もののもどり

 

中世に頻発した徳政一揆とは、借金をチャラにしてしまおうというなかなか債務者側に都合のいいものでしたが、なぜそのようなことがそれなりの合意をもって起こりえたのかは、「もののもどり」という概念を知るまではいまひとつ納得できませんでした。

「もののもどり」とは、たとえ贈与や借金のかたで手放しても、ものというものは本来的にもとの持ち主に戻るものだという思考で、人とモノとの関係が呪術的なつながりで認識されていたかなり未開的な考えかたといえるでしょう。網野善彦は、そのような呪術的な関係を断ち切り、取引を成立させるために、市場に寺社という宗教的なバックを必要としたと述べていますし、あるいは抜天坊のように土倉がおおく寺の名義で仕事をした(落乱47巻)のも、そのような考え方があったのかもしれません。

室町末期から戦国時代にかけては、金融・経済の高度化と近代化が芽生えた時期であり、そのなかでは新しい経済観念と「もののもどり」のような前近代的な観念がせめぎあった時期でもあったのでしょう。そんなところを描いてみたいと…努力はしてみましたw

なお、「もののもどり」に関しては、桜井英治の論考を参考にしましたが、桜井氏のエッジの効いた分析をお話にうまく落とせたかは…読まれた方のご判断に委ねたいと思います。

 そんなテーマでありながらR-18だったりしますので、ご注意くださいませw

 

 

1 ≫ 

 

 

 

「へぇ、あんたが新しい用心棒かい…」
 客や使用人でごった返す店頭の土間に突っ立っている留三郎を、あがれとも言わずに上から下まで一瞥した人物を、留三郎もまた思わず凝視した。
「なにジロジロ見てるんだい。名前くらい名乗りな」
 凛とした声で言い放ったのは、帳場にどっかと座った娘だった。
「俺…私は、忍術学園の食満留三郎だ」
「ふーん、食満っていうのね」
 なにやら帳面に書きつけながらひとりごちる娘を、留三郎はなおも凝視した。
 -なんだこの娘は…。
 目つきは鋭いが、顔立ちは整っている。かなりの美人と言ってもいいかもしれない。小柄ではあったが、得体のしれない強烈なオーラが体躯の小ささを打ち消していた。
 -この娘が、俺を用心棒に雇ったというのか…。
 筆を置くと、傍らに控えた番頭が一礼して帳面を運び去る。留三郎に眼を戻した娘は、すっと立ちあがるや傲然と言い放つ。
「なにそんなところで口開けて突っ立ってるんだい。とっとと上がりな」

 


 留三郎は、きり丸に用心棒のアルバイトを頼まれていた。きり丸からは、大店の土倉である千本木屋の女主人の用心棒としか聞いていなかった。だから勝手に、でっぷりとした中年女を想像していた。だが、いま、自分を値踏みするように上から下まで一瞥したのは、自分とそれほど歳も変わらなさそうな小娘だった。
 -どういうことだ。あれが、この店の女主人だというのか…。
 娘に続いて慌てて奥に上がった留三郎は、すたすたと早足で進む娘を追って、長い廊下を進む。
 やがて、奥座敷に入ると、娘は高そうな唐物の書や壷がならんだ床の間を背に座った。留三郎も慌てて座る。刀を傍らに置ききらないうちに、娘は口を開いた。
「聞いていると思うけど、私の名前は鈴。この千本木屋の主人さ。知ってのとおり、土倉は金貸しだから借金の取立てをやってなんぼの商売だけど、女だからと嵩にかけてくる連中もいる。だからあんたは、私の横から睨みを利かせるのが仕事。なにか質問は?」
 早口でぽんぽん喋る鈴の声に、留三郎は言葉もない。
「質問がないなら、今日からさっそく働いてもらうよ。これから客が来るから、そこに座りな」
 そこ、と右手を軽くはらったところを見ると、客と鈴の間に控えていろということなのだろう。

 


