会計の問題

 

いつもギンギンに忍者している文次郎も、目上の人には敬意を失わないゆえに、特に会計委員会顧問の安藤先生の困った振る舞いには対応しかねていそうです。特におやじギャグと思い込みに基づく妄想には…。

 

 

「会計委員長」
「はい」
 会計委員会顧問の安藤の部屋を訪れているのは、委員長の文次郎である。
「最近、会計の動きで気になることはありませんか」
 ずず、とひとくち茶をすすった安藤は、顔を上げる。
「いえ。特になにも」
 数日前に各委員会の月次決算をチェックしたばかりの文次郎は、よどみなく言い切る。
「そうですか?」
 自分を見つめる安藤の眼が細くなる。明らかすぎるほど懐疑的な視線に、心当たりがない文次郎は戸惑う。
「なにか、問題がありましたか?」
 しかたがない、というふうに、安藤は大仰にため息をついた。
「たしかに、各委員会から提出された書類に間違いはない。その意味で君が問題がないというのはあながち間違いではない。しかしです」
 あながち、というところに力を込めた安藤の台詞に、思わず文次郎は反発を感じる。安藤らしい、といえばそれまでなのだし、それはわかっているつもりだが。
「…ものごとは、表に出ていることだけが全てではない。むしろ、表に出てこないことに真実が隠されていることのほうが多い…わかりますか?」
 文次郎の思いに気づくことなく、安藤は語り続ける。
「…どういう、ことでしょうか」
「わかりませんか?」
 腕を組んだ安藤が、身体をそらせる。文次郎は膝の上に置いた拳を握り締める。
「もうしわけ、ありません」
 いつの間にか大柄な身体を縮めている自分に気づいて、文次郎は軽く自己嫌悪を感じた。こうやって、目の前の脂ぎった中年男に心を支配されている自分が惨めになった。学園の教師を勤めるほど実力のある忍であることは間違いないのだろうが。
「しかたがないですね」
 だが、さらに大仰にため息をついて続ける安藤の言葉に、文次郎は思わずはっとして顔を上げた。
「くノ一教室の会計について、君は把握していますか」
「…くノ一教室ですか?」
「そうです」
「しかし、くノ一教室の会計は、会計委員会の管轄ではありません。そもそも、くノ一教室からは会計委員も出ていませんし」
「では、誰の管轄だと思いますか」
「そう言われましても…」
 まったく想定していなかった方向に話が流れて、文次郎は視線を泳がせる。
「では、質問を変えましょう。誰が、くノ一教室の会計を把握していると思いますか」
「まあ、その…あえていえば、学園長先生やくノ一教室の山本先生、それに事務のおばちゃんといったところでしょうか…」
「そうですな。ま、そういったところでしょう」
 頷く安藤だったが、その答えで満足していないことは明らかだった。
「それがなにか…?」
「それこそが、問題ということです」
「?」
 まだ首をかしげている文次郎に、思わず安藤は膝をぱしりと叩く。
「それだけの、限られた人しか把握していないということが問題だ、と言っているのです!」
「そう言われましても…」
 くノ一教室の会計が把握していないことが、何がそんなに問題なのか理解できない文次郎は、首をかしげる。そもそも会計委員会は、忍たまの各委員会の予算配分に責任は負っていても、学園全体の経理に責任があるわけではない。
 -くノ一教室は人数も少ないし、カネが動くといってもクラス費くらいなものだろう。
 そもそもくノ一教室にはあまり関わりたくない文次郎は、くノ一教室の会計になぜこれほどこだわるのか理解できなかった。だから、訊いてみることにした。
「なぜ、くノ一教室の会計が、そこまで気になるのですか」
「気になる!? 気にならないわけがないでしょうが! 君には生姜が木にならなくても気にならないでしょうがね」
 唐突に口をついて出たオヤジギャグに、少し遅れて文次郎は脱力した。
「…それで、なにが気になるのですか」
 額に手を当てながら、文次郎は身を起こした。
