Summer Revolution

大人と子どもでは、時間感覚は確実に違うということに気づいたのは、いつの頃でしょうか。

小学生の頃は、一年というものは途方もなく長くて、卒業というまではとても思いが及ぶところではありませんでした。それが、いまでは一年というものはまさしくあっという間で、だからこそ落乱の次回の発売日も、忍たまの次期放送も、日常に取り紛れている間に迎えることができているのでしょう。

それでも子どもの頃というものは、程度の差はあれ早く大人になりたいと思うものです。そして、きり丸も、そうした一人のようです…。

 

1  

 

 


「土井先生、失礼します」
 その朝、きり丸が井戸端で顔を洗っているところに、利吉が訪れた。
「やあ、利吉君。久しぶりだね。まあ、上がっていかないか」
 半助が、にこやかに出迎える。
「はい。失礼します」
 暑い朝だった。一晩中歩いていたのだろうか。利吉の着物は、汗でぐっしょりになっている。
「ひどい汗だね。着替えたらどうだい」
 雑炊の鍋をかき回しながら、半助は声をかける。
「しかし、着替えなど…」
「私の小袖を貸すよ。きり丸。バイトに出かける前に、利吉君の着物を洗ってくれないか」
「えー、タダでですかぁ」
「この前、私の着物を勝手に売っただろう。あれがお駄賃の前払いだ」
「はいはい、分かりましたよー。利吉さん、はやく着物、脱いでくださいよ。バイトに出かける前に朝飯も食わなきゃいけないんだから」
「ついでにちょっと水でも浴びてくればいい。スッキリするよ」
「は、はい…」
 半助ときり丸の言葉に押されるように、利吉は井戸端で水浴びをして、半助の小袖を着る。傍らでは、きり丸が猛然と利吉の着物の洗濯を始めている。
「お、いつもより更に男前になったね、利吉君」
 汗を洗い流してすっきりした気分で土間に戻る。雑炊を盛った椀を手渡しながら、半助が笑いかける。
「いいんですか、先にいただいて」
「いいんだよ。きり丸はいつもがっと食べてすぐに飛び出してしまうから」
 半助と利吉が雑炊を食べている間、しばし部屋の中は静まった。中庭からは、蝉の声が早くも聞こえ始めている。
「利吉さんの着物、干しておきましたから。先生、俺の雑炊は?」
 そんな静けさを破って、ばたばたときり丸が土間に駆け込む。
「とっておいてあるよ、ほら」
 半助が渡した椀を、きり丸ががっつく。
「ちゃんと食べろよ…まったく」
「ごちそうさまでしたっ。じゃ、バイト行ってきまーす」
「気をつけて行けよ」
 仕方がないな、というような苦笑で見送った半助は、土間で椀と鍋を洗い始める。つむじ風のようにきり丸が通過していった後の家の中は、再び半助と利吉の二人だけである。
「きり丸は、いつもああなのですか」
 呆然として眺めていた利吉が、ようやく口を開く。
「ああ、そうだよ。休みの間、家で預かっている間はね」
「なぜ、土井先生がきり丸を預かるのですか」
「山田先生から聞いていなかったのかい? きり丸は戦災孤児なんだ。休みの間、帰る家がない。だから、私の家で預かることにしたのさ」
「そういうことだったのですか」
「そうだ」 

 


「土井先生」
 土間で、鍋の焦げ目落としに悪戦苦闘している半助の背中に、利吉は声をかける。
「仕事の話だろ。どんなことなんだい」
「分かって、いらっしゃったのですか」
「だいたいね。それで?」
「実は、ある城の戦力調査を依頼されているのですが、少々私の手に余りまして…土井先生にお手伝いをお願いできればと」
「わかった」
「お手伝い、いただけるのですか?」
「やっと落ちたぞ…それで」
 汚れを落とした鍋を伏せると、半助は額の汗を拭いながら上がり框に腰を下ろした。
「いつ出発する?」
「できれば…早い方が」
「そうか。では、お昼過ぎでいいかな」
「はい、それは…しかし、それまでに、なにかご用件があるのですか?」
「いやあ、きり丸が昼飯に戻ってくるから、用意しておいてやらないといけないし、しばらく家を空けるなら、そのことも話しておかなければならないからな」
「そういうことでしたか…」
 夏休みが始まってどれだけ経つのか分からないが、すでに親子のように馴染んでいる半助の口調に、利吉は軽い違和感を覚えた。なんどか共に仕事をして、優秀な忍であることはよく分かっていたが、いま目の前にいる半助は、どこにでもいるような若い父親の顔である。いや、父親というより、少し年の離れた兄のようなものなのかも知れない。
「利吉君、寝ていないんだろう? 少し休んだらどうだい」
「いいんですか?」
「いいさ…ほら」
 半助が、枕を投げて寄越す。
「土間の近くが、風が通って涼しいんだ」
「土井先生は、どうされるんですか?」
「私は、きり丸のバイトの手伝いだ」
「バイト?」
「これさ」
 半助が前にした文机には、縫いさしのおむつが山をなしている。
「土井先生が…裁縫を?」
「意外かい? …まあ、そうかも知れないな」
 言いながら、半助は慣れた手つきでおむつを縫い始めている。
「…驚きました」
「まあ、きり丸にずいぶん鍛えられたからな。…さあ、少し寝たほうがいい。敵地に入れば、睡眠などろくに取れないんだから」
 水浴びをしてすっきりしたせいか、食事をしたせいか、半助がいるという安心感からか、利吉は急に疲れを覚え始めていた。思わずあくびをしてしまう。
「ほらほら。今のうちに寝ておきなさい」
 半助は、生徒に話しかけるような口調である。
「はい…では、お言葉に甘えて」
 風通しのいい上がり框に横になると、利吉は急速に深い眠りに落ちていった。

