Illusions

リチャード・バックの『イリュージョン』を読んだのは、学生の頃だったでしょうか。読み終わった後、カタルシスというにはあまりに切なさと消化不良に苛まれたことを思い出します。ただ一ついえることは、忘れえぬひと夏の寓話としてあまりにも深く胸に刻まれたということです。

というわけで、リチャード・バックには到底及びませんが、雷蔵と三郎にもひと夏の体験をしてもらいました。それは彼らにとって幻想に過ぎなかったのかカタルシスだったのかは、皆様のご想像にお任せします。

 

 

「暑いね」
「暑いな」
「少し休んでいこうか」
「ああ、少し休もう」
 うだるような暑さの中を歩いていた雷蔵と三郎が、街道沿いの大木の根元に座り込む。木陰にはすでに数人が、強烈な日差しを避けて涼んでいた。
「ああ、あっつい」
 足を投げ出すと、雷蔵は頭に巻いていた手拭いを解いてあおぎだした。
「ひどい汗だ…変装用のマスクがずれてないかい?」
 懐から出した別の手拭いで胸元の汗をぬぐいながら三郎が訊く。
「うん、大丈夫だよ」
 三郎の顔に眼をやった雷蔵がにっこりとする。
「ならいいけど」
 呟いた三郎が、疲れたのかそのまま黙り込む。雷蔵も黙り込んで、ただ頭上からのセミの合唱だけがあたりに響く。
「…おい、聞いたか。あの浄段さまが隣村に来るんだってよ」
「ああ、俺も聞いた。スーパー預言者なんだろ?」
「そうなんだ。すげえ当たるらしいぜ」
「いつ来るんだ?」
「それが今夜なんだってよ。もう村じゃ浄段さまをお迎えするんだって大騒ぎらしいぜ」
 ふとした会話が二人の耳を捉えた。話している男たちは、大木の反対側にいるらしい。
 -スーパー預言者だって?
 -怪しいね。
 矢羽音を飛ばすまでもなく目配せだけで意思を確認できる二人である。
 -ちょっと調べてみる必要がありそうだな。学園に戻るのがおそくなっちゃうけど。
 -三郎ならそう言うと思った。

 

 

 

「あの中にいるのか」
 男たちの話していた村に二人が着いたときには、すでに大勢の人だかりが異様な熱気を放っていた。「さあ並んだ並んだ! 淡路坊浄段さまのありがたい預言を聞きたい人はおひとり5分30文! たったの30文でこの世のものとも思えぬスーパーありがたい預言が聞けるよ! さあ並んだ!」
 竹矢来と幕で覆われた囲いの前で、派手な胴着を着た男が調子よく声を張り上げる。男の前にはすでに矢来の中にはいる順番を待つ列が長蛇をなしている。
「たった5分で30文? ずいぶんふんだくるな」
 物陰から胴着の男を睨みながら三郎がうなる。
「もちろん5分じゃ終わらないようになってるんだろうね…それで、お金を巻き上げようとしてると思う」
 雷蔵が腕を組んでため息をつく。
「さすが私の雷蔵だ。洞察力も確かだね」
 振り返った三郎が雷蔵の肩に腕をのせて髷をいじる。
「で、どうする?」
 髷をいじられたまま雷蔵が訊く。
「もちろん、潜入調査するさ。あの人込みの整理を手伝うってのはどうだい?」
 潜入調査に自腹を切るつもりのない三郎がいたずらっぽく唇をゆがめて笑う。
「さすが三郎だね」
 朗らかに雷蔵が笑い返す。

 

 


「なるほど。姑との仲がよくないということか」
 矢来の中には陣中よろしく大きな盤が据えてあり、その奥の床几に派手な狩衣をまとった男が掛けていた。男の向かいの筵の上にも床几が用意されていたが、多くの相談者は遠慮して筵の上に座って男の『預言』をありがたく拝聴しているようだった。
「はい…」
 筵の上に座った若い女が深々と頭を垂れる。
「そもそもそなたが姑とうまくいかないのは、前世からの宿縁が災いしておる」
「前世からの宿縁、ですか…」
 戸惑ったように女が首をかしげる。
「いかにも。その宿縁を断ち切るには、特別な護摩が必要になる」
「あの…それは、また別料金になるのでしょうか」
「いかにも。詳しくは河内坊に確認するがよい」
 -なるほどね。
 三郎と雷蔵が視線を交わす。
 -こうやって金を搾り取るってわけだ。
 -預言者が呆れたもんだね。

 

 


