而今


而今は「じこん」と読まれることが多いようですが、禅語では「にこん」と読むようです。過去も未来も「今」でつながっているからこそ今を大切に、ということのようですが、私には「後」があると思うな、だから今を真剣に生きろというもっと切羽詰まった感覚を秘めているように感じられます。
残念ながら決して幸せな過去に恵まれたわけではない土井先生ときり丸は、もしかしたら未来に期待する感覚も薄くて、その分だけ一緒にいる「今」を慈しむ気持ちが強いのではないか。それは「而今」に通じる感覚なのではないか。
ちなみに当時はもちろん旧暦なので、現在のグレゴリオ暦とは6週間ほど差があります。たとえば旧暦5月5日はグレゴリオ暦で6月20日前後。梅雨の頃です。



「ただいまっ」
 蒸し暑い夕方だった。汗だくになったきり丸が戸口から飛び込んできた。
「お帰り、きり丸」
 土間で湯を沸かしていた半助が振り返る。「ずいぶん汗をかいたな。晩飯の前に湯をつかってきなさい。今日はスペシャル版だぞ」
「は~い」
 手早く着物を脱ぎ捨てたきり丸が裏口の三和土に据えてある盥に向かう。と、その声が弾む。「あ、菖蒲湯だ!」
「ああそうだ。今日、お前が売り歩いた菖蒲の葉の売れ残りだがな」
 言いながら桶に汲んだ湯を水でうすめる。
「でも、行水じゃなんかフンイキ出ないっていうか…」
 浅い盥の上にゆらゆらと浮かぶ菖蒲の葉を眺めながらきり丸がぶつくさ言う。
「なにをごちゃごちゃ言ってる。早く身体を洗うんだ」
 三和土に出てきた半助が、手にした桶に入った湯をきり丸の頭からざぶりとかける。
「ぶぇっへっ」
 いきなり頭から浴びせられたきり丸がむせ返る。
「ひどいっスよ先生。生徒にはもっとやさしくですね…」
「いいから早くしなさい」
 言い捨てた半助が囲炉裏端に上がる。火にかけた粥の様子が気になるらしい。
「へいへい」
 言いながら盥の傍らにかがみ込んで身体を洗い始める。
 -ホントは先生といっしょに菖蒲湯にはいりたかったんだけどな。学園みたいなおおきいフロで…。
 


「ところで、どうして端午の節句の日には、菖蒲の葉をかざったり菖蒲湯にはいったりするんですか?」
 夕食の粥をかきこんだきり丸が、ふと気になったように訊く。まだ肌に菖蒲の葉のいい匂いが残っているような気がした。
「唐(中国)の古い風習で、端午の節句の日には薬草を摘んで飾ったりするというものがあるそうだ。それが日本に伝わってきたのだろう」
「どうして菖蒲なんですか?」
「菖蒲は尚武に通じる。だから武家では男の子の健康や武運を祈るために菖蒲を使い始めた。それが広まったということらしいな」
「さっすが先生。なんでもしってるんスね」
「まあな」
「…」
 きり丸が口をつぐんだので、静けさが訪れた。部屋にはぱちぱちと囲炉裏の火がはぜる音と、鍋の中の粥が煮える音が響くばかりである。
「…今夜、出発するんスか?」
「ああ。今回は少し手こずるかもしれないから、休みの間に戻れないかも知れない。そのときは、一人で登校するんだ。いいな」
「…はい」
 ぽつりと答えてまた黙り込んだきり丸の頭を、半助の大きい手がごしごしと撫でる。
「なに思い詰めた顔してるんだ? 厚着先生や木下先生と一緒の任務なんだから心配するな。それよりお前が心配すべきは…」
 掌でぐっときり丸の頭を抑えつけてにやりとする。「この休みの間に出した宿題のことだろう」
「…そうっスね」
 きり丸の反応は冴えない。何かほかに気がかりなことがあるのだろうかと考える半助だったが、すでに出発の刻限らしい。外に同僚たちの気配がしている。
 あとでゆっくり話を聞こう、と思いながら半助は腰を上げる。



