途半ば

山田先生46歳、新野先生45歳

当時としては高齢に属する二人です。

では二人が現在で言うところの高齢者に当たるかというと必ずしもそうではないと思うのです。

たしかに乳幼児の死亡率が高かった当時の平均年齢は30歳前後だったようですが、歴史上の人物、つまり乳幼児期の死亡率が高かった時期をクリアし、恵まれた生活環境にあった場合の平均年齢は戦国時代で60.4歳だったという試算もあります。であれば山田先生たちの年はさほど高齢とみなされることもなかったのかもしれません。

というわけで、お二人には中年の危機ともいうべき迷いとその先にあるものに眼を向けていただくとしましょう。きっとそれは、眼の前の幸せを再認識する縁になるはずですから。

 

 

「これにて第35回忍者会議を終了します。皆さまお戻りもお気を付けて」

 司会の忍が言い終わると、ずらりと居並んだ男たちが一斉に立ち上がったり書類を片付けたり伸びをしたり話し始める声で、しばし室内は雑然とした。
 -やっと終わった。さて、戻るか…。
 う~ん、と伸びをした山田伝蔵も背に荷物を結わえて立ち上がろうとする。と、その肩に手を置く者がいる。
「ひょっとして…伝蔵ではないか?」
「おお! 茂正ではないか! なつかしいなあ!」
 振り向いた伝蔵がみるみる表情を輝かせて相手の肩をがしと掴む。
「お互い、元気だったようだな」
「おう、元気も元気、元気だけが取り柄だ!」
 声をかけてきたのは、戦忍だったころの仲間の名張茂正だった。学園の教師になってからは音信も絶えていたが、顔を合わせた瞬間、一気に10年の時間も飛び越えて記憶がよみがえる。

 

 

 

「そうか。もう伝蔵は戦忍から足を洗っていたか」
 杯を空けた茂正が感慨深そうに言う。「てっきり、別の城にスカウトされたものとばかり思っていたが」
「いろいろあってな。もう10年になる」
 茂正と自分の杯に酒を満たした伝蔵は、ふと自分で口にした10年という言葉に心がみしりと軋むのをおぼえた。
「ま、俺としては、敵方としてお前さんに会わずに済んで幸いだったがな」
 ははは…と笑い声を上げた茂正が、ふいにしみじみとした口調になって続ける。「で、奥さんは元気か?」
「ああ、すこぶる元気だ。たまにしか家に帰れんからと言っては過激な出張セットを送りつけてたものだが、最近は向こうから学園まで来るようになった」
 困ったものだ、と肩をすくめる伝蔵だった。
「なに、あんな美人の奥さんがいながら、放っておいてるだと? 伝蔵、それはバチが当たるってもんだぞ?」
 大仰に膝を叩きながら茂正が笑う。
「わしだって悪いと思っとる」
 伝蔵がぐいと杯を傾ける。「そろそろ女房孝行してやらんとな」
「そうだぞ」
 茂正が合の手を入れる。「利吉君だってもうプロの売れっ子忍者だ。何の心配もいらんだろう」
「そうだな」
「女房孝行ってことは、里に引っ込むってことか? ええと…」
「氷ノ山だ」
「ああ、そうだった。ずいぶん山奥だが」
「別に氷ノ山にこだわるつもりもない」
「ほう?」
「女房にはずいぶん寂しい思いをさせた…あとは女房の好きなところに一緒に行ってやるつもりだ。氷ノ山だろうがどこだろうが」
 口にしてから、自分の台詞に内心驚く伝蔵だった。いままでそのようなことは誰にも言ったことがなかったし、考えたことすらなかった。それなのに、いま自分が語った言葉は、ずいぶん前から用意されていたように思える…。
「そりゃ奥さん喜ぶだろうな」
 頷いた茂正が、ふいに改まった声になる。「だが、伝蔵はそれでいいのか?」
「それでいい?」
 鸚鵡返しに訊いた伝蔵が眼をぱちくりさせる。
「お前、いくつだ?」
「46になる」
「そうか。忍者の学校で教えているなら、まだ勘もそれほど鈍ってはないだろう。見たところ、身体もなまっているようには見えんな」
「何が言いたい」
「お前ほどの忍が引っ込むのはもったいないのではないかということだ」
 少し考えるように言葉を切った茂正が続ける。「俺はまだ忍を続けているが、最近は城から出ることも少なくなった。外の任務に出るのは若い連中ばかりでな。俺のような歳のやつには内勤の仕事ばかり回ってくる。新入りの育成計画作りや配置管理みたいな書類仕事だ。たまに外に出ることがあっても、作戦のために建てた砦の現場確認だったりする。正直、これでいいのか、このままでいいのかと思ったりする。仮にも若いころは『如幻の茂』と言われた如幻忍の達人だった俺が、書類仕事で終わっていいのかってな」
「そういやそうだったな…敵が何が起こったか分からないうちに仕事を片付けてきてたからな。いつも感心して見てたものだ」
「なんの。お前さんも戦忍としては右に出るものなしと言われておったではないか…その実力を生かさない手はないということだ」
「どういうことだ」
「…転職を考えている」
 それはいかにも唐突な言葉で、伝蔵はその意味をつなぎ合わせようと、茂正の杯を満たしながら考えをめぐらす。杯に映ったおぼろげな灯に眼をやりながら茂正が続ける。「もう次の城からオファーを受けている。そこの忍組頭に言われている。俺たちのような歳の忍者は、即戦力でもあり、若い忍者の育成役としても期待している。何人いても足りないくらいだとな」
「そんなものなのか」
 それは本当だろうかと思いながらも、気がつくと身を乗り出している伝蔵だった。その反応を待っていたように茂正の口調が熱を帯びる。
「ああ。お前さえよければ、一緒にもう一度やらないか。伝蔵なら名前を知る者も多い。あの山田伝蔵が戦忍の世界にまた戻ってきたと知られれば、そりゃ騒動になるだろうな…」

