野分2

 

近年、いろいろ被害が拡大する傾向にある台風シーズンです。被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

そして不運により被害を引き寄せてしまう二人は、どのように受け止めるのでしょうか。

 

 

「風がひどくなってきたね」
「ああ」
 部屋の扉や格子窓に打ち付けた板の隙間から甲高い音を立てて風が吹き込んでくる。一層激しくなった雨まで吹き込んで敷居や壁際に水たまりができている。ひどくなる一方の野分に、雑巾を手にした伊作が不安げに水たまりをふき取る。
「うわっ、ここからも雨漏りかよ」
 頭上にぴとりと落ちた冷たい感覚に留三郎が天井を見上げる。天井板にいくつもできたしみの一つから水滴がみるみる膨らんではぽとりと床に落ちていた。
「まずいよ、これじゃ本や薬草が濡れてしまうよ」
 すでに床には雨漏りを受ける茶碗や桶が所狭しと並んでいる。困ったように伊作も天井を見上げる。
「だな」
 忍たま長屋でこれほどの有様では、小松田がうっかり梯子を倒して壊した用具倉庫の板壁や、文次郎が頭突きした築地塀はどうなっているだろうかと留三郎が用具委員長らしいことを考えたとき、「やっぱり医務室に詰めていたほうがいいかな」と伊作が呟く。
「やめといたほうがいい」
 低い声で留三郎が制する。「廊下は雨風が吹き込んでるんだ。何が飛んでくるか分らんぞ。それに、この風だ。渡り廊下で吹っ飛ばされるかも知れない」
「お、大げさだよ留三郎は」
 苦笑いを浮かべながらも明らかにひるんだ声になる伊作だった。そう言われるといつもなら造作もない医務室への距離がとてつもなく危険で遠いルートに思えてきた。
「だいたい、この野分のなかで医務室まで行けるようなヤツは、そもそも医務室にかかる必要なんかねえだろ」
 六年生の自分たちさえ部屋の外に出るのをはばかるような猛烈な風雨である。伊作も頷かざるをえない。
「そ、そうだよね。とりあえず何かあったらすぐに出られるようにしておけばいいよね」
「そういうこった」
 押し入れの板戸に寄りかかりながら留三郎は応える。今日は制服を着たまま仮眠するつもりだった。どのみち部屋の床に布団を敷くスペースなど残っていないのだ。
「僕もそっち行っていい?」
 留三郎と対面の壁に寄りかかろうと触れてみた伊作がきまり悪そうに言う。降り続いた雨で壁はすっかり湿気を帯びて、うっすら水がにじむほどだったから。
「おう」
 少し身体をずらして空けたスペースに伊作も寄りかかる。
「もう灯つかわねえだろ? 消すぞ」
 風で倒れたらあぶねえからな、と言いながら留三郎が傍らの灯台の火を吹き消す。すきま風に揺らめいていた灯りが消えて部屋が真っ暗になった。

 

 

「ねえ留三郎」
 暗闇の中で、さらに勢いを増したようにすきま風の甲高い音が響いていたが、伊作の声は奇妙にのどかだった。
「ん?」
「一年生の時、こんな野分の夜に留三郎の布団に潜り込んだことがあったよね」
 伊作は板戸に寄りかかり、足を投げ出して昏い天井を見上げていた。
「一年どころか」
 胡坐をかいたまま暗闇に視線を泳がせていた留三郎が肩をすくめる。「二年や三年になっても俺の布団に潜り込んではしがみついてたろ。暑苦しいと思いながらもガマンしてたんだぞ」
「ああ、そういやそうだった」
 苦笑を噛みしめながら伊作は頷く。「でも、怖がる対象はいつも違ったんだよ」
「違った?」
 暗闇の中で、留三郎が身じろぎする気配がした。
「一年の頃は、たしかに単に野分がこわかった。でも、だんだん途方もない自然の暴力の向こうになにがあるんだろうと思うようになってきた。なんで野分が起きるんだろう、それはどんな意志が働いているんだろうって。ひょっとしたら、それは何もかもを壊そうとするどす黒いものではないかって」
 暗闇に向かって伊作はため息をついた。「そう考えたら無性に怖くなってね。何かにつかまっていないとそのどす黒いものに呑み込まれてしまうんじゃないかって。だから…」
 留三郎につかまっていたんだ、とは続けかねて伊作は黙り込んだ。
「なんだ。結局、野分だかその根源だかが怖かっただけじゃねえかよ」
 留三郎が揶揄する。そして考える。実はしがみつかれていた自分にも、得体のしれない恐怖が伝染していて、暗闇で眼を見開いたまま身を固くしていたことを、伊作は気づいていただろうか、と。
「そういえばそうだね」
 ふたたび苦笑を噛みしめる伊作だった。「でも、留三郎が『俺がいるからだいじょうぶだ』って言ってくれたよね。あれで本当に心強かったんだ」
「そうか」
 そんなこと言ったっけ、と思い返しながら留三郎は応える。それは自分としては精いっぱいの強がりに過ぎなかったのだが。
「うん。そうでなくても…」
 不運な自分にとっては大きな支えだった、と続けようとした時だった。
 どん、がたん、と大きな音が響くと同時に部屋の扉が大きくたわんだような気配がした。次の瞬間、ばたんと大音響とともに扉は部屋の中へと吹っ飛び、瞬間、窒息しそうなほどの風雨の塊が轟音とともに押し寄せ、渦巻いた。
「なに!」
「うわっ!」
 とっさに頭を抱えて身を守るしかできない二人だった。堰を切ったように部屋の中を荒れ狂う風雨に、衝立と壁の間に身を隠すしかなかった。