 -心配、かけちゃったな。
 一人残された家の中で、きり丸はぼんやりと囲炉裏の火を眺めていた。傍らにはバイトで引き受けていた造花づくりの材料が山と積まれていたが、手を付ける気になれなかった。
 -でも、先生だってわるいんだ。
 口に出せなかった思いを反芻する。
 -おれだって忍たまだから、ぜったい先生のやくに立てるはずなんだ。それなのに先生は…。
 いつも、任務から距離を置こうとする。むしろ任務に共に携わりたい思いがあるのに、隔てようとする。ようやく自分の中でくすぶる苛立ちの正体が見えてきた。
「先生のニブチンっ」
 声に出してみる。そして、ようやく少し気が晴れそうに思えてきた。「おれだって、いっしょに行きたいのに!」 
 そうだ。理不尽なのは半助のほうなのだ。いつも、何を考えているのかお見通しのようなことを言いながら、肝心なことには気づいていないのだ。拳を床に打ち付けてきり丸は声を荒げる。
「先生の大ニブチンっ…!」



「ドクタケ城が動いているのはいつものことですが、その背後に別の城がいるということですか?」
 街外れの廃寺を見張りながら半助がそっと訊ねる。
「そういうことです」
 物陰から鋭い視線を送りながら木下鉄丸が答える。鉄丸と厚着太逸は半助と合流する前にそれぞれ下調べを済ませていた。
「それがドクアジロガサ城だ」
 太逸がぼそっと呟く。
「…それはややこしいことですね」
 気がかりそうに半助も呟く。「それにしても、こんな街の近くで…」
 ドクタケ忍者が活動している街は、半助が住む街の隣町だった。きり丸もよくバイトで出入りしている。
 -きり丸ならドクタケ忍者くらいは何とかできるだろうが…。
「きり丸には注意するよう伝えたのでしょうな」
 半助の思いを見透かしたように太逸が気遣わしげな眼を向ける。
「実のところ、きり丸にはなにも話していません。詳しい状況を知らなかったというのもありますが」
 内心の苦渋をこらえながら半助は告白する。「きり丸なら、ドクタケ忍者はたいてい知っているから大丈夫でしょう」
 -それに、たとえ家族であっても任務のことは言わないのが忍だ。そのことも知ってもらいたかった。
「まあ、そういうことでしたら。それに、いまのところドクアジロガサ忍者は街では動いていませんからな」
 太逸が頷く。
 -あの造花のバイトの納品先がどこだったか確認しておけばよかった…。
 軽い後悔に苛まれた半助だったが、すぐに任務に集中するために軽く頭を振って言う。
「では、私はドクアジロガサ城の動きを探ってきます」
「頼みましたぞ。くれぐれも気をつけて」
「厚着先生たちも」
 短く視線を交わして頷くと、半助はそっと物陰から離れて動き出した。