 

 

 

 -もう一度、戦忍に、か…。
 結局、正成と話し込んでもう一泊してしまった伝蔵だった。翌朝、学園へと急ぐ道中、頭の中には唐突に現れた新たなキャリアのことばかりがぐるぐるとめぐっていた。
 -いや待て、そもそも学園をやめると決めたわけではない…。
 だが、次の瞬間には、戦忍として活躍していた緊張と興奮でヒリヒリしていた心のざわめきがクリアによみがえっていた。あの頃にもう一度戻れるチャンスが、いま眼の前にぶら下がっている…。
「山田先生!」
 呼びかける声にふと我に返る。気がつくと、学園の塀に沿って歩いていた。校門の前に立っていた半助が駆け寄ってくる。
「これは土井先生。どうしましたかな」
「どうしたじゃないでしょう」
 一瞬、安堵したような表情を見せた半助が声を尖らせる。「お戻りが遅いので心配していたんですよ。なにか事件に巻き込まれたのではないかと…」
「すまんな、半助」
 苦笑しながら伝蔵は謝ってみせる。「少しばかり会議が長引いてしまったのでな」

 

 

 -やれやれ、あやうく虫薬を忘れるところだった…。
 内心呟きながら足早に医務室へと向かう。
 数日後、伝蔵はまた大川に出張を命じられて準備に追われていた。
 虫薬は忍者が持ち歩くべき基本の薬の一つである。伝蔵はいつも新野の作る丸薬を愛用していた。
「失礼しますぞ、新野先生」
 室内の気配をおぼえた伝蔵が襖を開ける。
「おや、山田先生。どうされましたかな」
 いつものように穏やかな笑顔で出迎える新野だった…が、そのいでたちは旅装束である。伝蔵は意外そうに眉を上げた。
「いつもの虫薬をいただきに来たのだが…お忙しければまたにします」
「いえいえ。すぐにお出しできますよ」
 立ち上がった新野は薬戸棚から懐紙に丸薬をとると、小さく畳んで手渡す。
「はいどうぞ」
「どうも…ところで、新野先生はお出かけですか」
「はい。医者仲間の会議がありましてな」
「そうでしたか。私もまた会議で出かけなくてはならないのですが、出張続きで薬を切らしてしまいそうでしてな」
「そうですか。お忙しいことですな」
「まったくです…まったく学園長先生も直前になってこういうのを思い出すのだから…では新野先生も道中お気をつけて」
 せわしげに言い残してあたふたと立ち去る伝蔵だった。
 -実技の代講は…厚着先生にお願いするか。
 と考えながら。