「客の整理を手伝ってくれたのはそなたたちか」
 夕刻になって客たちが去り、矢来や幕を片付けていた雷蔵たちに、浄段が声をかけた。
「はい。お弟子さんがおひとりでは大変そうでしたので」
 幕をたたみながら雷蔵がにっこりと応える。
「このあたりでは見ない顔よのう」
「はい。この村の親戚を訪ねてきたものですから」
 浄段への対応をあえて雷蔵に任せて、黙々と矢来の竹をまとめて縛る三郎だった。見たところ浄段は怪しげな預言者ではあるが、忍のようには見えなかった。だが、相手を一瞬で見極める眼力はあるようだったから、うっかりすると自分が忍たまということを見抜かれる恐れがあった。上級生とはいってもまだ忍たまである。相手を探るような視線になるのを完全にカムフラージュできる自信はなかった。
 -それに比べて雷蔵は…。
 よほどの手練れの忍者でなくては、あのやわらかい声と表情から忍たまと見抜ける者はいないだろう。
「そうであったか」
 果たして浄段は何事もなかったように頷く。「して、そなたは双子の兄弟か? よく似ておるの」
 唐突に話を振られた三郎が「は、はい」と曖昧に言い紛らわせながら顔をそむける。
「お分かりですか」
 いたずらを見つけられた子どものように、雷蔵は軽く顔を赤らめる。「三郎とは見分けがつかないとよく言われます」
「ほう。兄弟は三郎というのか。して、そなたの名はなんという?」
「僕は雷蔵といいます」
「ほう?」
 意外そうに浄段が眉を上げる。「双子の兄弟にしては、ずいぶん名前が違うの」
「はい」
 その指摘は聞き飽きたと言わんばかりに雷蔵は苦笑する。「僕たちが双子だったもので、父と母がそれぞれつけたいように名付けたものですから」
「なるほどの」
 急速に興味を失ったように浄段は鼻を鳴らす。「まあ、今日はご苦労であった。あとで駄賃を受けとるようにな」
「はい」
 それきり浄段は背を向けて立ち去った。ようやく安堵のため息をついた三郎が、まだ誰かに聞き耳をたてられているのを恐れるように呟く。
「それにしても、あの浄段ってヤツ、油断ならないな」
「そう?」
 朗らかに雷蔵が応える。「僕たちのこと双子だなんて言ってたんだよ? たいしたことないよ」
「わざとそう言って様子を探ろうとしたかもしれないじゃないか」
「神経質だなあ、三郎は」
「雷蔵が大雑把すぎるんだって」
「そうかな」
「そうだよ」
「とにかく、いちど学園に戻って兵助たちの応援を頼もう。あの怪しげな預言者の正体を暴く必要があるからね」
 だが、事態は急速に動き始めていた。

 

 

 

「ここにいたのか」
「はい。河内坊さま」  
 声をかけていたのは、派手な胴着姿のままの呼び込みを担当していた男だった。いまのところ浄段の唯一の弟子らしく、河内坊を名乗っていた。
「今日はご苦労だった。これが駄賃だ」
 言いながら、袋に包んだ小銭を手渡す。
「ありがとうございます」
 受け取った袋を神妙に懐にしまうさまを見届けた河内坊がふたたび口を開いた。
「ところでお前たち、この先も浄段さまにお仕えする気はないか」
「お仕え、ですか?」
 意外なセリフに雷蔵と三郎が顔を見合わせる。
「お前たちはこの村の親戚を訪ねてきたと言っていたな。なんなら私がその親戚に話を通そう。なにしろ浄段さまはえらくお前たちの働きがお気に入りだ。次の村に行くにもぜひに帯同するように仰せなのだ」
「あ、ああ…そうですね…どうしよう…?」
 思いがけない展開にさっそく迷い癖が出る雷蔵に、素早く三郎が立ち上がる。
「では、親戚の者には私からお話しておきますから、ぜひご一緒させてください。お願いします」
 軽く頭を下げると、「えっ、三郎?」と戸惑ったように声を上げる雷蔵を置いて走り去る。
「では、よい返事を待っているぞ」
 惑乱する雷蔵の肩を軽くたたいて立ち去る河内坊だった。

 

 

 