「そこまで分からないのなら仕方がない。教えてあげましょう」
 急に声を潜めた安藤に、文次郎は居ずまいを正した。 
「…くノ一教室の会計は、要は誰のチェックも受けていないも同然です。とすれば、裏で誰かがくノ一教室の結託すれば、会計上の不正はやりたい放題でしょう。その危険性を私はつねづね感じていたが、どうやらそれが当たってしまったようです」
「どういうことですか」
 思わず文次郎も身を乗り出す。
「以前、学級委員長委員会が、会議費諸費茶菓代をドサクサ紛れに計上したことがありましたね。あの時は辛くも阻止しましたが、どうやら今度はくノ一教室と結託して同じようなことを行っていると私は睨んでいる。すなわち、くノ一教室の経費として会議費諸費茶菓代を計上し、学園の資金を確保しておいてから、その分を学級委員長委員会の経費として横流ししている」
「そんなことが、あるのでしょうか」
 突拍子もない話に、文次郎はあっけに取られる。学級委員長委員会とくノ一教室との取り合わせも考えにくいし、それが結託して裏で予算を計上したり横流ししたりということはなおさら考えにくかった。そもそも、それが事実だったとしても、学級委員長委員会はともかくくノ一教室にはなんのメリットもないのだ。
「…そうお考えになる証拠が、あるのでしょうか」
「証拠ならあります」
 言い切る安藤に、文次郎は眉を上げた。
「どのような…」
「最近、学級委員長委員会とくノ一教室の接触がやたらと多い。それが気になります。五年ろ組の鉢屋三郎がやたらとくノ一教室に出入りしている。そして、一年は組の庄左ヱ門も。通常、くノ一教室は、忍たまとは別個に運営されているはずなのに、これはおかしい。そして、この2人とも学級委員長委員会の生徒だ」
「…はい」
「さらに決定的なことに、ここ最近、学園長のおやつが豪華になっている。カステーラだのボーロだの、南蛮の菓子ばかりを召し上がっている…そんな予算が、学園長の個人経費に計上できるとはとても思えない。どうですか」
「…それだけですか」
 うんざりした表情になって文次郎が肩を落とす。ここまで大仰に言っておきながら、単なる状況証拠だけであとは安藤の想像ないし妄想でしかないではないか…。だが、安藤はなおも言い募る。
「それだけとはなんです、それだけどは! これは重大な疑惑です。学園の予算が途方もない疑惑にまみれた使途に消えているのです! 会計委員会として、これは看過できない問題なのですよ!」
「そんな大げさな…」
「大げさなものですか! これは蟻の一穴です。いまは菓子代程度で済んでいるが、だんだん多くの経費がくノ一教室と学級委員長委員会を経由して流れてゆき、しまいには学園の財政を傾けかねないことになるのですよ! 会計委員会としては、なんとしても問題の芽は大きくなる前に摘んでおかねばならないのです!」
「しかし、そういう問題があるとしても、会計委員会では調べかねます。ここは、事務のおばちゃんに確認するしかないのではないでしょうか」
 安藤の被害妄想にこれ以上付き合いたくない文次郎は、事務のおばちゃんを引き合いに出してこの場を立ち去りたかった。だが、それで納得する安藤ではない。
「君にはわからないのですか。このような陰謀がある以上、事務のおばちゃんが噛んでいないわけがないでしょう」
「そうは言いましても…」
 そもそも、学園の創設者は学園長である。自分で自分の創設した学園を傾けるような真似をするわけがないではないかと、文次郎は考える。いまの安藤にそんな理を説いても受け入れられそうになかったから黙っていたが。
「…ことは緊急を要します。たしかに、君が言うようにくノ一教室の会計は、会計委員会では管轄していません。だが、必要な調査は行わなければなりません。そして、そのことは忍としての実力を試されるいい機会なのです…いいですね、潮江君。君は、会計委員会委員長として、責任を持ってこの調査をやり遂げなければならない」
「…はあ」
「私からの話は以上です。下がってよろしい」
「…はい」