 やって来たのは、恰幅のいい商人らしい風体の男だった。
「須賀屋さん、今日ここに来てもらった訳は、わかってますよねぇ」
 キセルをくゆらせながら、鈴は淡々とした口調で言う。
「もちろん分かっている。だが、取引先からの入金が遅れている。それさえ入ってくれば…」
「須賀屋さん」
 ふぅ、と軽く科を作るように肩を傾けて煙を吹くと、鈴の声色がにわかにドスを帯びる。
「商売とは約束事だよ。取引先からのカネが入ってこないなら、別の取引先から取り立ててでも約定を果たすのが筋ってもんじゃないのかねぇ」
「そんなこと…できると思っているのか」
 膝の上に置いた拳が細かく震えている。須賀屋はぎろりと鈴を睨み上げる。
「この千本木屋で借りるからには、当然のことですけどね」
「ないものはない! だからこうして来てるんじゃないか!」
「開き直りですか? 困りましたねぇ」
 揶揄するように、鈴は肩をすくめる。
「…返済が遅れるなら、約定日以降、日あたり3分の違約金相当の追加担保をいただかなくちゃなりませんよ」
「言わせておけば…この売女め!」
「喜平治」
 鈴が声を上げる。襖が細く開いて、鋭い目つきの手代が顔を出した。
「お客さんがお帰りだよ。あと、お客さんは在庫を追加担保すると仰ってる」
「へい」
 短く答える声とともに襖はふたたび閉じられた。廊下を伝う足音が遠ざかる。
「ま、待て! 誰がそんなことを…」
「早くお戻りになったほうがいいんじゃないですかねぇ。うちの連中はそそっかしいのが多いから、ちょいとばかり担保を多めに持ってくることがしょっちゅうだから…」
「なんだと…」
 みるみる青ざめた須賀屋が立ち上がる。立ち去り際に鈴をまっすぐ指差す。
「この強欲女め! いつかこの借りは返してやるからな!」
 荒々しく足音を立てて座敷を出て行く後姿に、脇を向いたまま泰然と煙を吐いた鈴が涼しげに言い捨てる。
「返してもらうのはいつでも大歓迎ですよ…それが商売ですから」

 


「いつも、あんな言い方をしてるのか…」
 ことの展開にすっかり肝を冷やしていた留三郎が、ようやく口にできた言葉だった。
「たかがあれくらいで、なに驚いてるんだい」
 かん、と音を立てて吸殻を灰吹きに落とす。
「そんなことで忍者だなんて、知れたもんだね」
「んだと…!」
 留三郎が拳を握る。
「周旋に来たのが調子のいいガキだから、もともと期待してなかったけど、目つきが悪いだけのガキを寄越すとはね…まったく詐欺じゃないか」
 脇息に肩肘をつきながら、鈴はぼやく。
「サギ、だと…!」
 留三郎が思わず歯軋りする。
 -きり丸め、こんな強欲女の警護のバイトなんぞ周旋しやがって! こんな女の側にいて、こっちまで毒される前に、即刻辞めてやる!
「辞めるのは勝手だけどね…」
 気持ちを見透かしたように、顔を背けたまま鈴は声を上げる。
「こっちは口銭(紹介料)払っているんだ。一日で辞められたんじゃ割に合わないからね、周旋に来たガキにきっちり返してもらうからそう伝えときな」
 -なんだと。きり丸から口銭を取り上げるだと?
 そんなの知るか! と怒鳴りたくなる感情を堪えながら、留三郎は浮かしかけた腰をそろそろと下ろす。
 きり丸がバイトに勤しみながら学園の学費を稼いでいる話は、しんべヱから聞いたことがあった。休暇中の上級生たちのバイトの周旋も、きり丸が数多くこなすバイトのひとつだった。そんな苦労を知っているからこそ、あまり割りのいいものではなくても、上級生たちはきり丸の持ち込むバイトの話に乗ってやっていた。
 -俺が少し我慢してやればいい話か…。
 側にいるだけで胸糞の悪くなるような女だったが、所詮休暇中の話である。気に食わない相手に仕えるというのも、忍の修行のひとつだと留三郎は思うことにした。
「どうしたんだい。辞めるのかい、辞めないのかい」
「誰が辞めるなどと言った」
 低い声で留三郎は答える。
「そうかい」
 関心なさそうに鈴は硯を引き寄せる。傍らの紙になにか書きつけながら続ける。
「…今日の仕事はこれで終わりだ。もう上がりな。部屋は女に案内させる…お美代!」
「はい」
 細く襖が開いて、女中が姿を見せた。
「新しい用心棒さんだ。部屋に案内しな」
 