 -追跡はなしか…。
 村はずれまで一気に駆けてから背後の様子を探った三郎は、ようやく小さく息をついた。
 とっさに親戚の説得を申し出てその場を後にしたのは、いもしない親戚を探られないためであったが、河内坊の動きを探るためでもあった。もし河内坊がそれなりに目端の利く人物なら、いくら主人が気に入ったからといって無条件に雇い入れるなどしないはずだから。
 だから、追跡がないのは意外だった。あるいは本当に信用しているのかもしれないが、あの鋭い目つきを三郎はどうにも信用できなかった。
 -ぜったい腹に一物ある。いまは私たちを泳がすつもりなのかもしれないが、アイツは油断禁物だ…。
 考えながら村の中を歩いていた時、足音が近づいてきて三郎は一瞬身構えた。だが、その足音は忍ではないととっさに判断する。いかにも無防備な足音だった。
「そこにいるのは誰だ」
 手にした提灯を持ち上げるのは河内坊だった。
「おや、河内坊さま。私です。三郎です」
「お、おう…探したぞ」
「私をですか?」
 今さら自分を探すとは? と意外に思いながら、警戒心が声に現れないよう平静を装って首をかしげて見せる。
「そ、そうだ。ときに、親戚の家はどこだ?」
「親戚の家は…ここから少しありますし、もう寝ている時分ですが」
 とっさにとぼける三郎だった。
「そうか…なに、しばし長い暇となるやもしれぬから、私からも挨拶をしておこうとおもったのだが」
 取り繕うように河内坊が言う。
「それなら大丈夫です。もう暇乞いをしてきましたから」
「なに、もう終わらせてきたというのか」
 驚いたように河内坊がふたたび提灯を持ち上げて三郎の顔を覗き込む。
「はい」
 人畜無害そのもの笑顔で三郎は頷く。
「そ、そうか…ならいい…」
 もぞもぞと口の中でいいながら踵を返した河内坊が歩くあとに三郎が続く。
「それにしてもお前の兄弟の雷蔵とかいうの…お前とは似ても似つかぬな」
 ふいに河内坊が口を開いた。
「そうですか?」
 変装は完璧なはずなのに、と内心の動揺を苦労して抑え込みながら三郎が応える。やはりこの男、要注意だと思いながら。
「ああ。顔はそっくりだが、性格は正反対ではないか。さっきも私が出かけようとした矢先に浄段さまの大切な占い道具をぶちまけおって…あれは次の村で使う大事なものなのだ。万一にも傷がついてはならぬものなのだ。お前からもよく注意しておけ」
 -なるほどね。
 河内坊がすぐに自分を追跡してこなかった理由を理解した三郎が内心ほくそ笑む。
 -さすが私の雷蔵だ。河内坊を足止めしたとはな。
 完全に自分の意図を読んで行動してくれるベターハーフぶりが愛しくてならない。
 -もどったら雷蔵を思いっきりモフモフしてやろう!
 それが雷蔵を本当に喜ばせるかどうかはあまり意識せずに浮きたちながら歩く三郎が、ふと気なったことを訊く。
「ところで占い道具って仰ってましたが、浄段さまは占いもされるのですか?」
「むろんだ」
 当然のように河内坊は応える。「そういえば、今日は道具を使われていなかったからな。必要に応じていろいろな道具も使われるのだ」
「そうなのですか…どんなときに使われるのですか?」
「そうだな…聖玉や聖鏡は村人どもを扇動するにはいい小道具になると仰っていたな…」
 言いかけたところでしまった、というように口をつぐむ河内坊だった。
「そんなだいじなものを雷蔵は落としちゃったんですね。もどったらよく注意しておきます」
 その様子にこれ以上探るのはやめておこうと判断した三郎がさりげなく話題を転換する。
「あ、ああ…よく申し付けておくのだな」
 河内坊が取り繕うように重々しく宣告する。
 

 


「アイツら、次の村では村の人たちを扇動するつもりらしい」
 雷蔵の元に戻った三郎が、雷蔵の髪をモフモフしながらつぶやく。
「扇動?」
 三郎に髪をいじられるのは慣れている。くすぐったそうに首をすくめていた雷蔵が振り返ろうとする。
「前向いてて」
 モフモフする手を止めずに三郎は続ける。「だけど、何のためにそうするのかは分からない」
「もしかしたら、扇動してほしい人から依頼されてるのかもね」
 ふたたび髪をモフモフされるに任せて前を向いた雷蔵のセリフに三郎の動きが止まる。「依頼されてるだって?」
「そう」
 抱えた膝に顎をのせて雷蔵は続ける。「三郎たちが出た後に、いかにも訳ありって人が浄段さまを訪ねてきたんだ。誰だと思う?」
「…わかんない」
「ドクササコの凄腕忍者の部下の白目さん」
「ドクササコだって!?」
 思わず声を上げそうになって慌てて口をふさぐ。
「そう。だから、ついでに何を話してるのか探っちゃった」
「で?」
「ドクササコの狙いはよく分からないけど、とにかくどこかの村で一揆なりなんなり騒ぎを起こさせようとしてるみたい。けっこうな謝礼を約束してたから」
「つまり、どこで騒ぎを起こさせようとしているかは分からなかったってことだね」
「そう。彼らも『例の場所』としか言ってなかったから。ずいぶん前から打ち合わせていたみたいに、僕には思えたな」
「その直感は私が保証するよ」
 両手のモフモフが止まらない。「さすが私の雷蔵だ」
「てことは、このあと行く村がやばいってことだよね」
「私は、次の村がやばいと見ている。占い道具を使うって言ってたからね」
「占い道具? ああ、僕がぶちまけちゃったやつ?」
「そうさ!」
 言いながら愛おしそうにとび色の髪に顔を埋める。「おかげでうまく河内坊をごまかすことができたよ」
「それならよかった」
 友人の行動にもはや奇矯という感覚すらない雷蔵が、前を向いたままにっこりする。「とにかく足止めして時間を稼がないとって思ったんだ」
 そしてふいにその表情に緊張がやどる。「でも、僕たち二人だけで大丈夫かなあ」
「大丈夫さ。最強の双忍力を見せてやろうじゃないか」
 ようやくモフモフを止めた三郎が、不敵な半眼で雷蔵の横顔をのぞき込む。内心は不安でならなかったが。
「うん、そうだね」
 三郎に顔を向けながら、雷蔵もにっこりする。必死で不安をたくし込む三郎の強がりがいたましかった。それに応えるには、自分も笑顔になるしかないと雷蔵は思った。

 

 