 

 

 -まいったな…。
 安藤の部屋から退出した文次郎は、思いがけず巻き込まれた厄介ごとにため息をついた。
 -いつもなら、会計委員を動員して調査させるところだが…。
 相手はくノ一教室である。
 -四年の三木ヱ門や一年い組の佐吉は、くノ一教室など相手にしてなさそうだし、三年の左門や一年は組の団蔵は、くノ一教室から相手にされてなさそうだし…。
 どちらにしても、戦力としては期待できなさそうである。
 -だが、指示を受けた以上、調査はしなければならない…しかたがない、俺一人でやるか。
 くノ一教室がどのような会計処理を行っているのか見るのも参考になるだろう、と前向きに考えることにして、文次郎は会計委員会室の襖を開けた。
「あ…潮江先輩」
 部屋には先客がいた。
「おう。どうした、団蔵」
 文机の前にどっかと腰をおろしながら、文次郎は声をかける。
「はい…じつは」
 決まり悪そうに団蔵は頭をかいた。
「宿題がなかなか終わらなくて…教室はは組のみんながいて、どうしても遊びたくなっちゃうので、ここでやることにしたんです」
 もしかしたら先輩の誰かが来て教えてくれるかもしれないし、と付け加えて、団蔵はちいさく舌を出した。
「なんだ、宿題が終わらないのか。見せてみろ」
「え? 潮江先輩がみてくださるのですか?」
「いいから早く持ってこい」
 は、はい、と宿題を抱えてやってきた団蔵が、文机に宿題を広げる。
「なになに…次のなかから登器をえらびなさい、か。忍び熊手、しころ、飛梯子、苦無…しころは違うだろうが、あとはぜんぶ登器だろう」
「苦無もですか?」
「当然だ。忍の巧者は一器を以って諸用を弁ずというだろう。特に苦無はあらゆる用途に使える。おぼえておけ」
「はい!」
 先輩がいてよかった、と言いながら答えを書き込む団蔵に、文次郎は声をかける。
「そういえば、庄左ヱ門は、団蔵と同じクラスだったな」
「はい」
「庄左ヱ門が最近、くノ一教室に行っているそうだが、なにか聞いていないか」
「庄左ヱ門がですか?」
 顔を上げた団蔵が首をかしげる。
「知らないのか」
「はい…そうなんですか?」
 首をかしげたまま訊く団蔵を見る限り、これ以上の情報は期待できなさそうである。だから文次郎は苦笑いを浮かべて答える。
「まあ、そんなことをちょっと聞きかじっただけだ」
「そうなんですかぁ。は組でくノ一教室と仲がいいのはしんべヱくらいだし」
 何も考えてなさそうな笑顔で団蔵は言う。
「しんべヱが…か?」
 意外な名前に、文次郎は思わず聞き返す。
「はい。しんべヱは、くノ一教室のおシゲちゃんとなかよしですから」
「そうか」
 考え深げに呟く文次郎に、ふたたび不思議そうに首をかしげる団蔵だった。

 