 

「よう、新しい用心棒さんよ」
 廊下ですれ違ったのは、先ほどちらと顔をみせた手代の喜平次である。
「食満留三郎です。よろしく」
 立ち止まった留三郎は、軽く目礼する。
「うまく旦那様に気に入ってもらえたようだな…ま、頑張ってくれよ」
 ぽんと肩を叩いてにやりとすると、喜平次は歩み去った。
「気に入られた?」
 ひとりごちる留三郎に、先にたっていた女中が小声で答える。
「…旦那様は、腕が立つ人でないと、お雇いになることはありません。とても目の利く方ですから、すぐにお分かりになるようです…一目見ただけで腕が立たないと見込まれて、玄関先で追い払われることもしょっちゅうです。それに…」
「それに?」
「…旦那様は、とても面食いなんです」
 そう言うと、女中は袖で隠した顔で、振り返りざまちらと留三郎を見上げて、くすりと笑った。

 


「さて、本日、皆様にお集まりいただいたのはほかでもない。阿弥陀坊さんに対する債務整理の件で、今後の方針を話し合うためです」
 翌日、留三郎と数人の手代を従えた鈴がやってきたのは、土倉の吉祥坊猶秀の店だった。
「すでにお聞き及びと思いますが、阿弥陀坊さんが貸し付けた松竹軒董栄殿への3000貫文の債権の存在確認の訴訟は、先日の政所の裁許状(判決文)により、敗訴が決まりました。一方、阿弥陀坊さんが持つ回収可能な債権は5000貫文プラスアルファと見積もられています」
 猶秀がここまで話したところで、鈴が口を開いた。
「いまのお話のプラスアルファには、土倉を整理したときの金額が含まれるということですね」
「そのとおりです」
 猶秀は、髭をなでつけながら答える。
「ただ、その評価額はかなり流動的であると言わざるをえない。ここで阿弥陀坊さんが倒れることが明らかになれば、借書(借用証書)の無効を求める裁判がいっせいに起こされて、整理が停滞するうえに債権価値が一気に落ちる。それは、当然ながら、阿弥陀坊さんに対する合銭の輩(ごうせんのともがら・共同出資者)である私たちにとって望ましい事態とは、到底いえないことです」
「つまり、我々が共同歩調を取るべきだと?」
 居並ぶ土倉たちの一人が声を上げた。
「まさしく」
 そう猶秀が答えるまでもなく、居並ぶ土倉たちの全員が、この集会が、阿弥陀坊に対する出資金の回収の抜け駆けを許さないことを申し渡すためのものだということをはっきりと理解していた。

 


「おや、千本木屋さんのお嬢さん、今日は婿候補のお披露目かい」
「おや、抜天坊さん」
 留三郎たちを従えた鈴が席を立ったところへ声をかけてきたのは抜天坊である。
「なに、この人は、ちょっとばかりお付き合い願っただけでしてね」
 鈴はそっけなくはぐらかす。
「おや、そうですかい。婿でないとすれば、用心棒兼用のお遊び相手かね」
 探るような眼で鈴をうかがいながら、抜天坊はねちっこい口調で言う。
「抜天坊さんこそ、用心棒くらいつけないと危ないんじゃないですか。物騒な世の中ですからね」
「用心棒など、金の無駄だ…あんたみたいに、キレイなおべべに用心棒にと無駄遣いばかりしてるようなのは、土倉の風上にも置けんな」
 抜天坊は吐き捨てる。
「風上でも風下でもけっこうですがね…」
 涼しい顔で鈴は流す。
「カネなんてのは、使った以上に稼げばいいだけの話でね。使うべきところには使うのが私のやり方なんですよ…抜天坊さんこそ、お歴々への付け届けまでケチってたら、うまくいくものもいかないんじゃないですかね」
「大きなお世話だ」
 会話はそこで終わり、鈴はすたすたと出口へ向かい、抜天坊は誰かを探すように、まだ座敷に残っている土倉仲間たちの間に姿を消した。
 -なんだこの集団は…。
 留三郎は内心、いまの会話の意味をはかりかねていた。
 -抜天坊がなにを聞きたいのかも、鈴がどうクリアしたのかも、俺にはぜんぜん分からん…それに、他の土倉たちも、あんなけんか腰のやりとりに気づいてないはずはないのに、何事もないように笑ったりしゃべったりしている…。