 -ここは…。
 -マイタケ領に入ったね。
 翌日、浄段たちに伴われて街道を歩いていた雷蔵と三郎は思わず顔を見合わせた。
 -マイタケ城は、学園もお世話になっている城だ。連中、ここで騒動を起こすつもりなのか?
 -だとすれば、なんとしても止めないとね。
 さて、それにはどうすればいいかと思いながら歩いているうちに浄段が足を止めた。
「では、ここで一休みしようかの」
「ははっ」
 浄段の意味ありげな視線に短く応えた河内坊が足早に先に進んでいく。
「あの…」
 戸惑ったように雷蔵が訊く。「ここで休むとは…?」
「ほれ、そこの茶屋で一休みということだ」
 浄段が眼をやった先に一軒の茶屋があった。
「それで、河内坊さんはどちらへ行かれたのですか?」
 茶屋に落ち着いて出された茶を一口すすった三郎がおもむろに訊く。
「私のようなビジネスは、率直に言えば人気商売だ」
 歩き疲れたらしい浄段がややけだるそうに口を開く。「そのためには多少の演出が必要なのだ」
「僕たちもお手伝いしたほうがよかったのでしょうか…」
 いかにも気がかりそうに雷蔵が訊く。ホントはそんなことカケラも思ってないくせに、と仮面の下で苦笑する三郎だった。
「いや、河内坊に任せておけ」
 浄段の口調は変わらない。「前評判の打ち込みで河内坊の右に出るものはあるまい。河内坊も自分の好きにやりたいだろうし、助太刀が必要ならあれから言ってきておる」
「わかりました」
 あっさりと雷蔵は頷く。河内坊が得意とするという前評判の打ち込みというのがどういうものか見てみたい気もしたが、ここは怪しまれないことが最優先である。
「次の村でも矢来を組んで相談スペースを作るのですか?」
 さりげなく三郎が探りを入れる。
「いや、それには及ばぬ」
 浄段の答えに三郎と雷蔵が顔を見合わせる。「いいのですか?」
「次の村ではお前たちにはステージを設営してもらうことになる」
「ステージ、ですか?」
 これはいよいよ村人たちの扇動に入るな、と思いながら、三郎は首をかしげて見せる。
「いかにも」
 当たり前のように浄段が頷く。「われらはどこでも同じことをしていればよいというものではない。人々の求めるものを提供してこそのビジネスなのだ」
「次の村では、なにが求められているのですか?」
 興味津々というように雷蔵が身を乗り出す。
「知りたいか?」
 気を持たせるように雷蔵たちに眼をやった浄段がおもむろに茶を一口すする。「ビジョンだ」
「ビジョン、ですか?」
 意外な単語に、ふたたび顔を見合わせる二人だった。
「さよう」
 二人の反応が気に入ったらしい。浄段の口調にいささか得意さが加わる。「城主に収奪されっぱなしの農村の生活は惨めなものだ。なにより将来の展望がない。これからも重い年貢は取られる、いつ村が戦に巻き込まれるか分からない、だが、そんなときに城主が守ってくれるかというとそうとも限らない。そんな状況で将来に希望をもてと言われてもそれはムリであろう」
「浄段さまは、どのような希望を与えるのですか?」
 いっそう身を乗り出す雷蔵である。
「当然ながら私は城主ではないから、戦を止めることも年貢を軽くすることもできぬ。だが、心の持ちようやそれに基づいた行動を実践することによって変えることはできる」
「それはどのようなものなのですか?」
 思わず三郎も身を乗り出す。
「まあそう慌てるでない」
 いなすように浄段は言う。「明日の私の話を聞けば、分かるであろう」

 

 

 

「今日、我々がここに来たのは、各々方の相談に応じるためではない。伝えるべきことがあったからだ」
 浄段の演説は、ごく静かな口調から始まった。後ろのほうにいた村人たちが聞き取れなかったらしく、前へと進み出る。そうでなくても響き渡るセミの声で浄段の声は聞こえにくかった。
「…それは、各々方だけではない。その子や孫、さらにその子孫に至るまで影響を及ぼすほどのものなのだ」
「それって、どういうことなんだ?」
 群衆の中から声が上がる。
「この村がこれまでどれだけの苦労を経験したか、私は知っている」
 聞こえなかったかのように浄段は話を進める。そして、この村を襲ってきたいくつもの水害や飢饉や戦や重税のことを語り始めた。
 -この村にそんなことがあったのか…。
 いつの間にか引き込まれるように聞いていた雷蔵だったが、ふと浄段の語りはすべてマイタケ城の責任につなげていることに気づいた。
 -ひょっとして、村の人々に、マイタケ城への反感を煽ろうとしてるってこと?
 思わず問いかけるような視線で傍らの三郎に眼をやる。腕を組んで半眼になっていた三郎が小さく口を開く。
「そうだ。アイツ、村の人たちの不満を煽ってるのさ」
「反乱を起こさせるつもりとか?」
 ぎょっとしたように雷蔵が訊いたとき、浄段がひときわ声を上げる。
「いままた、私は各々方に告げなければならない。戦が近づいていると!」
 いつの間にか浄段の語りはよく響く朗々とした声になっていた。その言葉に群衆からどよめきが上がる。
「戦だって?」
「そう、戦だ!」
 浄段が声を上げる。「これは警告ではない! この村は戦に巻き込まれるであろう」
「戦に巻き込まれるだと?」
「そんな、戦の時期でもないのに冗談じゃない!」
 動揺した声が上がる。
「そうであろう! この常識外の時期にマイタケ城は戦をしようとしている! だが、絶望するには及ばない! なぜなら、助けが来るからだ!」
「助けが来るって?」
「誰が助けてくれるんだ?」
 ふたたび群衆から声が上がる。
「そう、助けは来る! 数日内に必ず!」
「誰が助けに来てくれるんだ?」
「それはまだ言えぬ。だが、立ち上がる準備をせよ! 導くものに従え! マイタケの圧政を許すな! 戦をなくすために!」
「戦をなくすために!」
 つられたように誰かが叫び声を上げる。その声は熱を帯びてつぎつぎと伝染し、大きなうねりとなる。
「戦をなくすために!」
「戦をなくすために!!」
「戦をなくすために!!!」