 

 

 

「ったくお前ら、どんだけ部屋にモノ持ち込んでんだよ」
 翌朝、部屋の片づけを手伝っていた文次郎が竹束を庭に運び出しながらぶつくさ言う。
「すまない、文次郎。助かるよ」
 留三郎と衝立を運び出していた伊作がやつれた笑いを浮かべる。
「それにしても、ずいぶん派手にやられたものだな」
 ほうきを手にした仙蔵が見回す。たしかに部屋の中は惨憺たるありさまだった。吹っ飛んだ扉は壁に当たって大破し、破片は吹き込んだ風に舞い上げられた二人の私物とごっきゃになって散乱していた。そして壁といわず天井といわず木の葉や折れた枝、泥がこびりついている。
「まさかこんなのが扉を直撃するとはな」
 どうやら原因は、猛烈な風に吹き飛ばされた生物委員会の飼育小屋が部屋の扉を直撃したものらしかった。バラバラになった金網のついた部材を、小平太が庭に放る。
(本は私が何とかしておく。)
 びしょ濡れになり、泥がついた本を抱えて運んでいた長次がもそりと言う。
「悪いな、長次」
 黙っていた留三郎がぼそっと呟く。
「まったく、ここまでひどいのは前代未聞だ」
 言いながら塵取りで集めた木の葉や細かいごみを捨てようとした仙蔵にあわてて伊作が声をかける。
「あ、捨てるのは待って!」
「どうした?」
 不審そうに仙蔵が振り返る。
「その中に骨格標本のこーちゃんの部品も入ってるかもしれないんだ」
「なに!」
 ぎょっとしたように塵取りの中を覗き込む。この散乱状態の中から一寸にも満たないような部材も含めて骨格標本の骨を見つけ出さないといけないというのか。
「頭蓋骨ならさっき見たぞ」
 小平太がのんびりと声を上げる。
「えっ、どこにあったんだい?」
 伊作が振り返る。
「縁側の下に転がっていったぞ」
「ええっ! どうして拾ってくれなかったのさ」
 悲鳴のような声を上げた伊作が慌てて縁側の下に潜り込む。

 

 

「ちっくしょ、やっと終わったぜ」
 大破した部屋の扉の修補をようやく終えた留三郎が、大仰にため息をつく。
「お疲れさま」
 手伝ってくれた仲間たちが去り、庭先に敷いた筵には衝立から文机、忍器から布団まであらゆる私物が並べられている。
「ったくなんで俺たちの部屋だけ…」
 縁側に腰を下ろし、昨夜の暴風雨がうそのように晴れ上がった空を見上げた留三郎がぶつくさ言う。
「そうだね」
 いま、庭先に広げた筵の上にこーちゃんの206個目の部品を並べ終えた伊作が、やれやれと腰を伸ばしながら縁側に近づいてくる。
「なんだか…俺、さいきん不運なんじゃねえかって思えてきてよ…」
 -え…今さらそれ言う…?
 ため息交じりの留三郎に突っ込みかねて、苦笑した伊作が縁側に上がる。その視線が不意にがらんとした部屋に向く。
「…この部屋」
 いつの間にか口を開いていた。「こんなに広かったんだ」
「え?」
 背後に手を突いたまま留三郎が振り返る。傍らに立つ伊作の前にぽっかりと扉の外れた入り口が開いていた。
「…」
 いつの間にか二人分の私物で埋め尽くされていた光景が当たり前となっていた。いま、空っぽとなって眼の前にある部屋は、たしかに思いがけず広く感じた。
「そういや…こんなに広かったんだな」
 茫洋としたように留三郎が呟く。
「そうだね」
 伊作の声がひどく空虚に聞こえた。
 -いずれ俺たちも、こんなふうに部屋を空けわたして…。
 -いずれ僕たちも、こんなふうに部屋を空けわたして…。
 そして学園を後にする時が来る。

 

 

「いい天気だな」
 抜けるような青空に眼を戻した留三郎がのどやかに言う。
「そうだね」
 傍らに腰を下ろした伊作も空に眼をやる。
 それきり黙り込んだ二人の耳に、前栽の陰からかぼそく鳴く虫の声が届く。
 ひととき、二人の背が静かな時をいつくしむ。

 

 

<FIN>

 

 

Page Top ↑