 


「今日の寄合は、どういうものなのだ」
「ああ、あれかい?」
 鈴はわずかばかり膳に箸をつけたかと思うと、もう杯を傾け始めていた。
「あれは、土倉の阿弥陀坊さんの倒産が確実になったからね、合銭の輩(ごうせんのともがら・共同出資者)の私たちが債務整理の方針を話し合うためのものさ。もっと言えば、抜け駆けは許さないというためのものだけどね」
 さらりと説明しながら、鈴は杯を呷る。
「…そうか」
 説明されても、その内容が半分も理解できない留三郎だった。
「つまり、合銭している限り、儲けも入るが責任も負うってことさ…」
 平べったい口調で言うと、鈴はふたたび杯を呷った。
「だが…だからといって、あんな連中と付き合う必要があるのか…」
 抜天坊をはじめとするまとわりつくような視線の男たちを思い出して、留三郎は背中にひやりとしたものを感じる。
「へえ、あんな連中が怖いのかい」
 揶揄するように言うと、脇息に肘をついて、鈴はにやりとした視線を送る。その手には、まだ杯を持

ったままである。傍らに控えた女房が酒を注ぐ。
「そんなことがあるか! …ただ」
「ただ?」
「あんな連中と、いつも付き合っているというのか」
 可憐といってもいいような娘が、あんなむくつけき脂ぎった連中と打ち混じってビジネスの話をするとは…理不尽ささえ感じて留三郎の声が低くなる。
「あんな連中が、ビジネスパートナーなのさ」
 何の感情もこもらない声で言うと、再び盃を呷る。
「あんな連中も、そんな飲みかたも…」
 -お前には似合わない。
 続きを口にしかけて、留三郎は一瞬ためらった。
 先ほどから鈴の酒の飲み方が気になっていた。
 -典型的な三禁の飲み方だ…。
 酒を飲んだことのないわけではない留三郎だったから、鈴の飲み方は決して健康的な飲み方ではないことは察しがつく。
 -あれは、何かを忘れようとしている飲み方だ。あんな飲み方をしていたら、いつか酒に飲まれてしまう…俺とそう歳も違わなさそうな娘が、なんであんな飲み方をするようになっているんだ。
 だが、相手は今のところ自分の雇い主である。雇われる立場としては、ドライに身を処すべき場面なのかもしれなかった。
 -だが…放っておけない。
 つくづくお節介だと思うが、留三郎は、鈴が哀れでならなかった。たとえ自分が一介の忍たまで、相手が土倉の旦那であっても、言っておく必要があるように思えた。
「なんだい。言いたいことがあるならとっとと言いな」
「なら言おう…そんな酒の飲み方はやめるんだ」
「は?」
 押し殺したような留三郎の声が発する言葉の意味を捉えかねて、声が裏返る。
「そんな飲み方はよくない…酒の力で忘れたいことを忘れようとする飲み方だ。だが、それでは何も解決しない。そのまま酒に飲まれるだけだ。だからやめろと言っている」
「酒に飲まれる?」
 鈴は呆れたように言い放つ。それでも留三郎は続けずにはいられない。
「あんな連中と付き合って、客に憎まれて、何が楽しいんだ。どうして、世の中の同じような年頃の女たちみたいに今を楽しもうとしない。世間に背を向けて、金と酒におぼれて、いつ心が安らぐというん