 

 

 

 -数日内ってのがビミョーだな。
 熱に浮かされたような群衆も去り、ステージを片付けながら三郎は考える。
 -4~5日あるなら学園に戻って仲間たちと作戦を練れるし、六年の先輩方や先生方の助けもお願いできるだろうけど、1~2日だったとしたら到底ムリだし…。
 そこまで考えたとき、「三郎」と雷蔵が声をかける。
「雷蔵、どこに行ってたんだい?」
 ほとんど一人で片付けたんだぞ、と不満そうに付け加える。
「ごめんごめん。河内坊さんにステージの解体が必要か聞きに行ってたんだ」
「へえ、それで?」
「ステージの解体は必要ないって。明後日にはまた使うから。ってことは…」
「ドクササコが来るのは明後日ってことか」
 雷蔵の意をすぐに把握した三郎が大きく頷くと、腕を伸ばして雷蔵の髷をモフモフする。「さすが私の雷蔵だ! 私がいちばん知りたかったことをさっそく探ってくるなんてね」
「まあね」
 くすぐったそうに笑った雷蔵だが、すぐに真剣な表情になって三郎を見つめる。「で、どうする? 明後日じゃ学園に戻る時間はないけど」
「そうだね」
 モフモフする手が止まった。「それなら、私たちでなんとかしてやるまでさ」
「なんとかするって?」
 雷蔵が首をかしげる。
「なあ、雷蔵…浄段が預言者だっていうなら、私たちは救済者になってやるってのはどうだい?」
 どうだ、と言わんばかりに半眼になる三郎を、雷蔵はいささか持て余す。
「救済者はいいけど、相手は浄段だけじゃない。ドクササコなんだよ? もっとじっくり考えないと…」
「なに、とっくに考え済みさ」
 不敵な笑顔で雷蔵の肩に腕をのせる。「連中の裏をかくために、雷蔵にもちょっと協力してもらうけどね」

 

 

 

「河内坊さん、お客様です」
 翌朝、起き抜けでまだ顔も洗っていない河内坊のもとに雷蔵が来客を告げた。
「こんな朝早くに誰が来たのだ」
 煩わしそうに河内坊が訊く。
「先日お見えになっていた方です」
「なに」
 河内坊の表情が変わる。「わかった。すぐ会うから、座敷にお通ししてくれ」
「かしこまりました」
 素知らぬ顔で頭を下げて立ち去る。一行は村の名主から空いている屋敷を提供されていた。雷蔵が来客を座敷に通して立ち去ろうとするのと入れ替わりに、手早く洗顔を終えた河内坊が小走りに現れる。。
「これはこれは…こんな朝早くにどうされましたかな」
 如才なく話しかけながら、こんな常識外れの時間に来るとは、間違いなく良くない知らせだろうと思う。だとすれば何だ、と素早く頭の中で計算が始まる。
「いかにも急用なのだ」
 対座するのはドクササコのすご腕忍者の部下の白目…に扮した三郎である。以前に接したことがある人物なので、顔や話しぶりを演じるのは簡単だった。
「といいますと?」
 あからさまに警戒の色をにじませながら河内坊が訊く。
「わが領地をドクアジロガサが攻めてきたのだ」
 いまいましげに三郎が口を開く。「だから、作戦も当面延期だ」
「な、なんですって?」
 河内坊が思わず声を上げる。
「静かにするのだ」
 いい反応だ、と思いながら三郎は続ける。「とにかく今は動けない。言えるのはそれだけだ」
 言うだけ言うとそそくさと立ち上がる。
「もうお発ちですか」
 慌てて立ち上がりながら河内坊が訊く。
「言っただろう。ドクアジロガサが攻めてきている。一刻も早く戻らねばならないんだ」
 言い捨てるや立ち去ってしまう。しばし呆然と佇んでいた河内坊だったが、ようやくはっとしたように動き出す。浄段に事態の急変を伝えなければならなかった。

 

 

 