「や~れやれ、まにあってよかった…」
 額の汗を拳で拭う。
「あぶなくお駄賃もらいそこねえるとこだったぜ…」
 きり丸は造花のバイトを何とか片づけて納品したところだった。
 -それにしてもつかれたな…今日はもう帰ってやすもうかな。
 ほぼ徹夜で根を詰めて作業した疲れが今になってどっと押し寄せてきた。まだ昼間なのに、歩いていても瞼が落ちてきそうになる。と、その足が止まった。
 -あれ? あれはドクタケのキャプテン達魔鬼だ!
 農民を装って頬かむりをしていたが、きり丸の眼はごまかされなかった。
 -なんで達魔鬼がこんなところにいるんだ? それに達魔鬼と話しているのはだれだろう…?
 きり丸のバイトの納品先は半助たちがドクタケの動きを追っている街にあった。もちろんきり丸はその事実を知らない。
 -またドクタケがわるさをしようとしてるんだ…よし、ちょっとつけてみよう。
 これも忍たまの性だろうか、すっかり眼がさめたきり丸は物陰から達魔鬼たちの様子を見張る。道端で話し込んでいた達魔鬼たちはほんの一瞬、鋭い目で周囲を見渡すと、何ごともなかったように連れだって歩き始めた。その動きに言い知れない違和感をおぼえる。
 -達魔鬼と話してたおっさん、きっと忍者だ。気をつけたほうがいいな。
 実戦経験豊富な一年は組の一員として、きり丸は自分の感覚を信じることにした。
 -それにしてもあいつら、どこまで行く気だ?
 達魔鬼たちは街外れに近づいていた。と、2人の姿が消えた。慌ててきり丸が姿が見えなくなった曲がり角まで駆ける。
 -あれ? あいつらどこ行った?
 慌てていたせいか注意力が散漫になる。きょろきょろと辺りを見回したきり丸は裏道に入り込む。そして次の角を曲がる。
 -あ! 
 薄暗い路地裏に達魔鬼の姿を認めて立ち止まる。達魔鬼に見つかる前に隠れなければと思った次の瞬間、背後に剣呑な気配を感じた。振り返ろうとした瞬間、背後から伸びた手が口をふさぐ。暴れて振り払おうとした次の瞬間、鳩尾に拳が打ちこまれてきり丸は気を失った。



「このガキはなんだ」
「忍術学園の忍たまだ。きり丸という。厄介な相手に見つかったものだな」
 相手の問いに応える達魔鬼の声は、台詞ほどには慌てふためいていない。
「忍術学園だと?」
 相手――ドクアジロガサ忍者の声が尖る。「てことは、俺たちが会っている意味を分かっているということか?」
「それは分からん。忍たまといっても、成績の悪い一年は組の生徒だからな…だが、油断できないのは当然だ。忍たまが一人いるということは、背後に30人は忍術学園の関係者がいると見ていい」
「まるでゴキブリだな」
 ドクアジロガサ忍者が苦笑する。だがすぐ表情を引き締めて続ける。「いずれにしても始末をつけないとな」
 街外れの誰も使っていない納屋の柱に縛り付けられたままきり丸は気を失っていた。その姿を見下ろしたままドクアジロガサ忍者は続ける。「どうする。一気に縊り殺すか」
「そんなことは後でいくらでもできる」
 だが、達魔鬼は落ち着かなげに言う。「それより、例の取引が先だろう」
「いいのか。どこから邪魔が入るか分からんのだぞ」
「構わん」
 達魔鬼は言い切る。「見たところ、きり丸は単独行動だ。いつもなら一年は組の連中がじょろじょろ出てくるところだがその気配もない」
「なるほどな」
 少し安心したようにドクアジロガサ忍者は言う。「では、行くとするか」



 -あれは、達魔鬼ではないか!
 街の通りを歩く達魔鬼の姿に気づいたのは鉄丸だった。
 -一緒にいるのはドクタケ忍者ではないな。ドクアジロガサ忍者か?
 勘付かれないよう慎重に尾行する。やがてアジトの廃寺に着くと、2人は素早く辺りをうかがって崩れかけた山門の向こうに姿を消す。 
「…」
 その後ろ姿をちらりと見やった鉄丸が物陰に隠れている太逸のもとに戻る。
「木下先生、あれはドクタケの達魔鬼ではないですか」
 太逸が驚きを隠せない様子で訊く。これまではドクタケといっても雨鬼や風鬼たちの動きが目立っていたが、達魔鬼まで動き始めたということはなにか局面が変わったことを意味しているように思えた。
「さよう。街で歩いているのを偶然見かけたのです。連れはおそらくドクアジロガサ忍者でしょう」
「ということは、もはやドクタケの背後から出てきたということですな」
「それも堂々とドクタケのアジトに入り込むとは…!」
 あの中で何をしているか探らねば、と歯ぎしりする鉄丸の肩を太逸が抑える。
「行動は慎重にされた方がいい…さっき、あの廃寺に八方斎も入ったのです」
「なに! 八方斎が!?」
「お静かに…気づかれますぞ」
 思わず声を上げた鉄丸をたしなめる。
「いや失敬」
 慌てて鉄丸が口を押えたところへ「木下先生、厚着先生」
 物陰にそっと身をひそませた半助が声をかける。
「これは土井先生」
「ご無事で何より…それで、何かつかめましたかな」
「はい…ドクタケとドクアジロガサは硝石と仏狼機(ふらんき・石火矢の一種)を交換しようとしているようです。すでにドクアジロガサはこの街に硝石を運び込んで隠しているようです」
「なるほど」
 半助の報告に鉄丸が顎に手を当てて唸る。「とすれば、八方斎や達魔鬼が出てくるのも分かる」 
「八方斎たちが動き出しているのですか?」
 半助が慌てて訊く。ことが大げさになればなるほどきり丸の身が危険に思えてきた。
「そうです。雨鬼や風鬼たちがこの街で空き家を借り始めていたのは…」
「危険な商品の取引をするためだった…」