だ」
「安らぐ? …は、ははは」
 ぐにゃりと脇息にもたれた鈴は、乾いた笑い声を上げる。
「なにがおかしい」
「あんた、面白い男だね。この私にそこまで言った男は、これまで一人もいなかったよ。でもね」
 揺らいでいた背の動きが止まった。
「誰があんたを雇ってるのか、少しは考えた方がいいんじゃないかい?」
 何の感情もない声で言い捨てると、鈴はすっと立ち上がった。あれほど飲んでいたとは思えないほどの揺らぎのない立ち姿だった。白く細い指先をすっと伸ばして、座ったままの留三郎の顎にひっかけてぐいと持ち上げる。爪先が咽喉もとに食い込む。
「もひとつ言っておくけどね」
 爪がさらに食い込む。不自然に顎を持ち上げられたまま、留三郎は動揺を悟られないように相手を睨み上げる。
「あの連中と私は、しょせん同じ穴の貉さ。カネだけでつながってる。だけど、私にはそれで十分さ。むしろ、縁だの座だのクソの役にも立たない関係でつながってるような連中のほうが、よほど胸糞悪いね。あと、井戸端で世間話するくらいしか能のないバカ女どもと一緒にするようなことを今度言ったらクビだから、よく憶えておきな」
 咽喉もとに突き付けられた指先からふっと力が抜けた。指先が軽やかに顎を滑って離れていく。振り返りもせずに隣の間へと歩み去る鈴を、給仕していた女中が慌てて負う。
「…ふぅ」
 隣の間の襖が閉じられ、後ろ姿が見えなくなると、留三郎は思わず深くため息をついた。いつの間にか背中に冷たい汗が伝っていた。
 -なんだったんだ、あの迫力は…。
 初めて千本木屋を訪れ、鈴に会った時に感じた得体のしれないオーラの正体を垣間見た気がした。若い女とはいえ、自分の知らない土倉という世界で修羅場をくぐって生き延びた者だけがもつ貫禄とでもいうものなのだろうか…。
 その一方で、思うのだった。
 -よく、あの場でクビにしなかったものだ…。
 冷静に考えれば、その場で屋敷から追い出されても不思議ではないようなことを自分は言ったのだ。それなのに、クビにならなかった。それは、自分の言葉がいささかなりとも受け止められたと考えていいのだろうか。

 