 


 飯を炊くいい匂いに目覚めると、日はずいぶん高くなっているようだった。
 -不覚。こんなに熟睡してしまうとは。
 首だけ回して半助のほうを見やると、おむつ縫いにいそしむ背中が目に入った。
「よく眠れたかい」
 半助の声に、利吉は身を起こす。
「はい。すっかり寝入ってしまって…」
「ずいぶん疲れがたまっているようだね。少し仕事を入れすぎではないかと、山田先生が心配されていたぞ」
 この仕事中毒め、と学園を訪れるたびに言う伝蔵の顔が、脳裏を過ぎった。
「さて、汁を作るかな」
 半助が立ち上がる。
「私も、手伝います」
 あわてて立ち上がる利吉を、半助が手で制した。
「いや、いいんだよ。湯をわかすだけだから」
「湯?」
「汁の具は、きり丸が食べられる野草を摘んでくるから、湯を用意しておけばいいのさ」
 そういいながら、半助は櫃に残っていた飯で握り飯を作り始めた。
「それは…?」
「行動食だ。表面をあぶっておけば日持ちもする」 
 -まるで、母上のようだ。
 たまに実家に戻り、また仕事で出かけるとき、母はいつもこのように焼いた握り飯を作ってくれた。
「ほら、利吉君の分だ」
 笹の葉で包んだ握り飯を手渡される。
「そろそろ着替えられるのではないかな」
「え?」
「仕事に出るには、着慣れた服が一番だ。私の小袖では、何かと勝手が違うだろ。もう利吉君の着物も乾いているはずだよ」
「は、はい」
 中庭の物干しに干してある自分の着物を取りに行く。たしかに、強い日差しが、すっかり着物を乾かしていた。
「ありがとうございます」
 手早く着替えて、半助の小袖をたたんで置いたとき、
「ただいまー」
 きり丸が土間に駆け込んできた。
「お帰りぃ」
「先生、これ、汁に入れる野草っス」
「おう、待ってたぞ」
 きり丸は、握り飯をあぶった香ばしい匂いに気付いたようだ。土間で野草を刻む半助の背中に声をかける。
「先生、また、出かけるんスか」
「ああ。利吉君とちょっと出てくる。飯は炊いておいたから、あとで櫃に移しておいてくれ。留守の間もきちんと食べるんだぞ」
「分かってますって」
 その返事にいつもほどの張りがないことに、半助は気付かない。
 

 

「危険だな」
 仕事場の城に近づくにつれ、周囲の空気に緊迫感が張り詰めてきた。
 -戦が近い。
 村々は女子どもを裏山に退避させ、防備を固め始めている。街道のあちこちに検問所が設けられている。雑兵や足軽たちの動きも活発になっていた。戦が近いことは明らかだった。
「急に事態が進展しているようです。ここまで戦の準備が進むとは思いませんでした」
 利吉がうめくように言う。
「そのようだね」
 城を望む山の斜面の大木の枝に腰を下ろして、半助は遠眼鏡で城の様子を探っている。その目つきは険しい。
「それで、どうする?」
 不意に、半助は利吉に向き合う。その顔は、遠眼鏡を覗いていたときとは別の、やさしい教師の顔である。
「私は城内に潜入して、兵力と陣固めの準備状況を調べます。土井先生は城の火器の調達状況を城下で調べていただけますか」
「わかった。気をつけるんだぞ」
「はい。土井先生も」
 軽く笑みを交わして、素早くそれぞれの行動に移る。それが、いつしか任務に移るときの半助と利吉の習慣になっていた。
 だが、利吉には、その笑顔を目にするとき、いつも心に小さな疼痛がはしるのだ。優秀な忍である半助が決して無理をしないことは分かっている。それでもなお、利吉には、任務で命を落とすことを覚悟した別れの笑顔のように見えて仕方がなかった。たとえ任務は常に危険なものであったとしても。
 -土井先生はなぜいつも、死地に赴くことを覚悟したような、穏やかな笑顔をれるのだ…。
 それが自分の主観にすぎないことは分かっていても、利吉はいつも、半助のあの笑顔に不安をおぼえる。