「ところで、どうしてあのガキをあの納屋に監禁したのだ。あそこには…」
 咎めるようにドクアジロガサ忍者が訊く。
「何をびくついているのだ」
 達魔鬼の口調は余裕そのものである。「たしかにきり丸は我々の動きを追った。だが、硝石そのものは見ていない。であれば、学園の連中に余計なことを言わないように閉じ込めておくのが一番だろう。あの納屋はわがドクタケ忍者が完全に監視下に置いているのだからな」
「それならいい。して、仏狼機はどこにある」
「それもまたこの近くに隠してある」
 勝利を確信したように達魔鬼が大きく頷く。「それも完璧にカムフラージュしてある。いくら忍術学園の小賢しい連中が嗅ぎ回ったところで、見つかるはずもないところにだな」
「近くにあるというならもっけの幸い」
 ドクアジロガサ忍者も頷く。「さっそく見せてもらおうか」
「もちろんだ」
 にやりとした達魔鬼が「さっそくお目にかけよう」と言いかけたとき、
「たいへんです! 達魔鬼さま!」
 どたどたと足音を立てて風鬼が駆け込んできた。「硝石を隠していた納屋が忍術学園の連中に見つかりました!」
「なんだと!」



「お前たちが硝石の取引をしていることは知っている。しかも不正に手に入れた硝石をな」
 苦無を構えながら太逸が声を上げる。「だが、そのようなことは許されないぞ!」
「うるさい! 硝石がどこから来たかなど我々のあずかり知らぬこと。邪魔をするとただでは置かぬぞ!」
 駆けつけた達魔鬼も苦無を構える。姿を現したドクタケ忍者たちも苦無や忍刀を構える。その背後にそっと姿を隠したドクアジロガサ忍者が、値踏みするように勝負の行方を見極めようと眼を細める。
「やめろと言っても聞かぬなら、嫌でも止めるのみ」
 鉄丸が忍刀をそろそろと抜いて構えながらにやりとする。
「よかろう」
 唇の端をゆがめてにやりとした達魔鬼が応える。「かかれ!」
「「は!」」
 待ち構えていた雨鬼や風鬼たちが襲い掛かる。