「そういえば、あんたを周旋したガキ、なんて名前なんだい」
 翌日、最初の客が通される前の座敷で、帳面に眼を通していた鈴が訊く。
「きり丸という。忍術学園の後輩だ」
 脇に控えた留三郎が答える。
「そうかい。ずいぶん銭には目端のきくガキだったね」
「きり丸には親がいない。詳しいことは俺も知らないが、自分で学費を稼ぐために、いろいろバイトをしているらしい。口銭稼ぎもそのひとつだ」
「…そうかい」
 まだずいぶん小さい子どもに見えたが、ひとりで小銭を稼いで学費を払っている…帳面を繰る手を止めて、鈴は視線を軽く伏せる。
 -私と同じ…。
 思わずそう考えてから、いや、違うと小さく首を振る。
 -私は、継ぐべき家と財産と、それを維持するためのノウハウを仕込まれてから一人になった。ずいぶん恵まれていると思うべきなのだろう…。
「お前と、同じだな」
 鈴の姿にまっすぐ視線を向けながら、留三郎が呟く。
「ま、いい年して自分で稼ぎもしないで親に学費払わせている誰かさんと違うことはたしかだね」
 露骨に相手の嫌がることを口にすることしかできない鈴だった。放っておけば湧いてくるであろう余計な感情を紛らわすために。
「…わるかったな」
 だから、卒業したら一人前の忍になるために修行に励んでいるのだ。
「まあいいさ。そのきり丸に言っておきな。これから銭の価値は大きく変わるから、気をつけなってね」
 再び帳面を繰りながら、鈴は口を開いた。
「どういう意味だ」
「商売したことのないあんたに言って分かることとは思えないけどね」
 留三郎の眉間が深く刻まれるのを楽しむように確認してから、鈴は再び帳面に眼を戻す。
「撰銭(えりぜに・低品位な銭を取引から排除すること)くらいは知ってるだろ?」
「ああ」
「あれがホントに手間でね。あんたも見て気づいてると思うけど、客が返済に来るたびに、血眼で銭の種類をえり分けなきゃいけない。緡銭(さしぜに・百文単位で束ねた銭)のなかに京銭だの打平(うちひら・いずれも低品位貨幣)だのがわらわら混ざっているんだからさ、うっかり受け取ろうもんならどれだけ損するか分からないからね」
 大名たちは撰銭の禁止を口やかましく通達していたが、鈴には馬耳東風らしかった。
「おまけに永楽(通宝)は東国に流れてるしね。こっちに残ってるのはびた銭ばっかりで、おまけに種類ごとの換算率は違うわ、国によって変わるわでさ…」
 ばさり、と音を立てて帳面を閉じる。
「だから、きり丸に言っときな。これからは銀だってね」
「銀?」
「そうさ。京方はともかく、このあたりじゃ、もう銭は大口の決済には使われてないのさ。うちではずいぶん前から惣借(そうがり・惣村としての借金)の返済には米を受け付けてるし、最近は銀や金も使われるようになってきているからね」
「…」
 今の話をどうきり丸に伝えればいいものやら、相変わらず土倉の実務に疎いままの留三郎の頭では整理がつきかねた。
 -そういえば、きり丸は銭が落ちる音を聞いただけで、銭の種類を当てられるといってたっけな…。
 なんの脈絡もなくしんべヱから聞いた話を思い出していた。それはそれでひとつの特技だと留三郎は思う。鈴に話しても、鼻で嗤うだけだろうが。
「私も、いずれ商売を大きくする。そのとき、あのガキがまだ使えるようなら、迎えてやってもいい。だからせいぜい精進するよう伝えときな」
 留三郎が考えを巡らせている間にも、鈴は平板な口調で続ける。
「大きくする?」
 言わんとすることがよく分からず、留三郎は相手に眼をやる。
「いま、番頭の利助に傾いている土倉をいくつかピックアップさせている。いよいよ倒れそうになった土倉の株を買ってこの千本木屋に合併する。納銭方(土倉・酒屋への課税を幕府から請負った土倉の代表者)の猶秀さんや、合銭(ごうせん・出資)するという寺や酒屋があるから、それを元手に商いをもっと大きくする」
 鈴が言葉を切る。そのまま、しばらく張りつめた沈黙が流れた。
「…」
 沈黙に耐えかねて留三郎が顔を上げる。鈴の視線は、開け放った襖の向こうの庭に向けられていた。
 -いや、あの眼は、何も見ていない。
 すでに仕事モードに切り替わったその眼には、留三郎には見えないビジネスの姿が捉えられているのだろうか。
「旦那様、お客様です」
 座敷の外から喜平次の声がした。
「誰だい」
「伊勢屋さんです」

 


「出かけるからついて来な」
 昼食後、来客用の座敷に戻ろうとした留三郎に、鈴が声をかけた。いつの間にか外出用に着替えている。
「わかった」
 刀の下げ緒がきちんと結ばれているか指先で確認しながら、留三郎は答える。鈴のスケジュールが事前に知らされることはまずなかったので、急な外出に驚くこともなくなっていた。いつ、どこへ出かけることになってもいいように、懐にはつねに忍具をフル装備でたくしこんでいた。
「どこに行くんだ」
 今日の外出は、手代も連れず、留三郎と2人だけである。
「片桐屋さんの茶席さ」
 先を歩く鈴がそっけなく答える。
「そうか」
 初めて聞く名前にそれ以上話の続けようもなくて、留三郎は黙りこむ。
「このあいだ来ていた須賀屋さんは憶えているね」
「ああ」
 あれは、鈴の用心棒のバイトで千本木屋に来た初日にやって来た客だった。あの時のやり取りは、まだ記憶に鮮明だった。
「須賀屋と片桐屋は同じ講でつながっている」
 世間話のように鈴は続ける。
「親しい…ということか」
「たぶんね」
「危なく、ないのか」
「なにか企んでるにしても、寺の坊さんも招待している茶席で事を起こすことはないだろうさ。そんなことをすれば、片桐屋の評判が落ちる」
「それはそうだが…」
 だが、あえてそのようなことを留三郎に話すということは、鈴も何かキナ臭い意図を感じているのかもしれない。それ以上の話はなく、2人は黙って歩き続けた。
 片桐屋に着いた。