「なん…だと!」
 河内坊の報告を聞いた浄段がうめき声を漏らす。まだ眠気が抜けない頭を苦労して回転させながら打つべき手を考える。
「つまり、ドクササコ城の使いは、次回の作戦に時期については話さなかったということだな」
「はい。いまはドクアジロガサを追い払うということで」
「では、すぐにドクササコ城に行って、次の作戦時期を確認してくるのだ。でないと、村人どもをいつ一揆に導くかが決められないからな」
「い、今からですか!?」
 まだ朝飯も食べてないのに…とは言いかねた河内坊が声を上げる。
「当然じゃ。今から急げば、ドクササコ城の者に追いつくかもしれぬではないか」
「はい…かしこまりました」
 不承不承立ち上がった河内坊が走り去る。
 -尻尾を出したな。
 その様子を、とっくに変装を解いて戻っていた三郎と雷蔵が物陰から探っていた。
 -やっぱり、村人たちを扇動して一揆を起こさせるつもりだったんだね。
 雷蔵が小さくため息をつく。
 -でも、浄段さんはここで様子を見るようだね。
 -ああ。河内坊と一緒にドクササコ城に逐電してくれれば話は早かったんだけどな…こうなればプランBでいくか。
 -プランB?
 不思議そうに振り返る雷蔵にニヤリと不敵に笑い返す三郎だった。
 -そう。動かぬというなら動かしてみせるまでさ!

 

 

 

「浄段さま、お汁をどうぞ」
「うむ」
 河内坊を出立させたあと、おもむろに着替えを終えた浄段は朝食の膳についていた。傍らでかいがいしく雷蔵が給仕する。
「河内坊さまは、朝食も召し上がらないでどちらへおいでになったのでしょうね」
 やり取りはすっかり見届けたくせに、雷蔵はとぼけて訊く。
「ああ、ちょっと急ぎの用件でな」
 さすがに浄段も本当のところは言わない。
「さようでしたか」
 うっかり問いただすと怪しまれると判断した雷蔵は、それ以上は突っ込まない。と、そこへ慌ただしく足音が近づいてきた。
「浄段さま、たいへんです!」
 駆け込んできたのは河内坊だった。
 -相変わらず、迫真の演技だな。
 その正体が三郎だととっくに見抜いた雷蔵が、内心嘆息しながら次の膳を用意する。
「なにごとだ、騒々しい」
 朝食を中断された浄段が迷惑そうに顔を向ける。
「ドクアジロガサの勢力が予想外に大きいので、ドクササコの作戦行動はすべて中止との指令が出ているとのことです。当面、我々にも助力はできぬと」
「それは、例のドクササコの者に聞いたのか」
「はい。本当はドクササコの責任者に話を聞きたいと言ったのですが、今はそれどころではないと言われてしまって…」
「ふん! 我らを邪険にしおって…」
 言いながらも次の行動をどうすべきかにわかに判断がつかないらしく、膳を前に考え込む浄段だった。
「…あのう、差し出がましいようですが」
 そこへおずおずと声をかけたのは雷蔵である。
「何事だ」
 うるさそうに浄段がうなる。
「さきほどから、ドクササコがどうのというお話だったので、ちょっと気になることがありましたものですから」
「気になるだと?」
 雷蔵に顔を向ける浄段だった。
「はい…ドクササコは、前々からナラタケと戦をしています。ナラタケと同盟を結んでいるアミタケが戦の準備をしていて、ドクササコに共に攻め込むのではないかという噂を聞いたことがあります。それとは別にドクササコに攻め込む城があるということでしたので…」
「アミタケの話は確かなのか」
「さあ、僕も噂で聞いただけですので…でも、僕の耳に届くほどですから、けっこう広がってる話なのではないかと思うのです」
「わかった」
 膳を前にしたまま浄段は立ち上がった。「いますぐここを出立する。準備をせよ」
「かしこまりました。ではこちらへ…」
 河内坊に扮した三郎が次の間へと浄段を導いた次の瞬間、廊下に荒々しい足音がいくつも近づいてくると、乱暴に襖が押し開かれた。
「浄段はどこにいる!」
 村の若者たちだった。
「い、いったい何事ですか…」
 いかにも腰を抜かしたように雷蔵が震え声を上げる。
「河内坊とかいう従者が、朝早く村を抜け出したのを気づいてないとでも思ってるのか!」
「抜け出すときに、ドクササコの手引きがどうのと言ってたそうじゃないか! どういうことか説明しろ!」
「ドクササコを村に引き込む気か? 戦を止めさせるとかいいながら、ホントは村を戦に巻き込もうとしているんだろう!」
「そのようなことはない!」
 ふいに重々しい声がして、次の間に続く襖が開いた。
「浄段…いたのか…」
 虚を突かれたように若者たちが眼を丸くする。
 -三郎…どうする気だい?
 そこに現れた浄段が三郎の変装であることを見抜いた雷蔵がはらはらしながら見守る。
「いかにも事態は少し変わった。このことは村の者たちに説明せねばならぬ。一刻後にステージの前に集まるよう、村の者たちに伝えるように」
「一刻後…だな」
「わ、わかった…」
 堂々とした物言いに気勢を削がれた若者たちが立ち去る。

 

 