「おシゲちゃ~~~ん!!」
「しんべヱしゃま~~~!!」
 校庭で互いの姿を見かけた2人は、たちまち駆け寄る。
「しんべヱしゃま、お鼻かんでさしあげましゅ」
「うん! おねがい!」
「はい、チーン」
「ありがと、おシゲちゃん」
「どういたしましてでしゅ~」
 -あれか…。
 物陰から見ていた文次郎は、甘ったるいシーンにむせ返りそうになる感覚を苦労して押しとどめていた。
 -しんべヱもしんべヱだが、おシゲもおシゲだ…学園長先生のお孫御とのことだが、あんなことで一人前のくノ一になれるのか…。
 だが、目下の問題はしんべヱとおシゲの行動ではない。
 -しんべヱを通じて調べさせるか…? いや、だがそれはあまりにリスクが高い…。
 調べる、というより、何もかもをぶちまけて話してしまいそうで、危険きわまりない。おまけに、しんべヱには、もれなく乱太郎ときり丸がついてくるのだ。騒動が三倍かそれ以上になることを覚悟すべきだろう。
 -お?
 鼻をかんでもらったしんべヱが歩き出そうとしたとき、団蔵がやってくるのが視界に入った。
「お~い、しんべヱ!」
「あっ、団蔵!」
「しんべヱに荷物がとどいたよ!」
「ホント? パパから?」
「きっとそうだよ。堺からだから」
 一緒に駆け出す2人にそのまま見送ろうと思った文次郎だったが、ふいに耳に届いたしんべヱの台詞に、思わず耳をそばだてる。
「そういえば、庄左ヱ門のおうちの炭は、まだこないのかなぁ。おシゲちゃんがまってるんだけど」
 -どういうことだ?
 2人に気取られないようにそっと近づきながら、文次郎はさらに続きに耳を傾ける。
「うん。炭はたくさんの馬ではこぶから、すこし時間がかかるんだとおもう。みんながほかのしごとからもどってこないと、なかなか馬をあつめられないから」
「ふーん、そうなんだ…たいへんだね」
「まあね…あ、喜六! ごくろうさま!」
 ふいに団蔵が声を上げて駆け出す。その先には、馬の手入れをしている若者がいた。
「若旦那! お久しぶりです」
 若者は手を止めると、団蔵に軽く頭を下げる。
「喜六。しんべヱあての荷物は?」
「ああ、福富屋さんからのお荷物ですね…これです。こちらに受領印かサインをお願いします」
 大きな荷物をしんべヱに手渡すと、喜六は伝票を差し出した。
「はい」
「ありがとうございます」
 しんべヱのサインを確認した喜六は、伝票を懐にしまう。
「ねぇ、喜六。清八やうちの連中は元気にしてる?」
「ええ。みんな元気にしてますよ。親方も、若旦那に会いたがってましたよ」
「そう。休みになったらかえるからって言っといてよ」
「分かりました」
「ところで、炭はいつとどくの?」
「ああ、黒木屋さんの炭ですか?」
「うん」
「そうですねぇ」
 喜六は顎に手を当てて宙を見やる。
「二、三日中には届くんじゃないかと思いますけど」
「そうなんだ、よかった」
 ほっとしたように団蔵が息をつく。
「そんなにお急ぎなんですか?」
 不思議そうに喜六が訊く。 
「うん。実は、庄左ヱ門のうちの炭を、くノ一教室がお茶の授業でつかうから、はやくほしいっていわれてるみたい」
「そうなんだ。庄ちゃんのおうちの炭はいいって、うちのパパもいってたし」
 しんべヱが納得したように頷く。
「だから、庄左ヱ門もせっつかれてこまってるみたい。このまえも、じぶんでお茶をたしなむためにとっておいた炭をくノ一教室に持ってってたし」
「そういうわけですか。でしたら、もう少し急ぐように親方にも伝えますよ」
 喜六が答える。
 -なんだ…。
 文次郎は力が抜けるのを感じた。
 -庄左ヱ門がくノ一教室に出入りしているのは、くノ一教室のお茶の授業で使う炭を運び込んでいたのか。
 安藤の疑念の少なくとも一つはこれで解決である。
 -あとは、鉢屋三郎か…。

 