 

「ようこそ、お待ちしておりました」
 慇懃な態度の番頭が長い廊下を案内する。
「どうぞこちらへ」
 留三郎は従者なので、控えの間に案内される。鈴は奥の寄付(よりつき)に通される。そこで、他の客が揃うまで待つのだ。
 控えの間には先客がいた。取り澄ました様子で座っている稚児である。とすると、最初に到着したのは、鈴が言うところの寺の坊さんなのであろう。やがて、先の番頭が別の客を案内してきた。寄付で主の身支度を済ませた手代らしい男が、風呂敷を手に控えの間に戻ってきた。
 -客は3人か。
 寺の坊さんと、鈴と、最後にやって来た商人らしい風采の男が、これから茶室に通されるのだ。寄付で何やら談笑していた声がふいに遠ざかる。
「千本木屋さんの方ですかい? 千本木屋さんの旦那さんは、相変わらず別嬪だねぇ」
 最後にやって来た商人の付き人は、話好きのようだった。取り澄ました稚児に話しかけることを断念すると、留三郎の側にやってきた。
「ええ、まあ」
 留三郎もあまり話したい気分ではなかったから、曖昧に返す。しかし、相手は意に介していないようである。いつの間にか、話題は店であった出来事のことになっていた。
「…そいでもって番頭の清兵衛さんが『早く早く』なんて急かすもんだから小僧のやつ、いよいよ慌てて盆に乗ってたものまで引っくり返しちまってね…」
 見たこともない店の会ったこともない人の話を延々と聞かされるのに飽きた留三郎は、「ちょっと失礼」と座を立つ。
「おや、どちらへ?」
 滔々と話していたところを突然打ち切られた男は、意外そうに眼を瞬かせる。
「厠へ」
 ついて来るなオーラを全身から発しながら短く答えた留三郎は、控えの間を出る。
 -おや?
 厠へ向かって裏庭を歩いていた留三郎が、ふと物陰を伝う2つの人影に気付く。
 -あっちは、茶室の方ではないか?
 悪い予感がした。次の瞬間、留三郎は人影を追って駆け出していた。

 


