先生や先輩たちも、べんきょうになったっていうと思うよ」
 顎を持ち上げて清八のほうに視線を向けながら、団蔵の口調が熱を帯びる。
「そんなこと…」
 そんなの馬借の常識ですよ、と清八は軽く首を横に振った。
「そうかなあ」
 ごろりと清八に並んで横になった団蔵が、夜空に眼をやる。
「それにしても、庄左ヱ門さんは、すごい人ですね」
 つられて夜空を見上げながら清八は言う。
「うん! 庄左ヱ門はおれたち一年は組のほこりなんだ!」
「庄左ヱ門さんみたいなひとと一緒に学べる若旦那が、うらやましいです」
 団蔵がはっとして清八を見やる。その横顔は、まだ夜空に向けられたままである。
「私は小さいころから馬借の道しかなかったから…でも、若旦那には、いろんな道があるんです」
「おれだって…」
「いいえ、若旦那」
 清八が静かにたしなめる。
「若旦那にはいくらでも未来があります。きっと、馬借稼業じゃ収まらないような将来をお持ちなんです。だから…」
 その先を口にしようかと、しばしためらった。
「だから?」
 黙りこくった清八に、団蔵がおずおずと声をかける。
 -…だから、若旦那には早いうちに決めていただきたいんです。せめて、馬借を継ぐかどうかだけでも…!
 口にできなかった言葉を呑み込みかねて、清八は夜空を仰ぐ。 
 -若旦那は、まだ小さくていらっしゃる。私が答えを迫ったりすることなんてできないし、許される立場でもない。
「ねえ、清八?」
 身を起こした団蔵が、気がかりそうに覗き込む。そのあまりに表裏のない表情に、清八はいたずらっぽく答える。
「…だから、若旦那には、もっと勉強を頑張ってもらいたいですよ」
「ちぇっ! 父ちゃんみたいなこと言ってら!」
 ふくれっ面になってそっぽを向く団蔵を、寂しげな微笑で清八が見上げる。 

 


「団蔵?」
 表に出たきり戻ってこない団蔵に、灯を持った庄左ヱ門が庭先に出てくる。 
「あれ?」
 月明かりの下に、身を起こした清八の大きな影が見えた。
「清八さん、団蔵、見ませんでしたか?」
 声をかけながら歩み寄る庄左ヱ門を、口に手を当てた清八が制する。
「?」
 なお近づくと、清八の傍らで眠り込む団蔵の姿がぼうっとした灯に照らされた。
「団蔵、寝ちゃったんですね」
 苦笑しながら庄左ヱ門が清八を見上げる。
「はい。きっと、お疲れになったのでしょう」
 清八も小さく肩をすくめる。
「でも、こんなところにいたら身体が冷えてしまいます…清八さんも、団蔵を連れて中に入ってください」
「分かりました」
 清八が、両腕でひょいと団蔵の身体を抱き上げるのを見て、庄左ヱ門は足を忍ばせながら母屋へと戻り始める。その後ろに続きながら、清八は、月明かりに照らされた腕の中に眠る少年の寝顔に視線を落とす。
 -若旦那…また少し重くなられましたね。
 まだ小さい少年だが、会うたびに着実に成長していることも事実だった。
 -若旦那には、どんな未来があるのでしょうか。
 10年前、少年だった自分の指先を、小さく柔らかい指で握った感触を思い出す。
 -もしかしたら若旦那は、忍者とやらにおなりになるのかもしれませんし、違う道に進まれるかもしれません。だけど…。
 腕の中の団蔵は、小さく寝息をたてたままである。
 -やっと今日、私は決められたんですよ。若旦那がどんな道に進もうと、かならず応援すると…。

 

 

 <FIN>