 

 


「山田先生」
「おや、新野先生」
 翌日、会議を終えて学園に戻ろうとしていた伝蔵は、訪れていた城下の街外れで新野にばったり出くわした。
「新野先生もこちらで会議でしたか」
「はい。奇遇ですな」
 用件を終えた気安さもあって、並んで歩きながら話し始める。
「では、一緒に学園に戻りましょうか」
「ぜひに、といきたいところですが」
 言いかけた新野が含み笑いで言葉を切る。伝蔵が首をかしげる。
「別のご用件があるのですか?」
「用というほどではないのですが」
 微笑みながら新野は首を振る。「この先の山の中に、静かな温泉地があると医者仲間から聞きましてな。特に肩こりや腰痛に効くということなので、寄ってみようかと思っているのです」
「ほう、温泉ですか」
 伝蔵も身を乗り出す。
「よろしければ、ご一緒しませんか」
「ああいや、しかし、授業も遅れているし、厚着先生に代講を頼んだままで申し訳ないし…しかし、静かな温泉というのも捨てがたい」
「遅くなると言っても一日の話です。山田先生はいつも忙しくされている。たまにはいいではないですか」
「そ、そうですか? …なるほど、新野先生の仰ることも一理ある」
「そうですそうです。人間、きちんと休みを取ることも必要なのですよ」
「新野先生がそこまで仰るなら…まあ、一日だけならいいですかな」
「もちろんですとも。さあ、こちらです」
 いつしか顔をほころばせている伝蔵を、新野が先導する。

 


「いやあ、これは気持ちがいい」
「疲れがほぐれますな」
 山中の温泉は木々に覆われた渓流沿いにあり、実に爽快だった。
「こんないい湯があるとは知らなかった…それにしても、ずいぶんと静かなところですな」
 湯船につかっているのは伝蔵たちだけだった。街からそう遠くない場所にある温泉なら、もっと多くの客がいてもおかしくないものだが、と思いながら辺りを見回す。
「そうでしょうな。実はここは私有地なのです」
「私有地?」
「はい。私の友人の医者がこの辺り一帯の土地を持っているのです。だから宿も友人の別荘で、客は私達だけというわけです」
「そりゃ豪気なことですなあ」
 世の中にはたいした金持ちがいるものだと心底感心しながら伝蔵は感嘆する。そして、新野が声をかけてきたのは果たして偶然だったのかとふと考えた。 

 

 

「ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
 夕食の膳を並べ終えた使用人たちがそっと障子を閉じて立ち去ると、座敷には伝蔵と新野の二人だけが残された。
「これは豪勢な…」
 折敷から膳までずらりと据えられた食事に伝蔵が眼を見張る。
「驚きました」
 いかにも意外そうに新野が眼を瞬かせる。「ここまで気を使われると、こちらも相応のものを考えないと…」
「大丈夫ですか」
 ふいに心配になった伝蔵が声をかける。「あまり高くついたということになっても…」
「お金についてはご心配いただくには及びません」
 苦笑した新野がゆるりと首を振る。「ただ、相応の情報を提供しないと釣り合わないだけです」
「情報、ですか」
「そうです。ここの持ち主の医者は南蛮医療に強い関心を持っておりましてな、いつも私が最新の情報を教えているものですから、礼にぜひここに泊まるよう言ってきたのですが…ここまで過分なもてなしをされると、こちらももっと頑張って新たな情報を仕入れなければならないなと、そういうわけです」
 言いながら伝蔵と自分の杯に酒を注ぐ。
「なるほど」
 伝蔵の理解しうるところでは、金持ちというものは金よりも金を生み出すものにより価値を見出すものらしかった。そして、新野の口調から、相応の情報はすでに新野の中に貯め込まれていて、どれだけ提供するかは胸先三寸らしいことも見て取れた。だから安心して杯を傾ける。
「ほう。これはまた実にうまい酒だ」
 口にした酒の芳味に思わず唸る。
「柳酒にも劣らぬ酒を仕入れていると自慢しておりましたからな」
 杯に口をつけながら新野が言う。
「いや、新野先生にお声がけいただいて、思いがけずいい思いをさせていただいてますな」
 手の込んだ先付に箸をつけた伝蔵が顔をほころばせる。
「私も、実に僥倖でした」
 静かに新野が応える。「学園では、こうやって山田先生とゆっくりお話しする機会もありませんからな」
「まったくです」
 大きく頷く伝蔵だったが、ふと、新野は自分に話したいことがあったのではないかと考える。