「さてと、せっかくの飯だ。私がいただこう」
 ふたたび何事もなかったように座って、浄段が手をつけなかった膳に箸を伸ばす三郎だった。まだ外に誰かいるかもしれないと用心した雷蔵が矢羽根で訊く。
≪それで、浄段さんはどうしたんだい?≫
≪ちょうどいいタイミングで連中が踏み込んでくれたおかげでね、一人で逃げろと言って送り出したさ。≫
 
≪で、これからどうするんだい?≫
≪言ったろ? これから私たちは救済者になるのさ!≫
 -そうか…。
 聞いても不思議と心は静かなままだった。かといって大げさな言いぶりとも思わなかった。たしかにこれから三郎は救済者になるのだろうな、という漠然とした確信を受け止めていた。
≪ああそうだ。浄段さんががらくた箱置いてっちゃったんだけど、使うかい?≫
≪がらくた箱?≫
 膳の上の食事をすっかり片付けて汁を飲みほした三郎が眼を向ける。
≪そう。昨日の夜僕がぶちまけちゃったやつ。≫
≪あれをがらくた箱というとは、さすが私の雷蔵だな。≫
 立ち上がった三郎が、雷蔵が持ちだした箱を開ける。
≪なるほど。目くらましにはうってつけだね。≫
 箱の中をのぞいた三郎が鼻を鳴らす。
≪どれもきっと本物じゃないけど、ずいぶんキラキラしてるからね。だまされる人たちもいるんだろうね。≫
 乾いた調子で雷蔵が頷く。
≪まあそれでも大事な商売道具だろうからね。せいぜい使わせてもらうとするか。≫

 


 

 広場にはすでに多くの村人たちが集まっていた。すでに河内坊が村を後にした噂は村中に広まっていた。朝の陽ざしがじりじりと照り付ける中、人々はあちこちで数人ずつ集まってはあれこれと話し込んでいた。不穏な空気が広場に満ちていた。
「ちょっと雰囲気がよくない感じがするんだけど。本当にこれからステージに上がるつもりかい?」
 広場の様子をちらりと確認した雷蔵が不安げに言う。
「なに。たいしたことないさ。それより、いざというときは頼んだよ」
「もちろん」
 前の晩のうちに、二人はステージの足場に細工をして、いざとなれば簡単に破壊できるよう仕掛けを施していた。村人たちが興奮して三郎たちを攻撃しようとしたときには、ステージの破壊で気を逸らせている間に逃げ出すことにしていた。
 -そんなことを言い出すくらいだから、きっと刺激の強いことを言うつもりなんだろうな、三郎は。
 衣装の裾をはためかせながらステージへの階段を上る背中が、なぜかひどく遠ざかっていくように見えた。

 

 

 

「君たちが見た通り、今朝、私の部下がここを出発した。それは、ドクササコ城に向かわせたのだ」
 三郎の第一声に村人たちからどよめきが上がる。
「なんだって?」
「ドクササコ城だと?」
「やはり、俺たちの村を戦に巻き込むつもりなのか?」
 数人が声を上げる。
「ドクササコ城の話の前に、君たちに話しておくことがある」
 三郎の口調は変わらない。いかにも浄段がふだんするように、やや低めの声である。しぜん、聞く者たちは話すのをやめて耳をそばだてる。
「君たちは私を預言者と思っていたかもしれない。だが、それは間違いだ」
≪な、何を言ってるんだい、三郎!≫
 ステージの下に控えた雷蔵が慌てて矢羽根を送るが、三郎の反応はない。
 唐突な話に、村人たちは却って黙り込んでいた。広場をセミの声だけが響く。駄目押しのように三郎が続ける。
「私に預言する能力などない」
「なにを言ってるんだ?」
「それじゃ、今までの話は全部ウソだったってことかよ!」
「俺たちをだましていたのか!?」
 ようやく声が上がり始める。
「私が話したのは、預言ではない。君たちが聞きたいと望んでいた話だ」
「意味が分からん!」
「きちっと説明しろ!」
 三郎の話は村人たちをさらに混乱させたようだった。
「ここに宝刀がある」
 腰に佩いた宝刀を抜いてみせる。照りつける太陽にギラリと反射して、数人が眼を覆ったり顔をそむける。「いろいろ飾りがついてさぞありがたく見えるだろうが、ただの刀だ。だが、君たちが望む話をするうえでは、ちょっとした権威にはなったかもしれない」
 刀を鞘に戻すと、鞘ごとステージの上に投げ捨てた。がたり、と大仰な音がいやに耳に響いた。
「これもありがたい宝玉として見た者もいるかもしれない」
 懐から玉を取り出すと、手のひらにのせる。「南蛮渡来のガラス玉だ。きっと高いのだろうが、所詮ガラス玉だ。なんの霊力もない。欲しければ差し上げるよ」
 無造作に放られたガラス玉に、数人が手を伸ばして取り合う。
「君たちはマイタケ城に不満をもっている。だから、私はマイタケ城への憎しみを煽る話をした。君たちは戦を恐れていた。だから、私は戦の恐怖を煽る話をした…!」
 三郎の声のトーンがいつの間にか上がりつつあった。浄段が憑依したのではないかと雷蔵は軽くおののく。
「だが、ひとつだけ想定外のことがあった。ドクササコ城のことだ。ドクササコは本当にマイタケ領への攻撃を計画していた。ドクササコ城の忍者がすでにこの村になんども来ていた。君たちはそえに気づいていたか?」
 咎めるような切り口上で三郎はおもむろに村人たちをぐるりと見渡す。戸惑ったようなざわめきが徐々に広がる。
「ドクササコの忍者だって?」
「気がついたか? そんなの」
「そういえば、見慣れない男が来ていたのを見かけたような…」
「白目がちの男なら、俺も見たぞ」
「河内坊をドクササコ城に送ったのは、ドクササコの動きを探らせるためだ。だが、ドクササコの動きを止めることはできない。この村は、戦に巻き込まれることになる」
「なんだって!?」
「無責任なことを言うな!」
 悲鳴のような声が上がる。
「これが事実だ!」
 ふたたび三郎が声を張り上げる。「いまは戦の世だ! ドクササコに加勢するも、マイタケに軍勢を出してもらうも、君たちの判断だ! 私に言えるのはそれだけだ」
「なに勝手なこと言ってやがる!」
「俺たちはどうすればいいんだ!」
「そもそも、お前がマイタケに背けなんて言い出したんだぞ!」
「そうだそうだ!」
 三郎が話を終えると同時に、次々と声が上がった。それはやがて自分たちを扇動したものへの怒りへと変わっていく。
「もとはといえば浄段のせいだ!」
「そうだ! 浄段をやっつけろ!」
 一気に不穏な空気が増してくる。
 -今だ!
 ステージの上に立つ三郎の目配せを雷蔵は見逃さなかった。
 -よし!
 小さく頷くと、仕掛けにつながる縄を一気に引く。がらがらと大仰な音を立てて土台の丸太がバラバラになり、ステージが崩れ始める。
「おい! ステージが崩れるぞ!」
「ここから離れろ!」
「逃げろ! 逃げるんだ!」
 土煙を上げて崩れ落ちるステージに村人たちが逃げ惑う。そして、その上にいた男がどうなったかに気を配る者もいなかった。