 -やはりな。
 物陰に潜んだ留三郎の眼は、茶室の手前の竹垣に身を隠す2人の忍の姿を捉えていた。背後への警戒が甘いところを見ると、あまり腕の立つ忍ではないらしい。あるいは足軽上がりの殺し屋のようなものかもしれない。カネさえ積まれれば殺しでもなんでも請け負うような連中は珍しくなかった。
 -須賀屋の手の者か…。
 鈴のような商売をしている者には、命を狙われる動機がありすぎるほどあった。あるいは片桐屋か、もう一人の客の商人を狙っているかもしれなかった。僧が殺し屋に狙われるということはさすがに考えにくかったが。
 -いずれにしても、鈴が狙われているのだとすれば、俺が守らなければならない。連中のターゲットが誰か分かるまでは慎重に動かないとな。とすれば…。
 留三郎は、躙口(にじりぐち)に近い茂みの陰に気配を消して移動する。あの2人が忍であるにしろ、単なる殺し屋であるにしろ、茶室の中に躍り込むのに、出入りに身をかがませる必要がある躙口を使うとは思えなかった。茶道口(勝手口)から押し入るか、窓を破るかどちらかだろう。
 -いずれにしても、2人同時に中に入ることはできないだろう。とすれば、一人が中に入った時点でもう一人を始末した方がいいな…でないと、人質を取られかねない。
 茶室の中は狭い上に人が密集している。中に押し入った連中が、手近にいる誰かを人質にとることなど簡単なことだろう。同じ理由で刀を抜いたり、鉄双節棍を振り回すことも困難だった。そこまで考えたとき、竹垣に身を隠していた2人が動いた。
 -なんだと!
 なんと、刀を抜きはらった2人は、茶道口と窓から同時に侵入した。完全に意表を突かれた留三郎は一瞬動きが止まったが、次の瞬間、窓の明かり障子を破るのに手間取っていた背中に棒手裏剣を放った。
「ぐあっ」
 唐突に背中を襲った痛みに、窓に足をかけていた男の身体が地面にどうと落ちる。その間に留三郎は茶道口から茶室に躍り込む。
「千本木屋! 覚悟!」
 室内では、刀を構えた男が鈴に斬りかかろうとしていたところだった。鈴は身を翻そうとしたが、両隣を客に挟まれ、背後は壁で動けない。とっさにかんざしを抜いて身を護ろうとする。
「ぐ…」
 だが、刀を振りかざした男の動きが止まる。と、その手から刀が取り落され、身体が崩れ落ちる。その背には苦無が突き立てられていた。
「ひゃぁっ」
「やや、これは…」
 ようやく客の商人と点前座で腰を浮かしかけていた片桐屋が声を上げながら腰を抜かす。もう一人の客である僧はショックで声も出せない。
「ちょっと失礼」
 背中に苦無を突き立てたままの男の身体を引きずり出しながら、留三郎が短く言う。
「忘れ物だよ」
 客座に取り落された刀を拾い上げた鈴が、破られた窓から露地に放り投げる。
「おう」
 窓の下にうめき声を上げながら倒れ込んでいる男の襟首をもう一方の手で掴みながら、留三郎が答える。
「あとで片づける」

 


「あの連中は、誰の差し金だったんだい?」
 何ごともなかったように鈴は訊く。思わぬ闖入者によって当然ながら茶席は中止になり、2人は店に戻る途中だった。
「須賀屋だ」
 短く留三郎が答える。茶室から引き離した2人を締め上げて吐かせたのだ。
「片桐屋は絡んでないようだね」
 その口調から意外と思っているのか、残念と思っているのかは分からない。
「そこまでは分からない。連中は片桐屋との関係は否定していたが」
「そうかい」
「須賀屋は、かなり憎んでいるようだな」
 留三郎は言わずにはいられない。あのようなけんもほろろな対応をされた挙句に、担保を追加徴収されたのでは、恨まれても当然のように思えた。だからと言って殺し屋を放つかどうかは別問題だが。
「そうだろうね」
 あっさりとした答えから何を考えているか推し量ることは、留三郎にはできなかった。

 


 どうしたことだろう。後ろに従えている上背のある男の気配を感じながら、鈴は考える。
 -この男を、好きになりかけているということか。
 確かに、そうなっても不思議はない状況だった。刀を構えて突き立てるばかりだった敵を前に、自分はかんざしで身を護るポーズしかできなかった。そこへ、この男が現れたのだ。そして、鮮やかに賊を倒した。普通の女ならば惚れない方がおかしい。
 -だが、私は並みの女として生きる道を捨てたはずだ。
 そして、土倉という修羅の道を選んだ。
 -それなのに、この男はいらないことを言ってくる。
 客との応対も、土倉仲間との付き合いも、あの男からは常軌を逸したことらしい。
 -大きなお世話だ…。
 いままでの自分であれば、顧みることなど考えられない戯言だった。それなのに、あの男の言葉はなぜここまで心に引っ掛かるのだろう。しかも、そのその言葉の背後にあるのは、世の中にはびこる旧弊そのものの意識なのだ。そしてそれこそが、自分の仇敵にしてもっとも唾棄すべきものだったのではないか…。

 

 

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