 

 

 

「なにか、私でよければ伺いますよ」

 膳も半ばまで手を付けたところで伝蔵は思い切って声をかけた。
「なにか、とは?」
 きょとんとした表情で箸を止める新野に、伝蔵は自分の読みが誤っていたことを悟った。
「いえ、まあ、そんな気がしたものですから…」
 ごにょごにょと語尾を紛らわせながら伝蔵はくっと杯をあおる。
「お話を伺いたかったのは、むしろ私ですよ」
 箸をおいて両手を膝に載せた新野がまっすぐ伝蔵を見つめる。「ここ最近、山田先生はずいぶんお疲れのように見受けられました。出張続きでお忙しいのは分かりますが、それ以上の何かがあるのではないかとずっと気になっていました。いい機会なのでお話したいのですが、いかがですかな」
「いかがと言われましても…」
 うろたえた伝蔵がしばし視線をさまよわせる。

 


「…実は、少し迷っておりましてな」
 観念した伝蔵が、ぼそりと呟く。
「…」
 黙って新野は続きを待った。
「…忍術学園の教師になって、単身赴任も10年になります」
 続きをためらうように言葉を切ると、おもむろに杯を干す。新野がそっと杯を満たす。
「10年というのは、ひとつの節目のように思えるのです。利吉も独立したし、妻に寂しい思いをさせてきたことも分かっている。そろそろ、女房孝行をしてやらねばと思っていました。一年は組は手がかかるし、土井先生にまかせてしまうことはどうかとも思っているが、どこかで区切りをつけねばなるまい、そう思う気持ちも強い」
「なるほど。仰る通りですな」
 静かに頷いた新野が杯を傾ける。
「ところが、先日の会議で、戦忍だったころの友人に偶然会いました。彼からは、もう一度戦忍にならないかと誘われました。そのことに、自分でも驚くほど心が動いてしまった。学園の教師になるときに、過去は清算したはずなのですが」
「なるほど」
 もう一度頷く新野に、訊かずにいられなかった。
「どう思われますかな…いい年をしていまだ迷う凡夫の心を」

 

 

 

「私は、45歳になります」
 やや長い沈黙の後に、新野は口を開いた。「学園にお世話になっていることには非常に感謝しています。城勤めではとうてい望めない自由な環境をいただいておりますからな。新たな医術に関する情報も京や堺から容易に手に入れることができる、恵まれた立場だと思っていました」
 言葉を切った新野は軽く眼を閉じて眉を寄せた。
「しかし、先日、豊後の友人が送ってくれた南蛮の医書を読んで、それが慢心だったと思い知らされました。今までまったく触れたことのない新しい知識が書かれていた。でも、私がもっともショックだったのは、きっと新しい知識に立ち遅れたことではない。いつの間にか今の地位に安住して新しい知識を求める意欲が薄れていたことなのです」
 苦しげに新野はため息をついた。「本を送ってくれた友人の手紙には、豊後に来ないかとありました」
「豊後、ですか…」
 あまりに遠い土地の名前に何のイメージも浮かばない伝蔵だった。そして、茫洋とした思いのまま「どうされるのですか」と訊く。答えは意外なものだった。
「私は、おそらく世間一般より長生きしている。ということは、いつ果ててもおかしくないということです」
 苦笑を浮かべながら新野は続ける。「であれば、まだ動けるうちに動いておきたい…そう思うのは欲深なことでしょうか」
「…そんなことはないでしょうな」
 少し考えた伝蔵が口を開く。「新野先生のお話を伺っていて、私が何に迷っていたのかよく分かりました。私も、要はもう一旗あげたかった、そういうことなのでしょうな」
「なるほど」
 ふっと自嘲的に笑う新野だった。「やっと安定した場所にたどり着けたと思うと、最後のひとあがきをやりたくなる…つくづく因果なものです」
「まったくです」
 伝蔵も苦笑する。「だが、新野先生も同じ思いだと知ってほっとしました。どうやら、我々の年になるとそうなるものらしい」
「つまり、残された時間というものを意識してしまう、ということなのでしょうな」
 ふいに暗い声で呟く新野に、部屋がしんと静まり返る。渓流の音だけが妙に高く耳についた。