 -これだからドクタケ相手の取引はダメなのだ…。
 たった3人の学園の教師相手に次第に押され気味になるドクタケ忍者たちの戦いぶりに、ドクアジロガサ忍者はため息をつく。
 -こうなれば、取引は止めだな。
 後は野となれ山となれである。打竹の火を紙縒りに移すと、納屋の背後に移動して積んであった薪の山に放る。しばしくすぶっていた火が徐々に燃え広がり、やがて一気に燃え上がった。
「お!?」
 異変に最初に気づいたのは達魔鬼だった。
「どういうことだ! その納屋には…!」
 次の瞬間、雪鬼を力づくでなぎ倒した半助が苦無を構えて駆けてくる。
「くっ!」
 慌てて防戦する達魔鬼に上背を行かした半助がのしかかる。「あの納屋に硝石を隠しているのだな!?」
「それだけではないっ!」
 ぐいと半助の苦無を押し戻すと素早く飛びのく。一度は退いた半助も苦無を構え直す。
「それだけではないとは?」
「見ろ! 燃えているぞ!」
 達魔鬼の動転した声に、闘っていたドクタケ忍者たちと鉄丸、太逸の動きも止まる。今や納屋全体が燃え盛る炎に覆われようとしていた。
「貴様! どういうつもりだ!」
 達魔鬼の怒鳴り声に皆がはっとする。火をつけた張本人のドクアジロガサ忍者は今やゆうゆうとその場を後にしようとしていた。
「どういうつもり、だと?」
 ぎろりと達魔鬼を睨みつける。
「このような様になってお前たちとの取引など続けらるものか。この件はなかったことにするからな」
「だが! なぜ火を…!」
 大切な硝石が…と言いかける。硝石そのものは燃えるものではないが、高温で容器の壺が割れてしまえば終わりである。
「なかったことにすると言ったはずだ」
 冷淡にドクアジロガサ忍者は言い捨てる。「じゃあな。あばよ」
「ま、待て!」
 姿を消したドクアジロガサ忍者を追いかけた達魔鬼が慌てて足を止める。「しまった! あの納屋には…」
「あきらめるのだな」
 苦無を構えたままの半助が声を上げる。「こんな火の中から硝石の壺を運び出すなど、自殺行為だぞ」
「そうじゃない!」達魔鬼が叫ぶ。「中にはきり丸が閉じ込められているのだぞ!」
 一瞬、言っていることが理解できなかった。きり丸は今頃バイトの納品を終えて宿題をやっている頃ではなかったのか。
「そのような戯言が通じると思っているのか」
 鉄丸が低い声で凄む。半助の戦意を削ぐためには、きり丸のことを持ち出すのは一番の方便だろう。
「違う! 私とドクアジロガサ忍者の取引を見られたのでこの納屋に監禁したのだ! 早く助けないと…!」
 動揺を抑えきれない声で達魔鬼が納屋におろおろと向かおうとする。その前を長身の影がすり抜けた。
「土井先生!」
「危ないですぞ!」
 鉄丸たちが思わず叫ぶが、半助は構わず屋根を覆って燃え盛る納屋の戸を蹴破る。戸口からごぉっと炎が噴き出して一瞬顔に手をかざす。だが次の瞬間、その身体は炎の中へ躍り込んでいた。



 -これは…?
 朦朧とした意識の中で夢を見ていたのだろうか。燃え盛る炎の記憶が頭の芯をじりじりと焦がすような不快感と痛みを呼び起こしていた。
 -あの炎は…村を焼かれたときの炎だ…。
 それは家族を奪った炎だった。
 -父ちゃんは? 母ちゃんは?
 だが、誰の声も聞こえない。ただばちばちと何かが燃える音が聞こえるだけである。
 -たすけて。あついよ…!
 燃え盛る炎にあぶられる感覚が妙に現実的だった。これは夢ではないのか…?
「たすけて、あつ…!」
 唇から洩れた声に我に返る。急速に周囲の感覚が現実のものになっていく。
 -え? これって…!?
 それでも自分が置かれた状況を把握するのに間があいた。後ろに廻された腕は動かなかった。身体は背後の柱に荒縄でくくりつけられていた。そして周囲の壁といい天井といい燃え広がった炎は、業火のように自分を焼き尽くそうとしていた。
「あついよ! たすけてっ!」 
 思わず叫んでいた。そして思い出した。自分は達魔鬼と見知らぬ忍を尾行して見つかり、この納屋に監禁されていたのだ。ということは、誰かが助けに来てくれる可能性は限りなく低い。
「げほげほっ!」
 狭い納屋に立ち込める煙に咳き込む。息が苦しくなってくる。焼け死ぬ前に、息ができずに窒息死するかもしれないと思った。どちらにしても、ここで死ぬのだという意識が急速に立ち込める。
 -いやだ! こんなところで死にたくない! 先生たすけて…!
 縄をほどこうと必死にもがきながら無意識のうちに半助を呼ぼうとしていた。だが、燃え盛る炎は全身を炙るようにじりじりと近づいていたし、煙はますます濃くなってほとんど眼を開けていられなくなってきた。
 -おれ、こんなところでひとりで死ぬなんてやだ…。
 縄をほどこうともがこうとするが、全身に力が入らなくなってきた。ついにきり丸は足を投げ出したままぐったりと頭を垂れた。