 


「ただいまっ」
 戸口から駆け込んだきり丸は、薄暗い土間の真ん中で思わず足を止めた。
 -そっか。先生、出かけたんだっけ。
 いつもなら、炉辺で鍋をかき回しながら「お帰りぃ」と応える半助がいた。しかし、今は囲炉裏に火の気はなく、自分ひとりの影が土間に長く伸びているだけである。
 -そうだ。飯、炊いてあるって言ってたっけ。
 手早く火を起こすと、摘んできた野草を入れた雑炊をつくり、食べる。椀を洗い終わると、もうやることがない。
 いや、やることはあった。半助に強引に手伝わせていたおむつ縫いである。
 -昨日までは、先生と一緒にやってたんだけどな。
 炉辺にごろりと横になりながら、きり丸は、昨日までの炉辺でのやりとりを思い出していた。
「きり丸、いつになったら宿題をやる気なんだ」
「分かってますって、先生。このバイト終えたらやりますったら」
「お前、小袖作りのバイトのときも同じこと言ってなかったか」
「え? …いやあ、それは先生の気のせいっスよ」
「きり丸…おまえな」
 思わず拳を握り締めた半助が顔を上げる。
「あ、先生、手が止まってますよ。ほらほら、急いでやらなきゃ」
「そ、そうだったな…」
 そして、半時ほども経ってきり丸があくびをかみ殺し始めると、半助は穏やかな声で言うのだ。
「きり丸。もう遅いから、寝なさい」
「え…でも、先生は」
「私は、もう少しやってから休む」
「じゃ、俺も」
「きり丸、バイトで疲れているんだろ。それに、睡眠をきちんととらないと、大きくなれないぞ」
「はい…じゃ、先に失礼しまっス」
「おやすみ、きり丸」
「おやすみなさい」
 おやすみ、と言う半助の、包み込むような穏やかな声に送られて、きり丸は床についたのだった。昨日までは。
 -昨日…までは。
 決して広くない半助の町屋だったが、一人でいると、ひどくがらんとしたものに感じた。壁も、天井も、急に遠ざかっていくように感じる。
 -寂しく、なんてない。
 一人には、慣れていた。慣れていた、はずだった。それなのに、なぜ、この家に一人でいることがこれほど耐え難いのだろうか。
 -先生と利吉さん、いまごろ何やってんだろ。
 気がつくと、そんなことを考えている。そして、半助と利吉に混じって自分がいる図を想像している。
 -俺だって、ぜったい役に立つはずなんだ。まだまだ、手裏剣の打ち方も未熟だし、体力もないけど、それさえクリアすれば、ぜったい。
 今はまだ、半助に守られている立場だけど、利吉のように、対等なパートナーの立場になりたい。こんなところで一人で留守を任されるより、共に戦場で行動したい。
 ようやく、きり丸の中でもやもやしていた気持ちが焦点を結び始めていた。あの握り飯を焼いた香ばしい匂いを嗅いで以来、ずっと感じていたものだった。
 あの香ばしい匂いは、半助が自分を置いていく合図だった。休みに入って一緒に暮らすようになってからも、幾度か半助は仕事に出ることがあった。そのときには、必ず焼いた握り飯を持って出るのだった。
 家を出た半助がどのような場所で何をしているのか、きり丸にはまだ想像がつかない。だが、戻ってきた半助の表情がいつも険を帯びていることに、聡いきり丸は気づいていた。
 -なんで、あんなに辛そうな顔をしているのだろう。
 半助がきり丸の前では隠そうとしている痛みを、きり丸はおぼろげながら捉えはじめていた。だからこそ、自分が半助の片腕となって、その痛みを分かちたかった。大きな眼で、やさしく自分を見おろす半助に今ひとつ近づきがたい思いを抱いたとすれば、その瞳に刻まれた半助の痛みだったから。
 -そのために、俺はなにができる?
 ちろちろと燃える囲炉裏の火が影を揺らめかせる天井板を睨みながら、きり丸は考え続けた。
 -もっと、強い忍者になることだ。
 それしかないように思えた。
 -こうしちゃいられない。
 いますぐ、忍としての修行をしなければ、ときり丸は考えた。そのためには。
 -今のバイトは、すぐに手仕舞いしよう。手裏剣の練習にしても何をするにしても、こんな街の中でやるわけにはいかないから、どこか山の中にこもろう。
 そこまで考えて、きり丸はがばと身を起こした。子守や新聞配達のバイトは、とりあえず明日にでも断って回ればいい。あとは、おしめ縫いのバイトである。

これさえ納品してしまえば、あとはいつでも動くことができる。
 きり丸は、半助の文机に向かう。文机の半分には、半助が縫い上げたおしめがきちんと畳んで積まれている。未完成の山は、数時間もあれば解消できそうなほど少なくなっていた。きり丸は、残りの山を炉辺に持ってくると、猛然と縫い始めた。

 

 

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