 

 

 

「新野先生、お休みになれませんか」
 月明かりが障子越しに青白く室内を照らし、天井板がぼんやりとした影を映す。隣の布団でしきりに身動きしている様子に伝蔵が声をかける。
「ええ、はい…」
 ばつの悪そうな声で新野が応える。
「どうかされましたか」
「…ひとつ思い出しましてな」
 天井を向いたまま新野はため息をついた。「今日、保健委員の生徒たちが薬草採りに出かけると言っていたのですが、果たして無事に帰れたかと」
「それは大丈夫でしょう」
 すでに嫌な予感しかしていなかったが、ひとまず穏やかに否定する。
「委員長の善法寺君でなければ分からない薬草があるということで彼も出かけるというのですが…しかし、来週は六年生の試験週間なのだからリスクの高いことは控えるように言ったのです。それでも、この時期しか取れない草だからというものですから…」
「それは…ご心配でしょうな」
 もはやそうとしか言えない伝蔵だった。伊作の不運は、むしろこのような時に発動してしまうのが常だったから。
「おそらく善法寺君の不運は、本人や周囲が何とかしようとしてできるようなものではないのでしょう」
 沈んだ声で新野は続ける。「だが、彼の医術に向けた精神は、そこらの医者が及ぶものではない。だから、私は彼に持てる知識のすべてを教えることにしました。それが彼を追い込んでいるのかもしれないと迷ってもいるのですが…」
「…なるほど」
 新野の懊悩が見えた気がして伝蔵は小さく頷く。「しかし、だからこそ、ということもあるのではないですかな」
「だからこそ?」
 新野が顔を向けた気配がした。
「そうです」
 力強く伝蔵は続ける。「だからこそ、不運であっても伊作や保健委員たちは伸びる。違いますかな。一年は組の生徒たちも同じようなものかもしれません。今は確かに実技も教科もひどいものだ。だが、確実に伸びる何かを持っている。だからこそ、手をかけて見守っていきたい、そう思うのですよ」
「…なるほど」
 ややあって新野は苦笑交じりに呟く。「つまり、私たちが出奔するには、まだ早いということのようですな」
「私も同じことを考えてました」
 伝蔵も応える。「やはり、生徒たちのことが気になって仕方がない…職業病なのでしょう」
「そればかりは、古今の名薬でも治しようがない」
 くすりと笑った新野が、天井板に視線を戻す。
「でしょうなあ」
 伝蔵も頭の後ろで腕を組んで天井板に眼をやる。「しかし、よろしいのですか。豊後には南蛮の船が多く来ているという。新野先生にとっては知識を深める絶好の機会なのでは」
「いえいえ」
 小さく新野は首を振る。「山田先生とお話していて気がつきました。私はまだまだ道半ばです。学園でやるべきことは終えたなどとおこがましいことを言えた立場ではない」
「それは私も同じです」
 深い思いを込めて伝蔵は口を開く。「10年という区切りは私が勝手に思っているだけであって、客観的に見ればなんの意味もない。何より、一年は組の生徒たちをこのままにしておくことなど、教師としてのプライドが許さない。彼らを一人前に育て上げるまでは」
「ということは、我々がやり残したことは、学園の中に残っているということのようですな」
 苦笑交じりに新野が言う。
「そういうことですな」
 伝蔵も頷く。「いいではないですか。つまり、我々は残された人生の目的など、探す必要はないのですから」
「まったくです」
 穏やかに返す新野だった。「やるべきことがあることがこんなに有難いとは、歳をとることも悪くないものですな」
「まったくです」
 急速に眠気に襲われながら伝蔵は応える。そして、残されたわずかな意識の中で、一年は組の今後の授業計画に思いを巡らせる。
 窓の外の渓流がひときわ高く耳に響く。

 

<FIN>

 

 

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