 三郎と雷蔵が並んで歩いている。学園ではよくある光景である。同級生で仲がいい2人は、授業でも食事でもたいてい行動を共にしている。話したり笑ったりしながら歩いている2人を物陰から文次郎が探っている。
 -問題は、どっちが雷蔵でどっちが三郎かわからないということだ。
 下級生ながら、三郎の変装の実力は自分を上回っていると文次郎は認めざるを得ない。いや、六年生や教師たちの中でも、三郎の変装を見抜けるものがあるとは思えなかった。さが、それは見た目の話である。
 -行動を見れば雷蔵と三郎の違いははっきりしている。
 だから、行動で違いを暴き出すのだ。文次郎は素早く2人の前方に移動すると、物陰から手裏剣を放った。
「「!」」
 素早く身をひるがえして手裏剣を避けた2人が手裏剣を構える。
「そういうときは苦無で攻撃、防御のどちらにもそなえるもんだぜ」
「だれだ!」
 文次郎が物陰から声色を変えて呼びかける。すかさず声の方に身構えながら三郎が叫ぶ。
「よお、三郎」
 文次郎が姿を現す。
「あ…潮江先輩」
 三郎が、手裏剣を構えていた手をゆるゆると下ろす。
「でも、どうした私だと分かったんですか?」
 あっさりと自分を鉢屋三郎と見破られたことに、軽くたじろぎながら訊く。
「分からない方がどうかしてるとおもうけどな…な、雷蔵」
「は、はい…」
 唐突に声をかけられた雷蔵がおどおどと眼を上げる。右手には手裏剣、左手には苦無を持ったまま。
「あ…雷蔵、潮江先輩に言われて迷っちゃったのかい?」
 呆れたように三郎が声を上げる。雷蔵が小さく肩をすくめる。
「うん…実はね。とっさに手裏剣を構えたけど、苦無を使うもんだと言われるとそっちの方が正しいかもと思っちゃったりしてさ」
「しょうがないなぁ、雷蔵は」
 腰に手を当てて三郎が苦笑する。
「それでだ、三郎…お前に話がある」
「は、はい。何でしょう」
 にわかに常の口調で呼ぶ文次郎に、三郎が弾かれたように振り返る。
「おまえ、最近くノ一教室によく出入りしているそうだな…何の用だ」
 三郎には直球勝負で訊いてしまうことにした文次郎だった。どうせ三郎も安藤の言う「陰謀」に加担などしているわけがないのだ。安藤の言うようにくノ一教室によく出入りしているというのであれば、その理由を隠す必要もないはずだった。
「ああ、そのことですか」
 果たして三郎は何事もなかったように言う。
「…あれはくノ一教室の山本先生に頼まれて、変装術の話に行ったんですが、それがどうかされましたか?」
「そうか。それならいい」
 邪魔したな、と付け加えて文次郎は姿を消した。
「…それで、潮江先輩は何の用だったんだろう」
 雷蔵がつぶやく。
「まあ、いいじゃないか。なんか先輩なりに解決したみたいだし。さ、行こうぜ!」
 気を取り直したように三郎が雷蔵の肩をたたく。 
「ああ、そうだね」
 雷蔵が手裏剣や苦無を懐にしまいながらにっこりする。

 