 狭いはずの納屋だったが、いろいろなものがごたごたと置かれ、足元も見通しもひどく悪かった。いつ燃え落ちてくるか分からない壁や梁に気を払いながらきり丸を探す。奥の方で棚が燃え崩れたらしい。がらがらと大きな音がして金属音や壺が割れる音が聞こえてきた。
 -くっ! きり丸、どこにいるんだ!
 煙が立ち込めていて視界が極端に悪くなっていたが、煙を吸い込む危険があって声を出すこともできない。熱風に思わず腕を顔にかざす。その時、不意に同じ感覚がよみがえるのを感じた。
 -あれは…屋敷が焼き討ちされた夜だった…。
 業火のように燃え盛る炎に包まれた屋敷から強引に救いだされた自分と、中で果てた家族や家臣たち。そして忍として経てきた昏い闇と学園の教師になってからの日々が一瞬の間に脳裏を巡る。そしてきり丸と過ごした日々。自分とあまりに似た境遇に休みの間は預かることに決めたときから、きり丸は大切な家族のような存在だった。銭にがめつく、時に家財を勝手に売ったり、大量のバイトを手伝わせたりと迷惑をかけられ、胃が痛む思いもしたが、同時にかけがえのない存在となっていた。そのきり丸が、この炎の中のどこかにいる。
 -諦めてたまるか! 待ってろきり丸。私が必ず…!
 煙と炎を避けて身を低くしながら納屋の奥へと足を進める。と、眼の前に何も置かれていない空間が現れた。そしてその先に、柱に縛り付けられてぐったりした小さな影。
 -きり丸!
 反射的に駆けだしていた。苦無で縄を断ち切り、小さな身体を抱き上げるとそのまま猛火の中を出口に向けて突進する。



「あ! ドクタケが逃げますぞ!」
 こそこそと姿を消そうとした達魔鬼たちの姿を認めた太逸が声を上げる。
「放っておきましょう」
 鉄丸は眉間に皺を寄せたまま燃え盛る納屋を睨みつける。「いまは土井先生たちの方が先です」
「そ、そうでしたな」
 太逸も納屋に顔を向ける。「どうしましょう。我々も入りますか」
「だが、却って混乱するかもしれん…くそっ! なぜこの中にきり丸がいるんだ!」
 せめて近くに井戸なり水路があれば、消火の努力もできただろうが、周囲に消火の助けになりそうなものはなにもなかった。こうしてなすすべもなく見守っている間にも何事かと集まってきた野次馬が増えていくばかりである。と、
「おい、誰か出てくるぞ」
「まさか。あんなに燃えているのに、中に人がいたっていうのかい?」
 群衆の中からどよめきがあがる。はっとした太逸たちが眼を凝らす。そして2人にも分かった。炎に覆われた納屋の戸口の奥にうっすらと見えた影がたちまち炎を突破して現れるのを。
「すげえ! ホントに人がいた!」
「子どもを抱いてるぞ!」
 どよめきが一層高まる。現れた半助はぐったりしたきり丸を抱いて顔を伏せたまま駆け足を止めない。突進してくる青年に慌てて群衆が道を開ける。あっという間に駆け抜けた青年に呆気にとられた視線を向けていた群衆が、今や半ば燃え崩れた納屋に眼を戻したとき、そこに立っていた2人の男も姿を消していた。