 


「ケガはないかい、三郎」
「もちろんさ。いいタイミングで仕掛けを引いてくれたからね。さすが私の雷蔵だ」
「あんな仕掛けを仕込もうなんて言い出したからきっと何かやるとは思ったけど、まさかあんなことを言い出すとは思わなかったよ」
 ようやく学園に戻って、雷蔵と三郎は自分の部屋に落ち着くことができた。
「どうだったい、私の演技は」
 夕食と風呂を終えて寝間着姿になった三郎がニヤリと訊く。
「聞いててヒヤヒヤしたよ…あれが救世主とは驚いた」
 胡坐をかいて三郎に向き合った雷蔵が疲れた笑みで応える。そして同時に思う。
 -だけど、確かに三郎は救世主だった。あの村人たちに現実を突きつけ、目覚めさせたのだから。
 窓の外からは虫の声が高く響く。いつの間にかそのような季節になっていた。
「ねえ、三郎」
「なんだい」
 だがその声に応えず、雷蔵はいつも三郎がするように自分と同じ色の髷に顔を埋めていた。いや、髷の向こうにある温かい肩に頬を寄せていた。
「雷蔵…?」
 戸惑ったような声をあげる三郎だが、あえて身体は動かさず、雷蔵の動きを受け入れた。なぜなら雷蔵が細かく震えているのが分かったから。
「…こわかったんだ」
 くぐもった声が背後から聞こえた。
「なにがだい?」
「救世主になった君が、とても遠くに行ってしまいそうだった」
「私はいつでも雷蔵のそばにいるさ」
「わかってる…でも、ものすごく遠くに行ってしまいそうに思えたんだ」
 肩の熱量が増した。きっと雷蔵は涙を流しているのだろうと三郎は感じた。
「たしかにちょっと刺激的なことを言ったと思う。下手したら殺されてたかもしれない。もちろん、逃げおおせるための仕掛けはしたけど、でも、ダメだったらそれでもいいかもしれないって思うんだ」
「…っ!」
 ゆっくりと語る三郎の両腕を掴む雷蔵の指に、力がこもった。
「こんな世の中なんだからさ。私たちのどっちかがいつ死ぬかなんて分からないだろ? でも、いつか、必ずまた会えるような気がするんだ…ほら、仏様の教えにあるだろ? 輪廻転生ってさ。忍みたいなことやってたら次に生まれ変わったら獣か虫にでもなるかもしれないけど、なんどか生まれ変わってるうちにまた人間に生まれて、そしたらまた会えるに違いないって、そう思うんだ」
「僕は…」
 肩に顔を埋めてむせび泣きながら雷蔵はうめく。「そんな先のことなんてどうでもいい…いま、三郎と一緒にいたいんだ…」
「そうか…」
 困ったような笑顔で小さくため息をついた三郎だった。「雷蔵がそう望むんだったら、私もそうするよ」
「だったら…」
 肩口に声が埋もれる。「もう二度と、救世主にならないで…ほしいんだ」
「お安い御用さ」
 三郎は静かに応える。
「もともと救世主なんて、ガラじゃないからね」

 

 

<FIN>

 

 

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