「らんたろ~っ! はやく来いよ~!」
「まってよきりちゃ~ん!」
 渡り廊下をどたどたと走ってくるのは乱太郎ときり丸である。
「こらお前ら! 廊下を走るな!」
 一喝した文次郎は、すれ違いざま乱太郎ときり丸の襟首をつかむ。
「うわ、潮江先輩!」
「ひぇ~」
 襟首をつかまれて持ち上げられた乱太郎ときり丸が情けない声を上げる。
「お前ら、何度注意されれば分かるんだ! しんべヱを見ろ!」
 こわごわと文次郎の顔を見上げていた乱太郎ときり丸が、思わず廊下に眼をやる。そこには、そろそろと何かの箱を捧げ持つようにして歩いているしんべヱがいた。
「し、しんべヱがろうかを走っていない!」
「どういうこったぁ!?」
 素っ頓狂な声を上げた2人に、しんべヱが顔を上げる。
「あ、乱太郎ときり丸。なに潮江先輩におこられてるの?」
「ていうかしんべヱ、どうしてそんなにゆっくり歩いてるんだよ」
 きり丸が訊く。
「ああ、これ?」
 しんべヱがきまり悪そうに苦笑する。
「さっき団蔵んちの喜六さんがきて、パパから学園長先生あての荷物をとどけてくれたんだ。だからそれをお持ちしているところ」
「何を運んでいるんだ?」
 興味にかられた文次郎が、乱太郎ときり丸の身体を下ろしながら訊く。
「南蛮のお菓子です」
 涎をこらえながらしんべヱが答える。
「…だから、落とさないように、あとぼくのよだれがかからないように注意しないといけないんです」
「なんでしんべヱのパパさんが学園長先生に南蛮のお菓子を?」
 乱太郎が首をかしげる。
「このまえ、パパと学園長先生が賭けババ抜き十番勝負をやって、パパが負けちゃったの。で、学園長先生が、一か月間南蛮のお菓子が食べたいって言ったんだって」
「へぇ…いいなぁ」
「それ…売ればゼニになるんだろうなぁ」
 乱太郎ときり丸がそれぞれの感慨を口にしている間に、文次郎は安藤のいう「陰謀」の最後の根拠が崩れたことに気付いていた。
 -そうか、学園長先生が南蛮のお菓子をよく召し上がっているというのは、そういう事情だったのか…。
 そうだとすれば、学園長が学級委員長委員会を通してくノ一教室と結託して予算を横流しする必要もないことになる。
 -よし! さっそく安藤先生にご報告だ!
 だが待てよ、と文次郎は考える。
 -そもそも、なぜ安藤先生は、予算に疑問を持たれたんだ?
 帳簿を見れば、怪しいところなどないことは明らかなはずである。いくら安藤でも、疑問の余地のない帳簿からあのような妄想を膨らませるはずがない…。
 -そうか、あれか!
 その原因にも思い至って、文次郎はにやりとする。
 -安藤先生は、あれをご覧になったんだな…。

 


「…というわけで、調査の結果、くノ一教室及び学級委員長委員会の結託や予算の横流しは一切確認されませんでした」
 離れの安藤の部屋に、向かい合って座る文次郎と安藤の姿があった。いま、文次郎は安藤に命じられた調査の結果を報告に訪れていた。
「なにもなかった…? 本当ですか?」
 意外な内容の報告に、果たして安藤は疑わしげな視線を向ける。
「はい。学園長先生のお菓子も含めて、疑わしい点はありませんでした」
 断言した文次郎が続ける。
「きっと、安藤先生はこの帳簿をご覧になって、疑問を持たれたのではないでしょうか」
 文次郎は、安藤の文机の上に積まれた帳簿を手に取る。
「ああ、そうです。その帳簿の数字はきわめて不自然だ。突合できるはずの数字がまったく合わない…それで疑問を持たない方がどうかしている」
「この帳簿は、私たちも探していたのです」
「そうですか。たしかに、君たちに言わずに会計委員会室から持ってきてしまったのは悪かったと思いますが、顧問として、帳簿をチェックするのは当然のことでしょう」
「はい。でも、私たちが探していたのは、別の意味なんです」
 もはや安藤がなぜ会計に関する疑惑を抱いたかをはっきりと理解した文次郎は、よどみなく続ける。
「どういうことですか」
「この帳簿は、各委員会から上がってきた決算書を団蔵があまりに汚い字で写したので、伝七が正しく読めずに計算したので間違いだらけなのです。正しい帳簿は会計委員会室にあります」
「な、なんですと! 私は、間違った帳簿を見ていたということですか!」
 安藤の貌に動揺がはしる。
「そういうことです。廃棄するためにほかの帳簿と取り分けておいたのを、先生がお持ちになってしまったのです」
「そんな…それでは、私が心配した陰謀のそもそもの原因は、一年は組の団蔵の字ということですか!」
「そういうことに、なると思います」
「なんと…そんな生徒の汚い字を放置しているとは、一年は組教科担当担任の土井先生はいったいどんな指導をしているのでしょう…今度きっちり説明を求めねば」
 拳を震わせる安藤に、文次郎は内心ため息をつく。
 -こんなことで巻き込まれるとは…土井先生もたいへんだな。

 

<FIN>