「はっ、はあっ」
 街外れの木立の中でようやく足を止めた半助は、荒い息を整えながらその場に座り込んだ。ここまで夢中になって走ってきたので気がつかなかったが、着物のそこここに焦げた跡があった。腕や足の軽い火傷がようやく痛み始めてきた。
 -きり丸…。
 腕の中でぐったりしたままのきり丸は、見たところ火傷のような外傷はないようだった。だがその身体は動かない。小さく開いた口から辛うじて息をしていることだけが感じられた。
 -きり丸。どんなに怖かったろうな。すまなかった、私が守ってやれなくて…。
 生きていることは分かっていても、このままもし眼を覚ますことがなかったらと考えただけでいたたまれなくなる半助だった。
 -たのむ、きり丸。眼を覚ましてくれ…! もう一度声を聞かせてくれ…!
 いつの間にかきり丸を抱えた腕が細かく震えていた。歯を食いしばって、固く閉じた眼から涙が止まらなかった。
 -たのむ、きり丸。もう一度、戻ってきてくれ…!



 -…あれ?
 たちこめた靄の中にたゆたっていた意識が、不意に頬に滴り落ちる感覚に断ち切られる。
 -これって…?
 雨粒にしてはあたたかい滴だった。そして自分の身体もまたあたたかいものに包まれている。だがそれは何かにおびえるように細かく震えている。そして自分の顔にとても近いところで、堪えきれずに漏れる慟哭をおぼえていた。そして眼を開く前から、そのすべてが誰のものか感じていた。
 -土井先生…どうして泣いてるの?
 確かめるようにゆるゆると瞼を開く。
 -土井先生…。
 まず視界にうつったのは豊かな前髪だった。その向こうに苦悶の表情で固く閉じられた眼とそこから流れ落ちる涙。
 -どうして、泣いてるんだろう…。
 大きくて、強くて、優しくて、そして教室では何でも知っている教師である半助が、身体を震わせて慟哭を堪えながら涙を流す姿が、そのまま生々しい感覚として心に痛みをもたらしていた。
 -先生、泣かないで…。
 ふと、もう自分は縛られていないことに気づいてゆるゆると腕を伸ばす。その指先が半助の頬に触れたとき、その眼が見開かれた。
「きり丸…?」
 ためらうように、かすれ声が唇から洩れる。
「先生…どうしたんすか、泣いちゃったりして…」
 弱々しいながらもきり丸が笑いかける。「先生、もう大人なのに…おかしいっすよ」
「そうだな…もう大人なのに、おかしいな」
 言いながらも新たに涙があふれ出してきて止まらなかった。そっときり丸の身体を抱き寄せて、そのまま抱きしめる。
「きり丸、よかった…本当に、よかった…」



「そういえば、厚着先生と木下先生はどうしたんすか?」
 家に戻って食事を終えたきり丸は、布団を敷きながらふと気がついたように振り返って訊く。
「ああ。厚着先生たちはドクタケの動きを追っている」
 土間で鍋や食器を洗いながら半助が応える。
「ドクタケって…今回先生たちが追ってたのは、ドクタケだったんすか?」
 学園の優秀な教師が3人もそろって追うほどの相手ではないだろうときり丸は考える。
「まあ、ドクタケのうしろにちょっと厄介な勢力があってな」
「それって、達魔鬼といっしょにいたおっさんですか? そういえばあのおっさん、なにものだったんだろ」
 布団を敷き終えて夜着に着替えたきり丸が、布団の上にちょこんと座りこむ。
「別の城の忍者だ。今回、ドクタケと硝石の取引をしようとしていた」
「硝石って、あの火薬につかうやつ?」
「そうだ」
 洗い終えた半助が土間から上がってきて着替えはじめる。
「その硝石は、どうしたんすか?」
「燃えてなくなったよ。きり丸がいたあの納屋ごとな」
「うげ。おれ、硝石といっしょに燃やされちゃうところだったんすか?」
 ぎょっとしたようにきり丸が声を高める。
「そんなことは、私がさせるか」
 着替え終わった半助がきり丸に向かい合って胡坐をかく。「だが、怖い思いをさせてしまったな。すまなかった」
「いえ…」
 まっすぐ見つめる視線に思わず顔を伏せる。
「どうした?」
「その、おれ…達魔鬼たちがあやしいことしてるから、突き止めてやろうっておもって…でもつかまっちゃって…でも、こんなに先生に心配かけるなら、よけいなことしちゃったかなって…」
 半助の涙を思い出す。あんなに苦しげな半助を見るのは初めてだった。それが自分のせいだということが心にわだかまっていた。
「気にするな」
 半助の腕が伸びて頭をなでる。「おかしいと思ったら探る、それが忍の基本だ。自分の感覚を信じろ。動いて失敗する方が、放置するよりよほど正しい。お前は何も間違っていなかったんだぞ」
「先生…」
 くすぐったそうにきり丸が上目で見上げる。
「さ、今日は疲れたろう。寝るぞ」
「はい」
 きり丸が布団に横たわるのを見届けた半助が、燭台の灯を吹き消した。



「…先生」
 暗闇の中で天井を見上げたままきり丸が声を上げる。
「うん?」
「おれ、納屋が火事になったとき、むかしのこと思い出してたんです。ああ、あのときもこんな火事だったなって」
「…そうか」
「でも、もうだめだって思ったとき、先生のことかんがえたんです。先生たすけてって。なんででしょうね…父ちゃんでも母ちゃんでもなくて、先生にたすけてもらいたかったんです」
「…そうか」
「先生…」
 きり丸がもぞもぞと半助の布団にもぐりこんできた。
「おいおい、きり丸。暑いだろ」
 言いながらもきり丸のスペースをあける。
「あ…先生も菖蒲の葉っぱのにおいがする」
 胸元に鼻を近づけてくんくんと嗅いだきり丸が、半助を見上げる。
「そうだな。菖蒲の葉は匂いが強いからな」
 夕食前の行水で今日も菖蒲の葉を入れたことを思い出す。
「でも、おれ、先生にたすけてくれてよかったっす」
 半助の胸元に顔を載せながらきり丸は言う。「おれ、まだ死にたくなかったし。もっと先生といたかったし。でも…」
「どうした?」
「おれ、もしかして父ちゃんや母ちゃんのことわすれかけてるのかなって…それって、すっごくわるいことなのかもって…」
 -そうか。きり丸は亡くなったご両親の記憶が薄れることを気に病んでいたのか…。
 小さな心に刻まれた苛烈な記憶がきり丸を苦しめている。
「なあ、きり丸」
 静かに語りかける。きり丸がかすかに身じろぎする。
「お前にはたしかにご両親がいた。それは決して忘れてはいけないことだ。そして、ご両親は戦でいなくなってしまった。そしてお前はとても苦労して、いまここにいる。お前には辛い記憶だろうが、すべて今のお前が

ここにいる理由だ。お前を形作ってきた過去なんだ」
「…」
 夜着の袷を握る小さな拳に力がこもる。
「…禅の言葉に而今(にこん)というものがある。私たちの人生は『今』を積み重ねて成り立っている。今、ここにいることは、きり丸のたくさんの過去の『今』があるからなんだ。そして、『今』を積み重ねた先に未来がある。だから、いま、この瞬間を大切にして生きていかなければならない」
「…それって、どういうことすか」
 ぼそっときり丸が訊く。
「いま、この瞬間を大切にしろということだ」
 穏やかな声で半助は語りかける。「ご両親の思い出はとても大切だ。だが、いまきり丸が幸せかということがもっと大切だ。前にも言ったろう? お前にはご両親の分まで幸せになる義務がある。だから、いまお前が幸せかということがとても大事なんだぞ」
「…だったら、おれ、だいじょうぶです…」
 半助の体温とあたたかい声に蕩けたように、半ば寝ぼけた声が応える。「おれ、先生のそばにいれてすっごくうれしいから…」
「…そうか」
 いつの間にか半助の腕に委ねるように力が抜けたきり丸の身体をそっと支える。
 -それならいい。お前に幸せをあげられるなら、私はどんなことでもする。それが私の而今だから…。


<FIN>




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